更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2014年2月25日(火)
『バーニング・ブライト』

表題は、女子大生が虎と戦うB級映画。
いやつまり、甲斐性なしの継父がサファリパークを開くと言い出して購入した虎が、超大型ハリケーンに備えて窓や扉を封鎖された家に放たれて、という話。

こういうワンシチュエーションスリラーは大好きなのだが、他に観たいものも多いので普段はわざわざ観ようとは思わない。今回レンタルしてまで観たのは、私の巡回先で本作に好対照な評価をしていて、興味を惹かれたからだ。

ひとつは、絶賛。
もうひとつは、とことん笑いものにしている。


私の感想は、全面的に前者に同意する。
もうとにかく、虎が怖えェェェェェェェ!
俺はもう一生、インドはもちろんサファリパークにも行かない!

先のブログでも触れられているが、主人公には自閉症の弟がいる。この弟が、ルーティンの習慣に固執して、毎日同じ時刻に同じ場所で、同じメニュー(コップに注ぐ牛乳の量も決まっている)で食事する。ちょっとでも違っていると我慢できない。食事中は必ず同じビデオ-家族がみんなそろって幸せだった頃に撮影したホームビデオを観る。身体に触られるのをいやがり、無理に触れるとパニックを起こして大声を出すので、無理矢理押さえつけておくこともできない。この辺、『レインマン』で普及したステレオタイプな描写と言えなくもないが、作品の瑕疵とまでは言えないだろう。
このとてつもないハンデを背負いつつ、家の中にあるもので虎に対抗するのだが、その「家の中にあるもの」に普通にリボルバーが含まれていたりするのがさすがアメリカ。
ただ本作に節度があるのは、そのリボルバーが事態を解決する決め手にならないところ。これは私の単なる感想で調べたわけではないのだが、近年のアメリカ映画は暴力の行使に抑制的な傾向があるように思う。『キック・アス』なんかはむしろ例外であって、だからこそヒットしたのではないか。

閑話休題。
主人公は終盤で、足手まといの弟を見捨てて自分一人なら逃げられる、という状況に至る。そこで彼女がどうするのか、が大きな山場なのだが、そこで件のホームビデオが効いてくる。
低予算の小品ながら、心憎いばかりに計算された演出である。

低予算だから、無茶な設定だからと言って、最初から揶揄的な態度では観るべきところ、評価するべきポイントが見えなくなる。
本作のような無名の映画を評価するときこそ、観客の側の見識が問われるということがよく解った。

ちなみに、虎の映画で制作会社がライオンズ・ゲートというのができすぎ。これで配給がマンダレーなら完璧だったのだが。

2014年2月19日(水)
旧作アニメのブルーレイ化

『ノワール』のブルーレイボックスを観ている。
実は昨年、大きな仕事が一段落したので、自分へのご褒美にプロジェクターを新調した。ビクターのDLA-X75R。ソニーからの買い換えなのだが、さすがは4Kプロジェクターで、違いが歴然としている。黒が沈む!白がまぶしい!赤がにじまない!と観るたびに感動が新たになる。
『ノワール』も、DVD時代と全然違う。オープニングでもう、色彩のあまりの美しさに目を奪われた。こんなにも複雑で豊かな色合いだったとは。
解説によると、この作品は35ミリフィルムで制作されてたんですな。私は決してフィルム原理主義者ではないのだが、「解像度も発色も、銀塩フィルムに優るデバイスは存在しない」という主張にはある程度の理があると認めざるを得ない。

以下、雑感。オープニングの原画に、『ガンダムUC』のメカ作画で有名な玄馬宣彦の名が。演出助手に、今をときめく川面真也。やっぱり真下耕一の門下だったのか。
1話は、ミレイユと霧香の会話だけで進行している。
3話「暗殺遊戯」で、女殺し屋がミレイユを頭上から狙うシーンがある。DVDではよく解らなかったのだが、ミレイユが殺し屋に気づくのは、霧香が撃ったサブマシンガンのマズルフラッシュで照らされたため。

もう一件。調べ物の都合で、劇場版『パトレイバー2』を観返した。これも、プロジェクター新調後は初めて。これまた、以前は見えなかったものが見える。特に、都内に展開した自衛隊を点描するシーン。



よく見ると、画面右奥にも、戦車と兵士がいる。



歩道橋の上を、通行人が歩いている(ちょうどバルカン砲の銃身の下あたり)。



街灯の上にオナガが留まっている。

極めつけがこれ。南雲隊長が決起の前夜、柘植に会いに行くシーン。



埠頭で車を止めて南雲隊長が車外を見ると、雪とは明らかに違う赤い光が点滅しながら上下動している(下図の白円内)。



これおそらく、タバコの火なのですね。ボートの上で南雲隊長を待っていた男は、南雲の姿を見てタバコを消す。一方の南雲はそれを見て、念のため拳銃を取り出したというわけ。


というわけで、フィルム制作の旧作アニメをブルーレイ化することには大いに意義がある(リマスターがまともなら)。

2014年2月13日(木)
『五十万人の遺産』

スカパー!の日本映画専門チャンネルで『五十万人の遺産』を観た。世界のミフネこと三船敏郎の、唯一の監督作品。太平洋戦争中、山下奉文将軍がフィリピンに残したと言われる「山下将軍の財宝」を題材にしたアクション映画である。
本作の中では、財宝とは表面に「福」の字を彫り込んだ金貨であり、「マルフク」と呼ばれている。その金貨は当時の日本国民が供出した金を素材にしているという設定。
三船演じる主人公は、大戦末期フィリピン山中にマルフクを隠し、戦後復員して平和な生活を送っている。そのことをかぎつけた一味に脅迫され、マルフクを掘り出すためフィリピンへ赴く。
現地人と結婚して生き延びていた元日本兵の助けなどがあって、三船らはマルフクを探し当てるが、これは彼の地で命を落とした日本軍将兵50万人の遺産だから、彼らの遺族に渡るようにと奮闘する、というお話。

2014年現在の視点で見た、ちとつまらん感想を述べてしまうが、現地人に対する加害責任の意識がまるっきりないのにちょっと驚く。1944年から45年にかけての日米のフィリピン攻防戦で、日本軍の死者は約34万人。その多くは、山中に逃れた後の餓死病死だった。しかし巻き込まれたフィリピン人の総死者数は、100万人を超える。特に悲惨だったのはマニラの市街戦で、非武装都市宣言すればいいものを、海軍陸戦隊はマニラ市放棄を拒否して市内に立てこもり、米軍に徹底抗戦した。結果としてマニラ市は廃墟と化し、市民の犠牲者は10万人と言われる。

この映画の制作は1963年。池田内閣の所得倍増計画が1960年。敗戦から立ち直った日本が経済成長を開始して、まず戦死した同胞に思いをはせることができるようになった。さらに時間が経過し、豊かになって、ようやく日本が周辺諸国に与えた被害に考えが及ぶようになった、ということだろう。つまり、自虐史観と言い東京裁判史観と言うが、実はそれらが確立したのは意外に最近なのだ。

映画の中で、財宝を守っていた元日本兵は現地妻を捨てて国へ帰ろうとし、その妻の手で殺される。三船らは、最初から事態を監視していた某国の諜報機関に、最後の最後で殺されマルフクをかっさらわれる。作中で明言されないが、某国とはどう見てもアメリカである。

アジア人の迷惑は顧みず、自分の被害は言いつのり、アメリカ人には一方的に搾取される。これが昭和30年代の日本人の自己認識である。この映画には当時の日本人の身勝手、甘え、被害者意識、ひがみ及びルサンチマンが詰まっている。そういう意味でのみ面白い。

最近たまたま読んでいた本に、『「BC級裁判」を読む』がある。新たに公開された戦犯裁判の記録をもとに、B級及びC級裁判の代表的な事例を紹介する本。BC級裁判は連合軍占領地各地で拙速に行われ、復讐裁判の性格が強く、確かな証拠もなしに処刑された者も多かったと言われる。私も漠然とそう思っていたのだが、本書によれば、裁かれた事件そのものはほぼ事実だという。
捕虜の虐待や非戦闘員の虐殺等々、読んでいると、つくづく胸が悪くなる。事件自体もさることながら、戦後の証拠隠滅(斬首した捕虜の死体をわざわざ掘り出して火葬し直したりしている)や責任のなすり合いなどは情けないの一語だ。何よりも呆れるのは、日本軍は大東亜共栄圏だの八紘一宇だのと口にしながら、その実アジア人への惻隠の情など一片もなかったということである。言い訳のしようのないことであろう。
ただ以下の文章に、わずかな救いを覚える。

戦犯裁判で追及された事案は日本人として目を背けたくなるものばかりであるが、残念ながら多くは事実である。けれども、それをもって「日本人は好戦的で残虐な国民」と決めつけることはできない。
なぜなら、連合国側にも日本と同様か、それを上回る残虐な戦争犯罪が見られるからだ。日本を裁いた手も汚れていたのだ。だからといって、「戦争犯罪はお互いさまであり、日本だけが断罪されたのは敗者であったためで、BC級裁判は不公平な裁判だった」という論に与するつもりはない。
むしろ、日本と連合国の戦争犯罪の類似性にこそ目を向けるべきで、戦争犯罪が一つの国家、民族の特殊な性質によって生じるのではなく、人類普遍の負の側面であることを知らなければならない。
BC級裁判は戦争が人間から理性を奪い、残酷な「破壊装置」に変える実例を示した人類共通のテキストである。国際社会は戦犯裁判を復讐に終わらせず、教訓・教材として人類普遍のルールを作りあげようと努力してきた。
その成果の一つがジェノサイド条約ほかの新たな国際法であり、国際刑事裁判所の設置である。まだまだ実効性に乏しい面もあるが、人類はBC級裁判から確実に学んでいるのだ。

半藤一利、秦郁彦、保阪正康、井上亮『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞出版社、2010年、384頁。


2014年2月3日(月)
聯合艦隊司令長官山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』('11)

何となく更新をサボってしまっていたが、生きてますよ。アニメも観てます。

冬休みに、スカパー!の日本映画専門チャンネルで(『カムイの剣』のHD放送目当てで急遽加入した)東宝特撮戦争映画の特集があったので、未見の作品をまとめて録画してしばらくそればっかり観ていた。これがまあどれもこれも同工異曲で。新解釈があるでもなし歴史研究の成果が生かされるでもなし、セリフ回しすら同じ場合も珍しくない。さすがの円谷特撮も今の眼で観れば厳しいし、使い回しのフィルムも想像以上に多い。
そんなわけで、WOWOWで放送した表題作もあまり期待せずに観た。

ところが、これが実に重厚な良い映画だった。
まず役者陣が良い。山本五十六を演じる役所広司を筆頭に、柄本明、柳葉敏郎、香川照之、伊武雅刀、吉田栄作、椎名桔平、若手からは玉木宏と、今の日本映画界で芝居のできる役者を総ざらえした観がある。意外なハマリ役だったのが、ミッドウェイ海戦の闘将・山口多聞少将を演じた阿部寛。長身でスタイルが良いだけに、軍服姿が似合うこと。演技力とは別の次元の、スターのオーラとはこういうものかと感じざるを得ない。本人にとっても、転機になる仕事なのではないか。

新解釈というのではないが、従来見られなかった描写もそこここにある。例えば、山本と折り合いの悪かった機動部隊司令官の南雲中将が、軍令部総長から密かに別命を受けていたという描写。史実ではあるまいが、物語としては説得力があって面白い。
その南雲がミッドウェイ海戦で大敗し、山本の司令部を訪れるシーンがまた良い。山本は何も言わず茶漬けをふるまい、南雲は泣きながら茶漬けをかき込む。南雲を演じる中原丈雄がいい味を出している。近年の映画では珍しくなったセリフに頼らない演出がすばらしい。
こんなシーンもある。これもミッドウェイ海戦で、直掩戦闘機が敵空母に体当たりを敢行する。この戦闘機パイロットは、味方空母群の上空直掩にいながら敵機の奇襲を阻止できなかったのである。その無力感と自責の念が、炎上する味方空母を見つめる表情だけで見事に表現されている。演じているのは、いつも泣きそうな顔の河原健二(だと思う)。

CGも見応えがある。私は取りたてて特撮ファンというわけではないが、操演や着ぐるみに敬意なり愛着はある。しかし現在の目で見て苦しいのもまた事実であって、CG活用で優れた戦争映画ができるなら、それはそれでいいことだ。
やるせないのは、これが東宝ではなく東映作品だということである。東宝の伝統はどこへ行ってしまったのやら。

2014年1月9日(木)
『ヴァルヴレイヴ』完結

私は以前から川面真也監督のファンであることを公言しているのだが、今の今まで、『のんのんびより』の監督をしていることを知らなかった。美少女日常系作品という外見だけで、スルーしてしまっていたのだ。そんな自分を深く恥じて、しばらく自主的に謹慎していた-まあそれは冗談だが。

気を取り直して本年もよろしくお願いします。
それにつけても、見事に完結したものだ。1話から欠かさず観続けてきて本当に良かった。

本作のテーマは、「信じること」「話し合うこと」。
それですべてが必ず解決するわけではないが、信じ合い、言葉を交わさなければ何も始まらない。
あまりにも青臭く、楽観的で、幼稚で愚直で、それゆえに貴いその真理を、『ヴァルヴレイヴ』はそれこそ愚直に描ききった。

本作はショーコとサキのダブルヒロイン構成を採っているが、クライマックスにいたってテーマを担う重要な役割を果たしたのは意外にも、教師の七海リオンだった。
私の記憶によれば、彼女はここまで作中で何もしていない。作中の役割はおろか、教師とは名ばかり(設定上は教育実習生だが)で非常事態にうろたえるだけの役立たずキャラだった。にもかかわらず、なぜ彼女はこの土壇場でこんな重要な役割を果たしたのか?

それは彼女が、大人だからである。職業人としては未熟であっても、子供を諭し、導き、見本を示すべき立場だったからである。
この役は、大人を演じている子供のショーコでも、人間をやめてしまったサキでもなく、普通の人間の、平凡な大人が果たさなければならなかった。作者のその判断を、私はとても健全なものだと思う。
あれだけフラグを立てまくっていたサキがサブヒロインに甘んじた理由も、テーマに即して考えれば理解できる。カミツキとなったサキは、ハルトと同じ境遇だったからだ。異質な者同士が理解し合おうとすることが作品のテーマだから、サキは構造的にテーマから遠ざかってしまったわけである。

唯一、人ではないカミツキが人の道理を説いていいものかどうかという問題があると思ったのだが、観返してみたら慎重にその点をクリアしていた。
まずカミツキは超人的な治癒力を持つが、決して不死ではないということ。限界を超えればちゃんと死ぬ。
そして、不老でもない。作中、アバンタイトルで断片的に200年後のサキの姿が描かれるが、彼女はそこで「年を取らないのは外見だけで、心は年を取る」と語っているのだ(なお、彼女が「教母さま」と呼ばれているのに注意)。
厳しいことを言えば、現生人類と十分に異なるカミツキには、また異質な倫理が芽生えてもよさそう(例えば、木城ゆきと『銃夢 Last Order』は、不老不死が当然になったため子供を作るのが害悪視されるようになった世界を描いている)だが、本作にそこまで要求する必要もあるまい。

松尾衡作品として考えても、テーマに一貫性が見られる。以前指摘したが、松尾作品はしばしば人形をモチーフとする。正確に言えば、「人形のような生への嫌悪」である。人形のような生とは、誰とも交わらず、誰とも触れあわない、そんな生だ。もしそんな生だったら、呼吸していても、食事をしたとしても、生きていると言えるか?松尾作品はそう問いかける。
こうした松尾の作家性からして、ロボットアニメとは相性がいいのではないかと想像していたのだが、どうやら的中したようだ。

信じ合うこと。
話し合うこと。
それこそが、人間を人間たらしめる。
ラストシーンでそう問いかけているのが、魂を宿した人形たるヴァルヴレイヴ。コクピットを飾る写真の数々が、今はルーンの欠片となったハルトの記憶であろうことが切ない。

エピローグにおいて、革命後の動乱が、おそらくはおびただしい流血があったろうその時代が、いとも淡泊に描写される理由も明らかであろう。

すなわち、世界を変えるのは暴力ではないからである。

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