更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2011年9月29日(木)
野球の話題

先日紹介した学術論文、及川研・佐藤精一「送りバントをした場合としない場合の得点期待値の差異について : 日本のプロ野球公式戦を対象として」『東京学芸大学紀要』(2006年10月)。国会図書館に行く用事があったので、ついでにコピーしてきた。 → IMG.pdf へのリンク(一部だけ)。

この研究は、2005年の日本プロ野球前半戦、432試合のスコアを分析してバントの有用性を検討したものである。
その結果、送りバントを多用するチームでは、安打数の割には得点があがらない傾向があることが判明した。
まあ定説どおりの結果だが、本研究はさらに、試合の終盤、得点差が2点以内の競った試合、バントをする打順の違いなど細かい状況別の分析を行っている。そのいずれも、バントなしの場合に比べてバントした場合の方が得点期待値が小さくなった。

従来、試合の終盤は1点の重みが大きくなるのでバントで確実に1点を取りに行くべきと考えられているが、実際はバントした方が点が入らない(表6)。本論文は、試合の終盤は優秀なリリーフ投手が出てくるので、バントでアウトを献上するとむしろ投手を利する結果になるのではないかとの分析を示している。
打順については2番、6番、8番の各打者がバントした場合としなかった場合を比較しているが、どの打順についてもバントしない方が得点期待値が大きい(表8)。2番にバントのうまい打者を入れるというセオリーは考えものである。
面白いのは、送りバントの有無による得点期待値の差で、チーム別に傾向が見られるというもの(表9)。
上位2チームは送りバントありの方が得点期待値が高い。これはセ・パのリーグ1位チームで、バント数自体は多くない。6チームはバントの有無による期待値の差があまり見られない。残り4チームは、バントすると顕著に期待値が減少する。
上位2チームは、適切な場面を選んでバントをしているとも言えるし、もともと攻撃力に優れるので、バントしようがしまいが点を取れるという解釈も可能である。
逆に攻撃力の低いチームは、バントでそれを補おうとするとかえって損をする場合が考えられるわけである。

なお以上の議論はあくまで得点期待値の話で、得点確率を計算するとまた別の結果になる、と本論文も断っているので念のため。

野球の話題あといくつか。

スワローズのガイエルが引退。
 アーロン・ガイエル
 魔将ガイエル
38歳という年齢、腰痛からくる成績不振からして退団は仕方ないとは思っていたが、このまま引退とは。「世話になったスワローズ以外でプレーするつもりはない」とのセリフが泣かせるではありませんか。報道によると、引退会見で通訳の方がもらい泣きする一幕もあったそうで、人柄が偲ばれる。ヤンキースに在籍した経験のあるメジャーリーガーという触れ込みだったが、若い頃はメキシコリーグでプレーした経験もある、結構な苦労人である。選球眼がよく、ホームランかフォアボールかというバッティングスタイル。打率が2割そこそこなのに出塁率が4割近いという、まことにマネーボール的な成績。死球が異常に多く、また当たっても平然と1塁へ向かう紳士的なプレー。今年は11試合しか出場していないのに、すでに2死球。青木をもしのぐ守備範囲の広さ。巨体に似合わぬ、意外な俊足。今でも語りぐさの、古田の引退試合におけるランニングホームランは、私は生で見ていた。もっとも身長178センチだそうだから、メジャーではもちろん日本人選手の間に混じっても特に大柄なわけではなかった。これは誰も指摘していないようなのでここで言っておくが、スワローズでは宮本に次ぐ高齢選手である。最後に優勝を経験させてやりたかった。というか、外野がミスを連発した先日の対ドラゴンズ4連戦では守備固めに出場して欲しかったくらいだ。
本人は今後、指導者として意欲を見せているというが、日本野球の経験者がメジャーで監督になった例もある。真面目で研究熱心な人物だったというし、きっといい指導者になることだろう。

日本人最速サウスポー、石井弘寿も引退。まだ34歳。5年も一軍で投げていなかったとは。左の豪腕と言えば、先輩の一久がいるが、彼は34歳の時にはもうメジャーから帰ってきてたんだよなあ。全盛期にメジャーに行っていたらどうなっていたか、と考えたくもなる。一久の方は今年は不振とはいえ、すっかり技巧派に転向して今も先発ローテを守っているのを見ると、リリーフ投手がコンディションを保つのがいかに大変か伺われる。
余談だが、一久が、97年の日本シリーズで壮絶な投げ合いを演じた西口と今は同僚、というのも微笑ましい。

イチローの11年シーズン終了。184安打。ちょっと調べてみたら、アメリカンリーグで安打数9位。ナショナルリーグでも、185安打以上打っている打者は6人しかいない。
これで不振だと言われるんだから、イチローのスタンダードがいかに常識離れしているか、改めて思い知らされる数字である。

2011年9月26日(月)
『消失』再見

とても出来の良いMADを観たのがきっかけで、『涼宮ハルヒの消失』を観返してみた。

改めて発見があったので、メモ書き

私はこの映画の上映時間の長さについてはわりと肯定的なのだが、さすがに3度目ともなるといらいらしてくる場面もある。もう少し省略するなり時制を入れ替えたりすれば短くまとめられたのではないか-と思ったのだが、この映画は一応タイムトラベルものである。

以前、自分で「タイムトラベルものは時制入れ替えをしない(わけ分からなくなるから)」仮説を提唱していたのだった。『消失』もこの法則に忠実だったのかも知れない。

2011年9月19日(月)
スワローズファンの憂鬱

スワローズ2001年以来10年ぶりの優勝に向けてひた走っている。
20年来のファンとしての私はわがことのように嬉しいのだが、セイバーメトリクスに興味のある者としてはいささか複雑な思いで見ている。

というのも、小川監督の野球は実に何とも「手堅い」からだ。先頭打者が出塁すれば1回から送りバント。走塁。守備。継投。まるで80年代のライオンズの野球だ。こういうのをもてはやす解説者が口にするのは気合と根性ばかり(選手は仕方ないにしても)。
『マネー・ボール』出版から7年を経ても、こういうのが「堅実で」「細かい」「優れた」野球だとされる価値観が鋼鉄の如く堅固に揺るがない日本野球に、なんか絶望的な気分になるのよ。返す返すも、古田プレーイングマネジャーが結果を出せなかったのは残念だった。仄聞する限り、古田が目指していたのがいわゆる新思考派野球だったのだろうと思うのだが。バレンタインやヒルマンではなく、日本球界を代表する頭脳である古田が新手法に成功すれば、影響は大きかったはずだ。
考えてみれば、ガイアツに弱い日本にあって、まるで外国人選手や指導者から影響を受けないプロ野球界とは、ある意味きわめて日本的でない不思議な世界である。

さらに絶望的なことに最近、小野俊哉『プロ野球解説者の嘘』(新潮新書、2011年)なる本を読んだ。
以下説明なしの引用は同書から。また、『マネー・ボール』ではビル・ジェイムスではなくジェイムズと表記しているのでそちらに従う。

『マネー・ボール』に書かれた(ビル・ジェイムスの)得点公式とは、誰も気付かなかった唯一無二の新発見でも何でもなく、誰にでも考案が可能な式のひとつでしかないのです。というより野球の本質を考えながら、パソコンで足し算、引き算をやれば「小野の得点公式」よりさらに精度の高い公式は、誰にでも、何十通りでも導くことが出来るでしょう。

ならばなぜ、小野本人が考案して発表しなかったのか。こういうのをコロンブスの卵という。こんなことは、『マネー・ボール』自身が書いている。

「ただなんといっても、ジェイムズの公式は細部の裏付けが甘い。ジェイムズはべつに科学者ぶりたかったわけではなく、ほかの知識人に叩き台を提供したのだった。数値処理にもっと詳しい者であれば、現実に即したさらにいい公式をたちまちつくれておかしくない。ジェイムズの功績は2つある。第一に、検証可能な公式を提示したこと。第二に、興味深い仮説によって、おおぜいの知性を刺激し、議論の輪を広げたことだ。」『マネー・ボール』106頁。


その後、ジェイムズの提案した叩き台を元に多くの先人が研究を重ね、現在理論得点XR値を示す式は以下のようになっている(田端至『ワニとライオンの野球理論』(東邦出版、2006年)181頁)。

理論得点XR=0.5×単打+0.72×2塁打+1.04×3塁打+1.44×本塁打+0.34×(四球+死球-故意四球)+0.25×故意四球+0.18×盗塁-0.32×盗塁死-0.09×(打数-安打-三振)-0.098×三振-0.37×併殺打+0.37×犠飛+0.04×犠打

ついでに言えば、ジェイムズが得点公式を考案したのは1977年。もちろんまだパソコンなど存在しなかった。

小野はプロ野球の実績を調べると、犠打をした方が得点が入ることが多いと主張してこう書く。

『マネー・ボール』は、犠打の「量」と「質」を、意図的にか無意識にか、区別していません。もしビリー・ビーンGMが、質の点においてもあらゆる犠打が無駄だと考えているとするなら、野球を知らない田舎モノと笑われるだけのこと、と判明するのです。

小野は意識的にか無意識的にか、得点期待値を無視して結果として得点の入ったイニング数だけを議論している。小野が調べた「犠打をしなかった状況」とは、次打者が投手などで犠打をしても無駄な場合が多いのではないか?であれば、最初から得点可能性が低いにちがいない。
なにより、「ビル・ジェイムスという男」などという過度に侮蔑的な物言いは、小野の声望を貶めこそすれ高めることは決してあるまい。おまけに、生き馬の目を抜くメジャーリーグで14年もGMを勤める人に対してよくもまあ。ビリー・ビーンの功績は、現在GMが備えるべき必須要件のひとつにセイバーメトリクスの素養があることから明らかだろう。
http://blog.livedoor.jp/goredsox-baseballnumbers/archives/50656537.html

近年アスレチックスは低迷しているが、ビーンのチーム戦略を各チームが倣う(例えばレッドソックス。テオ・エプスタインGMがビル・ジェイムズ本人をアドバイザーに起用)ようになったため、思うように選手が集められなくなったのではないかと思われる。

打率が2~3%、すなわち2分あるいは3分違うだけでも、たいへんな実力差

そうか?打率は打者の能力を正確に示す指標ではないし、3割以上は一流という通念だって、確たる根拠があるわけではない。

「3割の打者と2割7分5厘の打者を、目で見るだけで区別することは絶対にできない。なにしろ、2週間にヒット1本の差しかない。シーズンを通じてそのチームの全試合を見ているスポーツ記者なら、ひょっとすると何か違いを感じとれるかもしれないが、おそらく不可能だろう。10試合に1試合見る程度の平均的な野球ファンは、むろん、そんな微妙な差を見きわめられるはずがない。事実、もし年間15試合観戦するとすれば、目の前でたまたま2割7分5厘の打者が3割打者より多くヒットを打つ確率が40パーセントもある。要するに、すぐれた打者と平均的な打者の違いは、目には見えない。違いはデータのなかだけにある。」 『マネー・ボール』97-98頁。

小野は犠打の効用としてこんな例を出すのだが、

(2010年ワールド・シリーズの)最終戦の第5戦0対0、ジャイアンツ攻撃の7回。無死1、2塁で6番に打席が回るとハフが犠打。1死2、3塁の形を作り、ここで8番レンテリアが先制3ランの決勝打を放っていました。

それ、犠打無意味じゃん?3塁に走者がいると落ちる系の球を投げにくいから狙い球をしぼりやすいのだ、という程度の理屈は私でも思いつくが、因果関係を証明できないものは科学ではない。

「犠打をするのとしないのと、どちらが得点出来るか」という問いは、そのチームの次打者の攻撃力、走者の機動力に依存する話であって、実は最初から普遍的答えなどない質問なのです。そのシーズンのチーム事情が表れるに過ぎません。

それこそ、今さら鬼の首を取ったように言うことでも何でもない。犠打に関する議論は、統計的にはとっくに結論が出ている。「無死1塁が1死2塁になると、得点期待値が下がる。得点可能性はほとんど変わらない」がそれだ。
http://www.h4.dion.ne.jp/~p-taka/gijyutu/tokubetsu8.htm

http://www.baseball-lab.jp/column_detail/blog_id=7&id=146

バントすると「一般的に」得点期待値が下がるのはもはや常識であり、「ではどんな状況ならバントする価値があるか」に議論の焦点が移っているのである。
http://blog.livedoor.jp/goredsox-baseballnumbers/archives/50322248.html#

日本にもちゃんと学術研究している人がいる。
及川研・佐藤精一「送りバントをした場合としない場合の得点期待値の差異について : 日本のプロ野球公式戦を対象として」『東京学芸大学紀要』(2006年10月)
残念ながら本文はweb上では読めないが、国会図書館にあるので興味のある人は読んでみよう。

以下は、李啓充のコラムからの引用。
http://blog.livedoor.jp/goredsox-baseballnumbers/search?q=%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%82%8C

そもそも、ビル・ジェームズが「汝、バントするなかれ」とご託宣を下した根拠は得点期待値のデータ(=平均値)にあった。換言すると、彼のご託宣は「すべてをひっくるめれば正しい」という限定条件付きで扱わなければならないのであり、野球という複雑なゲームで起こり得る千差万別の状況すべてに無差別に適応しうる原則と考えてはならないのである。

これは、統計学という学問全般に言えることだ。統計は決して未来予知ではない。

バントにまつわる議論をみていると、私はいつもタバコに関する言説を連想する。タバコの健康被害は、もはや誰にも否定できない科学的事実だ。しかしスモーカーどもは、たった一言でこの事実を無意味にする。
「喫煙者だって長生きする奴はいるじゃないか」。
これがそのマジックワード。奴らは、統計的に証明された事実という概念を決して理解しない。以前、オペレーションズ・リサーチとカミカゼ特攻隊という記事を書いたが、統計という総論と事例という各論の絶対にかみ合わない議論を見ていると、日米の間には、大げさに言えば「形而上学に対する絶対的な姿勢の違い」-「形而上的なものを形而下的に理解しようとする欲求の強さの差」とでも言うか-があるように思えてならない。


犠打に関する議論以外にも、本書には首をかしげたくなる記述が多い。

小野は野球のテレビ中継がつまらないと言って、こんな提案をする。

(ファンは)監督が抗議に走ったクロスプレーが本当はアウトだったのか、セーフだったのかを知りたいと思っているでしょう。それらを例えばデジタル高速度カメラで撮って、プレーをなめらかにコマ再生で見せたなら、ファンはプロの凄さに驚嘆もし納得もするのです。カメラ機材は昔に比べて、はるかに廉価になっているのに、プロの試合をプロらしく見せる工夫が十分に働いていないのですから、視聴率低下は、身から出た錆なのです。

それで誤審だったらどうするんだろう。だいたい、今でもそんな中継いくらでもやっている。そして解説者が決まり文句を言うのだ。「明らかに誤審ですね。選手は命がけでプレーしてるのだから、しっかり見てくれなければ困ります」と。結果、ますます審判の権威は低下し、試合は荒れることになる。

2005年に大ブレークしたのが藤川球児でした。稲尾和久を抜く新記録の80試合に登板。しかも防御率1.36は新記録にふさわしく、稲尾が78試合に登板したときの1.69を上回ったことは往年のファンにも高く評価されました。

これ以前の1999年に広島の菊地原が、稲尾の78試合登板に並んでいる。記録達成直前、「記録の神様」こと宇佐美哲也は、山本浩二監督に手紙を書いた。

「稲尾投手の記録は、世界に誇る内容を持ったものです。どこをどう比べても、菊地原投手の記録とは段違いなものです。記録の価値を分かっているものには、稲尾の記録は日本野球の宝として、絶対に守っていきたいものです。
稲尾は投球回が、先発が30試合、救援48試合で404回(菊地原は46回2/3)、勝利数は42勝(2勝)、防御率が1.69(5.01)、リリーフ時の点差を見ても、稲尾が48試合中42試合までが同点または勝ち試合の登板なのに、菊地原は69試合中それが34試合しかありません。投球回に至っては、菊地原は状況を悪くしただけで登板数の価値のない0回というのが両リーグ一多い11回もあります。
こんな内容で果たして新記録といえるでしょうか。こんな記録を持っていても誉められるばかりか、けなされるのが落ちでしょう。本人も堂々胸を張れる記録かどうか、確かめる必要があると思います」宇佐美哲也『上原の悔し涙に何を見た』(文春文庫PLUS、2002年)179-180頁。

菊地原はそれでも起用され続け、4点ビハインドの場面で登板してダメ押し2点タイムリーを浴びるという形で「日本タイ記録」を達成した。
藤川はすべて救援で92イニング。1セーブ46ホールド、奪三振139、WHIP0.83という驚異的な成績だから菊地原と違うのは明白だが、かといって稲尾を知る往年のファンが、手放しで誉めているとも考えにくい。


ところで、公開目前の映画版『マネー・ボール』は、IMDbのレビューを見る限り、かなり原作に忠実な仕上がりのようだ。ブラピが主演というので、カリスマGMがオチこぼれ選手を集め一念発起して奇跡の逆転!的『がんばれ!ベアーズ』みたいな映画になってるんじゃないかと心配だったのだが。注目は4700万ドルという予算。1億ドルを超える超大作も珍しくない昨今、ハリウッド映画としては中の下というところだろう。ブラピ一人のギャラもまかなえないんじゃないか?可能性は2つある。ひとつは、大半がブラピのギャラで他にはろくに金を掛けていない。ふたつめは、ブラピが少ないギャラでも出てみたいと思わせるだけの何かがあった。後者であると思いたい。脚本に『ソーシャル・ネットワーク』のアーロン・ソーキンが参加しているのも安心材料。どうでもいいが、IMDbの『ソーシャル・ネットワーク』って、なんでローマ字でSôsharu nettowâkuって表記してるの?



10月5日追記
映画『マネー・ボール』はブラッド・ピット自身がプロデュースしてるんだそうです。どうりで。
ただ、IMDbを見るとプロデューサーの肩書きが付く人が8人もいてなかなか異様。

2011年9月15日(木)
最近観た映画から

『未来を生きる君たちへ』
主人公の医師アントンは、デンマークとアフリカの難民キャンプを行き来する生活を送っていた。長男エリアスは学校で執拗ないじめを受けていたが、ある日彼のクラスに転校してきたクリスチャンに助けられる。母親をガンで亡くしたばかりのクリスチャンと、エリアスは親交を深めていく。
クリスチャンは、いじめの首謀者に果敢に抵抗し、ナイフを振るったり暴力を行使することをためらわない。あるとき、エリアスとクリスチャンの目前で、アントンがケンカにまきこまれ、殴打される。「報復は暴力の連鎖を生むだけだ」ととがめようとしないアントンに代わって、クリスチャンは相手に報復しようとする。
一方、アントンが勤める難民キャンプには時折、腹を割かれた妊婦が運び込まれる。ビッグ・マンと呼ばれる武装グループの首領のしわざだ。ある日、そのビッグ・マン自身が重傷を負ってキャンプを訪れる。アントンは医師として彼を救うか、これ以上被害が出るのを防ぐために彼を追い出すかの決断を迫られる。

と、2組の報復の行方が描かれ、その信念が問われる-はずなのだが。
「え、それでいいの?」というのが私の感想。特にアントンの側の葛藤が、やけにあっさり処理されてしまうのだ。

この作品を観て連想したのが、ヒチコックの『見知らぬ乗客』だった。
主人公は妻と不仲になっており、別れて恋人と再婚したいと思っている。しかし妻は離婚に応じようとしない。そんな彼に、電車の中で見知らぬ男が声をかけてくる。「自分があなたの妻を殺してやるから、あなたは私の父を殺してくれ」と交換殺人を持ちかけてくるのだ。主人公はもちろん断るが、男は勝手に妻を殺してしまい、計画の遂行を迫る。あくまで拒否すると、逆恨みして妻殺しの罪を主人公に着せようとする・・・・・・。

有名な映画だからネタバレしてしまうが、なんやかやがあって結局真犯人が捕まり、主人公は晴れて自由の身となり、恋人と結ばれるのであった。

10数年前に観て「おいおい」と思ったのだが、主人公は自分の手を汚さず邪魔な妻だけが死んでくれて結果オーライの万々歳という話になっちゃってるのね。
詳しくは書かないけど、アントンの描写が、これにそっくりなんだわ。
監督はあえてすっきりしない結末をつけたようなことを言ってるけど、そういうものか?

ところでデンマークとスウェーデンは海峡を隔てて一衣帯水の距離にある(今はコペンハーゲンとスウェーデン本土は橋でつながっている)けど、デンマークに住んでいるスウェーデン人はスウェーデン野郎と差別されている、という描写が面白かった。言語もよく似ているそうだし、極東から見てるとまるで違いがわからんのだが。

追記:そういえば『ブラック・ジャック』にもこういう話あったな。あれの方がはるかにうまく処理していた。

追記2:OVA版『BLACK LAGOON』の最終回観た。これも報復と赦しの話なんだった。原作と比べた時、ラストシーンのロベルタの扱いに『トゥルー・グリット』の影響を感じないでもない。


『ハウスメイド』
韓国版『家政婦は見た!』。ネタバレにつき若干改行。














・・・・・・これ、夢オチだよね?
冒頭で投身自殺したのが主人公。作中のラストシーンに登場するのは、彼女の見ている末期の夢。唐突に登場したり、いつの間にかロープを準備していたり、首をくくったのになかなか死ななかったり(普通は頸椎骨折で即死するとされている)、死体から火が出たり。
全部夢だから、と考えれば何の矛盾もない。

とすると、『マルホランド・ドライブ』に似た映画だな。

2011年9月12日(月)
昨日の補足
2つほど。
発電用風車、近隣から健康被害の訴え続々 聞こえない超低周波音に悩む

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110909-00000302-yomidr-soci

読売新聞(ヨミドクター) 9月9日(金)12時23分配信
発電用風車、近隣から健康被害の訴え続々 聞こえない超低周波音に悩む

緑豊かな静岡県南伊豆町の山間に、木工業の沼田松雄さん(63)が5年がかりで妻(52)と一緒に建てた自宅兼作業場がある。
正面の山の頂に目をやると巨大な発電用の風車が「ゴーッ」と音をたてて回る。直線で440メートルの距離だ。周辺にはさらに16基の風車があり、これらの風切り音の一部も、山間を抜けて耳に届く。だが、問題なのは耳障りな騒音よりもむしろ、聞こえない超低周波音だった。
民間業者が風車を建設したのは2009年のことだ。同年11月末に試運転が始まると、風車から数百メートルの距離に住む人たちに体調不良が表れた。沼田さんと妻は同年12月以降、めまいが頻繁になり、耳の痛み、首や肩の張り、胸や背中の圧迫感、不眠、高血圧などに見舞われた。
翌年3月、「体が持たない」と、20キロ・メートル離れた所に家を借りた。風車から遠ざかったためか体の不調が消えた。今は日中、自宅兼作業場で仕事をし、夕方には借家に戻る。沼田さんは「国が推し進める『エコ』な発電で、なぜ我々の健康や生活が脅かされなければならないのか」と憤る。
夫婦の体調不良を、成蹊大理工学部非常勤講師の岡田健さんは「風車が風を切る時に発生する超低周波音と空気流の影響」とみる。
超低周波音の健康への影響は30年以上前から知られていた。石川島播磨重工業(現IHI)に長く勤務した岡田さんは工場や空港の周辺住民から寄せられる動悸(どうき)やめまい、頭痛などの苦情に対応し、工場のボイラーやコンプレッサー、航空機エンジンなど、音の発生源の改良を手がけてきた。
「消音装置などで超低周波音を減らすと、途端に症状が改善し、苦情が減ることが分かった」という。
低周波音問題(超低周波音含む)を巡っては、環境省が04年、影響の有無を判断する目安となる値「参照値」を公表した。家庭でのヒートポンプ給湯器の普及などに伴い、周辺で低周波音の苦情が相次いだからだ。
ところが、「一部の音響専門家らが値を決めたため、耳に聞こえない音波は考慮されず、参照値以下の超低周波音に健康影響はないと切り捨てられた」と岡田さんは指摘する。この解釈が風車の問題でも用いられ、被害の軽視につながっているという。
健康被害の訴えは、風車が立ち並ぶ同県東伊豆町や愛知県豊橋市などでも相次ぐ。環境省は昨年度から、風車の低周波音の影響調査を始めたが、住民の声をきちんと受け止め、民家に近い風車は回転数を落とすなど、早急な対策が必要だ。

■超低周波音
 周波数20ヘルツ以下の聞こえない音。風車では、羽根(ブレード)による空気の切り裂きや、羽根の表面の乱気流で生じ、微細な空気振動として伝わる。

何をやっても問題はあるものだ。だいたいエネルギー白書を見れば解るが、再生可能エネルギーってオイルショックのときにひととおり検討して全部ダメ出しされてるのだ。もちろん技術開発は推進すべきだが、公平に言って望み薄だろう。
ちなみに、このニュースを読んで真っ先に連想したのが星野之宣の短編SF「ユニコーンの星」だった。地球そっくりの植民惑星に移住した人々が、自転轟音(地球と自転速度がわずかに異なるために発生する低周波)のため、情緒不安に陥っていくという作品。


こっちは最近の勉強から。戦時中、空襲に備えてバケツリレーの訓練をさせるために関東大震災の逸話がしばしば利用されたという。だが実は、
空襲により火災が発生した際の住民による消火活動を徹底させるために、関東大震災時の神田佐久間町住民の活躍ぶりがしきりに宣伝され、隣組による初期消火活動の重要性とバケツリレーの効果を説くための逸話としてしばしば引用された。
広大な地域が焼失したなかで、神田和泉町および佐久間町二丁目から四丁目の一六三〇戸が焼け残ったことは奇蹟であり、それが住民の目覚ましい活躍によるものであったことは事実である。しかし、それだけではなかった。鈴木淳『関東大震災』によると、この地区の北東側には内務省東京衛生試験所、北側にはミツワ石鹸化学研究所の不燃建築があって盾になっていた。衛生試験所西隣の三井慈善病院の自衛消防隊がガソリンポンプで放水して延焼や飛び火を防いだ。南側は神田川と電車通りが並行していて、神田川の水を汲み屋根にかけて飛び火を消すことができた。町内の帝国喞筒会社にあった目黒消防署向けの新鋭ガソリンポンプを使って放水することができた。そうしたなかで住民たちは「火が迫る以前から屋根に上って飛び火を防ぎ、延焼しやすい看板をはずし、路上の可燃物を除去し(中略)火が迫ると井戸から注水地点まで人々が二列に並んで立ち、燃え始める直前の、防御すべき建物に水を掛けた」。燃えている側の建物は、柱を切り、学校の運動用の綱を結んで多人数で引き倒した。
こうした住民の活動だけが後に強調され、そのほかの水利、不燃建築物・ガソリンポンプなどの好条件の存在が無視されたことは大きな問題である。科学的分析によって成功の要因を明らかにし事態の改善を図るのではなく、非科学的な精神論を強調する材料にしてしまったのである。

黒田康弘『帝国日本の防空対策 木造家屋密集都市と空襲』(新人物往来社、2010年)266-268頁。
関係者の努力という美談ばかりが強調されて科学的検証を欠く、という態度は今回も大いにありそうだ。

2011年9月11日(日)
あれから半年


完全な
収束への途はまだまだ遠いが、福島第一原発の事故処理はまずまずうまくやってきたのではないか。とりあえず放射線数値は安定しているし、炉心のこれ以上の破壊もなさそうだ。

後出しジャンケンの有利さ全開で、事故直後の騒ぎを少し振り返っておきたい。

まずガスボンベ騒動
最初の水素爆発の映像を見た東電幹部が、タービン建屋に置いてあったガスボンベの爆発ではないか、と言ったというのだ。

そんなわけないだろうと各所でツッコまれ、嘲笑されていた。

しかしそもそも、これ本当だろうか?私の知る限り、ソースは毎日の報じたこの記事だけ。続報も詳報もない。
誰が、どんな情報を元に、どのような文脈で言ったのか。正確にはなんと言ったのかわからないでは、軽々に評価したくはない。
私は、原発にガスボンベがあるということ自体を知らなかった。仮にガスだとしたら、どのくらいの量あったのか。種類はプロパンかLPか都市ガスか。その爆発力はどのくらいなのか。プロパンでも、量によっては大爆発を起こす。

http://www.youtube.com/watch?v=xxNpz41wSOg&feature=related

日本の主なガス爆発事故(1970年の天六ガス爆発事故は死者79人)

ついでに言えば水素爆発だって、水素の酸化現象が急激に進行するガス爆発の一種である。
映像だけからガス爆発ではあり得ないと断言するには、そのくらい考慮しなければならないはずだ。

まあ上は屁理屈で、実際にはきわめてクリティカルな状態だったにちがいない。だがその上で、私はやっぱりこのガスボンベ発言をした人物を笑う気にはなれない。
震災直後、みなが情報の少なさに不安を覚えたろう。東電や政府に不信を抱いても仕方がない。だが不測の事態が現に進行しているときは、当事者だって何が起きているのか解らないのである。
今回の場合、情報源がテレビで、しかもそれしかないというのが不幸だった。
業務の実担当者が、上司に状況を聞かれて、「テレビで見た以外のことは解りません」と言えるか?もちろん、正確な状況は不明という「正しい」情報を伝えるのが正解なのだが、上司も殺気立ってるのにそんな他人事みたいな報告ができる人は少ないだろう。
だからこそ、「タービン建屋にガスボンベがある」という担当者でしか知らない情報を伝えてみたくなったのではないか。
このとき自信を持って笑えた人は、自分が同じ状況に置かれたらどうするだろうと我と我が身に置き換えて考える想像力がないか、組織の中で責任ある立場に着いたことがないか、さもなければその両方であろう。

情報開示が遅いという不満も多かった。繰り返すが当事者だって、確かなことは解らない。よく分からない状況でうかつなことを言って後で訂正することになるとかえって面倒になる。なら状況が判明するまで確言を避ける、というのはひとつの見識である。そのタイミングが適切だったかどうかは検証されなければならないが、リアルタイムで判断できるものではないだろう。
そもそも情報開示を求める意見は、正しい情報が提供されればみな正しい判断を下して冷静な行動をとる、という考えが前提にある。私は、とてもそんなに楽天的にはなれない。先頃亡くなった小松左京の短編だったと思うが、政府が情報を提供すればするほど不安が増大し、パニックが拡大していくという話があったと記憶する。震災直後、食料も燃料も備蓄は十分あるという政府の「正しい」説明にもかかわらず、買い占めパニックは止まらなかった。空っぽになったスーパーの棚と、1人1本までのペットボトルを幼児や爺婆まで動員して、被災者そっちのけで買い漁った浅ましさを、よもや忘れたとは言わさない。

3つめは、作業員の苛酷な生活環境に関する報道。初出は4月20日のワイドショーのようだが、食事はカップラーメンだけ、布団もろくになく床に雑魚寝、といった待遇に、義憤を覚えない人はいなかったろう。しかしこれについて東電を非難した人たちは、誰に、何を、どうしろと言いたかったのだろうか。
200人の作業員全員に行き渡るカップラーメンが、どれほど膨大な量になるか想像してみるといい。しかも1度や2度ではなく、数ヶ月、数年の長期にわたって供給し続けなければならないのだ。そこらの中小企業が、「文房具がなくなったからホームセンターで買ってきて、領収書忘れずに」と言うのとは訳が違う。

Logisticsという言葉がある。軍事用語では後方とか兵站と訳される。要はメシ・フロ・ネルの手配だが、「アマは作戦を語り、プロは後方を語る」という格言があるほど重要な概念だ。
具体的には、調達・会計・保管・輸送・配分からなる。これを補給の5機能という。
いくら大企業でも一電力会社に過ぎない東電に、そんな機能があるとは思えない。食糧の備蓄だって怪しいものだ。
調達ひとつにしても、必要なものの機能と数量を決め、仕様書にまとめ、業者に公示し入札して、納期までにそろえられる業者が応札する、という段階を踏む。事情が事情だから業務は簡略化されるだろうし予算の心配もなかろうが、担当者に知識と熟練を要する大変な業務だ。輸送に至っては、完全に運送業者任せだろう。事故直後は道路事情も劣悪だったし、放射能を恐れてドライバーが現場まで行ってくれないという報道も目にした。
何かというと自衛隊が出動するのは、これらの機能を完備しているから、という理由が大きい。業界では「自己完結性」という。

幸い、作業員の環境はかなり改善されたようだ。炎天下に防護服を着込んだままの作業を少しでも楽にするため、送風ファンを仕込み、保冷剤を体にまくのだとか。

つい先日、こんな報道があった。

スペイン皇太子賞に「フクシマの英雄」=原発事故対応の作業員ら
時事通信 9月7日(水)22時29分配信
 【パリ時事】スペインのアストゥリアス皇太子財団は7日、人類の発展への貢献をたたえる2011年のアストゥリアス皇太子賞の平和部門に、東日本大震災に伴う福島第1原発事故後の対応に従事した作業員ら「フクシマの英雄たち」が選ばれたと発表した。スペインのオビエドで10月21日、授賞式が催される。賞金は5万ユーロ(約540万円)。
 審査委員会は事故対応への従事者として、東京電力作業員のほか、東京など国内各地から派遣された消防隊員、自衛隊員を挙げ、「彼らの勇気と模範的行動は、国際社会で英雄と呼ばれるにふさわしい」と称賛。さらに「これらの人々の行動は、使命感、逆境に際しての自己犠牲、寛容、勇気といった日本社会に深く根付いた価値を体現したものだ」とたたえた。


これ自体は当然の受賞だし、いい話だと思う。しかし。

私は『踊る大捜査線』の「名セリフ」(と称する)「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」というやつが大嫌いだ。
こういうのを名セリフと思うセンスもお粗末だが、内容からして間違っている。不測の事態が起きたとき、それに対処する時間も、物資も、人材も、リソースは常に足りないものだ。方針を示し、限られたリソースをどこに投入するか。その判断が指導者の責任だ。事件は現場で起きるかも知れないが、解決するのは会議室なのである。

さっきの話で言えば、送風ファンや保冷剤の使用を考案し、調達し、供給しているのは誰かと言うこともときに考えてほしいと思う。

私自身は原発に賛成でも反対でもない。積極的に推進はしないが、性急に廃止を求めようとも思わない。代替エネルギーの目処が立つまでは頼らざるを得ないだろうし、目処が立ったら乗り換えていけばいいだろう。いっそ石油に回帰するのもありではないか、と思っている。石油はいずれ枯渇すると言われながら40年、一向にその兆しはないし、温暖化と炭酸ガスについても個人的には懐疑的に見ている。信じられないだろうが、今から30年ほど前には地球は氷河期に向かっているというのが定説だったのだ。ならあと30年ほど経ったらまた変わるだろう。そういや、オゾンホールとか環境ホルモンてまったく聞かなくなったな。危険をあおった連中はどこで何してるのやら。

ひとつ言えるのは、日本という国の環境-資源がなく、人口ばかりが多く、ユーラシア大陸の東の出口を扼する位置にある、という環境は変えようがない、ということだ。

この夏は、何とか停電なしにのりきった。節電の成果でもあるが、関係者の努力にはつくづく頭が下がる。ただ私が心配なのは、電力をめぐる議論が「冷房を我慢すればいい」というレベルに矮小化されないか、という点だ。
エネルギー白書によると、電力需要の43%が産業部門でしかもその9割は製造業が占めるという。
http://www.enecho.meti.go.jp/topics/hakusho/2010energyhtml/2-1-2.html
民生部門は31%で、かつ家庭部門はその4割ほどに過ぎない。

資源を持たない日本は、原料を輸入し、付加価値を付けて高く売る加工貿易に頼る以外に、外貨を稼ぐ途がない(最近は知的財産権の重視などを打ち出してはいるが、全国民がコンテンツ産業で食っていけるとはちょっと想像しにくい)。食料も燃料も外国から買っている。エネルギー問題とは、日本国民1億3千万人をいかに食わせていくかという問題なのだ。


最後に希望を持たせる話。
矢部孝、山路達也『マグネシウム文明論』(PHP研究所、2009年)。



海水から太陽光励起レーザーでマグネシウムを取り出し、燃料として利用する。使った後は、またレーザーで還元し完全にリサイクル。温室効果ガスも出ない。しかも石炭発電所のインフラをそのまま利用でき、取り扱い上の危険もないというまさしく夢のような話。
アニメ好きとしてはシズマドライブ!と叫びたい。ウマ過ぎて眉にツバしたくなる話だが、れっきとした学術誌にも同趣旨の論文が掲載されている。

「マグネシウムと太陽光励起レーザーによる新エネルギーサイクル」『レーザー研究』第 38巻第3号(2010年3月)
日本機械学会第18回環境工学総合シンポジウムの講演要旨

本当かどうか判断する能力は私にはないが、これだけは言える。人類の未来を築くのは、ヒステリックなデモなんかではなく、地道な技術開発である。

「石器時代が終わったのは、石がなくなったからではない。同様に石油時代もいずれ終わるだろうが、そのころには石油の有無などどうでもよくなっているだろう」
     ある産油国高官の言葉。ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』より。

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