更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2010年4月29日(木)
「紅」 原作とアニメ版

ラノベ強化月間その2。

以前、松尾衡監督についてこんなことを書いたが、「紅」の原作をとりあえず1巻だけ読んだ。
違いはいろいろあるが、一番違う点は「力」へのスタンスだろう。

これは私がアニメ版「紅」の好きな点なのだが、アニメ版は真九郎の「人ならざる力」の行使を、「強さ」とか「成長」という概念で語ろうとしない。むしろ、そうした力に頼らざるを得ない心を「弱さ」ととらえている。
原作の燃える展開も嫌いじゃないが、アニメ版の慎ましさはある意味健全だと思う。

2010年4月26日(月)
ジャイアントさらばに見る脚色の妙

先日から、マイラノベ強化月間で「とらドラ!」をイッキ読みしていた。

いや面白かった。
同時に、アニメ版がいかに巧みな脚色をしていたかもよくわかった。

ラストシーンが大きく違っているのは有名だが、あえてとりあげたいのは標記のシーン。24話「告白」で、実乃梨が竜児への別れに、拳に口づけるシーンである。これは原作にもある名シーンの一つだが、アニメ版には2つ、違いがある。

1つは実乃梨の動作そのものの違い。原作では自分の拳にキスしてから竜児にパンチをかますが、アニメ版では逆に、先に竜児にパンチして、竜児が立ち去った後自分の拳に口づける、という情感あふれる描写になっている。

もう1つの違いはあまり指摘されていないようだが、このシーンそのものの位置である。
この一連の場面は空き教室→@→廊下→2-C教室→昇降口→保健室→Aと、めまぐるしく舞台が変わる。
原作では@にジャイアントさらばがある。アニメ版ではAに変わっている。

この変更の理由は2つ考えられる。
1つは、感情の流れ。
読者の意思で前後に行きつ戻りつできる文章表現と違って、時間芸術である映像表現は、感情の流れを殺さないことがより重要になる。
とりわけこの場面のような、感情の高揚がそのまま「走る」というアクションになっているときに、「別れの儀式」をやっていたら、それ自体の効果も薄れてしまうし高揚感、疾走感を損なってしまうだろう。
そしてもう1つの、より重要な理由は、ヘアピンの一件である。原作ではこのシーンよりもっと前(9巻81ページあたり)に、「クリスマスのできごとをなかったことにしようとした」ことを竜児に謝罪する実乃梨の描写がある。アニメ版では、これが保健室のシーンに変更されている。ここでようやくすべてが清算されたので、晴れてジャイアントさらばができるのである。

これが、映像化の醍醐味というものだ。


ついでだけど、大河の生徒手帳にはさんだ写真の伏線、原作では回収忘れてない?(いちいち書かなくても察しはつくが)

2010年4月21日(水)
福田恆存著作集から

わけあって福田恆存の著作集を読んでいる。

チャタレー夫人裁判の弁護を行ったころ書かれた文章から、まさに現代に通じるものをいくつか引用。以下『 』内は引用。原文は旧仮名遣いだが現代文に直した。

『要するに、世の「かまとと族」は、封建制とか、社会問題とか、美術とか、身だしなみとか、教育とか、報道とか、その他なんのかんのと、高級なる話柄にことよせてしか、まともに性的刺激を受けとめられぬのであります。ということは、暗々のうちに、性的刺激を下等なものだと思い、うしろめたさを感じている証拠であります。「太陽映画」には高級なる話柄の手がかりなしと見て、かれらは猛然と正義派ぶりを発揮する。が、本当のいやらしさというものは、無意識のうちに性的刺激を下等なものと見なし、意識的には高級なる話柄と抱き合せで、識域下の性的刺激を楽しんでいることです。』
福田恆存「性の意識について」『福田恆存著作集8巻 一度は考えておくべき事』(新潮社、1957年)25頁。「新潮」1956年9月号初出。


「かまとと族」というのは、表現規制を主張する、まあ良識派と思えばいいだろう。「太陽映画」は、石原慎太郎「太陽の季節」に影響を受けた一連の映画のこと。


『子供を悪から守ろうとするのはいい。が、真の愛情は、けっしておためごかしの善行意識とは無縁です。「かまとと族」は性をうしろぐらいものと思っていると申しましたが、ただそれだけではなく、その自分のうしろぐらさを密室に閉じこめ、それに鍵をかけて、逆に善行意識で押してくるのです。その正義感を私は不愉快に思う。私がどう思おうとかまいませんが、この屈折した心理は子供たちに、「太陽映画」以上の悪影響を与えるでありましょう。それがなにより恐ろしいのです。』 同31頁。

『性に関するかぎり、私たちの心理はそういうあいまいなところに棲んでいるのだということを強調しておきたい。性を浄化しようという善意と、性をタブーとしておさえつけようという検閲根性とは、紙一重の差であります。もっと身も蓋もないいいかたをすると、同じことでも自分がやるばあいは善いことで、他人がやるばあいはいかがわしく見えるという、勝手にして微妙なる人間心理が、性のばあいほど鮮やかに発露する例は他にありますまい。うっかり検閲や浄化運動に乗りだせぬゆえんです。』 同32-33頁。


興味深いことに、福田は「太陽の季節」についてこんな風に評している。

『(「太陽の季節」の主張は)あくまで観念的であり、学生らしい子供っぽさがまざまざとうかがわれるのであります。のみならず、結末でわかるように、ごく平俗な勧善懲悪思想が見られます。龍哉も、この小説の作者も、ごくすなおで育ちのいい、そして純粋な恋愛を信じ憧れている純情な青年であります。彼の偽悪と見せかけの転落との動機は、大人の世界にたいする幻滅ということであります。が、それは、男女の美しい結合を夢見ていたからであり、その夢が大人たちによってふみにじられたからで、そういう夢をいだいたかぎり、そして、その幻滅が自己破壊という形をとって現れるかぎり、やはりしおらしいというべきでありましょう。
(中略)
したがって、中村光夫さんが評していたように、この作品は青年の「甘ったれ」であります。意地わるくいうと、勘当されても母親からそっと小遣がもらえる良家の子弟の駄々であります。安全地帯の乱行は、所詮偽悪しか生みはしません。そういう観点から「太陽の季節」の支持者を説得するのが、文芸批評家の社会的機能だと思うのですが、ジャーナリズムがこの至って「道徳的な」作品を「不道徳」であるとし、問題の所在を混乱させ、つづいて「太陽映画」なるものが続出し、「太陽族」という言葉が造られ、それをまたジャーナリズムが事あれかしと騒いだ結果、あれよあれよといううちに、「かまとと族」が分別くさいことをいいだしたのに乗じて、文部省まで動きだし、この調子では、いつまた警視庁が「わが輩の手で解決してやろう」と乗り出してくるかわからぬ情勢になってしまいました。』 同17-18頁。


私は「太陽の季節」を未読(映画も未見)なので、この評が妥当なものかどうかは知らない(福田ほどの人が言うのだから間違いないだろうとは思うが)。仮にこの通りだとすれば、その石原が今は規制する側にいるのは、何の不思議もない。

あれから50年。世の中は何も変わっていない。

2010年4月20日(火)
最近観た古い映画2題

○ふと思い立って、レンタルで名高い「ブルークリスマス」('78)を観た。
これ東宝映画で、ニューヨークロケまでしてる大作だったんだなあ(もっともゲリラ撮影らしいが)。
メジャー映画+豪華キャスト+海外ロケ=駄作、という公式ができあがっちゃってる近年の邦画からは想像もつかない。

周知のとおり、UFOとの接触によって青い血をもつようになった人間たちを排除する権力のお話。

主人公の記者が、ことのなりゆきに最初に警鐘を鳴らした科学者から、いずれ始まる弾圧について聞かされるシーンがある。このシーンがニューヨークの墓地なのだが、画面奥に写っているのがその2人。



そして手前の墓石に注目。ダビデの星が刻んである。ユダヤ人墓地なのだ。
含意は明らか。ブルークリスマスとは、「水晶の夜」なのである。

もう1つ。国民全員の血液検査を義務づける法案が国会に提出されたことを伝えるニュース画面。主人公は飲み屋でこれを見るが、画面左に「いか塩辛」の品書きが。



実は作品序盤で、「イカの血は青い」ということが示されるのだ。ブラックなギャグ。


・ついでに、作中みんな「ユーエフオー」と発音してる。
・田中光二の「UFOハンター」シリーズとどういう関係なんだろう。


○こっちはWOWOWで観た中平康監督「危いことなら銭になる」('62)。
ニセ札作りを巡るアクション・コメディ。終盤の埋め立て地で取引するシーンを、こんな超ロングで撮っている。


矢印のところに役者がいる。いや本当に画面上に矢印が出るんだって。タランティーノの40年前ですよ。昔の邦画はこんなにアナーキーだった。

あ、そうか。long shot(大バクチ)ってシャレか!

2010年4月19日(月)
「true tears」を観返す その2

全話観終わったので、も一つ追加。

12話で、眞一郎が押し入れから出てくるシーン。
台詞で解るようにこれは「新生」を象徴するシーンなのだが、よく見ると間に

  

両親の寝姿がインサート(うわ・・・)されている。

つまり、生物としての眞一郎を生んでくれたのはこの2人だけれど、それとは別に生まれ直したのだ、ということを強調しているわけ。

細かいを通り越して親切設計な演出。

2010年4月17日(土)
「true tears」を観返す
「true tears」をBD-BOXで観返し中。

細やかな作りに改めて感心したので、いくつかメモ。



まず比呂美の部屋。造り酒屋という純和風な舞台でありながら、比呂美の部屋だけが、引き戸でなく洋風のドアになっている。比呂美が仲上家の異物であることを暗示すると同時に、このドアが開閉するたびに事態が動いていく。


5話から、海岸で眞一郎と比呂美が話すシーンでの、マフラーのやりとり。

寒がる眞一郎に、比呂美が自分のマフラーを巻いてやる。


海岸を立ち去り際。眞一郎は、マフラーをほどいて手に持っている。


帰宅したときには、マフラーは比呂美が巻いている。


つまり寒い海岸を離れるとき、すぐにマフラーを返しているというわけ。実はマフラーを手に持っているカットは、画面に一瞬しか写らない(編集ミスかと思った)。「どの時点でマフラーを返したのか?」という観客の疑問を封じ、しかも「実際に返す描写」をあえて見せない。キャラクターの秘めやかな心情にマッチした、繊細な演出である。


突堤で眞一郎と乃絵が話すシーンが何度も出てくる。たとえば、下左は2話。右は7話。

 

ここで取り上げたいのは9話の同じシーン。鞄の位置に注目。

  

比呂美のバイク事故を経たこのとき、2人の間には決定的に壁ができてしまっている。手を触れあっていてもそれは超えられない。それが、このコンクリの継ぎ目や鞄で遮られた2人の描写。

2010年4月8日(木)
感動的な演出

WOWOWで1960年の「アラモ」という映画を観た。
有名なアラモの砦の戦いを史実に基づいて描いた作品で、190分もある。ジョン・ウェイン製作・監督・主演だけにアメリカ万歳な作品だが、そこはそういうものとして観ればよい。

砦の司令官ジョン・トラヴィスは死守を命ぜられているが、義勇兵のリーダーで人望厚いジム・ボウイはゲリラ戦法を主張する。理知的なトラヴィスと親分肌のボウイはことあるごとに対立するが、衝突を繰り返す中で次第にお互いを認めていく。
そしてメキシコ軍が砦を包囲し降伏を勧告してきたとき、トラヴィスは脱出したい者には脱出を許可する。馬を連ねて脱出に備える義勇兵の一団。いよいよ砦の門が開く。しかし先陣を切って出ていくかと思われたボウイは、馬を下りてトラヴィスの隣に立つ。義勇兵たちは次々にそれに続く。やがて全員が馬を下りたとき、トラヴィスはただ一言、「門を閉めろ」と命ずる・・・・・・。
この間、トラヴィスとボウイは一切言葉を、いやそれどころか視線さえ交わさない。

こういう描写を観る都度、どうしてもハリウッド映画には敵わないと思わされる。
感動的なシチュエーションなんてものは簡単に作ることができる。
そんなシーンは、放っておいても感動的になる。
だからそういうシーンの演出は、極めて抑制的であるべきなのだ。
泣いたりわめいたりするのは観客であって、作中人物ではない。


と、「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」最終話を観て思った。

2010年4月6日(火)
「抗命ドラマ」としての「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」

軍隊を舞台とする作品の類型の一つに、「抗命ドラマ」というタイプがある。つまり命令に反抗することが主題となる作品である。言うまでもなく、軍隊において命令は絶対だ(ただし、こちらも参照)。だから、それに逆らう勇気や信念がドラマになりうるわけである。
このタイプは、大きく2つに分類できよう。命令が正当な場合と、不当な場合である。するなと言われたことをするというタイプも、このどちらかに分類できるだろう。

ここで正当というのは、必ずしも倫理的な意味ではない。
国家の意思に基づき、正規の命令系統に従い、国際法規に則って下された命令のことである。

正当な命令に逆らうタイプの映画では、ロバート・アルドリッチ「攻撃」('56)とか「クリムゾン・タイド」('95)がある。

「攻撃」は、無能な指揮官に無理な攻撃を命令され多大な損害を出した小隊長の反乱。
「クリムゾン・タイド」は、受信途中で途切れてしまった核攻撃に関する命令の解釈を巡って、戦略原潜の艦長と副長が対立する。

一方、命令が不当とは、命令が上官の私利私欲に発したものであったり、目的が真相の隠蔽であったり、違法行為を命じていたりする場合だ。「アウトブレイク」('95)あたり(真相の隠蔽)が思い当たる。

いずれのタイプにも、娯楽映画である限り共通することが一つある。
観客には、「命令に反抗する主人公の側に正当性がある」と思わせなければならないという点だ。

命令が不当なら問題ないが、命令が正当なものであれば、ここが少し難しくなる。「攻撃」の場合は、指揮官の無能を描写し、しかもその地位が情実で手に入れたものとすることで、反乱側に感情移入させる手続きを踏んでいる。
誤解されがちだが、軍隊が戦争で人殺しをするのは目的ではない。戦争とは、ある国家等の集団がその意思を他の集団に強要するため、実力を行使することである。戦闘行動はその手段に過ぎない。人を殺さずに済めばそれに越したことはないし、もちろん自軍の被害は局限されなければならない。指揮官にとって、部下の被害を極力避けるのは責務と言ってもいい。
だから「攻撃」の反乱はリーズナブルなものになりうるわけである。
「クリムゾン・タイド」はこの点やや異色で、艦長と副長どちらにも正当性がありそうな作品になっている。ちょっと脱線するが、旧ソ連は本気で核戦争に勝ち残ることを考えていた。だから、核攻撃の第1撃で西側の報復戦力を完全に撃滅するべく、核武装に励んだのである。それが挫折したのは、西側の必死の努力により、ソ連が勝利を確信するほどの戦力差を備えられなかったからに過ぎない。
もっとも、この作品はキャスティングで損をしている。ジーン・ハックマンとデンゼル・ワシントンじゃ、誰がどう考えたってワシントンの方が正しいと思うものな。
閑話休題。

いずれの場合も、反乱という異常な行動を描くには、正常な軍隊の姿を示さなければならない。その上で、「反乱側の方が軍隊の本来あるべき姿に近い」と見せなければならないのだ。
では軍隊の本来あるべき姿とは何か?いや、軍隊は何のためにあるのか?
国家の存在意義は、国民の生存権の維持拡大にある。軍隊はそのために、侵略を抑止し、排除し、以て国民の福利を確保するためにある。

んで、「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」である。この作品の問題点は、早い話が「正常な軍隊を体現する登場人物が一人もいない」ことにある。それじゃそもそも、「異常な行動」を描けるわけもない。
登場人物全員やってることが支離滅裂なのは、それが原因である。

2010年4月1日(木)
オナシア=ドミヌーラ説に関する私見

新学期が始まりました。本年度もよろしく。

さて。
3周くらい周回遅れの話題で恐縮なんですが、そういう見解があることを先日初めて知って、衝撃を受けた。
http://www.k2.dion.ne.jp/~aki-kan/C10_37.htm#37

そんなんで「シムーン」の論評してたのだから赤面してしまうが。

が、しかし。この説、筋は通っているけれど、私はいまひとつ同意しかねる。
私はそれなりに注意深い観客のつもりだが、3度通して観て全然そう思わなかった。
いわゆる「謎解き」にはあまり興味がないせいもあるが、主な理由は3つ。

第1に、作中にそれを示すものが見当たらない。
映像作劇的に同一人物であることを同定するもの、例えば外見、小物、思い出などが描写されていない。

第2に、リモネがどうなったのか?の説明がない。シムーン世界での「泉」の柱の1本が折れているのは、本来2柱あったはずの神が失われたからだという指摘は頷ける。しかしリンク先の論考では、「どこかで失われてしまった」としか言っていない。2人そろって初めて異世界へ飛べるという描写からすると、これはおかしい。
こういうのもあるが、これは作中で示された情報から読解するとか分析するとかの範疇を超えた、二次創作に近いものだろう。もちろん読解と創作の線引きはどこにあるかは、検討の余地があるが。少なくとも最終話の描写からは、私にはこの展開は不自然に思える。

第3に−これが一番肝心な点だが、この解釈では、シムーンが「ただのタイムマシン」になってしまう。神の乗機・シムーンは時間も空間も超越した異世界への乗り物でなければ、その神秘性、ひいては作品世界の壮大さを大きく損なってしまうと思うのだが。

オナシアは、「リモネに巡り会えなかったドミヌーラ(に相当するどこかの誰か)」と考えた方が自然ではないだろうか。パートナーを得なかったユンがオナシアを継承したことからも、こう考えた方が妥当だと思う。

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