更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2009年9月19日(土)
「芝居派」と「表現派」、及び「化物語」

こんな記事を読んだ。

アニメ表現における「芝居派」と「表現派」:化物語とサマーウォーズ

あらかじめお断りしておくが、私は「PLUS MADHOUSE 3 細田 守」を読んでいない。
だから、以下の感想はリンク先で引用されている文章だけをもとにしている。

で、その引用によると細田はこう言っている。
「カメラが芝居しすぎて、演出の意図がうざいと思われる。それって映画の楽しみじゃなくて、巧い動きをテクニック的に楽しんでいるのと変わらない。テクニック偏重と同じ意味になっちゃうんですね」

これはそのまんま、「芝居派」にも当てはまる言葉だ。つまり映画を楽しんでるんじゃなくて、一流アニメーターの描く動きをテクニック的に楽しんでいる、という見方。
不幸なことに、近年のアニメ映画にはこの方が多い。「スチームボーイ」とか。「ゲド戦記」も、どうでもいい場面にやたら豪華なアニメーターを投入してたっけ。
偶然「アニメスタイル」で「巨神ゴーグ」を採りあげていた。この作品昔から気になっていて、最近スカパー!で放送されたので初めて観た。で、確かによく動くんだけど、その動きがまるで物語に寄与していないのだ。どうでもいいところばかり動くので、観ていてイライラした。

表現派と芝居派という分類自体は面白いけど、それは別に対立概念ではない(細田もリンク先もそう言ってるんじゃないと思うが)。作画と演出は車の両輪と言うべきだろう。
どちらに重点を置くか、というのはあるにしても、どちらが欠けても良い作品にはなるまい。

それと気になったのが、「細田監督は、『演出』という言葉を『レイアウト』と『カメラワーク』に限定して使っているんだろうか?」ということ。くどいようだがこの引用文だけを読むと、そう取れてしまう。私は素人だけど、演出という言葉は当然役者への演技指導、アニメならアニメーターへの指示を含む概念だと思うのだが。

ところで「表現派」の巨魁といえば押井守。押井はこんなことを言っている。

「ケレンのある芝居を活かすためにも、無意識を積み重ねていくような演技の芝居というのが絶対必要なんですよ。必要なんだけども、アニメーションではそれは原理的には不可能な事でさ(苦笑)。では、どうしたらいいのか。それはつまり、『動かさない』っていう事なんです。
もしくは、芝居を切り取る。例えば、アップにしちゃうとかね。苦手な部分は避けて、不可能なものは最初から描かないようにする。可能な世界でだけ勝負して、後は暗示する。画面上ではキャラクターはほとんど動いていないんだけど、画面の外で色んな事をやってるという事を如何に想像させるかなんだ。そのためにカメラを外してみたり、オフで全部色々な事を入れてみたりする。

(中略)

で、それを判断できるのは、おそらく、動きの専門家であるアニメーターじゃなくて演出家なんですよ。演出家の存在価値というのは、そこにしかない。アニメーションというものの限界を誰よりもよく弁えていて、苦手な事は絶対にやらせない。で、それを違った形でフォローしてあげる。そのことで、限られた作画の力を最大限良い方向に引っ張り上げてみせる。だから、要らない原画はバシバシ捨てるべきである。要らない原画はもう全部抜くべきである。それができるのは演出家だけ。」(「アニメスタイル」第2号69頁)

その押井監督が初めてアニメーターを信頼し、西尾鉄也に任せた作品が「スカイ・クロラ」だった。結果はあのとおり。演出家は、ある時点で反対の作風を試してみたくなるものなんだろうか。それでもあくまでゴーイングマイウェイなのが「ポニョ」の人、と。

反対のパターンとして紹介したいのが「ケモノヅメ」10話。「芝居派」の最右翼・湯浅政明監督作を、新進の「表現派」中村健治(細田版「ハウル」の副監督だった)が演出!あの絵柄でちゃんと同ポ反復してます。

ここからは「化物語」のお話。例によって原作未読で、以下はアニメ版だけを観ての感想。
先日たまたま、某所で「魔法少女リリカルなのは」は新房昭之作品として語られることがあまりないよね、という話をした。「ぱにぽにだっしゅ!」のヒット以来、新房昭之と言えば奇抜な画面作りとギャグ、と固定観念ができてしまって、年来のファンとしては少々複雑な気分だった。
新房作品には熱血バトルアクションの系譜というのがあって、「ソウルテイカー」('01)に続くのが実は「なのは」だ。同じ2004年の「コゼットの肖像」が私は大好きなのだが、これも耽美、猟奇、ゴシック、ロリータ、ホラーといった表層を除くと、愛する少女のために戦う熱血バトルアクション・ドローイングアニメだ(意味が違います)。
「化物語」は久々に登場した、その正当な後継者である。

「化物語」の主人公阿良々木暦は、善人である。
困っている人がいると、それがたとえ幽霊でも手をさしのべずにはいられない人物である。
人を救うためなら、自分が血を流すこともいとわない男である。

「化物語」は、その真っ直ぐにお人好しすぎる暦君の熱血バトルアクションアニメとして、実に好ましい。
一見人工的なレイアウトや背景や描き文字は冷たい印象を与えるが、動くときはめちゃめちゃに動く。これこそ正しいTVアニメだろう。

下は6話「するがモンキー其の壱」から。ザンコクにつき小さい画像で。

  

拳が貫通してるよ!

それはそうと、ひたぎを演じる斎藤千和が良い。「R.O.D.」のアニタのイメージが強いので、こんな芝居ができるとは知らなかった。
蛇足ながら、ツンデレと言えばこの人、の釘の宮様にダウナーな芝居をさせてみたら面白いかも、とちょっと思った。

もひとつ蛇足。「なのは」は作画的に突出したところのある作品ではないが、1話のなんてことない食卓のシーンでの、異常な作画枚数にはのけぞった。


追記:9月20日
上記に関連して、私は「アニメは動いてなんぼ」というのは一面の真理に過ぎないと思う。
問題は動きそのものではなくて、その動きで何を伝えたいのか、その動きが作品中でどういう意味を持つのか、だ。
クリス・マルケル監督の「ラ・ジュテ」('62)を観ると参考になる。テリー・ギリアム監督の「12モンキーズ」('95)のモトネタになったことで有名な短編映画で、全編スチル写真とモノローグだけで進行する。
だが、ただ1度、登場人物が動くシーンがある。1度きりであるがゆえに、これが強烈な印象を残すのだ。瞬きしてると見落とすので、観るときはお気をつけて。


追記:10月2日
この作品のスタイルは、原作と同じ長ゼリフを活かすために選択されたものだろう。
活字は読者のペースで読めるけれど、声優さんのセリフ回しは、いくら早口にしても限度がある。あのセリフを通常のTVアニメのフォーマット−バストショットで口パクだけ、という画面作りでやってたら、大変に間延びした作品になるに違いない。

2009年9月13日(日)
「青い花」の眼鏡続報

「青い花」5話。

以前、本作の「眼鏡のつるの省略」を指摘したのだが、5話にこんなカットがあった。



省略されていないカット。

なぜだろうと想像してみるに、この場面はふみが京子に「杉本先輩が好きなの?」と訊かれ口ごもってしまうシーンである。
ふみは本心を語ってしまうわけにいかず、また杉本先輩のモテモテっぷりにその真意を信じ切れない。
自分の心も人の心も見えない、という状態が「瞳を隠す」という表現になっているのでは。

さらに言えば、ふつう眼鏡は「真実を見抜く目」として機能するアイテムである(ついでにこれも)。それがここでは、目をふさいでしまっているという逆説。



・・・ま、単純に演出チェックで見落としたのかもしれませんが。DVD化されたら、リテイクされているかどうか調べてみよう。

追伸:「センコロール」は面白いので、劇場公開されているうちに観ましょう。

2009年9月6日(日)
サマーウォーズ

ここしばらく盆暮れ正月もないくらい忙しくて放置していたんですが、やっと一段落したのでぼちぼち再開。

公開からだいぶ時間が経ってしまったけれど、一応この映画について。

先に総評を書いておくと、「面白いシーンはあるけれど、映画としては『時かけ』よりだいぶ落ちる」というもの。
なぜだろうと色々考えていて、これらの優れた評を読んで、ちょっと思いついたことがあった。


未来私考 サマーウォーズにみる、表層の豊かさと、深層の軽薄さ

N.S.S.BranchOffice サマーウォーズにみる、世界のひろがり


重要なのは「選ばれなかった少年」というキーワード。
主人公の健二は、数学オリンピックに選ばれず、暗号解読者でもなかった。

健二は「選ばれなかった少年」である。
すると彼が主人公として機能するには、作中で明確にしなければならないことが2つある。
1つは、「選ばれなかった少年がなぜ事態に関与するのか?」
もう1つは、「選ばれなかった少年がなぜ事態を解決できるのか?」である。
第1は動機と意志、第2は能力の問題だ。

まず「動機」の方から。
「また始まった」と思われそうですが、「動機」は物語を語る上で一番重要なポイントだ。これが自然で確固たるものでなければ、物語を最後まで引っ張ることができない。

例えば刑事ドラマで刑事が犯人を追うのは、彼が刑事だからだし、仮面ライダーがショッカーと戦うのは彼が正義の味方だからである。そこに、それ以上の動機を与える必要はない。
しかし、本作のような普通の人間が異常な状況に出くわす物語の場合、特に動機が重要になる。
これは私の持論だが、「巻き込まれ形」の主人公の場合、最初は「ただ目の前の状況に対処していた」のが、どこかで「状況に立ち向かう決意をする瞬間」がなければならない。自分自身の目的が彼を突き動かす動機とならなければいけないのである。
ハリウッド映画だと、これが大体30分目に提示されると言われる。有名なのは「ダイ・ハード」。
すごくわかりやすい例が「ヱヴァ破」だ。「みんなが乗れって言うから」「父さんが褒めてくれるから」ヱヴァに乗っていたシンジが、「綾波を救うために」戦う。これが、あの作品を燃える展開にしている。
「王立宇宙軍」だと、「その瞬間」が明確に描かれないかわり、2時間かけて熟成させていき、打ち上げのクライマックスに爆発させるという構造を持っている。

「サマーウォーズ」にはこれがない。
暗号を解読してOZの混乱を招いたのが健二であれば、「自分のしでかしたことのケリをつける」という動機になり得た。しかし、暗号を解読したのは実は健二ではなかった。最後の桁を間違ってて、他に55人も暗号を解いた人がいたから。
では、他に何が動機となり得るだろう。
思いつくのは「栄の仇討ち」である。
しかし、栄は健二の祖母ではない。知り合ったばかりの他人だ。そして栄が死んだのはOZの混乱が遠因だが、それは健二のせいではないということにされてしまった(暗号を解いたのは健二ではないから)。
だからこれは動機にならない。
では夏季への気持ちはどうか。
例えば「先輩の大好きなおばあちゃんを死なせ先輩を悲しませたラブマシーンを倒したい」。
あるいは「詫助を見返して夏季の目を覚まさせたい」。
そのような動機を与えることはできたかもしれない。・・・・・・が、作中そのように描写されているとは言い難いだろう。
つまるところ、健二には「状況に立ち向かう意志」がない。
なぜ状況に立ち向かおうとするのかが、観客にわかる形で描写されていない。

もちろん、いろいろと推測や想像はできる。しかし主人公の動機とは、観客の想像に任せて良い部分ではないと私は思う。暗示でもいいから、作中で示されなければならない部分だ(先日書いた「ダークナイト」の伏線みたいに、すごく解りづらい形で示されている場合もある。私も1回観ただけだから、何か見落としている可能性はある)。
ついでに言うと、佳主馬が人気を集めたのも多分これが理由である。彼は作中で唯一、動機を持ち・挫折を味わい・試練を克服するキャラクターだ。


次に「能力」の方。一応、健二は数学の天才であるという設定があり、陣内家の面々の協力が作中で説得力ある形で描かれている。
しかしそこで問題になるのが、例の55人である。
なぜ彼ら55人でも、OZのシステムプログラマでも、その他全世界にゴマンといる専門家でもなく、他ならぬ陣内家と健二が事態に立ち向かうのか、がわからないのだ。
こういうパターンの最悪の例が、ほのぼの宇宙戦争コメディ映画「インデペンデンス・デイ」である。
在野の1科学者が、全世界の天文学者に先駆けて宇宙人の襲来を発見し、軍を差し置いてその戦略を見破り、並み居るSEやハッカーを押しのけてコンピュータウイルスを作ってしまうのだ!

この55人は世界のひろがりを象徴するものではあろう。その存在によって、「サマーウォーズ」は世界のひろがりを獲得した。しかしそのために、逆に「なぜ彼らでなくてはならないのか?」という物語としてもっと重要なことを取りこぼしてしまったように私には思える。


ところで、「サマーウォーズ」は世界のひろがりを意識してはいるが、その扱いはひどくいい加減だ。
それが現れてしまっているのが、クライマックスの衛星落下シーン。

陣内家の面々は、衛星が家に落ちるのを阻止するため、プログラムに干渉して軌道を変更するが、観終わった後で、ちょっと気になったことがある。
ま、これは重箱の隅に類する疑問なのだが・・・・・・もしあれが街中に落ちたら、彼らはどうするつもりだったのだろう?

試しにちょっと高校1年生レベルで計算してみた。



仮に入射角αが30°で落下してくる衛星が、高度1万メートルのB点で1°角度がずれたら、
新落下地点はA’となり、AA’間の距離は(tan61°−tan60°)×10,000で約700メートルになるはずだ。
もちろん衛星を落としたのはラブマシーンであり、彼らは自分の身を守っただけだ。でもその結果ほかに被害者が出たら、まともな人間は寝覚めの悪い思いをするだろう。
作品冒頭で、陣内家はとんでもない山奥にあることが描写されるから、少し軌道が逸れさえすればいい、というのはわかる。しかし、衛星の軌道を逸らした結果どこに落ちるかを、作中人物の誰も気にしないのは、やはり異様だ。

以下は余談。
1999年11月22日に、入間基地所属のT-33練習機が入間川河川敷のゴルフ場に墜落、搭乗者2名が殉職した。このとき高圧線を切断したため、埼玉県南部及び東京都西部を中心とする約80万世帯が停電、信号機や鉄道網を麻痺させる事態となったので、ご記憶の方も多かろう。
だが、地上に死傷者は出なかった。
操縦者の直接の死因は、緊急脱出したときのGによる骨折だった。パイロットが緊急脱出に使う射出座席は、安全に射出できる速度、加速度、姿勢が厳密に決まっており、不適切な条件で使用すると射出自体はできるが、操縦者は過大なGがかかって死んだり重大な障害を受ける(最新型は改良が進んでいるが)。
彼らは早期に脱出しようと思えばできたのに、墜落寸前まで機を操りもっとも被害の少ないところに誘導したのだ。

こんな例もある。ある事故で緊急脱出したパイロットは地上に降りると、すぐ徒歩で墜落現場に向かい、被害者がいないか聞いて回った。のちに奥様に、「その間、私の顔は浮かんでこなかったの?」と聞かれて正直に答えたところ、当分口をきいてくれなかったそうだ。


余談その2。
家族という神話 アメリカン・ファミリーの夢と現実」ステファニー・クーンツ 筑摩書房
豊かで幸せなアメリカの家族像が、実は「どこにもなかった過去」であることを実証研究により明らかにした本。その幻想の形成に重要な役を果たしたのが、TVのホームドラマであるという。つまり人はフィクションを参考に幸せになろうとするわけ。

ヨーロッパの伝統的家族と世帯」ピーター・ラスレット リブロポート
私は未読だが、イングランドの平均家族規模は16世紀から現代までほとんど変化なく、そればかりか世界的に、大家族から核家族への移行などという現象は認められないと結論した本、とのこと。

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