更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2012年12月19日(水)
『中二病』11話

始まったときにはこんな重い話になるとは思ってなかったが、面白い。
最終話前に、駆け込みでメモ書き。
私は最初から丹生谷派だったのだが、こんな良いお姉さんキャラになるとは思ってなかった。なんか丹生谷に批判的な意見を眼にするんだけど、勇太と六花をくっつけたのは丹生谷だが(注)、六花が眼帯を外したのは2人がくっついた後、十花さんが海外脱出し、ママのお弁当攻撃があって、勇太が眼帯を外すよう促したのだ、という順番を忘れている。丹生谷自身が、10話のラストで「富樫君があんなことするなんてビックリした」と言っている。
凸森に対しても、昔の自分を見る思いなんだろうな、と思う。
注:正確にはくっつけようとして盛大に空振りしていたが。その、恋愛を応援しようとする丹生谷が参照しているのが乙女幻想丸出しなマニュアル本、というのもツッコミ所。

その凸森が、先に「クラスメートとはうまくやっている」という描写があったが、これは11話の伏線だろう。クラスでハブにされ、六花には見離され、では救いがなさ過ぎるという判断が働いたのだと思う。
これも凸森だけが中学生だ、という点が忘れられがち。
つまり凸森にしてみれば、「ちょっと背伸びして高校生のお姉さんと遊んでいる」感覚だったのよ。ところがそのお姉さんはオトコができて遊んでくれなくなってしまった、というのが現状。

もう一点、くみん先輩の役回りがよく解らない、というのは私も気になっていた。11話で、橋の下で勇太と食事をして別れた後、六花はくみん先輩と出会うが、このシーンが不自然なちょん切られ方をする。ここで彼女が何を言ったのか、が最終話で明かされるだろう(もしそうでなかったら、本当にシリーズ構成が何も考えてない)。
私の予想だと、彼女は「ヘンな性癖を抱えながらそこそこうまく世間と付き合っている人生の先達」の役なのだと思う。

話の落としどころも見えた気がする。
外れたら恥ずかしいから書かないが、11話で丹生谷が何をしていたか(正確には「されていたか」)がポイント。そういえばこれも前の方で伏線があった!

某所で、『中二病』と『氷菓』の類似性を指摘した文章を眼にした。だが11話まで見てくると、本作は『氷菓』よりもむしろ『ハルヒ』に近い作品に思える。『氷菓』の奉太郎は、「普通」を指向しているが実際は天才的な推理力の持ち主だ。一方『ハルヒ』のキョン君は、非の打ち所のない凡人でありながら(あるいはそれゆえに)最強無敵のハルヒを制御できる、その一点において主人公足りうる人物だ。勇太が近いのはこちらだろう。
本作が独特なのは、勇太の側に、六花を日常側に引っ張り出すのにためらいや罪悪感があることだ。時間がないので今はここまでに止めるが、本作は『ハルヒ』の、もっと言えば『消失』のテーマの変奏だと思う。
凸森の描写を見ているとよく解るが、この作品において「中二病」というのは単なるガジェットであって、その内実に意味はない。つまり「中二病の定義が間違っている」とか「本当の中二病はあんなんじゃない」といった批判はすべて的外れだ。本作が描いているのは、「自分は人と違っているのではないか」という・・・・・・赤面しつつ書いてしまうが、つまり思春期の不安やら自意識やらであって、まさに王道の青春ものなのだ。

以下雑感。
小指を触れあわせるシーンは、キスシーンのメタファー(また言っちゃったよ)。
なまじ本当のキスよりもぞくっとした。第1話での、勇太と六花の最初の接触が「足の裏」だったことを考えると面白い。

『氷菓』での、有り体に言って目障りだったオーバーアクトが、すっかり抑制されている。その手の作画は妄想バトルシーンに集中しているようで、「中二なアニメーターには中二なシーンをやらせとけ」という悪意が大変好ましい。

11話は京アニ作品には珍しく、絵コンテと演出が別人。絵コンテ:小川太一、演出:河浪栄作。

2012年12月14日(金)
雑記

○『SAO』22・23話
へー、ここでバラしちゃうんだ。本当にこの作品の作劇って変わってるというか一筋縄でいかない。そして絵コンテが、
「ややこしい恋愛模様」要員の長井龍雪。
「力ずくで障害突破」要員の荒木哲郎。
これぞ適材適所。つーか2人とも、こんなとこでバイトしていて大丈夫か。


○高畑監督の新作『かぐや姫の物語』。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121213-00000011-eiga-movi

まーた里帰りの話。ついに地上には帰る場所がなくなったと。
解りやすい作家だねえ。


○『好きって言いなよ』。
6話で脱落。
早々にペアリング完了しちゃってこれからどうするのかと思ったら、なに「次々に現れる恋のライバル」とバトル展開?
つきあいきれんわ。
この作品、「恋する女子はきれいだ」と思うか「釣った魚にエサは要らない」と思うかで評価が大きく分かれる気がする。
そもそも、主人公めいの魅力はどんなところだったか。声をかけてくる男に、ためらいなく後ろ回し蹴りをくらわすところである。
それがなくなっためいは、単に自分に自信がなくてオドオドウジウジしたウザい女に過ぎない。
いつも不思議に思うのだが、何でアニメに限らずフィクションは、「孤独を愛する人間が孤独でいる自由」を認めないのだろうか。
一人でいる奴がトラウマ持ちで淋しくて不幸だなんて誰が決めた。
普通になってスクールカーストに組み込まれることが、そんなに幸せか?

第一、「黙っていても女がわさわさ寄ってくる美形男子高校生」なんてファンタジー過ぎる。この銀河にいねえよそんな生き物は。
ろくに知りもしない女子をいきなし名前で呼び捨てにするのもあり得ん。ついでだが、ヤっちゃうと呼び捨てになるというお約束って大嫌い。肉体関係があろうがあるまいが、さん付けならさん付けでいいじゃん。

ところで、「孤独でいる自由」の件、以前書いた「プロフェッショナルの不在」と「『守る』というフレーズの乱発」とも関係がある気がする。この話はまた稿を改めて。


2012年12月9日(日)
高雄統子の「エンドレスエイト」演出

一つ新発見があったので、追記

2012年12月2日(日)
再び『ガンダムUC』1話

冒頭のクシャトリヤのアクションシーンを観直した。くどいようだが原作は未読。
初見のときから気になっていたのが、このときの対戦相手である特務仕様ジェガンである。
と言うのは、この機体のパイロットは顔が映らないのだ。その代わり繰り返し映るのが、スティックやコンソールの操作をする手元。

 




この一連のアクションシーンは、実によく考えられている。
3機のジェガンは、特務仕様機がクシャトリヤを牽制し、その間に通常型2機でガランシェールを追おうとする。マリーダはファンネルで通常型ジェガンを瞬殺し、特務機に対峙する。
このとき画面に映るのは正面から捉えたマリーダのバイザー。特務機パイロットの描写と対照的だ。



特務機は散弾の連射でクシャトリヤを攻撃。クシャトリヤはファンネルを向かわせるが、特務機は撃ち尽くしたランチャー類を排除して加速し、ファンネルの危険界を一気に突破する。よく見ると、腕に1発ファンネルのビームが命中しているのだが、増加装甲でしのいでいる。ファンネル1機のビームは低出力なので、耐えられるのだ(そのために、通常型ジェガンの撃墜シーンで「ファンネルのビームは何発も命中しないと致命傷にならない」ことを手間をかけて見せている)。

間合いを詰めた特務機はビームサーベルを抜いて接近戦を挑む(「こう近ければオールレンジ攻撃はできまい!」)。クシャトリヤもそれに応じ、ひとしきり斬り結ぶ。

特務機は一度離れて、突きに転じる。
実はこの記事を起こそうと思ったのは、これに気づいたからなのだが、太陽の位置に注目してもらいたい。



 






特務機のパイロットは、太陽を背にした瞬間を狙って突き込んできているのだ。

いつの時代も、太陽を背にするのは空中戦の鉄則である。
しかしマリーダは、それを剣でなくスラスターの噴射で受けるという思いがけない策に出る。特務機はとっさにセンサーをかばってしまい、がら空きになった胴を抜かれることになる(ついでに言えば、以前同人誌原稿に書いた話だが、ビームサーベルによる損傷では爆発しないということもここで表現されている)。

短時間だが、こういう考え抜かれた殺陣は見ていて飽きない。

この特務機パイロットは、おそらくニュータイプではない。サイコミュを駆使するマリーダについては、カメラが表情を捉えるのに対し、特務機パイロットはあくまで手元、すなわち肉体による機体操作しか映さない。血のにじむような修練の結果会得した、超人的な技量であったろう。そして太陽の位置に関するとっさの判断から解る、空間認識力。
このわずかなアクションシーンには、ノーマルタイプの極限と限界、それをたやすく凌駕する強化人間、そしてニュータイプへの可能性、という『ガンダム』を構成する基本要素が詰まっているのである。


追記
後になって気がついたが、この戦いはつまり「オールドタイプの極限」と、「偽物のニュータイプ」の戦いなのである。真のニュータイプ同士なら、戦わなくてすむかもしれないという希望を暗示しているのだ。

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