深田晃司監督のカンヌ映画祭「ある視点」部門審査員賞受賞作品。
パンフレットから、興味深い部分を抜粋。太字は引用者による。
深田晃司監督の声明。
本来人間は、個々人それぞれがどうしようもない孤独を抱えた生き物で、母でも子でも妻でも夫でも、みんなバラバラに生まれ、歩き、考え、喜び、バラバラに死んでいきます。それなのに、たまたまそこに生まれたという理由で、家族という共同体が営まれる。みんな当たり前の顔をして毎日寝食をともにする。こんな不条理があるだろうかと私は思います。
だから、私が描きたいのは家族の崩壊ではなく、もともとバラバラである家族が、ああ、自分たちはバラバラで孤独だったんだなあ、ということを発見し、それでもなお隣にいる誰かと生きていかなくてはいけない、生き物の業のようなものです。
巷に溢れる、家族の絆を理想化して描くドラマに、私はもううんざりしています。それは、旧式で類型化されたありもしない「あるべき家族像」をフィクションがなぞり流布することで、本来現実にあるはずの多種多様な「家族のカタチ」を排他的に塗りつぶしていくからです。私が「家族の崩壊」ではなく「あらかじめ崩壊している家族」を描くのにこだわるのは、家族の崩壊を悲劇として捉えることそれ自体が、壊れる以前の家族をひとつの理想として志向してしまうからです。
独り者の私が言ったらひがみにしか聞こえないことを、こうもズバリと言ってくれて痛快の極み。
浅野忠信のインタビュー。
-本作は様々な面においてこれまでになかったタイプの映画と言えますが、浅野さんが考えるオリジナルな映画とは?
あるジャンルの映画が好きな人たちが集まり、「ここがスピルバーグっぽい」とか言いながら自分たちの好きなものを追求して作った作品は今の時代にいっぱいありますが、それらは本当の映画ではなく、映画っぽいものに過ぎません。それとは対極にある、たとえば(今座っているテーブルから)物が落ちた瞬間とか、コップの水がこぼれた瞬間とか、何でもいいんですけど、自分でも想像しなかった何か、自分にしか感じられなかった何か、自分だけがドキッとした何かを何とかしてパッケージ化しようとしたものが映画だと思うんです。iPhoneで撮っていようが、尺が1分だろうが、それが映画です。そしてそれを観た人も、水がこぼれただけでドキッとして「俺、恋人に謝れるかも」とか、水とは全然関係なく素直な気持ちになったりする。つまり心を動かされる。そういうオリジナル性のあるものをやっていきたいです。
確かに、本作にも「物干し台からシーツが落ちる」というだけなのにとてつもなく恐いシーンがあった!
筒井真理子のインタビュー。
-カンヌでの上映ではどのような手応えを感じましたか?
以前、別の映画祭で海外の人たちと一緒に自分が出演した映画を観たときに、役の人間にきちんとなっていれば言葉が違っていても伝わるけれど、説明(的な表現)では何も届かないことが身にしみてわかったんです。カンヌで『淵に立つ』は鳴り止まないほどの拍手をいただきましたが、上映の最中から確実に届いていることがわかりました。カンヌの観客の観る力のすごさに驚きましたね。また集まってきている映画好きの人たちが皆、幸せそうなんですよ。映画って人生を豊かにするものなんだなとあらためて感じました。ある人が自分の子育てについて「小説と映画だけあれば人は育つ」と言っていましたが、確かに学校のお勉強にない大事なことが学べるかもしれないですね。
古舘寛治のインタビュー。
-俊雄は口数も少なく、何を考えているのか観客にはわかりづらいキャラクターですが、映画の冒頭とラストでは大きく変化しているように見えます。この変化はどのように組み立てていかれたのでしょう?
役を組み立てているのは俳優ではなく脚本です。俳優がやることは脚本の時点で決まっています。ですから俳優はどうすればワンシーンワンシーンを生きられるかだけを考えればいいと僕は思っています。フィクションの中で生きているように演じたいと常に思っています。
-ラストシーンの俊雄の行動は脚本には具体的に書かれておらず、現場で生まれたものだと監督から聞きましたが。
役の人間の思考になりたいと思っています。瞬間ごとの思考をイメージして、それを追いかけて行動した結果、予期せぬことが起きる。リハーサルの段階でそうなって監督のOKが出る、というのが俳優としては一番やりやすい状態で、そうなることが大事だと思っています。深田くんとの仕事はそうなることが多く、『淵に立つ』のラストシーンもその一つだということです。もちろん深田くんと僕のイメージが合致しないときもあります。その場合は話し合い、監督の言う方法でやり直すこともあります。ケースバイケースです。
深田晃司監督のインタビュー。
- 『淵に立つ』はこれまでの深田監督作品の中でも最もダークな心理スリラーと捉えることができます。作るときにそのことは意識していましたか?
特別にスリラーだとは考えていません。
劇作家の平田オリザさんの言葉で、私自身も演出部に所属している青年団の新人研修で直接、平田さんから聞いていて印象に残っているのですが、人間を描くということは、崖の淵に立って暗闇を覗き込むような行為だと。闇に目をこらすためには少しでも崖の淵に立たないといけないけど、しかし自分自身が闇の中に落ちてしまっては元も子もない。表現とは、ヒトの心の闇にできるだけ近づきながら、しかしギリギリのところで作家自身が踏みとどまる理性を持ちえたときに、初めて成立するものだと思います。
本作は日仏合作で、ポストプロダクションはフランスで行われた由。
スタッフ座談会の根岸憲一(撮影)の発言。
(日仏のやり方の違いについて)たとえばカラコレ(色彩補正)なら、日本では1コマずつ調整するところを、画面をパンしながら動きの中で調整するんですよ。そんなやり方、初めて見ました。
(無国籍感を出すために)どこの国の色でもなくなるように、全部の色を少しずつずらしていったんです。結果的にフランスっぽくなりましたね。また、肉眼で見える黒に限りなく近い黒を再現しようと試行錯誤しました。役者さんの顔の影や、工場の機械の質感を出すために、本来ビデオでは出せない黒とグレーの中間の色を出したりしています。あと、色の話とは変わりますけど、「フィックスの画でも動きを感じさせたい」と深田さんに言われて、全編ノイズを入れたんです。フィルムなら静止画でも粒子が細かく動いていますよね。それをビデオで再現したんですけど、シーンによってはもちろん、一つの画面の中でも明るい場所と暗い場所でノイズを変えているんですよ。それをクリスティーン(・シムコヴィアク。仏側のカラリスト)がスクリーンの前に立って全部チェックしてくれました。
引用ばっかですまん。不穏で重厚な、良い映画でした。
最近忙しくてあまり更新できないが、アニメは観ている。
とりあえずちゃんと集中して観ているのは、
『響け!ユーフォニアム2』
『ユーリ !!! on ICE』
『ハイキュー !! 烏野高校 VS 白鳥沢学園高校』
『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ[第2期]』
『夏目友人帳 伍』
『DRIFTERS』
『3月のライオン』
こうして見ると私、美少女がバトルロワイヤる話にもうまったく興味が持てなくなってるのがわかる。何より、『魔法少女育成計画』と『魔法少女なんてもういいですから』が番組表に同居している図を見ると、「ジャンルの末期症状」という言葉が頭をよぎる。
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