昨年来の劇場アニメのラッシュは喜ばしいことなのだが、ちょっと首を傾げることがある。
評判を見ていて、「テレビの延長みたい」という感想が散見されることだ。私には、これがどういう意味なのかよくわからないのだ(テレビ番組の方を見ないせいかもしれないが)。
その根拠らしきものを列挙してみると、こんなのが挙げられる。
@ 動きが少ない
A 見せ場がない
B ディテールの描き込みが少ない
C バストショットや顔のアップが多い
D ビスタサイズの画角を生かしていない
E レイアウトが悪い
映画らしさというのは、そんなことで決まるのだろうか?ざっと以下のような反論を思いつく。
@ クリス・マルケルの中編映画『ラ・ジュテ』はスチル写真の積み重ねに音楽とモノローグを付けただけの映画である。ところがただワンカットだけ、「動く」シーンがある。不注意な人間は見落としてしまうような動きだが、それ故に観客に強烈なインパクトを与える。
肝心なのは動くことではない。その動きが、いかに映画に寄与するかである。
A @とも関連するが、アニメで「見せ場がない」というのはアクションがないというのと概ね等しい(と思う)。映画には『十二人の怒れる男』を筆頭に、室内劇も会話劇もいくらでもある。『裏窓』がそうだし、最近でも、主人公がずっと電話ボックスにいる『フォーン・ブース』とか、甚だしきは主人公もカメラもずっと棺桶の中!という『リミット』という映画がある。しかもこれが面白いのだ。
もちろん、仮にアニメでそういうことをやって面白いか、という問いを立てるのは有効だが、少なくとも「映画らしさの要件」ではないとは言える。
ちなみに、マンガ家の榎本俊二はアフタヌーン連載中のコラムで、「セリフ・アクション」という造語を提案している。研ぎ澄まされたセリフのやりとりそのものが面白い映画のことだ(もちろんケンカしているという意味ではない)。
B そういえば『時かけ』の影なし作画も一部で批判されましたっけね。
C 私のオールタイムベスト『羊たちの沈黙』はアップショットの非常に多い映画だし、カサヴェテスの『フェイシズ』なんかタイトルどおり本当に顔のアップだらけである。映画の父グリフィスがクローズアップという技法を「発明」したとき、演劇しか知らない批評家たちは「役者は全身で演技しているのに写さないなんてもったいない」と批判したそうだ。
D 1960年代以前の古い映画は、4対3のスタンダードサイズが珍しくない。なんたってstandard(標準)と言うくらいだ。それが次第に横長に進化して、シネスコサイズ、さらにはシネラマ上映という奇形を生み、最終的におおむねビスタに落ち着いた。「映画と言えばビスタ」となったのはそんなに昔ではない。逆にテレビも16対9ばかりになれば、それに合わせた画面作りになるだろう。
E 極めて「映画的な」アニメ作りをする山文彦監督は、こんなことを言っている。
「わりと僕、構図のゆるい絵が好きなんで、もうもの凄く決まった構図でこれ5ミリフレームずらしちゃったら違って来ちゃうなっていうような絵を作る人が。僕ああいうのダメなんですよ。
(中略)
なんか緩くって、それで一瞬じゃなくて前後の時間が写し取られるっていう緩い絵の方が好きなんで」
『機動警察パトレイバーWXV』DVD特典絵コンテ集所載のインタビューより。
山監督が好むこういう構図を作るには、「レイアウトマンにもの凄い技量が要求される」のだそうだ。
ついでだが、昨年は劇場アニメの上映時間の長さが話題になることも多かった。
しかし例えば、劇場公開時の『エイリアン2』も137分あった。130分くらいで大作呼ばわりするのはいかがなものか。歴史的には3時間を超える映画も別に珍しくない。逆に短い方では、ジョニー・トーの『ザ・ミッション 非情の掟』は81分だし、フランソワ・オゾンの短編映画『X2000』は8分しかない。もともと映画の上映時間が2時間前後なのは、単に「尻が痛くなるから」という理由に過ぎない。
何をもって映画とするかは、そう簡単ではないのだ。
・・・などということを考えていたのだが、『そらのおとしもの』も劇場版ができるというし、もうどうでもいいや。
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