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赤い靴」女の子と、北海道開拓民の子きみちゃん
 赤い靴  作詞 野口雨情  作曲 本居長世
 一 赤い靴 はいてた
   女の子
   異人さんに つれられて
   行っちゃった
 二 横浜の 埠頭から
   船に乗って
   異人さんに つれられて
   行っちゃった
 三 今では 青い目に
   なっちゃって
   異人さんのお国に
   いるんだろ
 四 赤い靴 見るたび
   考える
   異人さんに逢うたび
   考える 
                                           (著作権の切れた作品)
 「♪赤い靴 はいてた女の子 異人さんに つられて、行っちゃった」 
 ご存知の大正時代の童謡「赤い靴」の一節である。この赤い靴の女の子に関わるきみちゃん像が、来年6月函館に設置される。
 なぜ赤い靴をはいた女の子が異人さんに連れられたのか、と様々な憶測が飛びまわったという。
 北村巌氏は「赤い靴と函館」と題し平成18年11月1日に次のように記している。『この女の子のモデルとなったのは「きみちゃん」。そのわずか3歳のきみちゃんを泣く泣く手放し、悲しみにうちのめされた母は「岩崎かよ」。この母子の永遠の惜別の地となったのが函館である。母かよが米国牧師ヒュエットさんに病弱なきみちょんを預けたのが1905年(明治38年)のこと。
 函館こそ「赤い靴」の物語の舞台となった場所であり、その意味では最もゆかりの地」。
 その後、きみちゃんは病弱のため横浜から渡米できず、明治44年9月「当時、麻布永坂町、今の十番稲荷神社のあるところにあった孤児院で、ひとり寂しく(注:結核性腹膜炎で)亡くなりました。まだ、9歳でした」。(麻布のきみちゃん像の説明文より)
  昭和48年11月17日北海道新聞に『幻の姉、「赤い靴」の女の子』と題した記事が掲載される。きみちゃんの話が広まるきっかけとなった。
 「・・・・詩人の野口雨情は私の長姉君子をこのように歌っている。
 彼女は私の父鈴木志郎の長女(管理人注:実際はかよの連れ子)で明治の末期に、アメリカの宣教師に養生として買われ、アメリカに渡っている。・・・・・明治38年4月、当時の言論界に大きな役割をはたした社会主義者一統の平民新聞社の発行所平民社の有志が虻田真狩村に11町歩4反の土地を入手し、共同経営の「新しき村」の理想をもって開拓事業をはじめた人々十余名の中に父の名を見出すことができる。・・・・しかし、この農場も明治40年に解散のやむなきに至っている。
 父母はこの解散の前に札幌にでて北門新報(注:野口雨情記念館のHPによれば、野口氏は北鳴新報社に明治40年から42年在籍)に入社している。・・・父母は、雨情夫婦と・・・同居していたらしい。・・従ってアメリカに渡って君子のことも話したらしく、それを雨情が童謡「赤い靴」に書いたと思われる』。
 その話が昭和53年北海道テレビによって放映された。その話と「赤い靴」を結びつけに異論(『定説としての赤い靴』参照)もある。
 「しかし、そんなことどうでもいい。きみちゃんという不幸な子がいたことは事実です。2度と同じことが起らないようにさせることです。このきみちゃん像を通じて、『母と子が一緒にいるだけで幸せなのだ』と訴えたいのです」と麻布十番町の地元商店街で20年間きみちゃん像=写真=を守ってきた山本仁壽さんは話してくれた。(世界の恵まれない子供たちのために、今、歩き続ける「きみちゃん」像参照、クリックしたサイトの一番下に有)
 市立函館高(東高の前身)第2回生の宮崎衛氏を会長とする、「はこだて赤い靴の会」が結成された。きみちゃんが母と共に北海道に着いた函館東浜桟橋に、来年6月、この「きみちゃんの像」が設置される。現在、イタリア在住の函館東高18回生小寺眞知子さん(彫刻家、小寺眞知子さんの世界参照)によって、作成中だ。
 いぞれにせよ、このきみちゃんこそ、北海道に渡った開拓民の子であり、全国各地にきみちゃん像を作らせた原動力となった。
                                           2008.6.29
資料提供:関西青雲同窓会、写真:平成元年、東京都港区の麻布十番商店街に建立された佐々木至作「きみちゃん」像。撮影管理人

 2009年8月7日、赤い靴が完成した。この話はのちに2009年11月15日横浜で「横浜夢座」の朗読劇「赤い靴の少女―母・かよの物語」となって横浜で上演された。その様子を各紙から拾ってみた。
☆【47NEWS ・ 共同ニュース ・ 28社】 2009.8.8. 函館に「赤い靴」女の子像を設置  母子別れの地

 童謡「赤い靴」のモデルとされる少女「きみちゃん」のブロンズ像が、北海道函館市の「はこだて西波止場美術館」前広場に設置され、除幕式が7日、開かれた。
 児童福祉活動などに取り組む市民団体「はこだて赤い靴の会」が昨年から企画。制作した同市出身の彫刻家小寺真知子さん(59)は式で「函館のシンボルとなり、見た人に幸せを与える像になってほしい」と話した。
 同会によると、台座を含め高さ約160センチ。世界の子どもの幸せと親子のきずなの大切さを願うとする活動の趣旨に賛同し、全国から寄せられた寄付金で完成した。「きみちゃんの像」は横浜市や静岡市などにもあり、全国で6体目という。
 同会によると、きみちゃんは現在の静岡市から母親と函館に移住。その後、母親は留寿都村の農場に入植したが、病弱だったきみちゃんは宣教師に預けられ、函館が母子の別れの地になったとされる。

写真 「赤い靴」の少女像と、あいさつする制作者の小寺真知子さん=7日、北海道函館市
☆【朝日新聞 北海道版】 2009.8.8.函館に「赤い靴」像完成
■「ゆかりの地」募金実る
 野口雨情作詞の童謡「赤い靴」のモデルとされる少女の像が函館市末広町の西波止場に完成し、7日に除幕式があった。「赤い靴」にちなんだ像は横浜や小樽などにあるが、「函館こそ母親と子が別れたゆかりの地」として、市民らが「はこだて赤い靴の会」を結成、募金活動を続けてきた。(加賀谷直人)
 この日は子どもたちが「赤い靴」を合唱し、少女像の完成を祝った。像はブロンズ製で台座を含めた高さは約165センチ。函館市出身でイタリア在住の彫刻家・小寺真知子さんが制作した。すぐそばには「赤い靴」の歌碑も建てられた。1500万円が目標の募金は、今月で達成できそうだという。
 童謡のモデルとされる少女岩崎きみは1902(明治35)年静岡県生まれ。1歳のとき、母親と函館に渡ったとされる。その後、母親が開拓に入ったため、米国人宣教師夫妻に預けられた。夫妻はアメリカに帰国したが、病弱なきみは母親と再会できず、東京の孤児院で9歳の短い生涯を終えたとされる。
 雨情は一時期、札幌や小樽で新聞記者をしていた。きみの母親と後に結婚した男性は、雨情と同じ札幌の新聞社に勤めていたという
☆きみちゃんと「赤い靴」の女の子を結びつけた、北海道新聞の記事 (PDF版はここをクリックしてください)
☆横浜のバス{あかいくつ」と赤い靴の女の子像、横浜では「この歌は横浜港を舞台に作られた」とされている。
☆関連ホームページ・リンク集☆
赤い靴の女の子、きみちゃん・・・・・・・・きみちゃん伝説を紹介
5つのきみちゃん像・・・・・・・・・・・・・・・・全国5箇所のきみちゃん像の写真
新しいきみちゃんの像の計画がまたひとつ・・・・・製作中のきみちゃん像の写真、東浜桟橋の写真
赤い靴・・・・・赤い靴誕生の話が紹介されている。
赤い靴・・・・・文中で紹介した赤い靴ときみちゃんを結ぶ説を否定している。(出展:フリー百科事典「ウィキペディア」)
☆ブログ版 「赤い靴」の女の子と、北海道開拓民の子きみちゃん
☆赤い靴の女の子像設置、来年6月、函館港に・・・・・西日本新聞 2008.7.18☆

 童謡「赤い靴」のモデルとされる少女「きみちゃん」のブロンズ像が来年6月、函館港開港150周年を記念するイベントの一環として、ゆかりの地である北海道函館市の函館港に設置される。

 地元の郷土史家らでつくる「はこだて赤い靴の会」が、世界の子どもの幸せと親子のきずなの大切さを願って企画した。台座を含め約165センチ。事業費は同じデザインのミニチュア像10体を販売するほか、広く寄付を募るという。

 制作する同市出身でローマ在住の彫刻家小寺真知子(58)さんは「この物語が函館で生まれたことを知ってほしい」と話している。

 同会によると、きみちゃんは1歳のとき、現在の静岡市から母親と函館市に移住。母親は留寿都村の農場へ入植する際、病弱だったきみちゃんを米国人の宣教師夫妻に託した。任期を迎え帰国することになった夫妻は、結核を患っていたきみちゃんが長旅に耐えられないと判断。米国に連れて行かず、東京の孤児院に預けた。その後、きみちゃんは9歳で死亡した。母親は亡くなるまで、娘が米国に渡ったと信じていたという。

 米国への渡航を予定していた3人が1908年5月、函館港から上京する場面をイメージ。赤い革靴姿で、胸に手を当てて母と過ごした街を振り返り、旅立ちへのロマンや不安を抱く5歳の少女を表現した。

 問い合わせは赤い靴の会事務局、電話0138(54)3755。

「赤い靴の少女」お出迎え…函館空港に小像設置☆ 2008.10.28付 函館新聞より
 童謡「赤い靴」(作詞・野口雨情)のモデルとされる少女・岩崎きみちゃん(1902―11年)のブロンズ小像が10日、函館空港ターミナルビル(函館市高松町)内に設置された。来年6月に同市末広町の函館港付近で等身大像の建立を目指す「はこだて赤い靴の会」(宮崎衛会長)の活動周知の一環で、来年5月末までの期間限定で展示される。
 小像は台座を含めて高さ47センチで、等身大(125センチ)の約3分の1の大きさ。来年設置予定の像と同じデザインで、ローマ在住の彫刻家小寺真知子さん(函館出身)が制作した。函館空港ビルデングの協力を得て、人通りの多い国内線1階通路の一角に設けられた。
 同会はきみちゃんが函館で母親と別離し、米国人宣教師に預けられたという悲話を伝えようと発足。函館開港150周年に合わせて設置準備を進め、事業費を確保するための募金活動も行っている。この小像は計10体(1体60万円)制作され、販売した収益も事業費に充てる。
 大橋良平副会長は「全国から人が訪れる空港で小像を見てもらい、函館ゆかりの話を知ってもらいたい。活動が全国に広まり、募金に結びつけば」と期待している。
                        募金の申し出、問い合わせは同会事務局TEL0138・54・3755。
☆「赤い靴」の秘話を描く、五大路子さんら朗読劇 2009.11.6 神奈川新聞より
ハマっ子女優の五大路子さん率いる演劇集団「横浜夢座」の朗読劇「赤い靴の少女―母・かよの物語」が、横浜市港北区の港北公会堂で15日に上演される。童謡「赤い靴」に込められた親子のきずなを、俳優らの語りで描き出す。

 主人公は、野口雨情が作詞した「赤い靴」のモデルとされる岩崎きみ。1902(明治35)年に静岡で生まれ、開拓移民として母親とともに北海道へ渡ったものの、厳しい生活のために米国人宣教師夫妻に預けられた。歌詞には「異人さんに連れられて…」とあるが、実際は結核に侵され、渡米せずにひとり療養施設で過ごしたという。

 五大さんらは、本を手にしながら身ぶり手ぶりも加える朗読で、この物語を再現する。「切なく、悲しい少女の気持ちを描きたい。親子の情愛を感じてほしい」と意気込んでいる。

 また、昨年4月に亡くなった詩人の筧槇二さんが、横浜大空襲を題材に著した短編小説「真昼の夕焼け」も朗読する。

 港北芸術祭アートピア2009の一環。午後2時開演。料金は一般2500円、中学生以下千円。当日券同額。問い合わせは、港北区役所地域振興課電話045(540)2239。

        
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