加藤陽子『戦争の論理』(頸草書房、2005年)は、日露戦争から太平洋戦争までの歴史をたどり、いかにして日本人は戦争への道を(自らの意志で)選んでいったかを説いた本である。
論旨については異存はない。面白い本である。
ただちょっと気になったのがあとがき。ここで加藤は、キューバ危機の際、ケネディ大統領がバーバラ・タックマンの『八月の砲声』(第1次世界大戦勃発の過程を描いた歴史的名作)を引き合いに出して戦争回避を訴えた故事と、日本海軍軍令部総長の永野修身大将が、日米開戦を決定した御前会議で、大阪冬の陣の事例を例えたエピソードを対比させている。
そして、こう続ける。
「(永野が大阪冬の陣の例え話をしたのは)故事が講談や歴史小説などによって広く世上に流布されたものだったからである。日本においては、歴史書ではなく講談や歴史小説のインパクトが国の命運を左右しもする」
「外交政策などの決定にかかわる者は、現在の死活的に重要な問題を処理するときには過去からの類推を行ない、未来を予測する時には過去との対話を行なう。しかし、その際、類推され、想起され、依拠される歴史的事例が、講談や和歌というかたちでしか提供されないのは不自由なことなのではないだろうか。あるいは、この先、歴史小説や大河ドラマというかたちでしか提供されないのは不幸なことなのではないだろうか」
一見もっともらしいが、ちょっと待ってほしい。
まずこの対比は妥当だろうか?
ケネディは、自身も過去の政策決定を研究した論文を発表しピュリツァー賞を受賞している人物だ(ゴーストライター疑惑もあるらしいが)。
一方の永野は、このとき、この役職にこの人物がいたことが日本の不幸、と言っても過言ではない人物である。
これらを比較しただけで、日本を憂うるようなことを言っていいのだろうか?第一そのケネディにしてからが、キューバ危機の前年にはピッグズ湾事件という大失態を犯している。
第2に、洋の東西を問わず、ナショナル・ヒストリーと言えるほどに流布された歴史というのは、強い物語性を帯びているものではあるまいか。ワイアット・アープと聞いてアメリカ人の多くが思い浮かべるのは、本人ではなくヘンリー・フォンダかバート・ランカスターであろう。
第3に、これが一番重要だが、実はアメリカの歴代大統領は「現在の死活的に重要な問題を処理するときには過去からの類推を行ない、未来を予測」しては、失敗を繰り返しているのである。
「私が指摘したいのはただ、トルーマン政府部内の人々が、歴史から類推し、歴史のなかに類似性を見いだし、歴史の趨勢を予測し構築した準拠枠に依りながら、目前の問題を考えていたらしいということであり、しかも、そのために使われた歴史自体が実は偏狭な目で選び出されたもので、けっして慎重な調査や分析を受けた歴史ではなかったという事実なのである」
「一九五〇年の朝鮮戦争介入のようなおそらくは特異な例は別にして、(ヴェトナムの場合)歴史に依拠して議論したため他の方法による問題分析がおろそかにされたなどとは、けっして言えない。実のところまた、ケネディとジョンソンが、一九五〇年のトルーマンと同じように、あまりに性急な決断を下していたなどとは、とても非難できない。実際二人は、何ヶ月ものあいだ幕僚たちに注意深く問題を検討させ、しかも部下たちの中でも特に有能な人材を、その仕事に当てていたのである。しかし、ヴェトナムの決定に際して考慮された歴史的推論とは、よくても皮相としか言いようのない代物でしかなかった」
引用したのは、アーネスト・メイ『歴史の教訓』。新藤榮一訳、(岩波書店、2004年)75頁及び174頁。原著は1973年刊。太字は引用者による。この本は、アメリカの政策決定者が決断を下すとき、過去の歴史からどのような教訓を引き出し、その結果どう失敗したかを論証したもので、国際政治の世界の古典的名著とされる。加藤自身が、2009年の著書で引用しているくらいだ。
問題の文章はあくまで「あとがき」であって論証を必要とする本文ではないから反論するほどのものではないかもしれないが、ケネディと永野の対比だけから日本を批判してしまうのは、やはりいささか不用意な物言いのように思う。
なお、メイはこんなことを言っている。
「遺憾ながら私はまた、自分たちが比較的貧しいと民衆が考えている地球上の大部分の地域に、アメリカ経済がますます進出していくことから生ずる諸問題に対して、アメリカはただ一時しのぎの政策を今後も長く取り続けるものと予想する。それを遺憾と言うのも、私の見るところ彼ら民衆がアメリカ経済に対して持っている反発こそ、おそらく次の十年、ないしその次の十年間のいつかに、アメリカ外交政策の画期を作るさまざまな事件を生むことになるにちがいないと、予測するからにほかならない」 第6章「予測」より。254ページ。
911とイラク戦争を経た今読むと、なおさらに重い文章である。
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