未完の大釜 〜「Fate/stay night」雑感〜

聖杯伝説とは、もともとケルト神話に登場する願いを叶える大釜が原型なのだそうだ。

初めて手を染めたPCゲーム。面白かったし刺激的だったのだが、どうにも後味が悪くて困っている。発売後4年を経過しているだけに、ネット内の言論も出そろっている。いろいろと見て回ったところ、これらの論考が実に見事だった。

水際だった論理性で圧巻の批評がこちら。本来あるはずだった最終結論がない、という意見に大変な説得力がある。
Pasteltown Network Annex 〜Pastel Gamers〜

士郎とセイバーの関係性について詳細に分析されているのがこちら。
いざ冒険へ

作品全体の感想として一番同意できるのがこちら。
OTAPHYSICA

これだけ読んでおけばもう十分ではあるのだが、多少考えたところを書き留めておく。

1 Fateルート
「Fate」はもともと、セイバーの物語だという(「Fate side material±α」 )。それ故か、Fateルートの出来栄えは頭ひとつ抜きん出た、完璧なものである。人物造形、プロット、展開、心理の流れ、テーマの解決。もの寂しくも美しいラストシーンも、これ以外考えられない唯一無二のもの。
本作のドラマを転がしているのは、「士郎+セイバー」対「他のマスター+サーヴァント」という図式ではなくて、実は「士郎とセイバーの対立」そのものにある。対立という言葉が強すぎるなら、価値観の違いと言うか。聖杯を使って、かつての誤ちを取り返そうとするセイバーと、罪の重さを背負いながらただ明日を目指す士郎。反目しながら次第に理解を深めていくボーイ・ミーツ・ガールの基本構造が明確に描かれているからこそ、セイバーは他の2人と隔絶したメインヒロインなのである(注1)。従って、本作の真のクライマックスは、セイバーが士郎と聖杯の二者択一を迫られる教会の地下のシーンである。ここでセイバーは、士郎に完全陥落してしまうわけで、これは確かに美少女ゲームの文法だ。
このシーンの前にいわゆる、あー、Hイベントがあるのだが、このときのセイバーは士郎に強く惹かれていながら、その価値観に承服できていない。だから、「宝具を使ったから魔力の補充が必要」と理由をつけて自分をごまかしてしまっている訳で、いじらしいったらない。
テーマはこの教会地下で解決されてしまっているので、柳洞寺の決戦は、物語を終わらせるための段取りに過ぎない。・・・・・・なんて、エンド直前でデッドエンドにはまった腹いせなんですが。

改めて考えてみると、これって、タイムスリップ悲恋もののバリエーションだったんだ。
ということは、「時かけ」の同類である。そういえば、「起きてしまったことをなかったことにはできない(してはならない)」という主張も同じだ。
「過去をなかったことになどできない」「やり直すことなんてできない」と士郎は繰り返し口にする。それは正しいのだが、興味深いのはそれをゲームというメディアの中で言うことである。言うまでもなく、いくらでもリセットしてやり直し可能なのがゲームというものの特色だ。これは自分の存在意義を否定しかねない、ひどく倒錯した主張である。おそらくは、確信犯的な。
本作が持つ鋭さや痛みは、根元的にはここに由来するような気がする。


2 Unlimited Blade Worksルート
作者は、「Fateルートが問題提起、Unlimited Blade Works(以下UBW)ルートがその解答編、Heaven's Feel(以下HF)ルートがその応用編」と言っている(「Fate/secret book」)」。その解答編UBWは、士郎の掲げる理想の追求が突っ込んで描かれる。
しかし、セイバーというメインヒロインがあまりに魅力的なだけに、UBWもHFも、「いかにセイバーを物語から退場させるか」に汲々としている印象を受けてしまったが、まあそれはともかく。

さて、ネット内の論考の中で一際異彩を放ち、面白かったのがこの論考。
PANDEMONIUM

長文なので詳しくはリンク先を読んで頂くとして、まとめて言えば『「Fate」は、「士郎が、セイバー=竜=幻想と決別して、凛=宝石=財宝=現実を生きていく物語」』という論旨である。ユングを持ち出すあたりは私の趣味ではないが、この指摘には頷ける。私も2つ傍証を指摘できる。
1つは、3つのエピソードを通じて、凛の立ち位置が全く変化しないこと。これは、Fate、UBWでは桜が全く出番がないのといい対照である。
もう1つは、士郎とセイバーの関係性に着目したときの各ルートの構図。
つまり、Fateは士郎が自らセイバーを折伏する話、UBWは、凛がマスターとなる、つまり「財宝が自力で竜を従えてしまう」話。そして言うまでもなく、HFは、直接に士郎とセイバーが戦う話、というわけだ。
そう考えると、UBWのクライマックスで士郎がギルガメッシュと戦った(作劇上の)理由が分かる。
「士郎がセイバーに勝利する」のが本来ドラマ上のカタルシスであるべきところ、凛がその役を果たしてしまったので、主人公としては物語を終わらせるためにもう一つ段取りが必要になったのである。さらに言えば、このエピソードだけにセイバーが現世に残るエンドがあるのも、「士郎とセイバーの対立」が解消されていないからである。

ところでこのルートには、ある重要なモチーフが登場する。
「本物と偽物へのこだわり」である(注2)。目指した理想も借り物。創り出す剣も偽物。
それでも、ギルガメッシュに投影魔術で挑む士郎は、「偽物が本物に敵わないなんて道理はない」と叫ぶ。
これを聞いて、どうしてもある作品を思い出す。「トップをねらえ」である。周知の通りこの作品は過去の作品のパロディとオマージュだらけ、いやそれだけと言っても過言ではなかった。「トップをねらえ」監督・庵野秀明氏は、こんなことを語っている。
「アニメ・ファンはアニメのことしか知らないですからね。
それは、どういうことかと言うと、人は自分が昔に見たもの、経験したものしか作れないんですよ、感情や感動も、含めて。経験したことのないものは、『想像』で補うしかないのですが、これにしても基礎、ベースとなる知識が必要です。
人が『無』から『有』を作りだすことは、出来ないですよ。
ですから、アニメしか知らない人は、どうやっても自分が見たアニメしか描けないんですよ。
(中略)
去年、佐藤(順一)さんと『アニメージュ』の座談会でお会いした時、僕の話題で『これは自分のオリジナルではなくて他人からの借り物である、という事を、はっきりと確信犯として認識して使っている、それが新しかった』ということをおっしゃってまして。
それが謂わば、シミュレーショニズムみたいなものだと思うんですけど」(LD-BOXブックレットのインタビュー)
そう言いつつ最終回で怒濤の展開を見せてくれたのは、いまさら言うまでもない。いわば、偽物から始めて本物を超えてしまったというのに、これだけ謙虚と言うか含羞をはらんだ物言いをする。庵野監督は'60年生まれのオタク第一世代ど真ん中。対する奈須きのこ氏は'73年生まれ、ガンダムブームを小学生の時経験しているはずの、2.5世代である。13年を隔てて、なお本物へのコンプレックスがあるのが我らの世代なのだろうか。そう言えば、焼け野原の街という地獄絵図もそうだ。これが東宝の怪獣映画なら、即戦争体験を云々されるところである。日本人に共通する地獄のイメージなのか、実際に過去の作品からの引用なのか。(某特撮番組との類似も指摘されてたっけ)
自分が偽物であることを自覚し、本物を超えてみせようとあがく。「本物と偽物」というモチーフは「hollow ataraxia」にも継承され、ついに主人公自身が「偽物から始まり本物を超えて」しまった。それは士郎の言葉通り、コンプレックスではなく自信の表れなのだと思いたい。


3 Heaven's Feelルート
さて、問題はHFである。
最終的な「Fate/stay night」の後味の悪さは、ひとえにHFトゥルーエンドのとってつけたようなハッピーぶりによる。
(注3
HFルートに対して、「救いがない」という意見が散見される。ハッピーエンドなのになぜ救いがないと感じるのか?
それは、「作品中で救われていないから」である。
HFルートのストーリー上、大きな欠点(の一つ)は、あまりにも無関係な死人が多すぎることだ。士郎と桜は、そのことに多かれ少なかれ責任を負わねばならない。その罪の象徴たる行為が、黒セイバーを殺したことである。
セイバーが敵に回る、というのは作劇上優れた着想だし、先のリンク先にある、「理想を裏切った代償としてセイバーと戦うハメになる」という指摘も鋭い。
ネット内の感想を読んでいて、「黒セイバーの最期があっさりしすぎ。正気に戻り、マスターに別れを言わせてあげたかった」という意見を目にした。私も同感だが、それをすればおそらく、「セイバーによる赦し」として作用したはずだ。作者の意図はわかる。「セイバー殺し」が許されることを安易と感じてしまったのだろう。それ自体は誠実な態度と言える。問題なのは、それをそのまま放りっぱなしにしてしまったことである。
罪が許される道は、2つある。報いを受けるか、償うかだ。
HFトゥルーエンドには、このどちらも存在しない。
ハッピーエンドにすれば救われるのではない。物語のうちに救われるから、ハッピーエンドになるのだ。HFトゥルーエンドは、この部分を完全に取り違えている。
この点は、ノーマルエンドと比較するとよく分かる。ノーマルエンドでは、士郎は姿を消し、桜は償いの後半生を送る。「贖いの花」を咲かせながら。いつか彼女の罪は赦され、天国に迎えられるだろう。そしてもちろん、この地上に楽園は存在しないのである。このルートのタイトルがHeaven's Feelであるのは、あまりに皮肉だ。
・・・・・・ためらいもなくセイバーを惨殺し、しかもそのことを都合良く忘却し、体までも取り替える。
そんなものが新生であるはずがない。嘘で塗り固めた空虚な幸福。それがトゥルーエンドである。考えてみると、このエンドが満開の桜で終わるのは何か示唆的でもある。
何となれば、「桜の木の下には死体が埋まっている」のだから。
前出のシナリオ解析では、トゥルーエンドを世間一般の価値観を吹っ飛ばした姿、としており、慧眼だと思うが、人間が社会を営む生き物である以上、倫理や道徳や社会通念から離れたものをハッピーエンドだと提示されても、到底納得できるものではない。

私は普段、映画やアニメを観るにあたっては、ストーリー上の不整合はあまり気にしないことにしているのだが、HFルートは、どうにも不自然な点が多い。
「Fate side material±α」の「TYPE-MOON年代記」によると再三発売日が延期になっており、イリヤルートと折衷したことと相まって、シナリオを練り上げないままに進行してしまったことが察せられる。前述のインタビューでは、「HFルートについて後悔はしていない」と言っているが、わざわざそう発言せざるを得ないところにかえって鬱屈したものを感じる。

例えば、まず士郎が、黒化したセイバーを取り返そうとするそぶりすら見せないのが変。一方で、イリヤ救出に異常に執着するのが変。(読み返してみて少し訂正。士郎とイリヤの関係は、結構時間をかけて描写されていた)
注4
黒セイバーを士郎自ら殺すのはやむを得ないだろう。万人を救うことはできないというテーマにも合致する。しかし、傷ついて動けない相手に馬乗りになってためらうことなく惨殺ってのはないだろう。


この行動は、「激しい憎悪と狂気」を表すものである。士郎とセイバーの間には、それがない。いや、私もまだ人に馬乗りになって刺し殺したことはないが、フィクションにおいてそういうものだ、ということは断言できる。例えば以下を観てほしい。


http://www.youtube.com/watch?v=m1EsboiJIME&feature=related(5分40秒くらいから)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3069837
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8759043
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8328902

特に「喰霊−零−」の例は解りやすい。本作の黄泉には、冥に対して父を殺されたという正当な復讐の動機がある。それでも、これほどに禍々しい描写になる。そしてその直後に、黄泉は報いを受ける。
他のものも、下手人は全員が悲惨な末路を迎える。

確かに、フィクションの世界で何をやっても構わない。しかしそれは、あくまでエンタテイメントとして正しければの話だ。まして、こうした合目的的冷酷さは、衛宮士郎という男と対極にあるもののはずだ。注5
この描写を成立させるには、例えばこういう手続きが必要になる。それが判らないなら無能だし、解っていてやらないなら怠慢だろう。

何よりも、桜と世界のどちらを救うか、という問いに悩んでしまうのがまずおかしい。士郎の考える「正義の味方」とは、桜を犠牲にして世界を救う存在か?Fateルート、UBWルートで描写されてきた衛宮士郎なら、迷わず「両方を救う」と答えるはずだ。そこで悩んでしまう時点で、既に作為が透けて見えてしまうのである(シナリオが違うから性格も違うと言われればなにをか言わんやだが)。
ここに見えるのは、テーマに振り回され、ただテーマに奉仕するだけのキャラクターの姿である。ドラマは、血肉を持ったキャラクターの葛藤によって描かれる。テーマは、その結果としてほの見えるべきものだ。
注6
さらに言えば、桜だけを守るというのは、桜以外の全てを切り捨てるということである。黒セイバーがその象徴として扱われたのだが、実はそれでは足りないのだ。黒セイバーは、作中で明らかな敵なのだから。この選択を突き詰めるなら、味方であるライダーも、凛でさえも、桜のために犠牲にできるかを問わなければいけなかった。行き着く先は、士郎と桜の2人だけしか残っていない世界である。考えるまでもなく、それは修羅の道だ。間違ってもそんなところに幸福はない。

結局のところ、HFルートの不自然さの原因は全て、「桜と世界のどちらを救うか」という問いに帰着する。実は、そもそも「桜と世界のどちらを救うか」という問いの立て方が、間違いなのだ。より正確に言うと、この問いに二者択一で正解を出させようとすることが、間違っているのである。誰一人、こんな問いに白黒の二者択一で正解は出せないし、また出すべきではない。物事は、単純化しすぎると逆に本質を見失う場合がある。
そうした極限の選択を迫られる局面が絶対ないとは言わないが、例えば伝染病患者が発生した場合を考えてみよう。そりゃ隔離はするだろうが、いきなり殺しはすまい。患者を救うために手を尽くすはずだ。白か黒かの二者択一を迫られると、人は自由意志をなくしてしまう。人として採るべきは、第三の、より中庸な道なのだ。
注7


4 おわりに
最後に、ネット内の感想を見ていて気になったのは、士郎の追い求める理想に冷笑的なものが散見されたこと。
思想的裏づけがなく、腰の据わらないシニシズムほど見苦しいものはない。
確かに、この地上に全き正義が実現したことなど一度もないし、今後もないだろう。誰かが正義という言葉を弄するとき、その言葉が表す内実は何なのか、その運用は正しいかは、常に問い直す必要がある。
だがそれでも、正義という概念自体は、「正しい行いをしたい」という願いそのものは、確かに存在するのである。
注8
最近、たまたま映画「ラ・マンチャの男」を観たのだが、士郎の思想・行動をドン・キホーテになぞらえるのはあながち見当はずれではあるまい。ドン・キホーテを誇大妄想の狂人と断じるのはたやすいが、彼の見ている理想に触れて、なお自身を省みることのないわれわれは、はたして賢くなったのだろうか。注9


呉智英「サルの正義」から、ある文章を紹介したい。「Fate」を読み終わったとき、なぜだかこの文章を強く想起した。
湾岸戦争の折、ビッグコミックスピリッツが「戦争と平和」と題する特集を組み、有名人のコメントを集めたことがある。その特集に、中島みゆきも登場した。以下は、その中島のコメントについて呉が述べたものである。少し長いが、全文引用する。


「私(呉)は多大な関心を持って彼女のコメントを読んだ。しかし、彼女の空振りを見たような気がした。連載企画の偽善性を打ち返そうと、彼女は次のように書く。結末の一節だ。

そりゃ戦争は絶対反対だけどもさ
この戦争で被害を被った人たちに
どうしてあたしが済まなく思うの
どうして責任とか義務とか言うの
そういうのってムカつく。だって
あたしが殺したわけじゃないもの

おそらく、これを読んだ読書の相当多くが、中島みゆきという歌手は、繁栄の日本の中で享楽的な生活に安住しているだけの鈍感で自堕落な人間だと誤解するだろう。このような企画への回答は、初めから拒否した方が“賢明”だったのである。自覚さえない偽善者たちに誠実に答えるのは、むしろ愚かである。

中島みゆきには分かっていたはずだ。人は「あたしが殺したわけじゃな」くても、その被害者に「責任とか義務とか」があるのだ、と。そして、その責任も義務も実は負い得ないのだ、と。十六世紀から十七世紀にかけてのイギリスの詩人J・ダンはこう書く。ヘミングウェイの小説の題名にもなった有名な詩の一節だ(大久保康雄訳を少し改めた)。

なんぴとも孤島にはあらず
なんぴとも一人にては全からず
ひとはみな大いなる陸のかけら

ゆえに問うなかれ
誰がために弔鐘は鳴るやと
そは汝がために鳴るなればなり

イラクで、ベトナムで、シベリアで、広島で、世界中で鳴らされた弔鐘は、他でもないそれを聞く汝のために鳴らされているのだ。このことは、J・ダンでなくとも、中島みゆきでなくとも、誰しも心の底では分かっている。しかし、誰しもこれを口に出すことはおろか、意識に浮上させることさえ避けようとする。なぜならば、それは「世界に対する無限責任」(宮城公子「大塩平八郎」)を認めてしまうことになるからである。人は「世界に対する無限責任」を認めるほどに強くはない。それのみならず、活字で電波で厚顔な偽善者たちが「汝の無限責任」を言いつのっているのだ。わずかの言質も取られないように警戒しなければならぬ。かくして、多くの人が黙り込む。非力ではあるが誠実な人たちは、黙り込んで、しかし、深く悩む。
中島みゆきは、初期の傑作『泥海の中から』で、こう歌う。

ふり返れ 歩きだせ 悔やむだけでは変われない
許せよと すまないと あやまるだけじゃ変わらない

おまえが殺した 名もない鳥の亡骸は
おまえを明日へ 連れて飛び続けるだろう

ふり返れ 歩きだせ 悔やむだけでは変わらない
許せよと すまないと あやまるだけじゃ変わらない

ふり返れ 歩きだせ 忘れられない罪ならば
くり返す その前に 明日は少し ましになれ

ここに見られるのは、有限の人間存在が無限責任に雄々しく立ち向かう力強い決断である。悔やむだけでは変わらない。あやまるだけでは変わらない。悔やめ、あやまれ、と強迫する偽善者の言うことを聞いたって、なおのこと何も変わらない。では、何をなすべきなのだろうか。たぶん、答えは容易には見つかるまい。よしんば見つかったところで、歌の中にスローガンとして出せるほど、簡単なものではないだろう。しかし、それでもなお、明日は少しはましになれ。この決断こそが、鳥の亡骸を明日を目指して飛び立たせるのだ。」


士郎もセイバーも、有限の人の身で無限責任を果たそうと苦闘した。
万人を救いたいと願い、救えなかった人々のために涙するのは、決して無意味なことではない。
青臭いと笑わば笑え。空を見上げない者に、星を見ることはできない。
「たかがエロゲ」でそれをやろうとした作者の蛮勇を、私は全面的に支持する。
だからこそ、本作が「未完の大器」(先のリンク先の総評)に終わったことが、あまりにも残念だ。



     祈ろう、みなでこいねがおう
     すべての低き夢を一掃して
     高き目的を掲げて進めるようにと
     魔法から覚めた人のごとくに
     より強く、より高貴な者になれるようにと
     地に平和があるときに
          オースティン・ドブソン「地に平和があるときに」



脚注

注1
凛は、良くも悪くも最初から完成されたキャラクターであり、変化や伸びしろがない。どのシナリオでも立ち位置がほとんど変わらない(「導師」又は「協力者」の役)のも、根本的にはこのためである。それが魅力でもあるのだが。
一方桜については、後述するようにテーマを前面に押し出したために、ヤッちゃってから話が進む、というシナリオ上の構造的欠陥を持ってしまった。「士郎の行動の動機が、桜の躰に溺れているようにしか見えない」という、ミもフタもないけどそれなりに説得力のある感想を目にしたが、これがつまり、(Fateルートのように)きちんと段取りを踏まなかった結果なのである。
本文へ戻る

注2
Fateルートの冒頭でも、言峰が聖杯について、「いわゆるキリストの血を受けた聖杯ではなく偽物だが、それが体現する奇跡は本物」という趣旨の発言をしている。
本文へ戻る

注3
特に根拠はないが、私は、HFの本来のエンドがノーマルエンド、イリヤルートのエンドを流用したのがトゥルーエンドだろうと思っている。イリヤルートにおいては、士郎とセイバーの一騎打ちがメインプロットとなり、セイバーが自身の意志で士郎と敵対するという展開になったのではないかと。でないと、あのエンドでの黒セイバーの饒舌さ・マトモさが説明つかない。つーか、戦う相手が「最強の敵」→「自分自身」と来たら、後はもう「愛する人」しかないでしょ。
ついでに言えば、トゥルーエンドにおける士郎には、「生まれくるもの全てを祝福する」言峰に対峙するだけの動機も資格もない。アンリマユの誕生を阻むには、士郎なりの「正義」が必要なはずである。
以下、'08.10.6追記
「Fate」とは運命の意だが、同時に運命を司る三女神の意味もある(正確には「Fates」)。ギリシャ神話、というより「ファイブスター物語」で有名な、誕生、生涯、死を司る3人だ。
これが、メインヒロイン3人にぴたり符合する。とすると、HFルートのエンドは主人公の死であるのが当然だし、イリヤルートでやろうとしたことも見当がつく。死の向こうにあるもの、即ち再生である。
HFトゥルーエンドが本来イリヤルート用のエンディングではないか、という想像に一定の根拠を与えることになると思う。都合の悪いことをきれいに忘れ、壊れた体を取り替えるのを再生と言うなら、だが。さらに言えば、ここに現れる「魂と肉体の二元論的理解」は、平井和正と石森章太郎とサイバーパンクとグレッグ・イーガンと士郎正宗と木城ゆきとを経た現在、無邪気を通り越して犯罪的に幼稚だ。
本文へ戻る

注4
不自然と言えば、このあたりも指摘できる。

このルートに限って、士郎に絶対服従のギアスをかける凛の行動が変。
イリヤが、「凛のやり方では宝石剣は複製できない」と言っている伏線が未回収。
(「凛のやり方」ではなく、「アーチャーの腕」を使っているのですな。でもあの宝石剣て、なんで消えないんだろう)
桜が、「どんなときも士郎を守れ」と命じているのに、対バーサーカー戦でのライダーの行動が変。
ライダーに、シロウという口調を直させる演出は細やかで良いのだが、それなら黒セイバーが昔と同じ口調で話すことにショックを受ける、という描写が不可欠のはず。
ルールブレイカー一発で桜が救える、というのは確かに驚いたが、冷静に考えてみると何でもっと早く使わなかったんだ?(アーチャーの腕が使えるようになったのは桜が家出した後)とか、なぜセイバーに対しては使ってやらないのか?とか。
テーマ上そうしなければならないというのは、ストーリー上の必然性ではない。
凛が最初から士郎を気にしていた理由がHFで初めて明らかになり、しかもそれがさらに桜の憎悪をあおる、というあたりの構成は多義的で素晴らしいのだが。
本文へ戻る

注5
これは余談だが、似たようなシチュエーションを巧く処理しているのは、岩明均「寄生獣」。主人公新一は母を殺して姿を奪った寄生獣と対決するが、ぎりぎりのところでその手に残った火傷の跡を見て、殺せなくなる。あわやというところを協力者の宇田に救われる。宇田は語る。
「こいつはもちろん、きみの母さんなんかじゃない。・・・・・・でもやっぱり、きみがやっちゃいけない気がする」
これが人の心というものだ。このエピソードを契機に、新一が自分はまだ人間なのかを自問し始めるのが示唆的である。この作品が、凄惨なスプラッタシーンと情け容赦のない展開にもかかわらずこれほどの人気を得たのは、最後のところで人間の善性を信じる絶妙のバランス感覚ゆえに違いない。
それでも納得いかなきゃ、芥川龍之介「杜子春」を読んでくれ。
偶然かどうか、傷ついた「最強の寄生獣」後藤にトドメを刺す、というシチュエーションもある。これが成立するのは、後藤が最初から敵であり、完全に理解不能な相手であり、かつ残虐無比な殺しっぷり(あくまで人間の目から見て、だが)を時間をかけて描写しているからである。
・・・ところで、黒セイバーについては、別の解釈もできる。
最近初めて気がついたが、まだ士郎のサーヴァントだったセイバーが、死してなおいいように使役されるキャスターを目にして怒りを露わにするシーンがある。
またよく見ると、実は黒セイバーは、一度も士郎に危害を加えていない。いやそれどころか、バーサーカーを倒す以外はほとんど何もしていない。むしろこれは悪役として問題で、「冷酷な殺人マシン」という設定ならば、誰か重要キャラを殺すぐらいのことをさせておくべきだったのである(UBWでギルガメッシュがイリヤを惨殺したのを想起しよう)。理想を言えば凛だが、凛には桜を救うという役割があるから、おいそれと殺すわけにはいかない。そこで提案その2。コメディリリーフとして登場するだけでストーリーに何ら寄与していない、あの人を殺そう。士郎と縁の深いキャラクターだから、目の前で首でも刎ねれば効果ばっちりだ。
・・・冗談はさておき、黒セイバーに情けをかけるとDEAD ENDに至るが、そのときの彼女は「シロウ、初めてあなたを憎んだ」と口にする。もしかすると彼女は、言葉で脅しつけることで士郎を戦いから遠ざけ、彼女なりに救おうとしていたのではないだろうか。それどころか、士郎の手で自分を止めて欲しいと願っていたのではないか。そう考えると、従容として死を受け入れた最期にも納得できるように思う。(→「Realta Nua」通読後の感想
しかし、私は結構年季の入った読者・視聴者のつもりだが、ここまで思い至ったのは相当に考えてからである(心理学における「合理化と受容」という奴ですな)。一読してこれに気づけと言うのは酷というものだ。士郎にそれを気づかせたくなかったというなら、INTERLUDEで語るという方法があったはずだ。桜ルートには死ぬほどたくさんあるんだし。
本文へ戻る

注6
私が言うだけでは説得力ないので、識者の方のご意見を。
カルトな映画監督サミュエル・フラーの発言
「私はシナリオにテーマなど求めない。ただ登場人物がそのキャラクターに即したように行動しているかをチェックするだけだ」
舞姫論争
「1890年、石橋忍月と森鴎外との間に起こった文学論争。
忍月は筆名「気取半之丞」で「舞姫」を書き、主人公太田が意志薄弱であることなどを指摘し批判。これに対し鴎外は相沢を筆名に使い、「気取半之丞に与ふる書」で応戦。その後も論争が行われたが、忍月が筆を絶って収束。最初の本格的な近代文学論争だといわれる。」
平たく言えば、「こんな優柔不断な主人公が女を捨てたりできるわけがない」という話。
本文へ戻る

注7
ちなみに、YESかNOか右か左かと極端に走らせるのは、マインド・コントロールのテクニックの一つで、破壊的カルトの常套手段である。(スティーブ・ハッサン著「マインド・コントロールの恐怖」より)
「武装錬金」のカズキが似たようなシチュエーションで「全員を救う!」と大見得切ってしまうのは、少年マンガ的熱血御都合主義と見えて、実は意外と正鵠を射ているのだ。このテーマを巧く描いたのが黒沢清監督の「カリスマ」。また、正反対のテーマ「一人のために大勢を犠牲にすることが許されるか」を描いたのがスピルバーグの「プライベート・ライアン」である。
本文へ戻る

注8
でなければ、法というものが存在するはずがない。
いきなり卑近な例で恐縮だが、NHKの土曜昼に、「生活笑百科」という番組がある。暮らしの中の相談事を、法律上どうすればいいか、お笑いを交えて弁護士が解説する番組だ。私の母がこの番組をお気に入りなので、帰省しているときは一緒に見るのが習慣なのだ。私は法律には素人なのだが、この番組を見て解ったことは、「法は、完璧ではないが人の役に立とうとしている」ということである。何とか弱者を救おうとしている、ということが、よく分かるのだ。ここにも、小さな正義の実現を願う人たちがいる。

'09.4.1追記
今さら全文読み返す気力はないので記憶で書くが、士郎は「正義の味方でありたい」と言ってはいるが、(「ラインバレル」みたく)「自分が正義だ」とは言っていないはずだ。士郎の考える「正義の味方」とは、素朴で幼稚で現実離れしていて、それゆえに健全なものである。政治哲学者ハンナ・アーレントは、ナチスの犯罪の極めて合理的でシステマチックな様子を指して「悪の陳腐さ」と呼んだ。ならば「陳腐な悪」に対抗しうるのは、「陳腐な善」ではないだろうか。私はそうであって欲しいと思う。

本文へ戻る

注9
作者自身が士郎を「後天的な異常性格者、歪んだ欠陥品」と考えているのは興味深い。もっとも、ウィキペディアでにわか勉強したところによると、「ドン・キホーテ」の評価は時代によってかなりの変遷がある。ここでは、あくまで映画「ラ・マンチャの男」の解釈によっている。
本文へ戻る







その他余談あれこれ

桜の心の問題は桜自身が解決しなければならないという指摘は至極もっともなのだが、性的虐待を受けた少女に残酷な真実を突きつけるのが果たして救いになるものかどうか、私には疑問。私が男性だからかもしれないので、このへん女性の意見が聞きたいところ。
「精神分析家はあまり触れたがりませんが、ますます明らかになってきている事実があります。それは精神分析が明らかに悪影響を及ぼすという事実です。患者の状態を改善せず、むしろ悪化させることがあるのです。(中略)
共感的、友好的、楽観的で、患者に対して支持的で、いつでも必要なときにはすすんで助言を与えようという姿勢を持っている治療者は、患者の持つ不安を軽減し、治療を成功に導くことが経験的に立証されています。それとは逆の性格の、すなわち残酷、強迫的、悲観的、関心や暖かみが少ない、あるいは関心が患者に助言や援助を与えることより夢や行動の解釈にあるような治療者は、患者の不安をひどく大きくしがちであることも明らかにされています」(「精神分析に別れを告げよう」H.J.アイゼンク)
「PTSDのもっとも目立つ特徴の一つは、恐ろしい出来事のつらい記憶が幾度となく眼前によみがえってくることである。トラウマが意識から駆逐されてしまったPTSDの症例は、これまで一度も観察されていない。(中略)
『われわれの知る限りでは、強制収容所を体験した人々にも同じことが当てはまる。彼らの問題も、悲惨な思い出を忘れられないことにあるのだ』」(「フロイト先生のウソ」ロルフ・デーゲン)
精神の健康のためには、忘れてしまう方が健全なのである。

プレイするまでサーヴァントとマスターの関係がこう融通無碍に変化するものだとは知らなかった。もともと組み合わせの変化を楽しむものだったのだろう。凛ルートでセイバーが凛と契約した時には、浮気されたような気分になったものである。

アニメ版の欠点について少しだけ。
作画が演出がというのはもう言い尽くされているので、ストーリー構成上の問題を2つ指摘しておく。1つは、前述した教会地下でのセイバーの葛藤こそがクライマックスである、という点を理解していないこと。さもなければ、この重要なシーンをあんなにあっさりした描写で流す訳がない。彼女が「聖杯よりも士郎が欲しい」と言えるまでに、どれほどの葛藤があったと思う?
もう1つは、セイバーの髪型。アニメ版では、ラストシーンでセイバーが髪を下ろしている。本編で語られるとおり、あの結い上げた髪は戦う決意の象徴なので、最後の戦いを終えた際のこの演出は、非常に優れたものである。なのだが、それをやるんだったら、最終回以前に髪を下ろした姿を見せてしまったら意味がないだろう。怠慢としか言いようがない。

川井憲次のアレンジはさすが。
それに、川澄綾子。奇跡のようなキャスティングというものが時々存在するが、これも間違いなくその一つ。


「Realta Nua」通読後の感想

Hシーンがなくなって非常にすっきりした。むしろこれが本来の姿なのかも。
エロなしでHFルートをどうやって成立させるつもりなのだろうと思ったら、なるほど、全部吸血シーンに置き換えたわけか。これはうまい手。とはいうものの、PC版でさえ、なぜ桜にあれほど入れ込むのか説得力に乏しかったのに、もう完全に理解不能になってしまった。

もう1回通読してみて改めて言うが、私はHFルートが嫌いである。
感情だけで批判するのはアレなので、テーマ、思想、物語の論理、物語の倫理の4つに分けて考えてみよう。
まず第1にテーマの部分。
作者は、Fateルートが「士郎の壊れた心の描写」、UBWが「士郎の理想」、HFがその応用として「理想を捨て1人の女を守る」話と言っているのだが、先のリンク先では、「HFルートの結論は、作品全体の結論としては弱い。もう一つ、理想と1人の女の両立を図るルートがあるべきだったのではないか」と論考していた。
私は、実はこれが、Fateルートではないかと思うのである。FateルートとHFルートは、よく見るとシナリオ構造が似ている。いずれも「愛する人を救い、かつ世界を守る」というのがメインプロットだ。にもかかわらず、HFルートは「女を守る」選択を前面に押し出したために、結論が曖昧になってしまった。その点Fateルートでは、「セイバーの過ちをただして彼女を救い、聖杯を破壊して世界を守る」2兎を追って成功させているのだ。これがメインヒロインの威光と言うべきか。よく見ると「女を救うか世界を救うか」というジレンマも、Fateルートに既に出てくる。ライダー戦で魔力を消耗したセイバーを救うためには、人の魂を喰わせなければならないというくだりである。これを、第3の方法−例の荒技でクリアした。これが正しいエンタテイメントの在り方である。

以下の話は、私の大学の先生から聞いた話である。事件自体は事実だが、細部の裏は取っていない。それを承知の上でお読み頂きたい。
1977年9月5日、西ドイツの大物実業家ハンス・マルティン・シュライヤーが極左テロ組織・ドイツ赤軍に誘拐されるという事件があった。犯行グループの要求は、逮捕されていた仲間の釈放。西ドイツ政府は一切要求に応ぜず、警察の必死の捜査も虚しく、シュライヤーは10月19日遺体で発見された。
遺族は、結果的にシュライヤーを見殺しにした政府を相手に訴訟を起こした。争点はテロリストと交渉はしないという政府の判断の妥当性であったが、ドイツ最高裁は「テロリストを釈放して明日の人命を危険にさらすよりも1人の犠牲を甘受した政府の判断は、社会正義の実現のため妥当である」と判決を下した。
社会正義の実現」ですよ?
士郎の望む理想と正義を想いおこしてもらいたい。その理想は、現実のある国政府の政策判断により実現できるようなものだろうか?すると士郎の理想を実現するには、参院選に出馬して議員になればいいのだろうか?断じて違う。
士郎の望みは、「万人を救う」事だった。「世界を救うか桜を救うか」で悩むはずがない。「桜を救い、世界も救う」ことこそが士郎の理想なのである。とすると、HFルートでわざわざ問おうとしたことは何だったのだろう?つまり、HFは問いの立て方が既に間違っているうえに、問いきれなかったのだ。その結果、Fateルートの劣化コピーでしかなくなってしまったのである。

ついでだが、シュライヤーを見殺しにしたのは結果であり、警察の捜査が及ばなかったからである。何も積極的に見殺しにしているのではない。救出のために全力を尽くすのは当然のことである。
また、民主主義国家においては、為政者の判断はまがりなりにも国民の合意がある。アーチャーはそれなしに個人で判断していたわけで、そんなもの担えるはずもない。そりゃ摩耗もしようというものである。

第2に、思想。
テーマとはまた別に、このルートに特有に現れる思想があるのだが、私はそれが気に入らない。
まず1つは、セイバーを殺したとき士郎が言う「これからも奪い続ける。奪った分だけ幸せになる」というくだり。
「人は生きるだけで何かを奪うことになる」というのはまあ正しいだろう。問題なのは、「奪う」ことと「殺す」ことは同義ではない、という点だ。さらに言えば、「知らないうちにどこかの誰かを傷つける」ことと、「自分の手で、それもよく知っている人間を殺す」こととは断じて同じではない。このシナリオは、この点を意識的にか混同している。「生きるために他の生命を奪って喰うではないか」と言うなら、「家畜を殺して喰らう」ことと「人を殺す」ことは同義か?もちろん違う。普通の人間は、人を殺さずとも生きていける。具体性を欠いた本質論は、逆に本質からかけ離れてしまう。また、奪ったことを自覚したなら、その後に許されることは罪を悔やみ、償うことだ。自分が幸せになることが償いだと言うなら、人を殺してその遺族にそう言えるかどうか考えてみればよろしい。つまり私には、この士郎のセリフは「奪うことを積極的に肯定する思想」に聞こえてしまうのだ。これが共感できない第1点。
第2点は、聖杯の種明かし。聖杯が悪なのは、アンリ・マユなる悪魔を混入してしまったからだというのだが、私はそれがおかしいと思うのだ。アンリ・マユの出自と造形そのものは実に魅力的だが、彼のせいで聖杯が悪に染まったという考え方は、「正しい聖杯」が存在することを前提にしている。それは間違っている。聖杯を人為的に作り上げ奇跡を起こそうとする「歪んだ欲望」そのものが、悪なのだ。その奇跡が不老不死なんぞではなおさらだ。
                                               ・ ・
だから、Fateルートでセイバーは、聖杯の力が破壊にしか使えないと知るより前に聖杯より士郎を選ぶのであり、その決断は尊いのである。

次に「物語の論理」。
具体的に言うと、黒セイバーの扱いがぞんざいに過ぎるという点である。
メインヒロインが最強の敵として立ちふさがるというのは、本来もっと燃えるシチュエーションのハズである。それがなぜこんな陰惨な話になってしまうのか。
原因の1つは、セイバー側の動機がないこと。単に桜に使役されているだけというのは、いかにも物語の強度が弱い。それなら、先述したようにもっと悪逆非道ぶりを見せつけなければならないはず。これも先に述べたが、予定されていたイリヤルートでは、セイバーが自分の意志で士郎に反旗を翻すというプロットだったのではないだろうか。例えばだが、Fateルートの教会地下のシーンで士郎か聖杯かの選択を迫られたセイバーが、「士郎の助命を願うかわりに言峰につく」とか。そう考えないと、士郎とセイバーの対決シーンでの、「私は貴方にとってその程度の存在ですか」というセリフに、重みがなさ過ぎる。
もう1つは、黒セイバーをライダーと士郎2人がかりで倒していることである。そうでなければ勝てない、というのは単なる合理的判断。物語のキモとなる対決は1対1でなければならない、というのが私の考える「物語の論理」である。FateもUBWも、最終決戦は1対1だったことを想起してほしい。常識的に考えたら勝てなくたって、偶然に頼ることなく何とかしてしまうのが、演出の力であり主人公力というものである。

最後に、一番重要なのが「物語の倫理」。
傷ついた黒セイバーにトドメを刺したことである。
「戦って勝つこと」と「傷ついて動けない相手にトドメを刺すこと」は、断じて同じではない。
それは戦士と殺戮者の違いであり、人と外道の差である。
外道に身を落としても生き延びねばならない戦いがあり、物語があるというのは否定しない。だが「Fate/stay night」はそういう物語ではあるまい。何より、外道に人並みの幸せなどあるはずがないし、あってはならない。それが「物語の倫理」である。
黒セイバーを殺したことは士郎の罪として記憶(正確には本人は記憶してさえいないが)されるが、あの脳天気なトゥルーエンドのどこに罪と罰があるのか、教えてもらいたいもんである。しかも作り手は、アレを本気で大団円のハッピーエンドと思っているらしいのだから、正直言って私は正気を疑う。

うがった見方をすると、凛と桜でも同じシチュエーションがあるので、セイバーの方はこうせざるを得なかったという考え方もできる。それならそれで、やはり工夫がない。大体、凛が土壇場で日和ってしまうのも、私は初見で「そんな馬鹿な」と口走ってしまったくらいである。何で皆、桜にあんなに優しいのか、私はさっぱり理解も共感もできない。

それはそうと、黒セイバーのセリフ「シロウ、初めて貴方を憎んだ」「貴方は、私に貴方を殺せと言うのですね」。
憎悪。失望。やはり、セイバーの真意は士郎に殺されることだった、という解釈が正しい。少なくとも、川澄綾子はこういう解釈で演技している。川澄の演技力は知っているつもりだったが、この黒セイバーの演技はもう神業の域。
「殺らなければ殺られる」という冷徹さと、「その奥に隠した真意」を、わずかな声音や抑揚の変化で完璧に表現している。
また、セイバーを殺した後の士郎のセリフ「ありがとう。何度もお前に助けられた」は、初見ではあまりに身勝手に見えたが、抵抗することなく死んでいったセイバーの行為に対しても向けられているのだろう。
・・・・・・とは言うものの、「間違った選択肢」を選ばないとこのあたりが分からない、という構成はいかがなものか。
繰り返すが、外道に身を落として幸福になるなどありえないし、あってはならない。作り手もこの辺は自覚しているのだろう。士郎の記憶がどんどん欠落していくのが、その言い訳と思われる。しかし、正直成功しているとは言い難い。そりゃそうだろう、読者は覚えているんだから。
また、HFトゥルーエンドで視点人物が凛に代わってしまうのもそれが理由だろう。
無理もない。セイバーを殺し、しかもそれを忘れている士郎の内面など描けるはずもないだろう。そして私は、描けないから描かないという作者の態度は創作者の責務を果たしていない知的怠慢、と言ってはばからない。

最後にもう一つ。
執拗に、士郎に「自分がない」事を異常と言いつのるのが、私にはどうも納得いかない。人のために生きるというのは、そんなに不自然なことか?(
私とて軍人として、場合によっては世のため人のために命を捨てることを求められる商売をしているので、特にそう感じるのかもしれないが、人は自分のためにのみ生きるのではない。

「幸福な人とは、自分の幸福以外の物事−他人の幸福、人類の進歩、さらには手段としてではなく最終的な理想形としての美術や趣味など−を重んじることのできる人だ。他の何かを目指すことで、幸福を得ることができるのだ」 
   ジョン・スチュアート・ミル(イギリスの哲学者)


以前、「戦場における『人殺し』の心理学」という本を紹介したことがあるが、兵士は皆、信頼してくれる仲間のために戦う。
何も兵士に限らない。人はまるで関係ない他人のために死ぬことがある。
溺れる子供を見て、泳げないのを忘れてとびこんでしまう者。
沈む船から脱出するのに、数の足りない救命胴衣を譲る者。
線路に落ちた他人を救おうとして電車にはねられる者。

人に醜く卑しい部分は確かにある。
それでも、人はどうしようもないほど利他的にも生きてしまえるものなのであり、それこそが人間という存在の崇高さの根元である。
作者にはそうした人間性への洞察が足りないのではないか、と思えてならない。



「Realta」オリジナルのラストエピソードに、他愛もなく滂沱の涙。
アーサー王は死んだのではなく、アヴァロンで傷を癒しているだけであり、いつか復活するという伝承がある。このエピソードは、おそらくこれを下敷きにしているのであろう。
このラストエピソードがFateルートの続きであることこそ、Fateルートがもっとも本質的で完成された物語だったことの証明になるだろう。


:'09.4.2追記 内田樹は、「真に人間的な仕事」とは、「自分の存在理由を消去するために全力を尽くす」仕事だと指摘している。(→ 「内田樹の研究室:2ちゃんねると子育て」)
親の仕事は「子供が自分を必要としなくなること」。医者も警察官の仕事もそうだ。その仕事が理想的に完成した世界では、その仕事に存在意義はない。
それどころか、百科事典にさえこう書いてある。「人間ほど残忍な動物はいないといわれながらも、他方、ほとんどの動物が利己的にふるまうなかにあって、人間は利他的にも行動することが可能で、日常的に他人に尽くし、弱者を扶助愛護する唯一の動物である。


'10.3.17追記


セイバーのための覚え書き
以下は、パウル・カレル『焦土作戦』からの引用。カレルはドイツの戦記作家。本書は人類史上最大の戦争・独ソ戦を描いたもので、『バルバロッサ』に続く第2部に当たる。本シリーズはカレルのライフワークだったが、ベルリン陥落を描く第3部の完成前に亡くなった。

1941年7月3日、ドイツ軍攻撃開始の11日後、スターリンは戦争ではじめてのラジオ放送により、市民、将兵、パルチザンに告げた。
「われわれは、仮借なき戦いを組織せねばならぬ。敵の手に輸送機関、1キロのパン、1リットルの燃料をも渡すな。農民は団結して家畜を、穀物を撤去せよ。運びきれぬものは焼却せよ。橋と道は破壊すべし、森と貯蔵所も焼き払うべし。敵に対し耐えられぬ条件をつくり出すのだ」
ハインリヒ・フォン・クライスト(19世紀ドイツの劇作家)がそのドラマ『ヘルマンの戦い』で、紀元9年にヘルスキー族の首長のヘルマンがその部下に述べた言葉を彷彿とさせるではないか。
「諸君は女子供を非難させよ。ヴェーゼル川の右岸に運ぶのだ・・・・・・。諸君の畑を荒らし、家畜を殺し、村を焼き払え。そうすれば私は諸君を率いよう」
彼らは焼き払った。家畜を殺した。カエサルの軍団が紀元前55年、最初のライン川渡河後の後退に際し、屋敷、村を焼き払い、家畜を追い散らし、穀物を刈り取っていったように。
フランスの国防大臣ルーヴォワは、1689年にドイツのプファルツ地方を荒野と化した。それもフランス東部国境に防衛用の無人地帯をつくるために。「プファルツを焦土とせよ」と将軍たちに命じ、その結果、縦60キロ、幅80キロ、ハイデルベルクからモーゼル川に至る人口密集地区を火と剣が<焦土>に変えたのである。
有名な初代マルバラ伯ジョン・チャーチルに率いられたイギリス人部隊は、ルーヴォワの15年後、スペイン王位継承戦役中、インゴルシュタット−アウグスブルク−ミュンヘン地区を焦土化したが、これはフランス=バイエルン連合軍の宿を奪うためであった。
同じころスウェーデンのカール12世はロシアのヴォルスクラで、ツァーの軍隊に冬営をさせぬため<焦土>地帯をつくった。カール12世はそれをピョートル大帝から習ったのだ。大帝はその前年スモレンスク付近一帯を荒廃させ、スウェーデン軍のモスクワ進撃を阻んだのである。
さよう、ロシア人得意の戦術である。彼らはその上に数年前もネヴァ河畔でそれを試み大成功を収めたのだ。当時シェレメンチェフ将軍はツァーにこう書き送っている。
「全能の神と聖母マリアが陛下の願望をかなえたもうたことをご報告いたします。われらはすべてを掠奪、荒廃させ、もはやこのあたりに破壊すべきものは残っておりませぬ」
その100年後にもロシアからの手紙が、<焦土>のことを伝えている。書いたのはホーエンローエの農民の息子。ナポレオン軍の銃手で、ベレジナ河畔からホーエンローエの生家に野戦郵便を出したのだ。「ロシア人は食料をぶん投げ、家畜を追い飛ばし、家と水車を焼き、井戸をつぶしちまいました」。タウバータールの農民たちは、それを読んでたまげたものである。
ヨーロッパの戦術の教師にして始祖でもあるプロイセンのカール・フォン・クラウゼヴィッツ将軍は、この報告を補足している。「・・・・・・橋も破壊され、里程標の数字も削りとられて方向がわからなくなってしまった」。
西半球のアメリカ、近代文明の地でも、荒廃戦略にお目にかかれる。奴隷を解放しアメリカ第16代大統領になったエイブラハム・リンカーンは、1865年、南部との内戦において<焦土>作戦を実施した。そして彼の将軍たちは焼き払った。当時のウィリアム教授は、彼が<当代最大の人物>と名付けるリンカーンの総司令官グラント将軍について、こんなことを書いている。
「敵の経済的補給源を破壊することは、敵軍の殲滅同様効果的かつ合法的な戦法であることを、彼は理解したのであった」
グラントの部下シャーマン将軍はそれに従って行動した。アトランタを、ジョージアを焼き払い、南部でも屈指の豊かな土地を荒野に変えた。野蛮だったからではない。戦争の必然的論理からである。アトランタ市長の抗議に対してシャーマンは何と答えたか?
「戦争とは残酷なもの。美化はできない」
戦争とは残酷なものなのだ!地球上のどこででも!近代の戦法を見るに、ますます残酷なものになる。戦争をする者は、大地を焼き払う。フランス人でもスウェーデン人でも、アメリカ人でもイギリス人でも、ロシア人、ドイツ人、ソ連人、日本人、中国人でもだ。
<焦土>という言葉をはじめて使ったのは誰か、どこでか、それはわからない。しかし大地は燃えるのだ。いつも。どこでも。ライン、ネッカール、オーデル、ヴァイクセル、ドナウのほとり、南アフリカのヴァール、アメリカのチャタヌーガのほとりでも。もちろん、ドニエプルの火炎は最もわれわれの日を暗くする。その灰はまだ熱いからだ。

パウル・カレル『焦土作戦 ドニエプル、そしてヴィスワへ(下)』松谷健二訳(学習研究社、1999年)90-93頁。

戦史叢書によると、太平洋戦争時のオーストラリアでも日本軍の侵略の危機にさらされたとき、ブリスベーン以北の焦土化を真剣に検討したという。


特にコメントはしない。事実だけ書きとめておく。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

参考文献

「Fate/stay nitht プレミアムファンブック」 宙出版 2003年
「Fate/secret book」 月刊コンプティーク2005年8月号特別付録 角川書店
「Fate/Pleasure Book」 月刊コンプティーク2006年5月号付録 角川書店
「Fate/side material±α」 TECH GIAN2005年9月号付録 エンターブレイン
「アーサー王伝説と中世騎士団」 ジョン・マシューズ 本村凌二・監修 原書房 2007年
「アーサー王ロマンス」 井村君江 ちくま文庫 1992年
「サルの正義」 呉智英 双葉社 1993年
「戦場における『人殺し』の心理学」 デーブ・グロスマン 安原和見・訳 ちくま学芸文庫 2004年
「マインド・コントロールの恐怖」 スティーブン・ハッサン 浅見定雄・訳 恒友出版 1993年
「精神分析に別れを告げよう フロイト帝国の衰退と没落」 H.J.アイゼンク他 批評社 1998年
「フロイト先生のウソ」 ロルフ・デーゲン 赤根洋子・訳 文春文庫 2003年
「杜子春」 芥川龍之介 新潮文庫 1968年
「武装錬金」 和月伸宏 集英社 2004年〜
「寄生獣」 岩明均 講談社 1990年〜
「ヴィンランド・サガ」 幸村誠 講談社 2005年〜
「責任という虚構」 小坂井敏晶 東京大学出版会 2008年
「焦土作戦 ドニエプル、そしてヴィスワへ」パウル・カレル、松谷健二訳(学習研究社、1999年)


HP・ブログ等

電撃オンライン・インタビュー『Fate/stay night for PS2』 http://dol.dengeki.com/soft/interview/fate/
エロゲー批評空間http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/game.php?game=3254#review-site
(ここにアップされてるサイトは、ひととおり目を通しました)
OTAPHYSICA http://www.ne.jp/asahi/otaphysica/on/index.htm
EDELBLUME http://www003.upp.so-net.ne.jp/edelblume/松谷健二訳(学習研究社、1999年)


HP・ブログ等

電撃オンライン・インタビュー『Fate/stay night for PS2』 http://dol.dengeki.com/soft/interview/fate/
エロゲー批評空間http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/game.php?game=3254#review-site
(ここにアップされてるサイトは、ひととおり目を通しました)
OTAPHYSICA http://www.ne.jp/asahi/otaphysica/on/index.htm
EDELBLUME http://www003.upp.so-net.ne.jp/edelblume/

PANDEMONIUM http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/works.html
Pastel Gamers http://pasteltown.sakura.ne.jp/akane/games/
いざ冒険へ http://trippers.blog11.fc2.com/blog-category-15.html

すかいてんぷる回覧板 http://www2.realint.com/cgi-bin/tarticles.cgi?Skytemple+174#181

ネタバレ批評 http://homepage2.nifty.com/nori321/review/fatebare2.htm

臥猫堂 http://homepage2.nifty.com/nori321/index.htm

2ちゃんねるのスレッド http://set.bbspink.com/test/read.cgi/erog/1140830967/601-700

(さすがに、2ちゃんは全部目を通してはいません。これは比較的マシだったスレッド)



映画

「プライベート・ライアン」 スティーブン・スピルバーグ監督 1998年
 (人を刺殺するという行為のおぞましさについても、この映画は必見)
「カリスマ」 黒沢清監督 1999年 





ちょっとした駄文

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇