更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2012年2月29日(水)
『XENOGLOSSIA』を観るべき10の理由に少しばかり同意しかねる3つのポイント

この記事を読んで感じたことをこっそりと。

『アイドルマスターXENOGLOSSIA』が、『XENOGLOSSIA』でない方のアイマスなんぞに比べてはるかに優れた作品である、ということは全面的に同意する。

なのだが、その理由にはいくつか同意しかねる点がある。
まずひとつは、2番「idolは『人格らしきもの』がある」という点。私の感覚だと、あれは「人格らしきもの」ではなく明確に人格があるものとして描写されていると感じられる。まあ「人格とは何か?」という議論になると主張を貫ききれる自信はないが。それでも搭乗者を選り好みしたり放り出したり、という描写を見ればやはり人語を話さないだけで人格があると見るべきではないだろうか。「人格らしきもの」というのは、例えば今川版『ジャイアントロボ』などにふさわしい表現に思える。
で、私見だが巨大ロボットは搭乗者の身体機能を拡張するものである。だから、ロボットは搭乗者の存在によって生命を吹き込まれる。これがロボットアニメの王道であって、搭乗型ロボットに人格があるという設定は、あくまでロボットアニメ史における一変種、進化の傍流だと思うのだ。もちろんそれゆえに面白く、価値ある作品だとは思うが、ロボットアニメ史に新たな可能性を拓いたとまでは言えないのではないか。現にその後、類似作品が誕生したとは聞かない。
ちなみに『ZENOGLOSSIA』以降のロボット(の出てくる)アニメと言えば、『マクロスFRONTIER』『装甲騎兵ボトムズ ペールゼン・ファイルズ』『アスラクライン』『真マジンガー 衝撃!Z編』『RIDE BACK』『VIPER'S CREED』『鉄のラインバレル』『機動戦士ガンダム00』『亡念のザムド』『コードギアス』『鉄人28号 白昼の残月』あたり。
もっとも私は、例えば『勇者シリーズ』などを観ていないので、議論の余地は大いにあるが。

ついでに言うと、「ロボットと人間の恋愛」というテーゼそのものは、SFではすでに数多く前例があるように思う。『火の鳥 復活編』とかがすぐ思い当たる。
私としては、もっとも心躍る-「ぐっとくる」のは、物言わぬ機械が、あたかも命ある者のごとく振る舞う瞬間である。
『ファントム無頼』において、空中分解寸前の680号機が神田と栗原を射出したように。
『機動戦士ガンダム第08MS小隊』において、最後の闘いに赴くノリス大佐の呼びかけに応じて歩き出すグフのように。(注)

2つ目。4番『XENOGLOSSIA』に長井龍雪監督の作家性が「最もよく」表れているとは、本当に言えるのか。長井監督の作家性とは那辺にあるのかは、個別に検証が必要だろう。仮に「アニメオリジナル作品だから」作家性が濃厚に出ているというのであれば、それはやや根拠薄弱、早計ではあるまいか。私は『XENOGLOSSIA』の企画の経緯については何も知らないので、特に監督の思い入れの強い作品であるとか、監督が発案した企画だとかいう可能性もないではないが。
もうひとつ。私は長井監督の最高傑作は『とらドラ!』であると断言するが、アニメ版『とらドラ!』が面白いのは優れたアニメ表現だからであって、原作が面白いから「だけ」が理由ではない。アニメ化に当たってどのような脚色や、映像ならではの表現がなされているかは、私自身も幾度か指摘したことがある。優れた原作が優れたアニメになるとは限らないなどと、今さら言うまでもない。『フルメタル・パニック!』と『TSR』、『ガンスリンガー・ガール』の1期と2期あたりを挙げてみれば十分だろう。

3つ目。5番・脚本家については、花田十輝、吉野弘幸、植竹須美男と来ては、私の趣味で言えば苦笑するしかないメンツだ。

蛇足1。『XENOGLOSSIA』を観て不満だった点が、クライマックスの課長の描写。自分でコンソール操作しちゃってるでしょ。それはないよ。そんなこと部下にやらせりゃいい。管理職には管理職の、職能があり戦場があり、見せ場があるべきだ。
蛇足2。『銀装騎攻オーディアン』て面白いか?一昨年だったかレンタルで観てみたけど、「この頃のテレビアニメはまだおっぱい描けたんだなあ」という感想しか残らんかった(←アニオタらしい感想)。



注:まさか誤解する人はいないと思うが一応書いておく。もちろん、音声認識で起動しただけだ、ということは分かっている。しかしあの場面のグフは明らかに、主に付き随う戦士として演出されており、それが男の涙腺を直撃するのである。

2012年2月27日(月)
ミュージカルとアニメ

毎月恒例の藤津亮太氏の「アニメ映画を読む」。今月は趣向を変えて『ノートルダムの鐘』だったのだが、講座の席上でふと思ったこと。

かつて、ミュージカルという表現形式があった。かねがね疑問に思っていたのだが、実写映画では壊滅してしまったミュージカルという表現が、なぜアニメでは生き残ったのだろう。
最近でも『シカゴ』や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』があるではないか-という見方もあろうが、アステアやジーン・ケリーの全盛期とは比べるべくもない。
それに近年のミュージカルは、往年の作品と一つ大きな違いがある。ダンスシーンが主人公の夢や妄想、という設定になっていることだ。かつてのミュージカルは、日常会話の延長に歌や踊りがあった。映画に蔓延する自然主義的リアリズムは、もはやそういう演出を許さなくなってしまった。
そう考えると、いまだアニメでそれが通用する理由も解る。アニメの画面はもともと書き割りの非現実空間だからだ。それ故にミュージカルと、特にディズニー調の作品は親和性が高いのだ-と思ったら、それもまだ疑問が残る。
舞台劇では、昔ながらのミュージカルが現役だという点である。
アニメがもともと非現実的だからミュージカルが可能だというなら、生身の人間が目の前で演じている演劇でミュージカルができるのは、不思議な話である。

少し考えてみたら、分かったような気がする。舞台は、「見立て」が強く作用する空間だからだ。白いシーツを敷けば雪原。赤いライトを当てれば夕焼け。
舞台上と観客の間に、これは何に見立てるかという了解が取れているから、いきなり歌ったり踊ったりという非現実空間にたやすくジャンプできるというわけだ。
小学生のころ、学校行事の一環で演劇を観に行ったことがある。タイトルは忘れたが(注)、作中雪原の場面が出てきた。舞台上に白い布を敷き詰めて雪に見立てているのだが、演技に熱が入るあまり役者さんが引っかけて、下の板面が見えてしまったのですね。その瞬間客席がざわめいたのをよく覚えている。あれは非現実の裂け目そのものだった。さあどうする!と別の意味で舞台に注目する悪ガキども。役者さんたちはさすがプロだけあって、慌てず騒がず動きの中で自然に布を元に戻し、滞りなく演目は終了した。

ひるがえって見ると、映画とは何と不自由なジャンルであることか。いちいちリンクは張らないが、先日、中島哲也の『告白』をこっぴどく批判するブログを見かけた。『告白』のスローモーションその他の画面は、ただのCMフィルムのようなものだそうだ。ブログ主によると、真の映画とはワンシーンワンカットすべてが考え抜かれて意味があるんだと。
まあ私も『告白』のスローモーションの乱れ撃ちはあまり感心しないが、そこまで酷評する映画でもない。それに映画って、そんな堅苦しいもんじゃないよ。『ラドン』のラストシーンがたまたまピアノ線が切れたために撮れたという話は有名だし、今やオスカー常連のデビッド・フィンチャーだって元CM屋である。

たまたま今年のアカデミー作品賞は、『アーティスト』と『ヒューゴの不思議な発明』、映画の起源に迫る作品が争うことになった。
私は、信条として「昔はよかった」とは口が裂けても言わないが、映画自身には、もっと自由でおおらかでいいかげんだったあの頃を懐かしむ気持ちがあるのかも知れない。



(注)確か「馬蘭花」だったと思うのだが、今調べたら中国でアニメ化されてた。

2012年2月20日(月)
最近の映画とか

mixiから加筆転載。

○ 『J.エドガー』
前評判どおり、大変チャーミングなゲイ映画。
イーストウッド映画としては、『ミリオンダラー・ベイビー』の変奏だろう。作中のフーバーとトルソンの関係は、『ミリオンダラー・ベイビー』のイーストウッドとモーガン・フリーマンの関係にそっくり。
むしろ一番不可解な人物として描かれているのは、50年近くもフーバーの個人秘書を務めたヘレンの方。今回イーストウッドの興味は、彼女の方には向いていないのだが、もう女の心中を推し量るのは疲れたのかも知れない。
パンフに載ってたエピソード。フーバーとトルソンが喧嘩するシーンを演出するとき、 イーストウッドが、スタント・コーディネーターのバディ・ヴァン・ホーンといきなり殴り合いを始めて、ビビる役者連に「こんな感じで」と指導したそうな。ヴァン・ホーンは、『ローハイド』以来のイーストウッドの盟友。心温まるエピソードである。

○ キューブリックの『ロリータ』
WOWOWで初めて観たのだが、これコメディ映画だったんだ。
キューブリックらしい冷徹な撮り方でマルクス兄弟みたいなドタバタをやってるのが、妙におかしい。軽く調べると、原作者のナボコフ自身が「これは喜劇だ」と言ってるそうだから、正しい解釈だということになる。本作の脚本もナボコフが書いているのだが、‘77年まで生きてたなんて知らんかった。
ジェームズ・メイスンの駄目親父っぷりと、ピーター・セラーズのウザさが見物。特にセラーズは、ハンバート教授でなくても殺したくなる。

○ 『モーレツ宇宙海賊』
展開が遅いのは別にいいのだが(『まどマギ』みたいに最終回で海賊になるのかと思ってた)、なんで女子高生が部活で戦争してるのか?という根本的な部分が気になってどうもノレなかったのだが。
ゲーム感覚で電子戦やってたのが、本当に砲撃を受けてビビるという描写がリアルで良かった。
真面目な話、戦記を読んでいると重火器で撃たれる恐怖というのはおよそ言語に絶するものらしく、新兵さんはもちろん、ベテランの下士官でも恐怖のあまり失禁してしまうなんてことが珍しくないそうだ。
それと、演出効果のうちとはいうものの、「レーダー電波が目に見えちゃう」のはどうかと思う。

○ 『あの夏』
長井監督はまだ若いんだし、それこそ中村健治監督(新作もまたヘンな作品ぽい)みたいにいろいろ挑戦してみた方がいいんじゃないか、と思うのだが。6話まで観て、このレベルで作り続けられるのなら、ラブコメ専門で行ってもいいような気がしてきた。木村真一郎みたいに・・・って例えが悪いか。舞台を変えてみたり新キャラを投入したり、いろいろ工夫が見えるのも悪くない。
ところでこの作品の時代っていつ頃なんだろう。携帯電話が出てこないところを見ると一昔前らしいが、ちょっと気になったのが前話の「コクる」というセリフ。この言葉、私が現役のころにはまだなかったので昔の話にしては違和感を覚えたのだが。
今でもよく覚えているが、初めて活字で目にしたのが貴志祐介の『青の炎』。いかにも「大人が考えた高校生のセリフ」という感じで使われていた。
ついでに言うと、作品の感想も同じ。「大人が考えた極端に頭のいい高校生」。いねえよこんな奴。
それはともかく、調べてみたら、『青の炎』ももう1999年の作品なのね。13年前だもんなあ。
高校時代をノスタルジックに思い返せる年の人が、高校生のころ「コクる」って言っててもおかしくないんだなあ。
もう一件。この作品が時代を感じさせるのは、「さわやかな夏」という描写にもよる。だってここ数年、夏と言ったらうっかり外に出ると命の危険を感じる炎熱地獄なんだもん。

○ 『へうげもの』
アニメファンの間ではまったく、これっぽっちも話題にならなかった作品ながら、先日39話で堂々完結。完成度という意味で、2011年度のベスト5以内に推す。骨太で刺激的な傑作だった。真下耕一監督の新たな代表作になったのではないか。

2012年2月13日(月)
ヘンな役名

映画を観る楽しみの一つに、エンドクレジットをじっくり眺めるというのがある。特にキャストを見ていると、投げやりというか笑わずにいられない役名がよく出てくるものだ。なお、以下の記述はIMDbによる。

この記事を書くきっかけになったのは、最近『ホット・ファズ』を観直してこれを発見したこと。



「‘Not' Janine」。
誰かというと、この人。



ジャニーンとは主人公の恋人で、鑑識官をしている。したがって仕事中は全員この格好なので、間違って呼びかけてしまった相手というわけ。
ギャグとして演出されているが、結構重要なシーンである。
というのも、主人公は恋人から別れ話をされている。彼自身は気づいていないが、恋人に「覆面したくらいで見分けがつかなくなる程度の関心」しか抱いていない、ということを示しているからだ。
そりゃ振られるだろ。


ヘンな役名の元祖と言えば、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の「3-D」。



コイツだ。



物語の敵役・ビフの取り巻きでいつも立体メガネをかけている。よく見ると、メガネ自体に「3-D」とロゴが入っている。公開当時は、これは30年前の話だったわけだが、今や50年前。そしてまたしても立体映画が流行している。「歴史は繰り返す」ことをこれほど端的に表現してくれた映画がかつてあったろうか。
なお「3-D」を演じているのはポーランド系アメリカ人のケイシー・シマーシュコー。80年代前半ころのティーンアイドルを総称してブラットパックと呼んだが、その一人と目されていた。彼らは、少女淫行でブチ込まれたロブ・ロウを筆頭に壊滅状態だが、このケイシーは大ブレイクはしなかったもののコンスタントに活動を続けている。なお、父親は強制収容所から生還した地下運動の闘士だそうである。

ちなみに左から2人目は「マッチ」。マッチ棒をくわえているから。コイツも大概に酷い役名だが、演じているのは若き日のビリー・ゼインである。『タイタニック』でケイト・ウィンスレットの婚約者を演じた人と言えば、思い当たる向きも多かろう。あの芝居で解るように、憎々しい悪役(でも小物)という役を演じさせると天下一品、という役者なのだが、最初からチンピラ属性全開だったわけである。最近あまり見かけないが精力的に仕事をしていて、2011年は10本も出演している。


『羊たちの沈黙』より。




「TV EVANGELIST」。つまりテレビ伝道師である。この人だ。



アメリカはローカルなケーブルテレビ局が多いので、この種のテレビで説教する伝道師が大勢いるのだとか。レクター博士がおいたをすると、チルトン医師は怒ってスケッチブックを取り上げ、無理やり宗教番組を見せる。
これじゃ殺されて喰われても仕方ないね!

それはともかく、この伝道師を演じているのはジム・ロッシュという人物で、プロの役者ではなくフロリダ州立大学の教員である。
ジョナサン・デミが『サムシング・ワイルド』を撮影したのがフロリダ州立大だったのだが、それが縁でロッシュを起用したらしい。以後、デミの映画には毎回端役で出演している。

なお、この「FRIENDLY PSYCHOPATH」というのも、すげえヤな役名である。スターリングがレクター博士の監房を初めて訪ねたとき、スターリングに声をかけた患者のこと。



バッファロー・ビルの愛犬「プレシャス」の本名は「ダーラ」。



動物は「Himself」とクレジットされることが多いのだが、今回はちゃんと役名があった。

15.8.23追記

『サムシング・ワイルド』のデミ一座

ジョナサン・デミの初期作品『サムシング・ワイルド』('86)を観たら、『羊たちの沈黙』の端役陣が大挙して出ていた。



これ以降常連となるジム・ロッシュ(左)。主人公のジェフ・ダニエルズがヒロインとモーテルで一夜を過ごした翌朝、何の脈絡もなくやって来て二日酔いの薬を渡し、ヘンな格言を授けて去っていく。その名も「MOTEL PHILOSOPHER」。



ちなみにジェフ・ダニエルズは近年はTVシリーズ『ニュースルーム』の主演で知られる。ヒロイン役はいつも通りおっぱいほり出してるメラニー・グリフィス。



『羊たちの沈黙』では検死官役だったケネス・ウット。プロデューサーが本業で、『サムシング・ワイルド』『羊たちの沈黙』の製作にも名を連ねている。



レクター博士の貸倉庫のオーナー、ライプ・レンスキ。調べて初めて知ったが、91年に死去しており『羊たちの沈黙』が遺作となった。なお、彼の「肉体労働が嫌いな」運転手を演じたジョージ・シュワルツも一座の一人。どうでもいい役なのに強引にワンカット映るのはたぶんそのため。



中古車のセールスマンを演じたこの人。誰あろう、変態映画の帝王ジョン・ウォーターズである。前掲のクレジット、下から3番目。

『羊たちの沈黙』で大ブレイクしたジョナサン・デミだが、80年代は軽い犯罪コメディが多かった。『羊たちの沈黙』でジョディ・フォスター、アンソニー・ホプキンスといった大スターを主演に招いたわけだが、もともとロジャー・コーマンの門下生でもあり、現場は自主映画のノリに近かったのではないかと想像される。


『ショーシャンクの空に』。



「腹ぺこの新入り」とは、アンディが収監された日、所長に向かって「めしの時間は?」と余計なことを聞いて看守に殴られる人。



ちなみにその下の「Fat Ass」というのは、初日に看守長に殴り殺される人。ただでさえ酷い役柄なのにこの役名、浮かばれないにもほどがある。ところがどっこい、演じたフランク・メドラノは現在も貴重なバイプレイヤーとして活動を続けている。


『ダイ・ハード』より。



「窓の中の女」って一体誰だよ!と言うとこの人。



時間で言うと25分ころ。危うく人質になるのを逃れたマクレーンが、工事中の上階から電話をかけようとするがつながらない。窓外を見ると隣のビルでは、女がのんきに電話をかけている-という場面。不要なカットのようにも思えるが、そこは隙のない『ダイ・ハード』。マクレーンの焦燥を観客に印象づけると同時に、「隣のビルでは電話が使える」→「このビルだけ切断されている」→「周到な計画的犯行」とマクレーンが気づく、という伏線の一部でもある。『ダイ・ハード』に関しては一家言ある私だが、これは今回初めて気がついた。
演じたミッシェル・レイボーンは映画4本に出演しただけで消えている。このあと『ハーレーダビッドソン&マルボロマン』に出てしまったのが運の尽きというか。


やや趣旨がそれるが、『ファーゴ』より。



「Victim in Field」というのは、ハイウェイパトロールが殺される場面を偶然目撃してしまったために射殺される気の毒な通行人のことであるが、演じているのは・・・・・・え、プリンス!?
と思いきや、実は美術スタッフの一人でJ・トッド・アンダーソンという人物。このマークもよくよく見るとプリンスのものとは違う。プリンスがミネアポリス出身だから、というジョークなのだとか。


私事ながら私の両親は邦画黄金期の昭和30年代に青春を過ごしているだけあって、実家はみな映画好きだった。その実家では、

「エンドクレジットの途中で席を立つ客ってやだね。余韻が台無し。5分くらいがまんすればいいのに」
「だいたい最近の映画はクレジットが長すぎるんだよ。昔はエンドマークが出てすぐ終わったもんだ」

という会話がたびたび交わされていた。

私見だが、クレジットがやたら長くなるのは1980年前後からのようである。何か理由があるのだろうと思うが、詳しく調べたことはない。もともとエンドロールは、観客が時間差で退場するよう誘導して混雑を緩和する役があると言うから、すぐ席を立ってもまあいいのだが、私は、スタッフへの礼儀としてエンドクレジットは最後まで見る主義だ。
が、『グレムリン2』にはこういうセルフツッコミがある。

 

余計なお世話だ。


なお、最近はすぐ席を立つ客はまだマシだと思うようになった。
昨今は、その場でしゃべり出す奴とかツイッター始める奴がいるのである。
ついでに言うと、不思議と声のでかい奴ほど話がつまらない。

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