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学 校 祭 打 ち 上 げ 脱 線 事 件
1980年9月2日午前0時半 
 1980(昭和55)年9月2日午前0時半頃、函館東高3年生の男子生徒10数人が酔っ払って歩いているところを、函館中央署のパトカーが見つけ補導した。

 「続・青雲時報縮刷版」青雲台の歩みには次のように記載されている。「1980(昭和55)年9月 「北海道新聞朝刊(全道版)に『「学校祭打ち上げ脱線―函館東高』」の見出しで、3年生のカラオケパーティーに報道記事が出る。臨時職員会で学校長、クラス担任より事情説明。該当生徒に対する指導案を決め、今後のあり方について討議。全校集会・特設LHRを実施。生徒に対し生活面における自覚と反省を促す。生徒会主催で3年生の生徒集会が行われる」

 1980年8月29日、第31回青雲祭前夜祭が行われる予定だった。しかし、雨天のために恒例の行燈行列は後夜祭へと順延された。8月30日、31日、青雲祭本祭。翌9月に、青雲祭後夜祭が行われた。「3日後、待ちに待った後夜祭・・・コースに変更があったけど、クラス毎にハッピとかTシャツを着ると、心うきうき、体ムズムズ・・・?周囲の羨望の目に見守られながら市街地を練り歩くあの快感!!― 失いたくありませんね。東高生なら誰もがそう思っているはずだね」(生徒会誌『ひんがし17号、滅茶苦茶綾子さんの投稿より』)

 「問題の“パーティ”が開かれたのは、この直後。女生徒十数人を含む同高の3年生39人は、同9時30分ころから1時間の間に同市本通町の喫茶店兼スナックに集まり、学校祭の打ち上げと称して酒を飲んだり、カラオケなどで深夜まで興じていた。中には、飲酒しなかった生徒もいるが、大半がウィスキーを飲み、ボトルを3本開けたという」。同年9月3日付『北海道新聞』より

 この東高資料集にはいい思い出だけではなく、高校時代の本当の姿も表わそうとしてきた。東高あの時あの頃の一篇として、この事件の出来事を集めてみた。
 当時の関係者の声も紹介した。
 
                                   2009.10.23 管理人
 * 上は1980(昭和55)年付「北海道新聞」の記事。
 * 行燈行列と青雲祭については下記を参照のこと。
    「函館東高の顔、行燈行列」、「写真集 青雲祭
☆特集 青雲祭 プロローグより 「ひんがし17号」より
 東高の青雲祭も31回を数えました。東高と言えば青雲祭と言われるほど有名な我が校の学校祭。全校生徒はもちろん先生方までが心待ちにする。年間の最大行事です。そして、青雲祭と言えば前夜祭(今年度は雨天の為、後夜祭になってしまいましたが)の行燈行列が何といってもメインですね。文字通り燃えつきるまで叫び、走り、踊るのです。
 しかし、この数年、青雲祭は大きな問題をいくつも抱えています。前夜祭に比べての本祭の盛り上がり不足、内容のワンパターン化、何よりも無関心派の生徒の存在など数え上げたらきりがありません。どうにかしなければならないという意見にも、決定的な解決策が見つからず何となくいうのが実状でした。もっと言えば、青雲祭はただ騒ぎ、遊ぶことの理由だけのようにすらなっていたのです。
 そんな矢先、3年生の事件が起きました。楽しかるべき青雲祭が非常に後味の悪いものになったのは誰しも同じでしょう。数回に渡って開かれた反省の集会で、先生方は「起るべきして起った」という言葉をよく使われました。正に恥ずべきことではありませんか。
 青雲祭は今、大きな分岐点に立っています。ことが起きてしまったあとで遅すぎるのかもしれません。ければ私たちは今こそ、青雲祭というものを正面から見つめ、青雲祭本来の意味をしっかりとつかみ認識しなければならないのではないでしょうか。そして、これからの青雲祭を真剣に考えなければならない時期に入ったのではないでしょうか。
 私たちは予想以上に大きな問題になってしまった3年生の事件を充分に反省し、更にそのステップにしてより良い青雲祭を私たちの手で創り上げるため、この問題にテーマにし、特集を青雲祭というタイトルで組みました。12月に改めて行ったアンケートの結果、インタビュー、そして寄せられた意見を含めて皆さんにお届けします。じっくりと読み、そして考えて下さい。私たちの青雲祭を・・・。 ひんがし編集委員 
☆打ち上げ事件 特集 東高生の思いをのせて、今見直す行燈行列
    2004(平成16)年7月23日「青雲時報」第162号より
  本当に行燈中止の危機に陥った事件がこのいわゆる「打ち上げ事件」である。雨で行燈が最終日になったことがあり、その帰りに3年生のあるクラスが打ち上げと称し、スナックを貸し切ってウィスキーを並べていたのが警察にばれ、大きく新聞に報道されました。

 この事件後「生徒に対する指導は厳しくした」と俵先生は言う。市か、前夜祭の跡に担任が生徒が帰宅しているかをチェックするのはこの事件からである。

写真は1980年の行燈のひとつ。(1981年「ひんがし」のグラビア写真より)
☆関係者の証言
 スナック貸切・補導事件はよーく覚えておりますがそれは3年生ではありません。2年生です。とってもわるーい学年で、3年間での停学のべ総数は100名近かったのでは・・・。かくいうオラも2度ほど・・・。京都の修学旅行では伏見の酒蔵巡り後、焼鳥で一杯。すごい学年だったと思うよ。
                                          とど さん  2008-06-23 19:39
 懐かしい事件ですね。この時、私は2年生でしたが、部活の先輩がこの事件で補導され、部員全員が頭を丸めた記憶があります。
 この年の青雲祭に北海道で活動していたフォークシンガーの川村通夫さんがゲストで出演していました。この事件が新聞に載った後、川村さんがパーソナリティーをしていたラジオ番組のアタックヤングの中で、怒りの言葉を口にしていました。
 この年、補導されたのは実は3年生だけでなく、2年生の某クラスも補導されてました。青雲祭のあとすぐに修学旅行があり、修学旅行から帰って来てすぐにそのクラスの大半が停学処分になっていました。
 この事件を期に、それまで自由だったパーマの禁止、バイク通学の規制等、校則が厳しくなったり、翌年の青雲祭も厳しい規制の中でのもので、当然盛り上がりに欠けるものでしたよ。
                      たかぶー さん2009年10月19日 00:38
*写真はこの年の青雲祭のイベント。サッカーグランドの端で行われたNHKFMの公開録音の様子。
☆管理人のコメント
 私も別な時に高校生時代飲み会を行ったので、聖人君子のようなことは言えません。この事件の問題点は、高校生が午前0時半に街中を十数名で闊歩していたことにあると思います。もし奇声を上げていたようなことがあったら最悪。高校生が午前さまになってはいけない。親が心配していたのではないでしょうか。
 警察に補導されるような事件になれば、学校にも親にも迷惑がかかるでしょ。来年から皆が楽しみにしている内上げが出来なくなります。学校も規制を強化しなければならなくなるでしょう。開校以来の独立と自由の伝統が守れなくなります。
 でも、関係者にとって青春時代のほろ苦い東高のあの時あの頃になったに違いありせん。
 新聞沙汰になっても、修学旅行を実施してその後に停学処分を下した先生方に拍手喝采。 
                                          管理人
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