更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2016年12月21日(水)
ジェシカ・キャプショー

公開以来14年ぶりに、スピルバーグ監督『マイノリティ・リポート』('02)を観直した。この夏、映画美学校集中講座の映画表現論、塩田明彦監督の「スピルバーグに至る、あみだくじ的映画史」を受講したのだが、そこで本作を採り上げていたので。
改めて観ると、塩田監督がお話しされたとおりの見所の多い映画だった。
それはそうと、キャストにジェシカ・キャプショーという名があって気になった。珍しい名字なのでもしかしたらと思って調べたら、やっぱり。
ケイト・キャプショーの娘だった。
http://www.imdb.com/name/nm0001009/bio?ref_=nm_ov_bio_sm

ケイト・キャプショーは、インディ・ジョーンズシリーズの第2作『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』のヒロインである。シリーズ中あまり評価は高くない-と言うか、初期3作のうちなかったことにされているのに近い作品だが、私は『レイダース』よりもこちらを先に観た(しかも今は亡きVHDで)ため、思い入れが深いのだ。

改めて調べてみたら、ケイトはミズーリ大学卒業後、軽度身体障害者の教師を一年半に渡って続けたが幼い頃の夢だった女優への思いを断ち切れず、娘(ジェシカ)を連れてNYに移住。モデルをしながら演技の勉強をし、82年に映画デビュー。『魔宮の伝説』のオーディションに120人の中から選ばれたというから、結構な苦労人である。
ブロンドの派手な美貌が災いしたのか、『魔宮の伝説』では頭空っぽの古典的なヒロインで、その後もパッとしなかった。2002年を最後に女優としては引退しているようだ。

今の彼女は別の点で有名だ。すなわち、スティーブン・スピルバーグ監督の奥様である。『魔宮の伝説』で見初められ、91年にゴールインした後5人の子供をもうけている。女優としては大成しなかったが、世界で最も成功した映画人の伴侶なのだから人生の大勝者と言うべきであろう。
なおジェシカは、80年に別れた前夫との間の娘。その後、TVシリーズ中心にコンスタントに出演を続けている。ちなみにIMDbによると、彼女自身も現在4人の子持ちだそうだ。子だくさんの家系らしい。

ところで、私は不覚にもまったく気づかなかったが、『PSYCHO-PASS』が『マイノリティ・リポート』の影響を受けているのではないかというのは前から指摘されていた。
とりわけ『マイノリティ・リポート』の収容所のシーン、デザインがシビュラシステムとそっくりだ。

2016年12月14日(水)
三式戦闘機

旧聞に属する話だが、川崎重工創立120周年記念事業の一環で復元された三式戦闘機「飛燕」が一般公開されたので、見てきた。
このためだけに神戸まで日帰りしてきた。新幹線て凄い。

三式戦闘機「飛燕」見学記

会場で販売していた飛燕手ぬぐいを記念に買ってきたのだが、後で聞いたら早く行けばTシャツも売ってたんだって。残念!

2016年12月6日(火)
『響け!ユーフォニアム2』第八回
初っ端から浴衣!水着!合宿!入浴!体操着!マウントポジション!と攻めに攻めまくっている本作。

あんまりそっち方面に振らなくても十分に面白いんだから少々控えた方がよいのではないかと・・・・・・いや私も好きですけどね。

で、1期シリーズでも転機になった伝説の8話だが、2期の8話も大変良かった。看病イベントと言ってしまえばそれまでなのだが、気に入ったのはここ。

病欠した久美子を見舞う麗奈は、土産にユーフォニアムのアルバムを持参する。久美子はすでに持っていたCDだったが、麗奈の厚意に感謝して聴き始めるのだが。











「いいよね」
「うん」

という必要最低限のやりとり。
そして、互いに目をつむった顔を見やるという演出。
視線を交わしていないにもかかわらず、あるいはそれゆえに、信頼と共感がしみじみと伝わる。
名シーンである。


第八回「かぜひきラプソディー」
絵コンテ・演出:
北之原孝將
2016年12月2日(金)
『この世界の片隅に』

正直に言うと、私は片渕須直監督の作品が苦手だった。『マイマイ新子』はもちろんのこと、『BLACK LAGOON』ですらダメだった。根本的な理由があるのかどうかはわからない。単に子供が主人公なのが受け付けないとか田舎が嫌いとか音楽が趣味に合わないとかセリフ回しが気に入らないとかそういう理由だ。

『この世界の片隅に』の製作についても冷めた目で見ていた。作品自体よりも「製作のためにどれほど資料を集めたか」が先行して話題になっていたのも、研究者としてはやっかみ半分で気に入らなかった。

そういうわけで、ひねた態度で観に行ったのだが、いやもう参った。今回は完全に脱帽。無条件降伏である。
圧倒的な情報量で、緻密でありながらさりげなく構築されたフィルムの上で、まぎれもなくすずさんは生きていた。
中でも凄かったのが、「青葉」乗り組みの哲を自宅に迎えるシチュエーション。このなまめかしさと緊迫感!片淵監督ってこんなことができる演出家だったのか!

失われた右手が幽玄の彼方から別れの手を振るラストまで一気呵成。凄すぎてもう一度観る気力が起きないのだけが欠点か。

「青葉」は重巡洋艦のうちでも最古に属する艦。開戦以来の歴戦の艦だが目立った戦果は第一次ソロモン海戦参加くらいで、僚艦をすべて失い、何度も沈没の危機に瀕しながら生き延びた。むしろ修理の期間が長かったおかげで生き延びたとも言え、本作では、フィリピン作戦(昭和19年10月)中に潜水艦の雷撃で大破し、満身創痍で本土に帰投したところ。哲の言う「死に所を得ない」とはそういう意味である。

これは私に課せられた使命だと思うので書いておくが、すずさんが兄に対して送る手紙の宛先「豪北方面鯉五一七三部隊」とは、広島を原駐地とする歩兵第11連隊のこと。「鯉○○」は、部隊の能力、定員、装備などを秘匿するための通称。
あ、今気がついたが、広島だから鯉なのか。

歩兵第11連隊は、明治8年創設のそれこそ日本でも最古クラスの部隊で、太平洋戦争ではマレー作戦に参加後、豪北方面(オーストラリアの北側。バンダ海、アラフラ海あたり)の防衛に任じていた。さほど過酷な戦闘があった場所ではないので、兄の戦死はゲリラの攻撃か空襲によるものか、あるいは病死かもしれない。部隊の一部がニューギニア東部、サラモアの戦いに巻き込まれたとの記述もあるが、戦史叢書では調べきれなかった。

ところで今年話題を呼んだアニメ映画『君の名は。』、『聲の形』、そして本作はいずれも、「欠落」を重要なモチーフにしている。『君の名は。』は記憶。『聲の形』は言葉(聴覚)。そして本作は右手。

偶然とは思えないが、世相に絡めて一席ぶつことはしない。おそらく、これらの作品は人生の本質的な何かを表現しようとしており、そして人生とは何かを失ったり引き換えに何かを得たりすることの繰り返しだからだろう。
2016年という奇跡的な年に居合わせたことがただ嬉しい。

2016年11月9日(水)
『淵に立つ』

深田晃司監督のカンヌ映画祭「ある視点」部門審査員賞受賞作品。

パンフレットから、興味深い部分を抜粋。太字は引用者による。

深田晃司監督の声明。

本来人間は、個々人それぞれがどうしようもない孤独を抱えた生き物で、母でも子でも妻でも夫でも、みんなバラバラに生まれ、歩き、考え、喜び、バラバラに死んでいきます。それなのに、たまたまそこに生まれたという理由で、家族という共同体が営まれる。みんな当たり前の顔をして毎日寝食をともにする。こんな不条理があるだろうかと私は思います。
だから、私が描きたいのは家族の崩壊ではなく、もともとバラバラである家族が、ああ、自分たちはバラバラで孤独だったんだなあ、ということを発見し、それでもなお隣にいる誰かと生きていかなくてはいけない、生き物の業のようなものです。
巷に溢れる、家族の絆を理想化して描くドラマに、私はもううんざりしています。それは、旧式で類型化されたありもしない「あるべき家族像」をフィクションがなぞり流布することで、本来現実にあるはずの多種多様な「家族のカタチ」を排他的に塗りつぶしていくからです。私が「家族の崩壊」ではなく「あらかじめ崩壊している家族」を描くのにこだわるのは、家族の崩壊を悲劇として捉えることそれ自体が、壊れる以前の家族をひとつの理想として志向してしまうからです。

独り者の私が言ったらひがみにしか聞こえないことを、こうもズバリと言ってくれて痛快の極み。

浅野忠信のインタビュー。

-本作は様々な面においてこれまでになかったタイプの映画と言えますが、浅野さんが考えるオリジナルな映画とは?

あるジャンルの映画が好きな人たちが集まり、「ここがスピルバーグっぽい」とか言いながら自分たちの好きなものを追求して作った作品は今の時代にいっぱいありますが、それらは本当の映画ではなく、映画っぽいものに過ぎません。それとは対極にある、たとえば(今座っているテーブルから)物が落ちた瞬間とか、コップの水がこぼれた瞬間とか、何でもいいんですけど、自分でも想像しなかった何か、自分にしか感じられなかった何か、自分だけがドキッとした何かを何とかしてパッケージ化しようとしたものが映画だと思うんです。iPhoneで撮っていようが、尺が1分だろうが、それが映画です。そしてそれを観た人も、水がこぼれただけでドキッとして「俺、恋人に謝れるかも」とか、水とは全然関係なく素直な気持ちになったりする。つまり心を動かされる。そういうオリジナル性のあるものをやっていきたいです。

確かに、本作にも「物干し台からシーツが落ちる」というだけなのにとてつもなく恐いシーンがあった!

筒井真理子のインタビュー。

-カンヌでの上映ではどのような手応えを感じましたか?

以前、別の映画祭で海外の人たちと一緒に自分が出演した映画を観たときに、役の人間にきちんとなっていれば言葉が違っていても伝わるけれど、説明(的な表現)では何も届かないことが身にしみてわかったんです。カンヌで『淵に立つ』は鳴り止まないほどの拍手をいただきましたが、上映の最中から確実に届いていることがわかりました。カンヌの観客の観る力のすごさに驚きましたね。また集まってきている映画好きの人たちが皆、幸せそうなんですよ。映画って人生を豊かにするものなんだなとあらためて感じました。ある人が自分の子育てについて「小説と映画だけあれば人は育つ」と言っていましたが、確かに学校のお勉強にない大事なことが学べるかもしれないですね。

古舘寛治のインタビュー。

-俊雄は口数も少なく、何を考えているのか観客にはわかりづらいキャラクターですが、映画の冒頭とラストでは大きく変化しているように見えます。この変化はどのように組み立てていかれたのでしょう?

役を組み立てているのは俳優ではなく脚本です。俳優がやることは脚本の時点で決まっています。ですから俳優はどうすればワンシーンワンシーンを生きられるかだけを考えればいいと僕は思っています。フィクションの中で生きているように演じたいと常に思っています。

-ラストシーンの俊雄の行動は脚本には具体的に書かれておらず、現場で生まれたものだと監督から聞きましたが。

役の人間の思考になりたいと思っています。瞬間ごとの思考をイメージして、それを追いかけて行動した結果、予期せぬことが起きる。リハーサルの段階でそうなって監督のOKが出る、というのが俳優としては一番やりやすい状態で、そうなることが大事だと思っています。深田くんとの仕事はそうなることが多く、『淵に立つ』のラストシーンもその一つだということです。もちろん深田くんと僕のイメージが合致しないときもあります。その場合は話し合い、監督の言う方法でやり直すこともあります。ケースバイケースです。

深田晃司監督のインタビュー。

- 『淵に立つ』はこれまでの深田監督作品の中でも最もダークな心理スリラーと捉えることができます。作るときにそのことは意識していましたか?

特別にスリラーだとは考えていません。
劇作家の平田オリザさんの言葉で、私自身も演出部に所属している青年団の新人研修で直接、平田さんから聞いていて印象に残っているのですが、人間を描くということは、崖の淵に立って暗闇を覗き込むような行為だと。闇に目をこらすためには少しでも崖の淵に立たないといけないけど、しかし自分自身が闇の中に落ちてしまっては元も子もない。表現とは、ヒトの心の闇にできるだけ近づきながら、しかしギリギリのところで作家自身が踏みとどまる理性を持ちえたときに、初めて成立するものだと思います。


本作は日仏合作で、ポストプロダクションはフランスで行われた由。

スタッフ座談会の根岸憲一(撮影)の発言。

(日仏のやり方の違いについて)たとえばカラコレ(色彩補正)なら、日本では1コマずつ調整するところを、画面をパンしながら動きの中で調整するんですよ。そんなやり方、初めて見ました。

(無国籍感を出すために)どこの国の色でもなくなるように、全部の色を少しずつずらしていったんです。結果的にフランスっぽくなりましたね。また、肉眼で見える黒に限りなく近い黒を再現しようと試行錯誤しました。役者さんの顔の影や、工場の機械の質感を出すために、本来ビデオでは出せない黒とグレーの中間の色を出したりしています。あと、色の話とは変わりますけど、「フィックスの画でも動きを感じさせたい」と深田さんに言われて、全編ノイズを入れたんです。フィルムなら静止画でも粒子が細かく動いていますよね。それをビデオで再現したんですけど、シーンによってはもちろん、一つの画面の中でも明るい場所と暗い場所でノイズを変えているんですよ。それをクリスティーン(・シムコヴィアク。仏側のカラリスト)がスクリーンの前に立って全部チェックしてくれました。

引用ばっかですまん。不穏で重厚な、良い映画でした。

最近忙しくてあまり更新できないが、アニメは観ている。
とりあえずちゃんと集中して観ているのは、

『響け!ユーフォニアム2』
『ユーリ !!! on ICE』
『ハイキュー !!
烏野高校 VS 白鳥沢学園高校』
『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ[第2期]』
『夏目友人帳 伍』
『DRIFTERS』
『3月のライオン』

こうして見ると私、美少女がバトルロワイヤる話にもうまったく興味が持てなくなってるのがわかる。何より、『魔法少女育成計画』と『魔法少女なんてもういいですから』が番組表に同居している図を見ると、「ジャンルの末期症状」という言葉が頭をよぎる。

2016年10月18日(火)
『永い言い訳』

日本映画界希望の星、西川美和監督の新作観てきた。

今年は広島カープ25年ぶりの優勝で盛り上がっているが、西川監督も広島出身で熱烈なカープファン(『Number』に連載を持っているくらいだ)。まさにバラ色の年である。
本木雅弘の芸達者、竹原ピストルの面構え(西川監督は、凄い顔の役者を見つけてくるのが本当に上手い)もさることながら、特筆すべきは本木のマネージャーを演じた池松壮亮。
「子供って免罪符じゃないですか。自分がどんなにバカでクズかってことを忘れていられる」。
40代そこそこでこんなセリフを思いつく西川監督も西川監督だが、26歳の若さで二児のパパを演じ、本木雅弘と堂々と渡り合い、こんなセリフに説得力を与える池松も大したものである。あ、『紙の月』で宮沢りえの愛人を演じた人か!

パンフレットより、監督助手・広瀬奈々子のプロダクションノートから気になる部分を抜粋。太字は引用者による。

3月31日
(前略)革張りのソファで、愛人といちゃついてる最中にかかってくる留守番電話。幸夫の心情の変化に合わせて少しずつカメラがにじり寄り、凍りついた表情のアップでバサリと黒味に落ちる。映画的だと思わせる何かがこのショットにはある。山崎(裕。撮影担当)さん曰く、これが意味のある移動。「カメラは芝居をしないのだ」と。

4月30日
夏子のイメージをモノトーンで考えていた衣装・小林(身和子)さんは、彼女に赤をどう取り入れるか悩んだという。日常のシーンでは、記号的になりやすい「黒」と「赤」は意識的に避けているのだとか。敢えて黒い女にした上に、赤のダウンは強すぎると考え、暗めのグレーのダウンを合わせるとどことなく柔らかさが加わる。代案としてスーツケースを赤に決めた。

1月13日
メインタイトルの制作が佳境を迎える。この日は文字素材の撮影日。活版で印刷された文字の裏から、蛍光灯を点けたり消したりして、文字をチカチカ明滅させる。16ミリフィルムの映画にふさわしいアナログな手法にこだわった。

1月30日
編集最終日。どんなに悔もうが、どんなに閃こうが、この日を境に画はもういじれなくなる。宮島(竜治。編集担当)さんも妥協を許さない。数日前に大胆にも陽一の事故現場シーンのオミットを提案。「監督が一箇所に気を取られている時は、全体を見る。みんなが絶対にいいと思っている箇所を、まず疑うようにしている」と宮島さん。最後の最後に編集マンならではの一言が効いた。

本作はデジタル編集だが、宮島さんはオプチカルの手法を踏襲する。フェードアウトは、16ミリフィルムで撮影した黒味を重ね、輝度をなるべく残して落とすと、フィルムならではの味が残る。フィルム自体の需要がなくなってきた今では、その技術を持つ者は少ない

なお、劇中アニメ『ちゃぷちゃぷローリー』の制作はキネマシトラス。

2016年10月12日(水)
新海誠がアニメーター??

旧聞に属する記事で恐縮だが、新海誠監督が、米バラエティ誌の「2016年に注目すべきアニメーター10人」に選出された
記事によると、

1905年に米国のエンタテインメントビジネス総合誌として創刊したバラエティでは、注目すべき新人俳優や監督、プロデューサー、クリエイターなどを毎年10人ピックアップし紹介。「注目すべきアニメーター10人」は2015年にスタートし、今年は新海監督のほか、17年公開予定のピクサー新作『Coco(原題)』の共同監督兼脚本家エイドリアン・モリーナ、長編アニメーション版『ゴーストバスターズ』の監督に内定しているフレッチャー・ムールらが選ばれた。

「注目すべきアニメーター10人」は昨年から始まった新しいカテゴリーで、昨年は『トイ・ストーリー4』(18年公開予定)の共同監督ジョシュ・クーリーらが選ばれ、また特別賞として、ピクサーの創業者エド・キャットムルや『トイ・ストーリー』などのジョン・ラセターが「Creative Impact in Animation」を受賞した。

 2回目となる今年は、新海監督のほか、アニメ映画版『ゴーストバスターズ』のフレッチャー・ムール監督や、来年公開予定のディズニー/ピクサーのアニメーション映画『COCO』の共同監督エイドリアン・モリーナが選ばれ、『カンフー・パンダ3』のジェニファー・ユー・ネルソン監督が「Creative Impact in Animation」を受賞した。
新海誠がアニメーター?
私の理解では、アニメーターという言葉は実際に作画作業をする職業、原画マンと動画マンを指すはずだ。
確かに『ほしのこえ』では新海もそうだったかも知れないが、それ以降はいわゆる作画作業は人にまかせて、演出に専念しているはず。日本のマスコミがテキトーに訳しているのかと思ってVarietyの元記事を読んでみたら、確かに“10 Animators to Watch in 2016”と書いてある。
Varietyはアニメ専門誌ではないからだろうかと思ってさらに調べたら、驚きの事実。英英辞典で引いてみたところ、英語においてanimatorという単語は、アニメ制作者全般を指すらしいのだ。
Longman英英辞典
an‧i‧ma‧tor /ˈænəmeɪtə $ -ər/ noun [countable]
 someone who makes animated films

Cambridge英英辞典
 someone who makes animated films, drawings, models, etc.:

英語版Wikipediaだと、An animator is an artist who creates multiple images, known as frames, which give an illusion of movement called animation when displayed in rapid sequence.

と、動きを創造する役職との定義。わざわざ「レイアウト、ストーリーボード、背景美術はアニメーターとは呼ばない」と書いてある。しかし同じく英WikiのList of animatorsのページを見てみると、丸山正雄とか矢立肇の名前が。


なんとまあ、結構長くアニメ観てきたつもりだが、今の今まで知らなかった。
原画ならKey Animator、動画ならInbetweener(余談だが、解りやすくていい用語だと思う)と呼ぶもんだと思っていたのに・・・・・・、と考えてはたと気がついた。
アメリカでは商業映画としての手描きアニメはすでに絶滅しているので、原画も動画もなくなっているのだ!そのへん、英語版Wikiにもアニメーターの職務の変化として書いてある。
なるほど、こんなところにもガラパゴス化の表れが。

2016年9月27日(火)
『聲の形』と『ハドソン川の奇跡』


○ 『聲の形』
長い。長すぎる。
あと10分削ればいい映画だったかも知れないのに。
序盤、小学生時代は細かいカット割りで描写を積み重ね、快調なテンポで必要な情報を提示していくのに、高校時代に入るととたんにスピードがダウンして物語が停滞してしまう。
生理に合わないというか、緩急の配分を間違っている。例えば終盤の土下座合戦なんて、それこそロングの絵でワンカット見せるだけで済む。それにみんな泣きすぎ。涙は最終兵器であって、おいそれと使うべきではない。あれだけ見せられたら食傷するわ。涙に青いハイライトが入っている表現は面白かったが。
たっぷり時間を使うことイコール丁寧な描写なのではない。

私は『けいおん!』にも『たまこまーけっと』にも感心しなかった。『けいおん!』? そりゃつまらんとは言わないよ。可愛いし。でも私は可愛いだけのものに意義を見出せないし、論ずるに値する作品とも思わない。『たまこまーけっと』は悪ふざけの連続に耐えられず、3話でやめた。従って『たまこラブストーリー』も観ていない。

『響け!ユーフォニアム』で初めて山田尚子の正しい使い方が解った、と思った。しかし本作を観る限り、詰まるところこの人は一演出担当に徹した方がよいのではないか。

印象的なカットはたくさんある。例えば、祖母の葬儀の後姉妹が蝶を見るシーン。蝶は死者の魂だ、という伝承があることを考えると大変示唆的な、素晴らしいシーンだ。
が、映画全体としてどうにもこなれていない。

主人公将也は映画全編を通じて、失われた絆を結び直していく。実に律儀な展開だ。原作者もアニメ作者も、本当にいい人なのだろう。私事ながら、私は中学校に上がるタイミングで引っ越しをしているので、小学生時代のつきあいは全てなくした。それでも何も困っていない。
そういう私はこの映画の展開を、何もそこまで、と思ってしまう。40を超えた身として自嘲的に言うが、万人と上手くやっていくことはできないし、する必要もない。

『バベル』を観たときにも感じたことだが、障害をコミュニケーション不全の象徴として扱うことには疑問がある。原作者は、「この作品は人と人がコミュニケーションしようとする姿を描いた」と言っている(パンフの吉田玲子のコメントより)ようだが、それじゃ障害がなければコミュニケーションは完璧に取れるのか?
そうではあるまい。耳が聞こえようが口がきけようが、誰にでもコミュニケーションの断絶はつきまとう。とすると、そもそも聴覚障害を採り上げる理由はあったのか?という問題に行き着いてしまうのである。
ただ、早見沙織の芝居には感心した。「障害芝居はオスカーの早道」と言われるだけのことはある。

なおテレ東の宣伝特番も観たが、一番インパクト大だったのは、「京アニでは15時になると社員一同でラジオ体操をする」ということだった。

この映画を観て、しばらく前に電車の中で見かけた視覚障害と聴覚障害の年配のご夫婦(たぶん)を思い出した。
どうやって会話するのかというと、目の見えない旦那さんが手話で話しかけ、耳の聞こえない奥様が自分の手話を旦那さんに触らせるのである。
人間その気になれば、いかようにもコミュニケーションできるのだなあ、と不覚にも感動してしまった。


○ 『ハドソン川の奇跡』
たまたま同じ日に、イーストウッドの新作『ハドソン川の奇跡』を観てきた。2009年1月15日、ニューヨークのラガーディア空港を離陸したUSエアウェイズ1549便は、上昇中にバードストライクによって両エンジンの推力を失った。サレンバーガー(サリー)機長はハドソン川に不時着水し、乗客乗員155人全員が生還した。しかし事件後、「空港に戻ることも可能だったのではないか」と機長の判断は事故調査で厳しく追及される。

サリーは生還したもののPTSDに悩まされ、市街地へ墜落する悪夢を見る。イーストウッドは一貫して、「人を殺した者はその後の人生をいかに生きるのか」を描いてきた。本作も、「まかり間違って人を死なせていたかも知れない」という苦悩を描いたものと捉えれば過去のテーマの変奏と言える。

一番グッと来たのは、不時着コースに入った機内でのキャビン・アテンダント達の振る舞い。全員が声を揃えて、「Head down! Stay down!(頭を下げて、姿勢を低く)」と乗客への注意を繰り返すのだ。その声がまた、全員完全にシンクロしているのである。もちろん、日々の訓練のたまものだ。
旅客機の墜落で生存者がいることは稀だ。一生に一度あるかないかの事態、そしておそらく実践するときはまず最初で最後であろうに、プロとして業務を遂行し続ける。
その心意気に、危うく涙腺が決壊するところだった。

この映画はわずか96分しかない。イーストウッド映画史上でも最短だそうだ。それでいて、過不足は何一つない。サリーの妻も登場するが、サリーとは電話で話すシーンしかない。それでも、夫婦の愛情と信頼は十二分に伝わってくる。
御年86歳、監督生活40年目にして世界で最も尊敬されている映画作家と比べるのも酷だが、これが大人の映画ってもんですよ。


○ カーティス・ハンソン死去
私のオールタイム・ベスト『L.A.コンフィデンシャル』監督。71歳。最近見ないと思ったら、報道によればアルツハイマーを患っていたらしい。
またひとつ時代が終わる。

2016年9月19日(月)
『君の名は。』 断絶の果てに巡り会う物語

実は私は、大林宣彦の『転校生』を観ていない。一度観ようとしたのだが、入れ替わり演技のあまりの陳腐さにうんざりして早々にやめてしまったのだ。そんなわけで、『君の名は。』も観る前は少々心配だった。

だが、そんな心配は無用だった。私はかねてから、「新海誠の高度な演出技術を(背景美術よりも)評価すべきだ」と主張していたのだが、本作はまさにその演出技術が全開だ。
細かい描写を積み重ねてテンポ良く入れ替わりを見せておいて、実はストーリーのヤマは遥か先にある、という意外性。『心が叫びたがってるんだ。』を観たとき、この作品は完璧な映画ではないかと思ったものだが、『君の名は。』の衝撃はそれを上回る。『ここさけ。』のようなミニマルな話も好きだが、本作のような大作映画的ケレンに満ちた話もいいものだ。
私は、新海は私小説的な作家に見えて、実は本音を見せない、俗に言う「パンツを脱がない作家」ではないかと思っていた。しかし、娯楽大作に徹した本作は、作家自身が本当に楽しんで作っている様子がわかって、観ているこちらも楽しくなる。

新海は一貫して、人と人とのどうしようもない断絶を描いてきた。
しかしその中でも、『星を追う子ども』では「喪失に苦しむ者を脇に置く」という形で視点をズラしてみて、『言の葉の庭』で別れた先に再び巡り会える予兆を描いて見せた。

そして本作でついに再会を果たすに至る。本作の導入部は男女の入れ替わりというファンタジーな事件だが、断絶の深さを乗り越えるのに、肉体と精神の入れ替わり、という完全な同一化を必要とした、とも解釈できる。

印象的なカットがある。『秒速5センチメートル』にも登場した、電線に貫かれた満月である。本作ではこの絵が、2度登場する。『秒速』では、これが月を分断するイメージになっていたわけだが、本作の縦線は、円周上をめぐり続けて出会えない二人をついに結ぶ赤い糸の役を果たしている。
円周上、つまり湖の周囲をめぐるだけでは交わることができなかったのが、環状鉄道で刹那互いを認め、再会を果たすのは階段の上。
これは新海作品に頻出する塔のイメージに通ずるものであり、『言の葉の庭』の借景だ。さらに言えば、『言の葉の庭』で天地を結んだ雷が、ここでは隕石となる。確か京田知己監督の講演で、「人間は、垂直方向の動きに快感を感じる。新海作品は、これの使い方が抜群に上手い」と聞いた記憶がある。本作の垂直運動は、過去作の中でも頭抜けて大きい。それが、この面白さ、大作感と直結しているのである。

まさに新海監督の集大成。この人は一体、どこまで行ってしまうのだろう。


蛇足ながら何度でも言うが、私は『雲のむこう、約束の場所』を高く評価している。2000年代の映画ベストテン(アニメの、ではない)を選ぶ時には、必ずこの作品を入れる。これを機に、『雲のむこう、約束の場所』も再評価されるとよいのだが。

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