更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2011年6月30日(木)
加藤陽子『戦争の論理』への疑問

加藤陽子『戦争の論理』(頸草書房、2005年)は、日露戦争から太平洋戦争までの歴史をたどり、いかにして日本人は戦争への道を(自らの意志で)選んでいったかを説いた本である。
論旨については異存はない。面白い本である。
ただちょっと気になったのがあとがき。ここで加藤は、キューバ危機の際、ケネディ大統領がバーバラ・タックマンの『八月の砲声』(第1次世界大戦勃発の過程を描いた歴史的名作)を引き合いに出して戦争回避を訴えた故事と、日本海軍軍令部総長の永野修身大将が、日米開戦を決定した御前会議で、大阪冬の陣の事例を例えたエピソードを対比させている。
そして、こう続ける。

「(永野が大阪冬の陣の例え話をしたのは)故事が講談や歴史小説などによって広く世上に流布されたものだったからである。日本においては、歴史書ではなく講談や歴史小説のインパクトが国の命運を左右しもする」

「外交政策などの決定にかかわる者は、現在の死活的に重要な問題を処理するときには過去からの類推を行ない、未来を予測する時には過去との対話を行なう。しかし、その際、類推され、想起され、依拠される歴史的事例が、講談や和歌というかたちでしか提供されないのは不自由なことなのではないだろうか。あるいは、この先、歴史小説や大河ドラマというかたちでしか提供されないのは不幸なことなのではないだろうか」


一見もっともらしいが、ちょっと待ってほしい。

まずこの対比は妥当だろうか?
ケネディは、自身も過去の政策決定を研究した論文を発表しピュリツァー賞を受賞している人物だ(ゴーストライター疑惑もあるらしいが)。
一方の永野は、このとき、この役職にこの人物がいたことが日本の不幸、と言っても過言ではない人物である。
これらを比較しただけで、日本を憂うるようなことを言っていいのだろうか?第一そのケネディにしてからが、キューバ危機の前年にはピッグズ湾事件という大失態を犯している。

第2に、洋の東西を問わず、ナショナル・ヒストリーと言えるほどに流布された歴史というのは、強い物語性を帯びているものではあるまいか。ワイアット・アープと聞いてアメリカ人の多くが思い浮かべるのは、本人ではなくヘンリー・フォンダかバート・ランカスターであろう。

第3に、これが一番重要だが、実はアメリカの歴代大統領は「現在の死活的に重要な問題を処理するときには過去からの類推を行ない、未来を予測」しては、失敗を繰り返しているのである。

「私が指摘したいのはただ、トルーマン政府部内の人々が、歴史から類推し、歴史のなかに類似性を見いだし、歴史の趨勢を予測し構築した準拠枠に依りながら、目前の問題を考えていたらしいということであり、しかも、そのために使われた歴史自体が実は偏狭な目で選び出されたもので、けっして慎重な調査や分析を受けた歴史ではなかったという事実なのである」

「一九五〇年の朝鮮戦争介入のようなおそらくは特異な例は別にして、(ヴェトナムの場合)歴史に依拠して議論したため他の方法による問題分析がおろそかにされたなどとは、けっして言えない。実のところまた、ケネディとジョンソンが、一九五〇年のトルーマンと同じように、あまりに性急な決断を下していたなどとは、とても非難できない。実際二人は、何ヶ月ものあいだ幕僚たちに注意深く問題を検討させ、しかも部下たちの中でも特に有能な人材を、その仕事に当てていたのである。しかし、ヴェトナムの決定に際して考慮された歴史的推論とは、よくても皮相としか言いようのない代物でしかなかった

引用したのは、アーネスト・メイ『歴史の教訓』。新藤榮一訳、(岩波書店、2004年)75頁及び174頁。原著は1973年刊。太字は引用者による。この本は、アメリカの政策決定者が決断を下すとき、過去の歴史からどのような教訓を引き出し、その結果どう失敗したかを論証したもので、国際政治の世界の古典的名著とされる。加藤自身が、2009年の著書で引用しているくらいだ。

問題の文章はあくまで「あとがき」であって論証を必要とする本文ではないから反論するほどのものではないかもしれないが、ケネディと永野の対比だけから日本を批判してしまうのは、やはりいささか不用意な物言いのように思う。


なお、メイはこんなことを言っている。

「遺憾ながら私はまた、自分たちが比較的貧しいと民衆が考えている地球上の大部分の地域に、アメリカ経済がますます進出していくことから生ずる諸問題に対して、アメリカはただ一時しのぎの政策を今後も長く取り続けるものと予想する。それを遺憾と言うのも、私の見るところ彼ら民衆がアメリカ経済に対して持っている反発こそ、おそらく次の十年、ないしその次の十年間のいつかに、アメリカ外交政策の画期を作るさまざまな事件を生むことになるにちがいないと、予測するからにほかならない」 第6章「予測」より。254ページ。


911とイラク戦争を経た今読むと、なおさらに重い文章である。


2011年6月28日(火)
『カサンドラ・クロス』

TVで鑑賞。『リバイアサン』の監督ジョージ・P・コスマトスの出世作。と言うより、唯一のヒット作と言うべきだろうか。

強い伝染性を持つ細菌を浴びた過激派が、ヨーロッパ大陸縦断列車へ逃れた。車内には伝染病が広まり、列車は1000人の乗客ごと秘密裏に隔離される。しかし機密の漏洩を恐れた軍は、老朽化したカサンドラ大鉄橋の崩落事故に見せかけて患者たちを抹殺しようとする。

という細菌パニック映画だということは予備知識として知っていたのだが、実際観てみたら驚いた。

これ、ホロコーストの恐怖を描いた映画なのだ。

作中、列車は乗客たちを逃がさないため窓に鉄格子が溶接される。消毒のためと称して、乗客たちの私物は没収される。脱走しようとする乗客には、射殺も辞さない。そして列車の行き先は、ポーランド。言うまでもなく、アウシュヴィッツの所在地である(ただし作中では架空の地名を使用)。

物語の中盤、ある間の抜けた理由であっけなく伝染病は終息してしまう。なぜか?

無実の罪で人知れず虐殺される人々がいる。
それを命令した人々がいる。
それを知りつつ口をつぐみ、目をふさいで見殺しにする人々がいる。
それこそが作者の描きたかったことだったからだ。

列車に乗り合わせた乗客に、リー・ストラスバーグ演じる老人がいる。セリフではっきりとは言わないが、彼は絶滅収容所からの生還者である。そこで妻子を亡くしており、断固としてポーランドの最終目的地へ行きたくないと訴える。彼は資産価値のある高級腕時計をたくさん所持しており、全財産を持ち歩いている。そしてそれを、隔離作業に携わる兵士に奪われてしまう。まさしく、あの時代に収容所に送られた人々のカリカチュアだ。実際、ストラスバーグ自身もユダヤ系である。

スピルバーグの『宇宙戦争』に、川を渡って避難しようとする群衆の中へ、唐突に火のついた列車が突入してくるシーンがある。これもホロコーストを連想させるシーンなのだ、という。動物のように列車に詰め込まれてどこか人里離れた場所へ送られるシチュエーションは、あの人類史上最悪の悪夢と深く結びついているのである。

ただし。さはさりながら、志の高い映画なら面白いかと言えばそうもいかないのが難しいところ。
全編ツッコミどころが多すぎて、意あって力足らず、というのが正直なところだろう。個人的には、P4クラスの危険な細菌を保管している部屋から、窓ガラス一枚割ったくらいで脱出できるという時点でがっくりきた。

以下余談。先日、コッポラの『ドラキュラ』を10数年ぶりに観直した。昔は気づかなかったが、これ、「文明(当時世界最大の都ロンドン)に対する辺境(marginal)の逆襲」がテーマだったんですな。
ドラキュラ伯爵の出身地は、欧州の田舎ことルーマニアのさらに片田舎トランシルバニアだが、西欧から遠い場所なら、別にユーゴスラビアでもウクライナでもよかったわけだ。
ロンドンから船で撤退した伯爵を追って列車で先回りする、というシーンがあるが、鉄道こそ近代文明の象徴だからである。

2011年6月27日(月)
『あの花』最終話(ネタバレ)

右脳が感涙のあまり機能不全なので、左脳の感想をメモ。

○ 登場人物が「泣きすぎる」ことがずっと気になっていた。私見だが、泣いたりわめいたりするのは登場人物ではなく観客であるべきだ。涙はいわば最終兵器であって、登場人物がむやみに涙を見せるのは下策である。
・・・・・・と思っていたのだが、最終話を観て納得。「泣くことのできないじんたん」を際立たせるための工夫だったんだ。

○ 「めんまの見せ方」にブレがない。徹頭徹尾、じんたんの主観で見せており、超平和バスターズの面々の視点に移らない。彼らの視点で見れば、例えば鍋が宙に浮いていたり、メモ帳にひとりでに字が書かれたりするはずだが、そういう安易な絵を見せない。
そのことによって最終話の、じんたんにもめんまの姿が見えなくなるシーンの衝撃(観客にはこれまでどおり見えているのに!)が最大に発揮される。
世の中には、先の展開を考えず勢いで進めていく創作姿勢もあるのだろうが、私はこういう最終回から逆算して理詰めで攻める作品の方が好きだ。

○ 後日談に時間をかけるタイプの作劇が好きだ。本作で気に入ったのが、ゆきあつとつるこのその後。
列車の通路を挟んで(断絶の暗示)座席にかけている二人。通路越しに(つるこの領域に踏み込んで)ポッキーを差し出すゆきあつ。そっぽを向いてしまうつるこ。その髪には、花模様のヘアピン(それも新品の)が。

わずかに変化した距離感と関係性を、セリフに頼ることなく絶妙に描いてみせている。

○ じんたんの母親がキーパーソン、というのは以前の予想にニアピンということで。結局めんまの母親の背景は明らかにされなかった。以前言ったことと矛盾するようだが、私はこれは好ましいことだと思う。出典を忘れてしまったけれども、アメリカのマンガだかアニメだかで、主人公の親友が車いすに乗っている、という設定があった。そしてそのことは、作中で何ら言及されない。車いすを使っている理由も描かれないし、展開上意味を持つわけでもない。ハンディキャップがあることなど、決して特別なことではないからだ。
同じように、髪や瞳の色が違う人が日常に溶け込んで自然に生活しているのが、成熟した社会というものだろう(注)。





注 少し話がそれるが、戦前の日本はれっきとした多民族国家だった。

「内地人口が9998万人、朝鮮が2299万人、台湾に525万人、樺太に33万5千人、関東州に170万人、そして南洋群島に10万5千人。関東州を含まないで合計1億260万人とある。うち大和民族は7360万人、朝鮮民族は2360万人、台湾の漢民族5百人(原文ママ)、高砂族9万人、平浦族6万人、南洋の本地人(ミクロネシア族)が5万人、 アイヌ人は北海道及び樺太を合わせて1万7千人、樺太本地人たるオロッコ、ニクブン等の種族は約400人である。」
荒木肇『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか 〜安全保障と技術の近代史〜』(出窓社、2010年)239頁 脚注35。

日本人が自らを『1億』と表現し始めたのは、戦時中の「進め1億火の玉だ」というスローガンを嚆矢とする、という指摘もある。単一民族説なんて、いたっていかがわしいものである。

2011年6月23日(木)
最近観た映画の話

久々に実写映画の話。

○ 『エレクション 死の報復』
WOWOWで鑑賞。ジョニー・トー監督の『エレクション』の正当な続編。犯罪組織の代表を決める選挙(election。erectionではない)をめぐる抗争を描いた前作は、日本でも高く評価されたのだが、この続編は日本未公開。
観たら理由がわかった。作中で、敵対するグループの人間を拉致し、でかいシェパードと一緒に犬舎に閉じ込めて延々と拷問する。そしてどうしても言うことを聞かないと見ると、殺してバラバラにして、機械でミンチにして犬(自主規制)るというとんでもないシーンがあるのだ。香港映画の面目躍如。笑っちゃったのがエンドクレジット。なんと撮影に使った犬舎への謝辞が出るのだ!いやいや、それ絶対、どんなシーンか細部説明せずに撮影したろ。

○ 『ザ・ファイター』
マーク・ウォルバーグを舎弟専門役者と言ったのは誰だったろう。柳下毅一郎だと思っていたのだが、改めて調べてみたら見当たらない。『スリー・キングス』でジョージ・クルーニーの舎弟をしていた頃からの連想だったと記憶している。その舎弟役一筋の演技歴を押さえてみると、『ザ・ファイター』の意義は明確だ。本作の主人公を演じるウォルバーグは、才能あるボクサーでありながら、かつての栄光にすがるヤク中の兄貴と、その兄貴を溺愛するマネージャー兼ママに翻弄されるダメ弟の役。その弟が、一念発起してついに兄貴の影から脱出する!さらば舎弟の日々!
・・・・・・と思いきや、アカデミーではそのジャンキー兄とモンスターママに賞をさらわれてしまった。どこまで行っても舎弟は舎弟なのであった。

○ 『キッズ・オールライト』
女優には2種類いる。
脱ぐ女優と脱がない女優だ。
脱ぐ女優はさらに3種類に大別される。
@ 成り上がったら脱がなくなった女優
A 脱いでも成り上がれなかった女優
そして、
B 成り上がっても脱ぎまくる女優
である。
@の代表はシャロン・ストーン。Aは、・・・・・・まあ星の数ほどいると思うが、マデリン・ストーと片岡礼子を挙げておこう。特に後者は、『北京原人』で「映画史上もっとも報われないヌード」を披露してしまい、涙を禁じ得ない。

言うまでもなく貴重な存在なのがBだ。トム・クルーズを喰って成り上がってもまだ脱ぐペネロペ・クルスとか、還暦過ぎても脱ぐドヌーブ様とか。そして『キッズ・オールライト』のジュリアン・ムーアもその一人である。かつては『ことの終わり』で濃厚なラブシーンを演じ、50歳を超えた本作でもまだ脱いでいる(チラ見せだけど)。
ムーアはレズビアンの熟年カップルを演じ、精子バンクを利用して産んだ子どもと、その精子パパが顔を合わせたことから始まる騒動をユーモアと愛情を込めて描いた佳作。レズカップルと言っても、医者のアネット・ベニング(老けメイクと二の腕の太さが恐い)が外で稼ぎ、ムーアはほぼ専業主婦。そして思春期の息子がゲイではないかと心配するあたりは爆笑。
ただ、結論として提示される家族像はひどく常識的。パパ(役)とママ(役)がいて、同居していて、子どもがいて。そういう意味では、意外に保守的な映画だ。

センス・オブ・ワンダーな家族像と言えば、例えば坂東眞砂子『善魂宿』とか。
あるいはラジカルにして哀切きわまりない家族論を提示した山本直樹『ありがとう』とか(もう前世紀の作品だ!)。

  

それと昔から不思議なのだが、なんでアメリカ映画は、激しいセックスというと判で押したように立ったままやるのかね。人ごとながら、腰にキたりしないのか心配になる。『キック・アス』の主人公も、ヒーローになったとたんにやってましたね。わかりやすいマッチョリズムの記号なんだろうけど。本作のように、監督自身がレズビアンという映画でも(あるいはそれ故に?)こんなステレオタイプな表現をしてしまうあたりに、根の深さを感じる。

   

2011年6月21日(火)
昭和11年の血液型占い

以前もとりあげた『陸軍主計団記事』に、またもヒットが。
『陸軍主計団記事』とは、日本陸軍経理部の機関誌。経理部というのは、今で言う調達や会計、被服、糧食、施設などの面倒を見る部門である。とかく精神主義的な日本陸軍のなかで、実際に物品の取得を手がける経理部はあくまで現実的である。なにしろ観念論で腹はふくれない。いち早くテイラーの科学的管理法を紹介する記事を載せたりしているのだが、中にはこんなのも。

「職工障害型研究の一端」 三等主計 上坂齊弥(昭和11年3月、313号)

第三回全国産業安全大会に於て発表せる、兵庫県工場課内災害型研究特別委員会の研究報告による災害型に付て、其の一部概要を述べんとす。
同研究報告に依れば、傷害型を大別して次の四部に分つ。
一 血液型によるもの    最大傷害型を〇型とす
二 骨相学上よりするもの          K型とす
三 智能上よりするもの           智能低きもの
四 意志気質上よりするもの        進攻型とす

んで、われわれにもなじみ深い血液型については、「川崎造船所製鍛工場のもっとも危険率の高い工場を選んで調査した結果、3年間で職工5000名中4300名の災害者を出した」。
「そのうち6回以上の受傷記録を持つ465名につき調査したところ、
A型 197名 42.4%
O型 137名 29.5%
B型  87名 18.7%
AB型 44名 9.5%
の結果を得た」。

そりゃ日本人の平均分布じゃないのか?と思ったら、
「九州地方はA型(感情型)多く、東北人はO型(意志型)多き等地方により異り、一律に職工の災害率を決定し得ず」。
おお、そうだったのか。
さらに災害頻度を細かく分類してみると、
「O型のものは災害頻度高きに従ひて増加し、A型はO型と全く正反対の状態を示し、B型及びAB型は不定形を示せり」。
というわけなので、O型の皆さんは災害に気をつけましょう。

一応、事故防止のための真面目な研究成果なんだけど、「3年間で5000名中4300名の災害者」というのが、すでに異常な多さなんじゃないかと思わざるを得ません。ま、産業革命の過程の話ということで。

なお気質型は気質検査法により4つに大別され、
1 運動型・・・・・・多血質(陽気)
2 進攻型・・・・・・胆汁質(短気)
3 思慮型・・・・・・神経質(陰気)
4 不定型・・・・・・粘液質(平気)
となる。気質検査法とやらがいかなる検査かは不明。

ついでだが、日本海軍はパイロットの適性検査に骨相学を取り入れていたそうな(あくまで参考意見として、だが)。

2011年6月20日(月)
生協のさくらさん


  防衛省に生協があってもいいじゃないか

  公務員だもの

・・・・・・と相田みつをが言ったかどうかは知らないが、防衛省生協という組織は実在する。
そして生協があるからには、マスコットキャラだっている。

そのマスコットキャラであるところの生協さくらさんが、異常に可愛いのだ。

 



上段左から右へ、陸・海・空のそれぞれ冬服姿。
実のところ、デビューは昨年暮れで一部ではとっくに話題になっていたのだが、この際だからプッシュしておく。

それにしても、ピクルス王子とパセリちゃんの時代と比べると、隔世の感だねえ。

2011年6月14日(火)
双尾翼

○ 劇場版『とある飛空士への追憶』に対する疑問。

オフィシャルサイトで映像が公開されているのだけれど。

以前にも、下駄履きの水上機であの巨大なフロートをどうやって収納するのだろうとささいな疑問を呈したのだが、予告編を観てなおさら謎が深まった。

だって、単発機に双尾翼なんだもの!

ヒコーキ好きの方には同意して頂けると思うのだが、双尾翼というのは普通、爆撃機や輸送機など大型機に用いられるものだ。垂直尾翼の面積を増やして方向安定を強化し、かつ推力軸線から舵面まで距離を取ることでモーメントが大きくなり、舵の効きを良くする効果がある。反面、機体の中心線から離れた位置に重量物がくっつくことになるので、動きが鈍重になる。

要するに、空中戦なんかができる軽快な飛行機に見えないのだ。単発で双尾翼と言ったら、私はこれくらいしか思い当たらない。→IMG.pdf へのリンク (リンク先PDF。『航空情報』2000年1月号より。 私が知らないだけで、探せばもっとあるかも知れないが)

たぶん、そういう現実にはなさそうな違和感を狙ったデザインだろうとは思うのだが。思えば、私がアニメを観るようになったのは『王立宇宙軍』の先尾翼機のカッコ良さに魅せられたのがきっかけだった。先尾翼機というのは現実には少数の実験機があるだけで実用化されなかったのだが、『王立』世界のヒコーキは現実をはるかに超越してカッコ良くも美しかった。フィクションなればこそ、そういう要素は大事なのでは。

○ 思いつきの小ネタ。

私は、押井作品や新房作品でときどき見られる、「人の顔を正面から捉えるレイアウト」が好きだ。もう少し正確には、「正面から捉えるのを恐れないレイアウト」とでも言うか。そこでふいに思いついたのが、いつぞや話題にした鼻筋問題。近年のアニメキャラは、正面顔では鼻筋を描かなくなったというあれだ。

もしかして、そもそも昔のアニメはあまり正面顔を描かなかったのではないだろうか?

顔を斜めから捉えることの利点は、鼻筋を描くことで立体感を与えやすい、ということにある。その極端な例が、鼻は横顔、瞳は正面顔を組み合わせて描いてしまうエジプト様式だ。
アニメが、作劇の都合で正面顔を描かざるを得なくなったとき、鼻をどう描くか、という問題が生じた。試行錯誤の結果(過程をすっ飛ばすが)、いっそ描かなくてもいい、という解答にたどり着いた。・・・・・・というのが真相かも知れない。

ただの思いつきだし強く主張する気もないが、話のタネにメモっておく。

2011年6月13日(月)
最近の勉強から

ちょっとメモ。

オストワルド『化学の学校 上』(岩波文庫、1952年)18-19頁より。

生徒 たとえ、ある物質の性質をすべて知ったところで、たゞ−いわば−その外郭を知るのみです。その内部の本質にはいって行くことはできません。
先生 君は性質にもいろいろあることを覚えていますか?ところでどんな性質がありましたか?
生徒 昨日お話になったことですか?性質には不変のものと可変のものとあります。
先生 そして物質の識別には何れが役に立ちますか?
生徒 不変のものが。
先生 そうです。不変の性質は物質から除き去ることはできません。それがなくなれば物質もなくなります。この性質こそ物質の本質となるものです。
生徒 それはその性質に過ぎませんね。私の考えているのはすべての性質の根底に在るものです。
先生 君のいう本質とは、すべての性質を物質から取り去ったと考えたときに残るものにちがいない。それでは一塊の砂糖からすべての性質、すなわち色や形や硬さや重さや味など取り去ったと考えてごらんなさい、何が残りますか?
生徒 よく分りません。
先生 何物も残りません。何故なら性質によって初めてそこに何か物があることが知れるのです。もしも何ら性質がなければ、そこには、言葉に上すべきものは、何物もないのです。



もう一件。アラン・ブロック『対比列伝 ヒトラーとスターリン(第2巻)』鈴木主税訳、(草思社、2003年)388頁。


  陸軍の要塞査察官のフェルスター将軍−ヒトラーに罵られた当の人物である−は、のちに次のような鋭い批判をしている。

総統は最大級の問題とごく瑣末な問題には関心があったが、中間のことはまったく念頭になかった。そして、重大な決定事項のほとんどは、この中間の範疇に属しているということを、総統は見過ごしていたのである。


それぞれ全然別の話題なんだけれど、一見表面的に見える部分に本質がある、という話。

2011年6月10日(金)
『あの花』7、8話

mixiから少し加筆して転載。

放送前から
楽しみにしていたこの作品だが、期待に違わぬ素晴らしい出来。

8話は物語上大きな前進があったが、転機は7話にある。これまで、めんまが意図的に現実世界に干渉する−つまり飲み食いしたり、蒸しパンを作ったりするのは、じんたんと二人きりのときに限られていた。

すなわち、画面にはこう映ってるけれど実はすべてじんたんの妄想かも知れない、という含みを残していた。慎重に表現してるなあ、と感心しつつ観ていたのだが、7話の工事現場の照明を動かすシーンで、初めて第三者の前で現実に影響を及ぼすのですね。
これが伏線になって8話に至る、と。

この作品は、ミステリの文脈で評価すべき作品だろう。少しずつ「あの日本当は何があったか」を明らかにしつつ、新たな謎を提示していく巧みな情報の出し入れの手際にぞくぞくする。
最近、『GOSICK』の惨状を見てアニメで上質なミステリ(語弊のある言い方だが、『薔薇の名前』とか『私家版』とか『十二人の怒れる男』とか、みたいな意味で)を作ることはできないのだろうか?などということを考えていたので、なおさらに嬉しい。
このスタッフで米澤穂信作品とか作ったら、いい線行くんじゃなかろうか。

ところで、間の抜けたことに8話を見てようやく気づいたのだが、めんまの母親はガイジンさんなんですな(注)。1話ですでに表札が映ってたのに。スペルからするとロシア系か、と思うが。
めんまの髪と瞳の色はお母さん譲り。少しばかり、想像をたくましくさせて頂く。めんまの母にとって、外見も言葉も文化も慣習も異なる異国の地で、自分の容姿を受け継いだ娘がどれほど愛おしかったか、その娘を喪ったことがどれほどの痛手だったか、察するにあまりある。
だから、髪も瞳も色が違う弟は、決してその代わりにはならない。
幽霊のめんまが味わう疎外感−じんたん以外には声が届かない−は、もしかしたらかつて母親がこの国で味わったものなのかも知れない。じんたんも母と死別していることを考えると、母との関係は今後の展開に結構重要なのではなかろうか。

それはそうと、ちょっと虚を突かれたのが、めんまの銀髪と青い瞳がいわゆる日本人のものではなかった、という設定。なにせアニメは緑の瞳やらピンクの髪が普通に存在するメディアだから、何の疑問も持たずに受容してしまっていた。改めて考えてみると、じんたんたちの髪や瞳は、確かにその辺の日本人のものとしてあり得る色彩だ。
めんまの母親のことにしても、外国人の表現といえば「日本語が不自由」という先入観がこちらにあった。気づかぬうちにステレオタイプに毒されている自分が、いささかショック。


注 もちろん日本に定住した2世3世ということはあり得るが、それではわざわざそういう設定にした意味が弱くなりそうだ−つまり、めんまの特徴ある外見の根拠、というだけではもったいない−と思う。

2011年6月8日(水)
『まどマギ』最終話(少し修正)

世間に遅れること1ヶ月、ようやく観終えた。なるほど。

理論的に突き詰められた、とても美しいまとめ方だったと思う。
が。
私の愛読しているブログで、「こうしたルールブレイカー的なやり方は、いわば反則なのではないか?」という疑問を呈していた

私の感想としても、これに近い。ただ理由は少し違っていて、「ゲームマスターを打倒し、ゲームのルールを書き換えてしまう」というやり方自体は、至って理にかなっていると思う。むしろそれこそがクライマックスの醍醐味というものだ。ゲームに勝ったって何も変わらない。ゲームの外へ脱出するのがただひとつの正解、「たったひとつの冴えたやりかた」だ。
私が気になるのは、そのために、まどかが時空を超越した神に等しい存在になってしまうという点。「果てしなくドラゴンを追う者は、自らもドラゴンとなる」という古い警句がある。
ドラゴンと戦うものは、あくまで人間として戦い抜くべきではないか?というのが、私のささやかな疑問だ。そういう意味では、『グレンラガン』の熱い単純さの方が好みだった(銀河系規模まで巨大化したグレンラガンだが、最終的にアンチスパイラルを倒したのは人間サイズのラガンだったことを想起されたい)。

それはそれとして、本作の素晴らしいのは、ループ構造にちゃんと意味があるという点だ。

実はこれに合わせて、先に『恋はデジャ・ブ』('93)を観てみた。以前アメリカ映画特電で話題にされて以来、気になっていたのだ。

読み取れるテーマはいろいろあるだろうが、ここで示されている価値観のひとつは、「同じ毎日の繰り返しのようであっても、それを生かすも殺すも心がけ次第」ということだ。
最初は私欲を満たすためにループを利用していた主人公は、やがてそれに退屈し絶望するが、自殺を試みても果たせない。
しかし、人のために尽くし、人を愛することで、繰り返される毎日に意義を見出していく。とりわけ素晴らしいのは、音楽や美術や文学が人生を豊かにするもの、とストレートに描かれていることだろう。なにしろループしても知識や経験はそのまま持ち越せるのだから、ろくに読書の時間も取れない社会人にはうらやましい限りだ。

『まどマギ』においては、まどかを救うためにほむらが延々と繰り返したループは、まどかを最強の魔女に育ててしまうが、最終的にそれが逆転のカギになる。ほむらの戦いは、彼女自身の願いを超えた形で、ささやかに報われるのだ。

蛇足だけど、古今東西時間ループものってこんなにあるんですから。
ナントカのひとつ覚えで「美少女ゲームの影響が」って口走るのやめようね。

ところで、私は年来の新房昭之監督のファンなのだが、以前から考えていたことがある。それは、監督のフィルモグラフィーの中に、『魔法少女リリカルなのは』をどう位置づけるか、ということだ。
ほとんど知られていない(と思う)が、最初のTVシリーズは新房作品である。同じ年に趣味性全開の『コゼットの肖像』を手がけていることを考えると、信じがたい話ではある。『なのは』にはいわゆる新房色−書き割りのような背景とか、鮮やかな色彩感とか、作画によるズームなどがあまり見られないことから察するに、雇われ監督に徹していたのかも知れない。

ただ新房監督のフィルモグラフィーには、一貫してバトルアクションものの系譜がある。

『宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』('99)→『THE SOULTAKER 魂狩』('01)→『コゼットの肖像』『なのは』('04)→『化物語』('09)→『まどマギ』('11)といった具合だ。『化物語』は美少女ゲームのフォーマットと思われているきらいがあるが、あれはれっきとしたヒーローものである。アニメ化されてないエピソードで恐縮だが、「つきひフェニックス」で妹のため戦いに赴く阿良々木くんのカッコ良さを見よ!
女の子に助けられてばかりじゃないかって? 間違えてはいけない。我が身を顧みず女の子を救おうとするオトコノコだからこそ、女の子に救われる価値があるのだ。
話がそれた。つまりは、新房監督の代表作が『ぱにぽに』でギャグを得意とする作家、という認識には異を唱えたいのだ。

さてそこで、『なのは』→『まどマギ』というラインを考えると、もうひとつ別の側面が見える。「魔法少女ものに新機軸を持ち込む作家」である。
『なのは』に関しては至高回路さんが詳細な分析をされているので、以下は受け売り。

『なのは』の新しさは、「魔法の国から来たお姫様」でも、「魔法のアイテムによって変身できるようになった普通の女の子」でもなく、「元からあった魔法の才能を開花させた女の子」を主人公にした点にある。『なのは』が延々と続編を作り続けられるのは、この構造による。言い換えると、「魔法少女であり続ける」物語なのだ。ついでに言えば、これは『奥さまは魔法少女』が果敢に挑戦して玉砕したテーマである。
では、『まどマギ』は?
もう言うまでもあるまい、「魔法少女になる=人間でなくなるとはどういうことか」を問う物語だった。それでも人間か、と問われたほむらが言ったではないか−「もちろん、違うわ」と。

人間でなくなってまでかなえたい願い、救いたい人たち。
今の平和、今の幸福、今の自由、それらすべてが年端もいかない少女たちの犠牲の上にあるとしたら、われわれは何を思い、何をなすべきなのか。問われているのは、それを娯楽作品として、感動的な物語として消費するわれわれ自身の倫理でもあるだろう。
物語のラストカット、何かに立ちはだかるようにこちらに背を向けて立つ魔法少女たち。
アニメは「背中で語らせる」のが苦手なメディアだという。だがあのカットには、そんな通説を、彼女たちを襲う過酷な運命ともども、吹き飛ばすだけのパワーがあった。弱いんだよ、こういうの。







最後に、ひたすらどうでもいいけど言わずにいられないツッコミをひとつ。クレオパトラが自決したのは39歳の時

せっかくいい話で締めたのに台無しだよ!

2011年6月6日(月)
新海誠監督のティーチイン

5月12日、キネカ大森にて、『星を追う子ども』公開記念の『秒速5センチメートル』上映とティーチインが行われた。下はその詳細なまとめ記事。

http://www.hoshi-o-kodomo.jp/report_01.php

「『ほしのこえ』、『雲のむこう』、『秒速5センチメートル』って、ずっと同じテーマを作品の中で考え続けてきたんですね。今までも何となく喪失云々みたい な言い方で、お茶を濁して言ってきましたけど、実ははっきりとやりたいことがひとつあって、それは“ロマンチックラブ”を否定する作品を作りたいとずっと思っていたんですね。どういうことかと言いますと、“ロマンチックラブ”というのは社会学の言葉で、誰か一人の決まった運命の相手と、人生でめぐり会って その人と恋をして結婚して一生幸せに過ごすっていう、社会学のイデオロギーなんです。それって、近代家族の構成とも相性がいいし、アニメや漫画の中でも繰 り返し用いられるモチーフで
(中略)
でも現実世界はもう少し複雑で、場合によっては残酷で豊かなものであると思うんですよね。必ずしも“ロマンチックラブ”の成就だけが人生の幸せではないと。それをアニメーションでまっすぐ描くようなタイプの作品を作りたいと考えていたんですよ。」



むしろ5年前にこの記事を書いた自分を褒めてやりたい!

2011年6月6日(月)
『赤い影』 DVDの監督コメンタリ

ニコラス・ローグ監督の1973年作品『赤い影』を観た。

作品そのものについては、町山センセのポッドキャストを。

時間軸を大胆に入れ替え、断片的に情報を提示していくという意味では、『マルホランド・ドライブ』もこの作品の影響下にあるのだろうな。あまりの面白さ・怖さに、私にしては珍しく、監督のオーディオコメンタリを聞きながら最初から観返してしまった。

その中から、興味深い発言をいくつかメモ。以下、「 」内太字は監督の発言だが、あくまで大意であり、DVDに収録された発言どおりではない。

「子役は幻想と現実の区別に敏感」
逆じゃないの?と思ったら、
「大人は、少々矛盾があっても許してくれるが、子どもは幻想の中の矛盾を見逃さない」
なるほど。高畑勲が、「嘘であるほど強固なリアリティが必要」と言うのと同じ意味かな。

「無声映画時代のカメラは手回し式で軽かったのだが、トーキーになってカメラが重くなり、手持ち撮影が減少した」
そうだったのか!手持ちカメラ全盛は、デジタル化の進んだ近年の現象かと思ってた。

「映画はトーキーになって以降、映像で語らせることがなくなった。最近はセリフに頼りすぎる。観客もセリフばかり気にして、映像を読み解こうとしなくなった」
劇場クレしんの『アッパレ!戦国大合戦』には、廉姫が夜の庭先に何かの気配を感じ、外を見てみると、庭木から花がぽたりと落ちる、というシーンがある。うろ覚えなのだが、原恵一監督はこのシーンを、敬愛する杉浦日向子の『百日紅』へのオマージュとして撮った、というインタビューを読んだ記憶がある。落ちる花は、もちろん死の暗示なのだが、最近の観客は、こういう「言外の意味」をまったく読み取ることができず、花が落ちたら「花が落ちた」という以上のことが理解できないんだそうだ(この部分は原監督の発言だったかどうかは失念した。どうぞ誤解のないように)。映像的アスペルガー、とでも呼びたい。

「配役は、自然に決まるものだ。自分の場合、極端にうまいかヘタかのどちらかを選ぶ。ヘタならヘタで、それが良い。(『赤い影』のドナルド・サザーランドとジュリー・クリスティの主役コンビのように)この人しかいない!というのが自然に決まるのが一番いいのだが」

「本作はデュ・モーリアの中編小説を原作としているが、娘の死因などかなり改編した。媒体が違えば内容が異なるのは当然。原作のテーマとエッセンスを抽出し、独自の表現に置き換えるのが映画化というもの。映画を観たデュ・モーリア自身から手紙をもらったが、気にいってくれたようだった」


2011年6月1日(水)
IAEAの調査報告

大事なことなので、メモしておく。以下『 』内は引用。太赤字は引用者による。


『「津波災害を過小評価」=調査団、報告書要旨を提出―福島第1原発事故でIAEA
時事通信 6月1日(水)13時9分配信
 東京電力福島第1原発事故で、来日中の国際原子力機関(IAEA)の調査団は1日、「日本の原発が津波災害を過小評価していた」などとする事故報告書の要旨をまとめ、政府に提出した。
 報告書は、福島第1原発が地震直後に運転を停止できたものの、14メートルを超える津波でほぼ全ての非常用電源を失ったことが事故の要因と認定。同原発では困難な状況の下、懸命の作業でベストの対応が取られたと評価した
 一方で、日本の原発が津波災害を過小評価してきたと指摘。原発を運転する電力会社などが全ての自然災害のリスクについて、適切に防御策を講じるべきだとした。
 さらに、原子力規制行政のあり方にも言及。経済産業省原子力安全・保安院と原子力安全委員会による規制についても、各機関の独立性担保と役割の明確化を進めるべきだと提言した。』


『「津波の危険を過小評価」IAEA調査団が報告書概要を発表
CNN.co.jp 6月1日(水)18時33分配信
東京(CNN) 福島第一原子力発電所の事故を調査していた国際原子力機関(IAEA)の専門家チームが1日、報告書の概要を日本政府に提出した。津波が原発に及ぼす危険が過小評価されていたと指摘する一方、事故発生後の日本の対応を「模範的」と評価している。

調査団はマイク・ウェイトマン英原子力施設検査局(NII)長官を団長に、世界12カ国からの専門家で構成。報告書は、同原発が最大5.7メートルの津波を想定して設計されていたのに対し、実際には推定14メートル以上の津波が押し寄せたと指摘した。これによって電源が失われて冷却不能となり、核燃料の損傷や一連の爆発が起きたとしている。

ウェイトマン氏は声明で、団員らは津波による被害の実態に圧倒される一方で、現場作業員らの献身的な対応に深く感銘を受けていると述べた。調査団はまた、原発周辺住民の避難などで政府が示した対応を高く評価している

報告書の最終版は、ウィーンのIAEA本部で今月開かれる原子力安全関連の閣僚級会合で発表される。』


問題の調査報告書の全文を読んでみないと確かなことは言えないが、国内のマスコミ各社の報道と読み比べてみると、同じニュースなのに随分ニュアンスが違うのがわかるはず。

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