真面目な異色作家A・H・Z・カー



 ミステリ界でカーといえば、誰もがまず “不可能犯罪の巨匠” ジョン・ディクスン・カーを思い浮かべることでしょう。ではその次は? ベルリン三部作のフィリップ・カーでしょうか。山岳ミステリ 『マッターホルンの殺人』 のグリン・カーの名をあげる人はかなりの本格マニアのはず。しかし、ちょっと前まで、年季の入ったミステリ・ファンのあいだでJ・Dにつぐ第二位のカーといえば、この作家に決まっていました。「黒い小猫」 「誰でもない男の裁判」 「虎よ! 虎よ!」 などの作品で、〈エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン(EQMM)〉 年次コンテストの常連入選者だった短篇の名手A・H・Z・カーです。

EQMM誌が主催したこの国際短篇コンテストは、1945〜56、61年の計13回実施され、六大陸から応募された毎年千篇近い未発表作品の中から、クイーン、ヘイクラフトら、この道の目利きたちが構成する選考委員会が第一席、第二席、入選作、特別賞などを選出しました。のちにアンソロジー 『黄金の13/現代篇』 (ハヤカワ文庫) にまとめられた第一席入選作には、J・D・カー 「パリから来た紳士」、シャーロット・アームストロング 「敵」、トマス・フラナガン 「アデスタを吹く冷たい風」、スタンリイ・エリン 「決断の時」 といった綺羅星のごとき傑作が名をつらねています。

EQMMコンテスト入選作をはじめとするA・H・Z・カーの短篇は、1956年に創刊された 〈EQMM日本版〉 に順次紹介され、その特異なテーマと真摯な取り組みは、当時の読者に強い印象をあたえました。しかし、ロアルド・ダール、スタンリイ・エリンらの所謂 “異色作家” と共に、新しいタイプの短篇ミステリの書き手として注目を集めながら、結局、その粒ぞろいの作品は、本国でも日本でも短篇集にまとめられることはなく (計画はあったようですが)、不遇をかこつことになります。その後、MWA賞最優秀第一長篇賞を獲得した 『妖術師の島』 も紹介されていますが、大きな評判を呼ぶにはいたりませんでした。

そして時は流れ、〈EQMM日本版〉 が 〈ミステリマガジン〉 と変わって10年以上がたち、A・H・Z・カーの優れた作品も、その多くがバックナンバーに埋もれたまま、名前もなかば忘れ去られたころ、〈ミステリマガジン〉 でひとつの連載が始まります。当時まだ大学生だった山口雅也氏のコラム 〈プレイバック〉 です。埋もれた “黄金” を求めて 「今日は神田、明日は早稲田の古書店街へと彷徨を続ける若きミステリー・ファン」 が、独自の視点で絶版ミステリを紹介していく、いまや伝説的なこの連載コラムで、異例の二回にわたって取り上げられたのが、「編まれなかった短編集――『A・H・Z・カー短編集』」 でした。「誰でもない男の裁判」 「黒い小猫」 の二作品を中心にカー・ミステリの不思議な魅力を語ったこのエッセーによって、新世代のミステリ・ファンの胸に、A・H・Z・カーの名前があらためて刻み込まれることになります。

さらに18年後、〈プレイバック〉 をはじめとする山口氏のエッセーが 『ミステリー倶楽部へ行こう』 (国書刊行会。現在は講談社文庫) としてまとめられます。この本で、初めてこの作家の名前に出会った若いミステリ・ファンも多いかと思います。

 そしていまここに、ようやく 「幻の 『A・H・Z・カー短編集』」 が現実のものとなりました。アメリカ本国を含めて、これが初めての短篇集です。ダール、エリンなどの “異色作家” とはまた一味違う、A・H・Z・カー独自の世界をお楽しみいただければと思います。収録作について触れる前に、カーのプロフィールをまとめておきましょう。

アルバート・H・ゾラトコフ・カー (Albert H. Zolatkoff Carr) は、1902年1月15日、シカゴに生まれました。戦後作家の印象が強いのですが、実際にはJ・D・カーより4歳年上です。シカゴ大学、コロンビア大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済学を学び、ビジネス界でキャリアを積んだのち、第二次大戦が勃発すると政府機関入りし、戦時生産局長補佐官として働いています。その後フランクリン・D・ローズヴェルト大統領の経済学顧問となり、戦後はヨーロッパ復興計画のためブリュッセルに赴任、帰国後はワシントンでトルーマン大統領の特別補佐官をつとめています。

ビジネス界での経歴もめざましく、『ビジネスはゲームだ』 (1967、早川書房) の著者紹介欄によれば、「十八業種にも及ぶトップレベルの企業を顧客に持つコンサルタント会社の幹部社員をながらく務め、以後、映画会社副社長、一流会社社長のコンサルタント、土地開発会社取締役などを歴任」しました。政治・経済学の専門家として多くの著作があり、自己啓発書 『「幸運の人」 になる技術』 (1952、成甲書房) は、いまも版を重ねるロングセラーです。

 二代の大統領に仕え、実業界でも成功を収めたカーにも苦しい時代があったようで、1930年代の不況時代には、収入を補うために雑誌にロマンティックな大衆小説を執筆、そのうち二作がハリウッドで映画化されています。そして 「いつも月の光や、バラの花のことばかり考えていなければならない」 ことにうんざりし、いわば 「正気を保つため」 に書かれた作品が、のちにEQMMに再録される 「勘で勝負する男」 「決定的なひとひねり」 などの短篇でした。

 大戦中から戦後にかけて政府の仕事で多忙を極めていたカーですが、1949年に 「勘で勝負する男」 (初出35) がEQMMに再録されたのをきっかけに、同誌の主催する短篇コンテストに毎年応募し、「誰でもない男の裁判」 (50)、「市庁舎の殺人」 (51)、「虎よ! 虎よ!」 (52) と連続して二席入選、「黒い小猫」 (56) で第一席を見事射止めています。この時期のカーは、のちに 「ワシントン・パーティの夜」 (64) で描くような、複雑な政治の世界の只中にあったはずで、あるいはかつて不本意な創作から逃避し、「正気を保つため」 の作品を書いたように、年に一作、短篇ミステリを書くことで精神のバランスを保っていたのかもしれません。

寡作ながら特異な短篇の名手として評価されていたカーは、米ソの冷戦を背景にした国際謀略小説 The Girl with the Glorious Genes (1968) をA・B・カーベリー名義のペイパーバックで刊行した後、1971年、長篇 『妖術師の島』 (ハヤカワ・ミステリ) を発表します。すでに69歳、遅咲きの長篇デビューでした。カリブ海のセント・カロ島で白人観光客が手斧で惨殺される事件が起き、警察署長が捜査を進めるうちに島の様々な問題が浮上するというこの作品は、レックス・スタウトらの高い評価を得て、71年度のMWA賞最優秀第一長篇賞を獲得しました。しかし、カーはすでに同年10月28日に没しており、惜しくも死後受賞となりました。ちなみにこの作品は The Mighty Quinn (1989) (TV邦題 《刑事クイン/妖術師の島》) として映画化されていて、若き日のデンゼル・ワシントン (《ボーン・コレクター》 他) が主役をつとめています。

 今回の傑作集に収録した作品は全8篇。EQMMコンテスト入選作を中心に、シリアスなテーマから軽いタッチの作品、オーソドックスな本格物まで、カーの幅広い作風を紹介できるように構成しました。収録作を簡単にみていきましょう。

黒い小猫 The Black Kitten (EQMM, 1956-4)
ふとしたはずみで娘の可愛がっている小猫を踏み殺してしまった牧師の苦悩と救済を描き、EQMMコンテスト第一席に輝いた作者の代表作のひとつ。この作品を書き上げ、原稿を友人たちに読んでもらったカーは、彼らの示した強烈な反応に驚かされることになります。「物語はそれを読んだすべての人に、大きな “内なる擾乱” を引き起こした」 のでした。

虎よ! 虎よ! Tyger! Tyger! (EQMM, 1952-10)
原子爆弾をテーマにした作品に取り組んでいた詩人リッジは、友人の刑事に頼まれて、麻薬密売に関わっているというロシア料理店の内偵を引き受けますが、予想外の展開から殺人事件に巻き込まれてしまいます。推理と詩的精神を結びつける試みは称賛を浴び、EQMMコンテスト第二席入選を果たしています。

誰でもない男の裁判 The Trial of John Nobody (EQMM, 1950-11)
無神論者の作家が講演中に神に挑戦した瞬間、一発の銃弾がその胸を貫きます。その場で取り押さえられた犯人はしかし、名前と記憶を失っていて、自分は 「声」 の命令に従ったのだ、と主張します……。EQMMコンテスト第二席入選作。「過去のコンテスト作品中、わが編集部がベスト・テンに数えあげる出来栄え」 というコメントから、クイーンがこの作品をきわめて高く (おそらく第一席入選作以上に) 評価していたことは間違いありません。

猫探し A Case of Catnapping (EQMM, 1954-7)
私立探偵の 「私」 のもとに持ち込まれたのは 「人さらい (kidnap)」 ならぬ 「猫さらい (catnap)」 事件でした。週に千ドルを稼ぐという天才猫ディジーが公演中に姿を消してしまったのです。心温まる結末がすばらしく、後日譚も気が利いています。シリアスなテーマの印象がつよいカーですが、こうした軽いタッチの作品でも優れた才能を発揮しています。

市庁舎の殺人 Murder at City Hall (EQMM, 1951-7)
市長選挙投票日前夜、水不足対策に人工雨を降らすために大学から呼ばれた男が市庁舎内で殺害されます。作者自ら 「正統的な探偵小説に対する最初の試み」 という作品で、特異な動機がとりわけ印象的です。EQMMコンテスト第二席入選作。

ジメルマンのソース Payment in Kind (EQMM, 1957-3)
つねに現物払いをモットーとする男は、名料理人ジメルマンの秘密のレシピを店主に教えることで食事代がわりとし、居合わせた 「私」 にアメリカの大富豪の娘とのロマンスを語りだしますが……。カーの語りの才能が十二分に発揮された佳品。

ティモシー・マークルの選択 The Option of Timothy Merkle (EQMM, 1969-7)
学内誌の編集長ティモシーは町で起きた轢き逃げ事件に疑問をいだいて調査を行ない、真相を探り当てますが、そこで思わぬ選択を迫られることになります。エリン 「決断の時」 にも劣らぬインパクトを持つリドル・ストーリー的作品。

姓名判断殺人事件 The Nameology Murder (EQMM, 1965-7)
盗作疑惑の渦中にあった作家が自宅で惨殺され、その容疑が出版社社長にかけられます。赤毛美人 (ただし自ら認める癇癪もち) の社長秘書スウは、敬愛するミスター・Cを救うために立ち上がりますが……。キビキビした筆致の堂々たる本格中篇。

 『黄金の13/現代篇』 (1970) に 「黒い小猫」 を収録するにあたり、エラリイ・クイーンは次のように述べています。「A・H・Z・カーの1955年度第一席受賞作は、年月を経たいまも、その穏やかならざる作品の質の根元、適時性の根元が失われていない。それどころか、十五年も前の物語なのに、その内包する深い意味においてすぐれて今日的ですらある。物語の持つ意味は現実に急激にあまねく広がりつつあるのだ」

 それからまた多くの歳月が流れました。スローン師やミラード神父が直面した問題は、ティモシー少年の選択は、詩人リッジのいう 「誰の中にも住んでいる虎」 は、はたしてもう過去のものとなったのでしょうか。それとも……。

『誰でもない男の裁判』 (晶文社) 解説を抄録。A・H・Z・カーの作品リストもあわせて参照されたい。(2004.9.2)

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