更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2014年3月31日(月)
アニメキャラの鼻筋表現の変遷

ここしばらく、最近のアニメの話をしていなかった。
1月からの作品があまりに不作だったためだが、以前から気になっていた問題に取り組んでいたせいでもある。

まだ穴は多いと思うが、年度末の締めくくりとして公開する。

題して、「『アニメージュ』人気投票に見るアニメキャラ鼻筋表現の変遷」。

2014年3月20日(木)
『ライトシップ』

WOWOWで観た、1985年のイエジー・スコリモフスキ監督作品。これが、何とも不思議な映画だった。

ライトシップとは灯台船のこと。灯台船とは読んで字のごとく、灯台の役を果たす船である。船上の鐘楼に灯台を設け、適当な土地がなかったり、水深が深すぎて灯台が設置できない場所に係留して、安全な航路を示す。その役割上、灯台船は自身が動いてはいけない。本作の舞台はそんな灯台船の一つである。

ある日、灯台船が故障したボートから漂流者を救助する。ところが彼らは武装した強盗犯で、灯台船は占拠されてしまう。

あらすじをこう書いてしまうと、アクション映画のように思える。安直なカタカナタイトルから察するに、配給会社もそういう売り方をしたかったのだろう。しかしそこは、粘着質な童貞映画『早春』で有名なスコリモフスキのこと、当然セガール映画のような展開にはならない。

彼らは強盗犯と言いながら、何をしてきたのか作中でほとんど説明されないし、海上で何をしていたのか、何を目的にしているのかもわからない。一応、海上の取引場所に向かっていたらしいのだが、強盗犯のリーダーは途中から、「灯台船を移動させる」ことに異様に執着するようになる。そのために、修理の終わった自分のボートをもやいを切って流してしまう。しかし灯台船の船長は、武器を向けて脅迫されても、頑なに船を動かすことを拒む。

一体この映画は何なのか?
ヒントは、強盗犯と船長の問答にある。
強盗犯は「鎖を切って自由になれ」とそそのかす。
船長はこれに、「船が自由に進めるのは、不動の灯台があるからだ」と返す。
これは、「荒野の聖者と誘惑する悪魔」のやりとりそのものだ。つまりこの映画は、自由と放恣、あるいは混沌と秩序にまつわる寓話なのである。
ここに、共産政権下のポーランドを逃れてきたスコリモフスキの心情を汲み取ることもできよう。

強盗犯のリーダーを演じるのは、名バイプレイヤーのロバート・デュヴァル。『ゴッドファーザー』シリーズなどで有名だが、知的でつかみ所のない悪役を楽しそうに演じている。
原作はドイツの作家ジークフリート・レンツの小説Das Feuerschiff。残念ながら邦訳はないらしい。

2014年3月13日(木)
『人狼』再見

古いアニメをブルーレイで観返してみよう企画。

○ 先日、三船敏郎唯一の監督作『五十万人の遺産』('63)について触れたが、『人狼』の作中にこんな看板が。



検索かけてみた限りでは、邦題に『五十万人』を含む映画はこれだけなのでまず間違いなく『五十万人の遺産』(少なくともこれがモデル)なのだが、理由がさっぱりわからない。
内容的に関連があるわけでもなし。一番考えられるのは、この場面を作画するのに用いた昭和30年代の資料写真に、この映画の看板が写っていたという可能性だろうか。

○ 伏が拳銃を隠していた本は、『トリスタンとイゾルデ』。

 

中世の有名な恋物語である。なんで今まで気づかなかった/確かめなかったんだろう。
伏がこの拳銃を持っていかなかったのは、「恋物語に秘められた力を行使しない」という選択をしたことを意味する。その力は、当然恋愛の成就に向けて行使されたはずだ。つまり物語があのような結末を迎えたのは、この選択が分岐点だったのである。

○ この作品で青空が映るのは、ラストシーンだけ。

○ つかこうへいの戯曲『飛龍伝』(機動隊員と活動家の女性の悲恋もの)との関連は、指摘されたことがあるんだろうか(蛇足だが、『蒼龍伝』てこれがモトネタだったのか・・・)。『トリスタンとイゾルデ』についてもそうだが、ネット内に『人狼』に関する記述はあまりに少ない。これほどの名作なのに、と思ったのだが、考えてみればもう15年近くも昔の作品だ。
ネット内の言説が消えてゆく時間の速さを思えば、しかたのないところか。



2014年3月11日(火)
最近の読書から
「根本的にはこのシナリオ(中略)に大いに時代錯誤を感ずるが、同監督としての最大の弱点は、この映画が主要登場人物だけで〈世の中〉を形成しているような印象を与えることである。背景としての現代社会はハリコ細工であって、彼等は少しも生々しい実社会との交渉を持たない」。

これはどこかのセカイ系批判やラノベ評でもなければ、トミノ監督のセリフでもない。小津安二郎の1935年作品『東京の宿』に対する朝日新聞の評である。(朝日新聞1935年11月22日『東京の宿』評)

今、『<家族>イメージの誕生 日本映画にみる〈ホームドラマ〉の形成』という本を読んでいる。日本映画界において、いつどのようにしてホームドラマというジャンルが成立し、それが現実の家族観にどんな影響を与えたかを論じた本である。
面白かった部分を一部抜粋。

小津安二郎の作品は、ある時期まで、総じて、特殊な階層の生活感情を描いたもの、あるいは実際の対象となった人々の生活を直視せず、情緒的詠嘆に終始したものと批判された。こうした批評は、ある時期まで、映画がどの程度リアリティをもち、共感を呼ぶかということにとって、映画がどの階層を描き、どのような生活状態を反映させているかが、決定的に重要であったことを示している。

小津安二郎の映画に対する批評の視点においても、〈ホームドラマ〉登場以前の、特定の特殊な階層の物語として家族の物語を考えるという枠組みから、〈ホームドラマ〉登場以後の、普通の家族の物語としてみていくという視点の変化を読みとることができるのである。

以下は、親が成人した子供たちの間をたらいまわしにされるという意味で、同様のテーマを扱った『戸田家の兄妹』と『東京物語』評。

「……何よりも富豪の未亡人が子供達の家を転々する事情に、……必然性なく、又子供達の母親に対する愛情の面が、殆ど感得されないのも不可解である。上流社会の腐敗を突くつもりならば、このぐうたらな人間共は映画の中でもっと罰せられねばならぬ」
   朝日新聞1941年3月1日『戸田家の兄妹』評

「先ず平凡な、そしてまあ幸福な夫婦といえるだろう。……ここまで来た間には、辛い時もあっただろうが、平凡な生活でわき目もふらずに来た事で二人ともまあ満足なことだろう。……医者の幸一夫婦も親と同じように平凡で、健気ではあるがハ気にとぼしい。……金もうけや地位を上げることには無関心な方がいいが、世の中の荒さに負けて、ついでに心得までぼんやりいゝ加減になってしまってはいけないだろう」
   読売新聞1953年11月8日阿部艶子『東京物語』評

坂本佳鶴恵『<家族>イメージの誕生 日本映画にみる〈ホームドラマ〉の形成』新曜社、1997年、254-257ページ。

まったく正反対の評価が下されている。
要するに、あるジャンルが形成されると、そのジャンルを評価する共通の約束事「コード」が社会の側に形成され、そのコードに則った評価がなされるようになる、という話。アニメやマンガやラノベはまさにそのコードの集積体であるわけで、私がしばしばやってる作中でプロらしく見えない、とか専門家をナメすぎ、といった批判はもしかするとまるっきり的外れなものであるかもしれない。

ちなみに、昭和12年生まれの私の母は『東京物語』を劇場公開時に観て、「両親を邪険にしてなんてひどい子だろう」と素直に思ったそうだ。私は90年代に初めて『東京物語』を観て、「予告もなしに押しかけてきて、いつまで滞在するか予定も知らせず食費も入れない親なんぞ、叩き出されて当然だ」と思った。
いかな名画も、時代を超えられない部分は確かにある。

2014年3月11日(火)
新房監督が『なのは』を語る

私は以前から、新房昭之監督のフィルモグラフィーの中に『魔法少女リリカルなのは』をどう位置づけるかということを考えよう、と唱えていた。
先日、全然別件で調べ物をしていたところ、新房監督自身が『なのは』に言及しているインタビューを見つけた。と言っても『化物語』のムックの話なのでもう常識だったかもしれないけど、一応メモしておく。以下長めに引用。

-最近のアニメは原作ものが多くて、どこのスタジオでもかなり原作を尊重しているんですが、その中でもシャフトと新房監督は際立っている感じがします。新房監督が原作に対して今のようなスタンスを取られるようになったのは、どういうきっかけからなんでしょうか?

新房監督 : 以前監督をした、『魔法少女リリカルなのは』というアニメからだと思いますね。この作品のストーリーはアニメオリジナルなんですが、脚本は原作者の都築真紀さんが書かれているんです。そういう意味で原作に非常に忠実な作品だと言えるでしょうね。この作品で都築さんは、最終話のひとつ前で最後の敵を倒し、最終話を各キャラクターの後日談として丸々使ったんですよ。当時は彼のやり方にピンとこなかったんですけど、彼の言うとおりにしたら、確かに反響があった。それで「これは彼の勝ちだ」と思うようになったんです。その辺になって「今までのセオリーは通用しない時代になったのかもしれないな」と凄く感じました。見ている人がそれを見たいんであれば、それで成立するんだと。
(中略)
作品のムードというのは原作に負うところが大きいんですよ。ムードが出せていないとファンはすぐ見抜いてしまう。ですから原作者だけが喜ぶものではなくて原作者とともにファンが喜ぶものを作ることを常に考えています。
(ゲーム原作のアニメ化にあたりゲーム会社の人から)「ゲームの内容はゲームでもうやっちゃったのでアニメオリジナルにしてほしい」と言われたんです。ただ、どう考えてもファンが見たいのはそのゲームの内容そのものなんですよね。そこのギャップを凄く感じて悩んでいたときに『リリカルなのは』をやったので、自分の考えていることは間違っていないと確信したんです。それと同時に、原作者と一緒にファンが見たいものを作らないと駄目なんだと思いました。

「西尾維新×新房昭之アニメ『化物語』放映直前対談」『アニメ化物語オフィシャルガイドブック』24ページ。
もう一件。
(『化物語』5話放映後にBD・DVD予約が激増して)

岩上敦宏(プロデューサー)「2話のラストでぐんと盛り上がって、第3話で真宵が出てきてさらに上に行き、5話のラストで人気に火がつく。一歩ずつ階段を上っているような印象がありました」

新房監督「その階段を上っていくような作品作りの手法は『魔法少女リリカルなのは』で覚えたんです。『なのは』の第1話は、主人公のなのはが変身したところで終わっているんですよ。普通は戦って勝って一段落したところで第1話が終わるものだと思っていたんですが。でも、原作の都築(真紀)さんは「この1話の見せ場は、変身なんです」と。実際に第1話が完成したあと、「ああ、今のアニメは見せ場を際立たせる作りがいいんだ」と痛感したんです。見せ場を多く入れすぎると、一番大切な見せ場がボケてしまう」

『アニメ化物語コンプリートガイドブック』46ページ。

私の言う「位置づけ」とは少し違う観点だけれど、監督本人にとっても『なのは』は転機となる作品だったようで、何となく嬉しい。

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