今度はEXTRAですか。
ま、いいけどさ。
これまで散々書き散らしてきたように、私は「Fate」を「面白いけど失敗作」と評している。
「物語から導かれるはずのないハッピーエンドをくっつけて、台無しにしてしまった」という一点においてである。
ちなみに、「失敗作だけど面白い」のが旧「エヴァ」。この両者の間には、果てしなく深くて広い溝がある。
それはそうと、同種の失敗作がほかにもあった。
「舞−HiME」だ。
私は知人にこの作品の最終回のことを訊かれて、真顔で「一生観ないほうがいい」とアドバイスしたことがある。放送当時はネット環境になかったので世間の評価は知らないが、観たときはそのくらい脱力した。キャラ人気に頼って命脈を保っている、という点でも似ているし。
最近気がついたのだが、「Fate」と「舞−HiME」は同じ2004年の作品である(「Fate」は1月発売、「舞−HiME」は9月から翌年3月放送)。このこと自体は偶然だろうが、ちょっと示唆的だ。
以下の話は、あくまで私の経験範囲から考えたことで、特に裏付けはない。事例を挙げて反論するのは容易だろう。また、TVアニメと18禁ノベルゲームを同列に論じることの無理も承知で言ってみるのだが、この両作がああいうエンディングを迎えた、「迎えさせられた」のは、「ハッピーエンドにしなければ客が納得しない」という製作者側の判断によるものだと思う。
それ自体は大昔からある思考法だけれど、なぜこの年なのか?
私は、97年のエヴァショックの後遺症、もしくは反動ではないかと想像する。
で、話はしばらく前話題になったいわゆる決断主義に飛ぶ。
要は、「エヴァ」を筆頭とする「セカイ系」へのアンチテーゼとして生まれた作品群を指す(らしい)のだが、その代表とされるのが、「コードギアス」と「デスノート」である。
「コードギアス」は2006年から2008年(2期終了まで)。「デスノート」は2003年末から2006年連載。
両作品とも、超常の力を駆使し力ずくで世界を変えようとするピカレスクロマンだ。その主人公の造形が決断主義と称されるわけだが。
完結した今観返すと、むしろ重視すべきなのは、両作品ともスキャンダラスなストーリー展開から考えると信じられないほどに勧善懲悪、因果応報、健全で良識的で、ある意味保守的と言っても良いような結末を迎えたことではないか、と思うのだ。
そう考えてくると、ゼロ年代の10年間というのは、エヴァショックを克服して、「過酷なストーリーは過酷な結末を導く」というごく当たり前の原理を回復するリハビリ期間だったような気がする。「舞−HiME」にも谷口悟朗が関わっている、というのは結構重要なことかも。
最後にもう1回繰り返すけど、別の事例を挙げて反論するのはいくらでもできるだろうから、強く主張する気はありません、念のため。
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