「根本的にはこのシナリオ(中略)に大いに時代錯誤を感ずるが、同監督としての最大の弱点は、この映画が主要登場人物だけで〈世の中〉を形成しているような印象を与えることである。背景としての現代社会はハリコ細工であって、彼等は少しも生々しい実社会との交渉を持たない」。
これはどこかのセカイ系批判やラノベ評でもなければ、トミノ監督のセリフでもない。小津安二郎の1935年作品『東京の宿』に対する朝日新聞の評である。(朝日新聞1935年11月22日『東京の宿』評)
今、『<家族>イメージの誕生 日本映画にみる〈ホームドラマ〉の形成』という本を読んでいる。日本映画界において、いつどのようにしてホームドラマというジャンルが成立し、それが現実の家族観にどんな影響を与えたかを論じた本である。
面白かった部分を一部抜粋。
小津安二郎の作品は、ある時期まで、総じて、特殊な階層の生活感情を描いたもの、あるいは実際の対象となった人々の生活を直視せず、情緒的詠嘆に終始したものと批判された。こうした批評は、ある時期まで、映画がどの程度リアリティをもち、共感を呼ぶかということにとって、映画がどの階層を描き、どのような生活状態を反映させているかが、決定的に重要であったことを示している。
小津安二郎の映画に対する批評の視点においても、〈ホームドラマ〉登場以前の、特定の特殊な階層の物語として家族の物語を考えるという枠組みから、〈ホームドラマ〉登場以後の、普通の家族の物語としてみていくという視点の変化を読みとることができるのである。
以下は、親が成人した子供たちの間をたらいまわしにされるという意味で、同様のテーマを扱った『戸田家の兄妹』と『東京物語』評。
「……何よりも富豪の未亡人が子供達の家を転々する事情に、……必然性なく、又子供達の母親に対する愛情の面が、殆ど感得されないのも不可解である。上流社会の腐敗を突くつもりならば、このぐうたらな人間共は映画の中でもっと罰せられねばならぬ」
朝日新聞1941年3月1日『戸田家の兄妹』評
「先ず平凡な、そしてまあ幸福な夫婦といえるだろう。……ここまで来た間には、辛い時もあっただろうが、平凡な生活でわき目もふらずに来た事で二人ともまあ満足なことだろう。……医者の幸一夫婦も親と同じように平凡で、健気ではあるがハ気にとぼしい。……金もうけや地位を上げることには無関心な方がいいが、世の中の荒さに負けて、ついでに心得までぼんやりいゝ加減になってしまってはいけないだろう」
読売新聞1953年11月8日阿部艶子『東京物語』評
坂本佳鶴恵『<家族>イメージの誕生 日本映画にみる〈ホームドラマ〉の形成』新曜社、1997年、254-257ページ。
まったく正反対の評価が下されている。
要するに、あるジャンルが形成されると、そのジャンルを評価する共通の約束事「コード」が社会の側に形成され、そのコードに則った評価がなされるようになる、という話。アニメやマンガやラノベはまさにそのコードの集積体であるわけで、私がしばしばやってる作中でプロらしく見えない、とか専門家をナメすぎ、といった批判はもしかするとまるっきり的外れなものであるかもしれない。
ちなみに、昭和12年生まれの私の母は『東京物語』を劇場公開時に観て、「両親を邪険にしてなんてひどい子だろう」と素直に思ったそうだ。私は90年代に初めて『東京物語』を観て、「予告もなしに押しかけてきて、いつまで滞在するか予定も知らせず食費も入れない親なんぞ、叩き出されて当然だ」と思った。
いかな名画も、時代を超えられない部分は確かにある。
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