更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2008年2月29日(金)
「戦前の少年犯罪」完結編

もう一日このネタで。

集めた事例もさることながら、著者の分析検討も実に面白い。
例えば、戦前は若者による老人殺害が非常に多かったことから、2.26事件を「暴走する若者が老人の政治家たちを殺害した世代間闘争」と解釈してみたり。
あるいは、徴兵検査の失格を背景にした犯罪からこんなのも。

『戦争が始まるとどこの国でも若者は愛国的になってみんな兵隊を志願して学校がカラになってしまうものなのに、日本だけは学徒出陣で無理やりひっぱられるまでは学生はほとんど志願しませんでしたし、その後もまだ免除のあった理系に大量の学生が流れたりしました。師範学校卒業生は二八歳まで小学校教師をやってると通常は二年の徴兵が五ヶ月で済むという特権がありまして、そのために中学教師をしながら実体がないのに小学校に籍を置いて徴兵忌避で逮捕されるような事件さえ続発しておりました。
 戦争がどうのこうのというよりも、欧米と違って自由奔放に育ってきた日本人はもともと規律正しい団体行動が苦手なんではないのかと云う人もいます。そんなのが平気になるのは軍隊方式が浸透した戦後のことで。
 日本の軍隊では下克上なんて言葉が流行って上官に逆らうのがあたりまえのようになってましたが、こういうことも関係あるのではないかと思われます。』

「戦争が始まるとどこの国でも若者は愛国的になってみんな兵隊を志願して学校がカラになってしまう」状況といえば、「西部戦線異状なし」に描かれている。
日本で学徒出陣が始まったのは昭和18年10月。開戦から既に1年10ヶ月を経過し、ソロモン、ニューギニア方面での米軍の反攻が激しさを増し、退勢が明らかになりつつあった頃である。一方のアメリカは、開戦と同時に学生の徴兵に踏み切っている。日本の2倍の人口と10倍の生産力を持つ国が、である。要するに日本には、本気で戦争する覚悟などなかったのだ。


一方、戦前はネット心中なんてメじゃないほど意味不明な心中が多発しており、大島三原山火口に集団で飛び込むのが大流行したのだとか。これはそんな事件の一つだが、後の地の文を熟読あれ。

『「昭和一○年八月二○日
伊豆大島の三原山で、広島市の無職少年(18)ら男女四人が飛び込んで自殺した。裕福な貿易商の長男で私立簿記学校を中退、向かいの子ども洋服店の長女(17)に恋したが相手にされず、この洋服店の後妻(32)が夫が冷たく先妻の子である長女への反発心もあって二女(6)を連れて心中することを決意、女店員(18)に告げると自分も一緒に死にたいと云ったので八月一七日に四人で家出したもの。後妻は去年にも店員と家出している。」

最近は萌えハーレムアニメという主人公がいろんなタイプの女性に取り囲まれているヲタクの願望をそのまんま作品にしたようなものがあったりするのですが、この女性三人と心中するニート君はまさしくそのまんまで、しかも取り合わせが、人妻、幼女、同い年の満一七歳と完璧です。こんな幸せな状況で死ぬこともないと思うのですが、心中こそが歓喜の極みなのでありましょうか。』

この著者もこちらの世界の方のようで。

2008年2月28日(木)
続「戦前の少年犯罪」

昨日の続き。
本書を読んでいて、一つ気がついたことがある。ちょっと引用が長くなるがご容赦を。以下、太字は全て引用者による。

『昭和二年一月三○日
茨城県真壁郡の自宅で深夜一時、中学三年生(19)が病気で寝ている母親に卵を食べさせようとすると、小学校校長の父親(46)が酔って怒ったのでカッとして鉄瓶を額に投げつけ全身を殴って、二月六日に死亡させた。病死したと届けたが、二月八日に逮捕。母親も同じ小学校の教師だった。
父親が酒乱という事情を考慮されて一審で執行猶予判決が出て確定する予定だったが、三月十五日に同じ村で少年が父親を殺害して、さらに六月十一日に隣村でも少年の父親殺しが起こって影響が憂慮されて控訴され懲役三〜五年の不定期形となった。』

『昭和二年三月十五日
茨城県真壁郡の自宅で夜、長男(19)が就寝中の元小学校校長の父親(63)をマサカリで殴って殺害、逮捕された。父親は教師時代から金貸しで莫大な資産を築いていたがケチで、長男が昨年一○月から結核になっても医者にも見せず、「この肺病野郎。金ばかり使いやがって治りはしない。早く死んでしまえ」と罵倒されたので復讐したもの。
一月三○日の事件の被害者と同じ学校の前の校長だった。無期が求刑されたが少年法によって、下妻裁判所は懲役五〜一○年の不定期刑判決を出した。』

『昭和二年六月十一日
茨城県真壁郡の農家で、次男(19)が寝ている父親(49)を日本刀で斬り殺して、刀を持ったまま一○キロ離れた警察署に自首した。長男が常に両親を虐待し、父親が一週間前から病気になっても看病もせずに「働くのが嫌で仮病をしている」などと云っているのを見て、いっそ殺したほうが楽になるだろうと考えたもの。真面目で親孝行で表彰もされていた。』

『昭和二年一月一八日
茨城県真壁郡の自宅で深夜一時、小学校高等科一年生(12)がカミソリで腹を切り、気づいた父親が医者を呼びに行っているあいだにさらに頸動脈を切って自殺した。足が悪いことを友人にからかわれたため。』

『昭和一六年一○月二六日
茨城県真壁郡の農家で深夜三時、四男(17)が就寝中の長兄夫婦(38,27)をナタで殴って重傷を負わせ、次兄(28)の長男(9)と長女(1)の二人を殺害、逃走したが周辺住民総出で警戒中の四時に戻ってまた長兄の頭をナタで殴って逃走、昼に逮捕された。
 小学校では級長も務めており、昨年に小学校高等科(現在の中学に相当)を優秀な成績で卒業したが農作業もせずにぶらぶらして、読書をしながら思索に耽って創作に熱中、兄に叱られていた。同じ村の少女(17)に恋文を贈ったが相手にされず、一○月二五日の夜に少女を訪ねて家族に追い返され、深夜○時に友人宅で青年団服を借りてゲートルをつけ遺書を書いてから、深夜二時に隣家で日本刀を借りようとして断られている。犯行後の朝六時に少女を訪ねて家族に怒鳴りつけられナタを投げつけて逃げ、カミソリを所持してうろうろしているところを見つけられた。祖父から血族結婚が続いている血統を断絶するため、次兄の次男(3)だけを後継として残し、母親(58)、弟(14)を含めた一家皆殺しにして少女と無理心中をする計画だった。父親はすでに死んでいる。』

『昭和一○年八月一九日
東京市神田区で、印刷業者宅の女中(19)が赤ちゃんを産んですぐに窒息死させ、翌日、橋から神田川に捨て、八月二四日に死体が発見され逮捕された。茨城県真壁郡の村で男との関係が噂になったため、三月に妊娠したまま上京していた。』

『昭和三年七月二八日
茨城県真壁郡の小学校教室で、高等科1年生(14)が同級生30人以上に殴られ傷害を負った。教師が修身の授業に「掃除をさぼった者は殴ってもよい」と云ったため。父兄の間で大問題となった。』

もうおわかりでしょう。わずか300ページの本の中でこの登場回数。ちょっと多すぎないか、茨城県真壁郡。常識的に考えれば、著者が調べた新聞が、この地方をカバーする地方紙だったからなのだろうが、最初の4件はたった半年の間の事件である。何か悪い霊脈でも走ってるんじゃないか?と心配になる。昭和16年の事件なんか、『祖父から血族結婚が続いている血統を断絶するため』なんて横溝正史の世界そのものだし。

ぜひ、「俗・下妻物語 仁義なき戦い篇」とか言って映画化してほしいものである。監督は北村龍平で。



「実写監督が手がけたアニメ映画」に、
舛田利雄の「FUTURE WAR 198X」('82)と、
大林宣彦「少年ケニヤ」('84)を追加。
http://www.d1.dion.ne.jp/~tnakamur/ohbayashi.htm

数ある角川の微妙な劇場アニメの中で、とりわけ映画史に名を残さなかった一本。「時かけ」の次の年だよ・・・。

2008年2月27日(水)
戦前の少年犯罪

噂の最終回見たさに、「School Days」のスカパー!再放送を観てみた。

・・・いや、こりゃ凄いわ。
まあストーリーを追う限り他の決着はありえないし、いっそ「オリエント急行殺人事件」みたいに全員一刺しずつというのもありかも・・・。

といいつつ、今日の本題はこの件ではなくて、お定まりのアニメやエロゲー批判の方。
心ある人は知っており、志ある人は主張していることだが、実は少年犯罪発生件数のピークは昭和35年である。

http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson2.html

少年犯罪は戦後すぐの時代が圧倒的に多く、国が豊かになった昭和40〜50年代に急速に減少し、以後ずっと低い数字で推移している。

では、アニメやマンガやエロゲーやネットやケータイはないけど教育勅語はあった時代はどうだったのか。
それを暴いたのが、標題の本である。その筋では有名な「少年犯罪データベース」管理人さんの単行本。戦前の新聞記事から丹念に事例を拾い集めた、大変な労作だ。

これを読んで解るのは、戦前は今よりずっとアナーキーで物騒な時代だったということ。
さしあたり、こちらの目次を見て頂きたい。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4806713554/syounentop-22

刀や銃器が野放し状態だったために、小学生が学校に拳銃を持っていって同級生を射殺してしまったなどという現代アメリカみたいな事件も起きている。ざっと凶器を見ただけでも、切り出しナイフ、肥後の守、八折り雪駄、出刃包丁、塩化水銀、ネコイラズ、白鞘の短刀、メートル尺、鉄瓶、マサカリ、彫刻用カナヅチ、日本刀、鎌、薪割り、斧、ナタ、硫酸、塩酸、火箸、アイロン、ワラ打ち槌と、もう何でもあり状態。

とりわけ鎌やナタ、斧あたりはわれわれにはなじみ深いものである(笑)。

結論。アニメやマンガやエロゲーやネットやケータイや教育勅語があろうがあるまいが、人は人を殺すし、子供も人を殺すのである。

昨日の記事と落差ありすぎですみません。この項少し続きます。

2008年2月26日(火)
「ラスト、コーション」

アン・リー監督の最新作。

年明けてからまだ4回しか映画館に行っていないのだが、久しぶりに凄い映画を観た。
158分もの長さを全く感じさせない、緊張みなぎる画面。
「ブロークバック・マウンテン」はなんとなく敬遠していたけれど、やっぱり観なきゃいけないかも。

映画はまだ死んでいない。
物語ることは、まだある。

2008年2月18日(月)
追悼ロイ・シャイダー

去る2月10日、俳優のロイ・シャイダーが逝去した。
「ジョーズ」('75)のブロディ警察署長役がいちばん有名だが、私にとっては「ブルーサンダー」('83)の主人公マーフィ役。試作戦闘ヘリ「ブルーサンダー」を巡る陰謀に気づき、ヘリを盗み出してロス上空で大空中戦を繰り広げる。映画の主役は戦闘ヘリなのだが、ヘリに負けないアクの強さで印象深かった。思えば「ジョーズ」では鮫とリチャード・ドレイファスとロバート・ショウに囲まれ、「フレンチ・コネクション」('71)ではジーン・ハックマンに喰われ、そういう意味では、主演作であってもバイプレイヤー一筋の人だったかもしれない。

私が高校生になって自主的に映画を観るようになり、初めてレンタルで借りたのが「ブルーサンダー」だった。言ってみれば、私をこの道に引っ張り込んだ張本人の一人がロイ・シャイダーなのである。ボクシングでつぶれた鼻に代表されるいかつい顔と、その割につぶらな瞳。アクション役者だが、実は舞台出身で歌って踊れる俳優でもあった。オスカーにノミネートされた「オール・ザット・ジャズ」('79)はボブ・フォッシーの自伝的作品とされるが、シャイダー本人にとってもそうだったろう。
シャイダーは’32年生まれだが、同時代の映画人としては、こんな人たちがいる。
’32年 エリザベス・テイラー、岸恵子、渡辺美佐子、田中邦衛、露口茂、仲代達矢、長門勇、ピーター・オトゥール、三谷昇
’30年 クリント・イーストウッド、ジーン・ハックマン、ショーン・コネリー、スティーブ・マックイーン
また、’35年生まれのウッディ・アレンより年上。

80年代以降は作品に恵まれず、近年はB級アクションやホラーに箔づけのための端役出演ばかりだった。「死霊の門」やら「パニッシャー」やら。「ディア・ハンター」のオファーを受けていた、というのは唐沢先生の日記で初めて知った。
そんな中で印象的だったのは、「ザ・ディレクター[市民ケーンの真実]」('99)。オーソン・ウェルズが「市民ケーン」を作り上げるまでの内幕ものだが、ウェルズのわがままに辟易しながらも映画の完成のため尽力するプロデューサー役を熱演していた。「自分の映画」という言葉を連発するウェルズに対して怒鳴る「君の映画だと?私の映画でもある!」というセリフは、脇を固め続けた彼の映画人生そのものだったのかもしれない、と今は思う。
報道によると、2004年に癌を発症し、4年に及ぶ闘病の末の死だったようだ。生涯を通じて警官役の多かったシャイダーは、病気に対しても果敢に戦ったのだろうか。
心から冥福を祈る。



ところで、前後してさる巨匠が亡くなったが、こちらはこれといって感慨もないなあ。
私の感覚では、この人は30年前に退場しているべきだった。何しろ’87年に「竹取物語」撮っちゃってるし。

2008年2月17日(日)
万延元年のラグビーその他

「実写監督が手がけた劇場アニメ」、その後少し追加。
「映画監督・舛田利雄 アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて」によると、「ヤマト」についてはTV放映の当初から、西崎氏に声をかけられて総監修的な立場で関与していたとのこと。決して劇場版製作のために呼ばれてきたわけではない。

むしろ、問題は「海のトリトン」('79)である。こちらは、「TV版どころか原作も知らなかった」(前掲書)にもかかわらず、やはり西崎氏の引きで呼ばれてきた。「海のトリトン」のTV版を監督しているのが富野氏であり、具体的にこだわっているのだとしたらこちらである可能性が高い。
現実問題として、「トリトン」が公開された’79年7月頃には「ガンダム」の本放送真っ最中(’79年4月〜’80年1月)であって、物理的に監督はできなかったろうと思われるのだが。

一方、岡本喜八監督の方は、エッセイ集「あやうし鞍馬天狗」「ただただ右往左往」及び作品解説「フォービートのアルチザン」に目を通してみた限りでは、潔いくらい「ガッチャマン」については何も触れていない。特に「フォービートのアルチザン」は、TVドラマや舞台、CM演出まで網羅しているのに完無視状態。

かわりに、一つ面白いものを見つけた。
桜田門外の変を描いた「侍」('65)の絵コンテの一部なのだが、「岡本監督はこのシーンを大老の首をボールに見たてた”雪中のラグビー戦”をイメージして演出。そのため下のような俯瞰図を書いた。」とある。



面白いのは、筒井康隆に全く同じアプローチの「万延元年のラグビー」という短編があることだ。発表は’71年。筒井康隆自身が岡本映画に傾倒していることを明らかにしており、前掲書にも文章を寄せている。もともとラグビーは、戦場で敵兵の首を奪い合ったことが起源とする説があるから、単なる偶然かもしれないが、何らかの影響があったとしてもおかしくはない。

なおこの短編は、とり・みきが「筒井漫画涜本」でマンガ化しており、さまざまなマンガ家の絵柄をコラージュするという技法で仕上げている。コラージュとカットバック。こちらは間違いなく映画を意識している、と思う。


2/18追記
東映が長編映画を作り続けられたのは、技術とか資本以前に「自前の配給網を持っていた」ことが最大の要因なのかも。このあたり、(アニメーター側でなく)経営側か制作側の証言が読んでみたいが。

2008年2月14日(木)
アニメージュ2月号

磯光雄特集が目当てで買ったら、「この人に話を聞きたい」で中村健治監督をとり上げていて、「イリヤの空、UFOの夏」第3話の演出担当の頃からのファンとしては、二重に得した気分。

あの画面の作り込み方といい、同じ東映出身だから細田守監督の影響を受けているのだろうと思っていたら、細田監督が「ハウルの動く城」を手がけていた時に、監督補を務めていたのですね。

『仕事が始まったら、細田さんが「ピンと来る事」しか言わない人だったんですよ、僕にとっては。それは生まれて初めての経験で「あ、こんな人がいるんだ!」と驚きました。それまで、細田さんが作ったフィルムを全部観たわけでもないし、特別ファンだったわけでもないんですが、一緒に仕事をしたら凄く気持ちよくて。自分でも、もし仕事を続けていくなら、一段階成長しないとダメだなと思っていた時期に細田さんと出会ったんですよ。
(中略)
僕は、細田さんをスタンダードなものを作る人だと思ったんです。真ん中を走っているというか、参考にしやすい人。細田さんの作るものは、無駄なものが全然ないんですよね。完成していて、しかも品がいい。僕からすると、ただクリエイティブに作るっていうレベルのもう一次元上の世界にいたんですよ。
 細田さんにも影響を受けつつ、ジブリにいる人たちからも影響を受けました。カットや芝居の意味について考えて作っていく。コップひとつを手に取る芝居に関しても、何が正しくて何が正しくない、みたいなことを考え抜いて作っていく。スケジュール内に決められた枚数でできればいいんだという現場と、真逆のことをやっている人達が目の前にいたんですね。大袈裟な言い方になりますけど、僕が求めている世界があったんですよ。(後略)』

それにしても、「30分3000枚が鉄則で、一枚でもオーバーしたら演出クビ」という世界から次々に新しい才能が生まれ、一方のジブリが後継者難に悩む不思議。
「イリヤ」を手がけたのは、この直後。もう、他の話数とはまるでレベルが違っていた。

−(モノノ怪について)どうして、言いたいことを細切れにしたり、抽象化するような語り方にしたんですか。
『映像言語で語る作品が作りたかったんですよ。つまり、台詞で説明するんじゃなくて、画が言葉になってる、みたいな作品にしたかったんですね。たとえば言葉で「愛」と言うのではなく、それを映像でなんとか醸し出しているというか。周りを固めていく事によってそれが浮き上がっていくような、そういうものを作りたいなと常々思ってて。要するに台詞でなんでもかんでも説明したりするのが嫌だったんですね。
 そういう事を、当時考えていたというのもあったんですよ。要するに映像を作る意義ってなんだ、みたいな事です。例えばテーマをセリフにして視聴者に伝えるなら、同じ事を本に書いた方がいいんじゃないの、と考えていたんです。むしろ、画で表現しないといけないような作り方に追い込んで作った方がいいと思っていたところがあったんですよ。(後略)』

爪の垢煎じて飲んで欲しい人がいっぱいいるなあ。

2008年2月7日(木)
セイバーメトリクスとカミカゼ

久々に野球の話。
口はばったいが、当サイトはセイバーメトリクス系のサイトとしていくつかのリンク集で紹介を受けている。セイバーメトリクスとは、野球を統計学的に把握する方法論である。私の場合片手間にやっているようなものなので、真面目なセイバーメトリクス系サイトに紛れると肩身が狭いのだが、逆に言えばこの程度でも通用してしまうほど、日本ではセイバーメトリクスという考え方が普及していない証拠でもある。
セイバーメトリクスにおいて打者の能力を測る基本的な指標の一つにOPSというのがあるが、「ひいきのプロ野球チームがある」「TVで中継を見る」という程度の人なら、たいがい知らないはずである。何しろ、新聞に載っていないし、スポーツニュースでも採り上げない。タイトルも存在しない。

セイバーメトリクス的な思考方法が注目されるのは、ほとんどの場合「送りバントの是非」という問題である。
統計的には、無死1塁から送りバントで1死2塁になっても、「1点とる確率は上がるが、そのイニングの得点期待値は下がる」という結果がはっきりしている。
北海道ファイターズのヒルマン前監督が、任期3年目でファイターズが優勝した時、「バントの急増」という現象だけをとらえて、日本的野球に適応したのだという論調を散々聞いたが、投手力が向上して1点とれば勝てるという野球ができるようになった結果に過ぎない、と語っている。(正月に放送したバレンタイン監督との対談番組)
要は、チームの特性に合わせてどういう試合運びを考えるかで決断すればいいだけの話なのだが、議論はすぐに「一般的にバントをするべきか否か」果ては「見ていて面白いかどうか」と逸れていってしまう。

統計的方法に拒否反応を示す人間の決まり文句が、「数字に表れない貢献がある」という奴である。例えば、イチローは強肩だから、イチローのところにボールが飛んでも、ランナーは一か八かの無理な走塁をしない。その結果補殺数が減るが、だからといってイチローの守備が下手だということにはならない。数字には表れないがチームに貢献しているではないか・・・。
ところが、これが実は既に数字で表されているのだ。「進塁阻止率」という数字である。
こんなのは氷山の一角で、おそらくありとあらゆるプレーが数字で表現されているはずである。

一つ、思い出したことがある。
オペレーションズ・リサーチ(OR)である。ORとは、簡単に言うと統計を駆使して最適行動方針を案出する意志決定の一手法である。いわばセイバーメトリクスの大元にあたる思考法だ。

実は、このORという手法が初めて実用性を証明したのが、カミカゼ特攻機への対策立案においてなのである。
太平洋戦争末期、敗色濃い日本陸海軍は神風特別攻撃隊を編成し、爆装した航空機で敵艦船に体当たりするという戦法を採用した。最初から死を前提としたこんな作戦を組織的に採用したのは、世界戦史に類例がない。
この「奇怪な戦法」に対して、米海軍が採用した対抗策がORだった。米海軍は統計学者に委託して、カミカゼに遭遇した将兵から膨大なデータを収集し、特攻機に攻撃を受けた場合の対処方法を編み出していく。
その結果が、「空母、戦艦等の大型艦は積極的に回避行動をとり、駆逐艦等の小型艦は回避運動をとるよりむしろ直進して対空砲火を有効に用いるべき」というものだった。米機動部隊はただでさえレーダーを駆使した近代的防空システムを有するのに加え、こうした定量的アプローチの前に、命を捨てての攻撃すら阻止されていったのだった。これはORの教科書に必ず紹介される有名なエピソードである。

柳田邦男「零戦燃ゆ 渾身篇」に、こんな文章がある。少し長いが、全文引用する。
『ワシントンの海軍基地内にある歴史資料センターを訪れると、日本軍の「自殺攻撃」あるいは「カミカゼ攻撃」に関する数々の報告書や記録写真が保存されている。
報告書には、特攻機の飛来状況、被弾状況、体当たりの成功・不成功の状況などを、克明に分析した記録写真を挿入してあるものもある。
激しい弾幕のなかを火だるまになって墜ちていく特攻機の最期を捉えた写真をじっと見ていると、複雑な思いにとらわれる。
火だるまの機体の操縦席では、日本人の若者が懸命に操縦桿を握っているはずである。彼は国家のためを思って出撃したのであろうか。墜落する機のなかで、何を考えたであろうか。精神主義、情念といったものが、写真を見る者の想念に浮かんでくる。
そんなことを思いつつ、写真を一枚一枚丁寧に見ていくと、ふと別のことが脳裏をよぎる。写真があるということは、撮影者がいたことを示す。対空砲火の炸裂音が耳をつんざき、特攻機が火に包まれて墜ちていくという状況のなかで、ファインダーに目をあて、写真のシャッターを切っている男がいたのである。おそらく彼は、燃える特攻機のパイロットの悲惨などについては思いを至らせることもなく、ただ調査分析に必要な決定的瞬間をとらえるという技術的なことしか、頭になかったかもしれない。
そうした撮影者の存在は、特攻という特異な捨て身戦法に対する米軍側の一つのアプローチの性格を象徴的に示している。一つのアプローチとは、自殺攻撃機による体当たりを避けるための方法を科学的に研究しようとしたOR(オペレーションズ・リサーチ)のことである。
ORとは、多くのデータや情報を集めて分析し、意志決定に有効なデータを提出しようとする経営管理手法であるが、そもそもの発祥は、第二次世界大戦中のイギリスにおける軍事作戦研究に遡る。そして、この手法ORは、米海軍による特攻対策の研究にも動員されたのである。ORは統計学の知識と計器的手法を中軸にしているから、特攻研究をするにしても、計量的処理のためのデータが重要となり、個別の、一機ごとの搭乗員の情念のことなどは全く無関係・無関心でよいことになる。カメラのシャッターを切る者の目以上に冴えた目が要求される。
いままさに墜ちなんとしている特攻機は、ORの目では何十分の一か何百分の一のデータにすぎない。米側にそういう目で処理されていたことを、特攻隊員が知ったなら、どんな思いを抱くであろうか。』
いかがだろうか。この文章には、日本人が統計というものに抱く感情が、ひいてはセイバーメトリクス的な考え方が普及しない素地が、見事に現れているように思う。
彼らのプラグマティズムというか、世界を定量的に把握したい、把握できるはずだという信念、しなければならないという執念には圧倒される。たかが野球にも、こんな「世界への向き合い方」の違いが現れるのである。

2008年2月2日(土)
実写監督がアニメを手がける

昨年末に発売された「機動戦士ガンダム劇場版メモリアルボックス」の解説書で、富野監督がインタビューで、こんなことを語っている。

−『ガンダム』の前哨戦的に『無敵超人ザンボット3』('77)の作業があったと聞いています。
「(前略)当時はアニメの劇場版を実写の監督に依頼するという邦画界の悪癖がありました。でも、それに異議申し立てしなければいけないと、『ザンボット』の作業を通じて確信しました。舛田利雄や岡本喜八、恩地日出夫といったアニメに携わった実写監督たちは、世代的にアニメ的な劇構造を頭の中にもっていません。だから、自分で編集をやるしかないと思ったわけです。」

ツッコミどころはいろいろあるだろう。
実名出しちゃってるよ、とか、30年も前のルサンチマンをつい昨日のことのように・・・とか。

舛田利雄は「宇宙戦艦ヤマト」('77〜)、恩地日出夫は「地球へ・・・」('80)、岡本喜八は・・・
え、岡本喜八?

私は知らなかったので慌てて調べてみたら、’78年の「科学忍者隊ガッチャマン」で製作総指揮を執っていた。
ガッチャマンTVシリーズ監督・鳥海永行氏の回想。
「劇場版は、正直言ってやりたくなかったんです。だって、あの世界でやりたかった事をもう一本作らせてくれればそれは燃えますが、営業の方が先走っちゃったから最初は断ったんです。だけど他人に任すと言われたとき、企画から3年くらい付き合ったものを他人に切り刻まれるのは嫌だなぁって思ってね。じゃあ、まあいいわ。俺は一緒に心中するってね。案の定そうなったけどね。(笑)
劇場版には総指揮に岡本喜八さんが入っているでしょ。当時はアニメの監督が市民権を得てなくて、実写の監督じゃなきゃ小屋に流せない時代だったんです。だから「独立愚連隊」の監督の岡本さんと会ってみたくてお願いしたんです。おかげで随分ためになりました。」(朝日ソノラマ「ガッチャマン大全集」より。太字は引用者)

この劇場版「ガッチャマン」はTVシリーズの再編集だが、岡本氏はいわゆる名前貸しのみだったらしい。

もう一件、「WEBアニメスタイル」の恩地日出夫監督インタビュー。
http://www.style.fm/as/13_special/mini_070618a.shtml
東映動画のプロデューサーが持ってきた話だ、と言っている。劇場アニメの老舗である東映が実写の監督を頼るのも、改めて考えてみると不思議な話だ。

他に目立つ例といえば、
「銀河鉄道999」('79) 監督:りんたろう 監修:市川崑
「ルパン3世 バビロンの黄金伝説」('85) 監督:鈴木清順 ホントかよ・・・

隔世の感という他はない。思い出すのは、昨年の「シンプソンズ」騒動。
某所で、オリジナル声優たちの立場を、「長年地道に作品を支えてきたあげく、劇場版という晴れの舞台で出番を奪われた」と表現していた。アニメ監督たちにも言えることだ。
まあそれが、創作へのエネルギーになっていたという側面もあるんだろう。

ただ、もともと映画業界はTVを「電気紙芝居」と見下していた。アニメ監督を排除するのは、TV屋全般への蔑視だった可能性もある。このへん、もうちょっと調べてみたい。


余談だが、山田康雄の追悼上映で、ルパンシリーズのオールナイトに行ったことがある。「ルパンVS複製人間」「カリ城」「バビロン」「風摩一族の陰謀」のラインナップだった。この種の濃いオールナイトは、上映が終わるたびに拍手が起きることがある。このときもそうだったのだが、「バビロン」の後だけは、ため息と失笑が漏れておりました。

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