Heaven's Feel再論

「幸せは、犠牲なしに得られないのか。時代は、不幸なしに超えられないのか」
                                       草間博士「ジャイアントロボ」〜


はじめに
 アニメにも小説にも映画にも、作品としての面白さとは無関係に、思想的に相容れない作品というものがある。

「メガゾーン23part2」の選民思想。
私刑をよしとした「評決のとき」。
殺人犯の身勝手な倫理観に作者が無自覚な「魔術はささやく」。
世界のリセット願望を肯定してしまった「なるたる」。
「たかが絵画より人の命が大事」と、名画に対して許し難い行動をとる「ひまわりの祝祭」。

初めてプレイして半年経ったが、「Fate」も、私のなかではそういう作品の一つに位置づけられている。この小論は、その原因を「犠牲」と「変容」の2つのキーワードからもう一度考えてみたものである。


1 犠牲ということ
 私のずっとひっかかっている疑問は、「なぜセイバーを、士郎自らの手で、かくも卑劣で残酷な方法で殺さなければならないか」という点にある。
なぜセイバーを救わないのかについては、2ちゃんねるあたりでも延々と議論されているが、私に言わせれば些末な議論ばかりだ。投影の残り回数云々などどうでもいい。そんなのは作者がいくらでも恣意的に決められる話だ。あえてそれをしなかったのは、最初からセイバーを救うつもりがなかったからだ。それはなぜか?観客が考えなければいけないのはそこだ。
整理しよう。
「なぜ」の方は、このルートにおいてセイバーは、「桜を救うために切り捨てるもの、犠牲にするもの」の象徴だからである。 だから士郎は、自らの手でセイバーを殺す必要があった。
「卑劣で残酷な方法」を採ったのは、このルートの士郎は「正義の味方」ではないからだ。だから士郎は、もっとも「正義の味方」らしからぬ、卑劣で残酷な方法でセイバーを殺した。

だが理屈がどうあれ、エンタテイメント作品の主人公としてそんなことをすべきではない。あるいは、卑劣で残酷な振る舞いをした者には、それにふさわしい結末を与えるべきである、というのがこれまでの私の主張だった。「目的が手段を正当化する」とはテロリストがよく使う論理だ。目的は手段を正当化しない。むしろ逆であり、手段の正当性こそが目的の正当性を保証するのである。

セイバーが敵に回るというプロットは、いくつかの危険を孕んでいる。一つは、セイバーがそもそも士郎を裏切るはずがない性格設定であること。ここをクリアするために持ち込まれたのが黒化というアイデアだが、これは別の危うさを持つ。それは、黒セイバーが「セイバーの姿をかたどっただけの別人」ならば、「士郎にとっての犠牲」という価値がなくなってしまうことである。黒セイバーの内面描写が一切なく、性格設定がひどく曖昧なのはそこをごまかすためだ。SS等を読んでいると、黒セイバーの心情を類推してこの点を補完する試みが時々見受けられるが、あまり成功しているとは言えないようだ。これは、「敵対者」と「犠牲者」の2つの役割を担わされたからである。
私が以前の文章で指摘した欠点は、実はセイバーを「桜を救う上での障害」ではなく「犠牲者」として扱うための必然だったのだ。だからセイバーは、殺される瞬間は無抵抗で「なければならなかった」。

それを理解した上でやはり言う。
私は、エゴのために躊躇いなく何かを犠牲にし、それを省みないことを良しとする物語や思想には共感できない。
仮に犠牲にするなら、残るのは踏みつけにしたものへの後悔と哀惜の念である。


HFルートの展開にはもう一つ疑問がある。
「士郎は、桜を救った後に、なぜ聖杯を破壊するのか」である。
どうもこの問題は誰も議論していないようなので、ちょっと見ておく。

最初に確認しておこう。
まずこのルートの大前提は、
@ 桜と世界の両方を救うことはできない
である。
それに対して、アーチャーが主張する「正義」は、
A 桜「だけ」を犠牲にして、世界を救う
だった。
これに対して士郎の出した結論は、
B 世界を犠牲にして(でも)、桜「だけ」を救う
である。これが、士郎が戦う動機であり、物語を最後まで引っ張るテーマのはずだ。

ルールブレイカーで桜を解放した後、士郎は「聖杯が桜にまた影響を及ぼすかも、又は懲りずに桜をマスターにしようとするかもしれない」という理由で、聖杯の破壊に向かう。あくまで「桜を救う」ついでだ。一応筋は通っている。最終決戦に向かうにしてはどうにも薄弱な動機に思えるが、今はそれは問わない。
しかしこの行為には、大きな問題がある。
「聖杯を破壊する」ことは、必然的に「世界を救う」ことになる。これは、大前提@に反する。
ストーリーがあくまでテーマに従属するものとするなら(あくまで、ならば、だが)、このルートの士郎は「聖杯を破壊しては(=世界を救っては)いけない」のである。

聖杯による世界の終わりが、どのような形でやって来るのかは分からない。
ある日突然、人々の心が邪悪で満ちるのかもしれない。
原因不明の奇病が大流行するのかもしれない。
子供が一人も生まれなくなるのかもしれない。
あるいはオーソドックスに、核戦争が始まるのかもしれない。
そのいずれであっても、このルートでの士郎は、桜だけを守れれば世界がどうなろうと関係ない、という立場を貫かねばならなかった。

「ブレードランナー」の最終版が公開されたとき、「デッカードが実はレプリカントである」という解釈が流布されたことがある。魅力的な解釈だが、私はやはり違うと思う。デッカードが人間でないと、クライマックスのバッティとの対決が生きてこない。
「人間とレプリカントの違いは何か」さらには「人間を人間たらしめているのは何か」というテーマが薄れてしまうのだ。
同じように、桜を救った「後に」言峰と対峙し聖杯を破壊する士郎の行動は、テーマからしておかしい。
非常に参考になるOTAPHYSICAさんの論考に、「正義の味方は正義を実践する必要がある」という指摘がある。この伝に従えば、このルートでの士郎は「不正義を実践する必要」があったはずなのだ。
それが言い過ぎなら、せめてピカレスクロマンとして貫徹するべきだった。


もう一度セイバーに着目しよう。
セイバーを犠牲にするのはなぜか?「世界を犠牲にしてもいいという覚悟」の現れだ。だからこそ、セイバーを犠牲にしてもよいというロジックが成り立つ。
つまり
C セイバーを犠牲にして、桜を救う
という選択である。

ところが最終的に聖杯を破壊したため、実際に士郎のとった行動は、
D セイバーを犠牲にして、桜+世界を救う
になってしまった。

さてところで、実はHFルートには、極めて本質的な欺瞞がある。
先に、「セイバーは、桜を救うために切り捨てるもの、犠牲にするものの象徴」と書いた。この「象徴」というのがくせ者だ。
士郎は「全体を救うか桜を救うか」と悩むのだが、その「全体」が何を指しているのかが問題だ。作中で、黒い影は100人単位の人間を喰らったと描写される。
だが、この被害者たちはTVのニュースの中にしか存在しない。士郎にとっては縁もゆかりもない人々だ。彼らは記号に過ぎない。我々が知らない間に、遠い異国の戦争や交通事故で死んだ人々と何ら違わない。FateでもUBWでも大河が戦いに巻き込まれることを想起して欲しい。なぜか、もっとも被害が大きいはずのHFルートでは、士郎の知り合いは誰も被害に遭わない。
想像してもらいたい。この被害者が、一成や美綴や3人娘や大河や藤村組の若衆やコペンハーゲンのネコさんだったら?あるいは例えば人口10万人の街で、200人が消えたとしよう。500人に1人の計算だ。学校に500人の生徒が−少子化で今はそんなにいないかもしれないが、いたとすると1人が被害に遭うのだ。それは部活の先輩かもしれないし、隣の席のあいつかもしれない。
まさに士郎の直面した問題は、こういう問題だったはずなのだ。士郎はTVのニュースで流れる犠牲者の名前を胸に刻み、一人一人を自分の知る名前に置き換える行為をしてみる。しかし言うまでもなく、想像は想像に過ぎない。
はしなくも、バッドエンドでのイリヤのセリフにある。

「桜より、見ず知らずの人間を優先するんだね」

士郎は、見ず知らずの人間より桜を優先した。
だが士郎が問われるべきは、士郎のよく知る、しかも聖杯戦争に無関係な人々を見殺しにできるか、ということでなければならなかった。
にもかかわらず、士郎の知人は誰も被害に遭わない。
なぜか?
答えは簡単で、彼らを死なせたら、桜を救う正当性を完全に失ってしまうからである。
「桜を救う」ことになぜ正当性が必要なのか?
「このルートのヒロインは桜だから」である。予定調和の結末を保証するためだ。ギャルゲの限界とも言えるが、今はそこには踏み込まない。

こうして見てくると、実は士郎が犠牲にしたのは「セイバーだけ」なのだ。()
これを考慮に入れると、Dの命題はこうなる。
E セイバー「だけ」を犠牲にして、桜+世界を救う
これが、HFルートで実際に語られたストーリーである。

もうお解りだと思うが、Aと見比べてもらいたい。これは士郎が全霊をかけて拒否した、アーチャーの語る「正義の論理」そのままである。「桜」が「セイバー」に入れ替わっただけだ。

トゥルーエンドを見て、「なぜここにセイバーがいないのか」と感じたあなた。
あなたの感性はまったく正しい。

もちろん「桜だけを救えばいい」という立場からは、これがアーチャーの論理であろうがなかろうが問題はない。しかし、「桜と世界の両方を救うことはできない」と言いつつ、実際には救ってしまった。ならばなぜ、そこからセイバーだけが取りこぼされるのか。そこに一片の悔恨も後ろめたさもないなど、私には到底信じられない。
これがHFルートに感じる割り切れなさの正体である。


2 変容と救済
 第2のとっかかりは、「変容」というキーワードである。
「愛する者の変容」は、さほど珍しいテーマではない。吸血鬼ものとそのバリエーションとしてのゾンビものもそうした側面があるし、「エイリアン」シリーズもその一種だろう。富野監督作品には「洗脳美少女」というモチーフがよく見られる。
私の見聞した範囲でも、次のような作品がすぐ思い浮かぶ。

「鉄腕バーディDECODE」
柴田昌弘の長編SF「ブルー・ソネット 紅い牙」
スティーブン・キング「ペット・セマタリー」
18禁アニメの金字塔「うろつき童子」の外伝、「うろつき童子 魔胎伝」(いや、マジで。傑作なんですよ、これ)
クローネンバーグの出世作「ザ・フライ」
モダンホラーの鬼才ジョン・ソールの「クリーチャー」

長期シリーズの単発エピソードまで考えれば数限りなくあると思うが、とりあえずこの程度に絞る。
既存の作品とただ比較しても意味がないだろうが、似たようなテーマを扱った作品がどのような解決をとったか、パターンを抽出してみよう。それと比較することで、HFルートの結末がどのように従来の作品から逸脱しているかが解る。(以下、上の作品のネタバレあり)

今年上半期の秀作「鉄腕バーディDECODE」が、偶然にもよく似た展開を示したので、どのように解決するか注目していた。甘いと言えばそうかもしれないが、巧妙な終結だった、と思う。小夜香の命を助けたかわりに、つとむの肉体と、小夜香の記憶を失う、という結末にしたのである。この作品の場合、リュンカは小夜香に寄生した明確な別人格であり、小夜香が犯した罪も少なくとも本人は意識せずにすんだ。そして、2人の間の絆が永遠に失われることで罪の清算に替えた。

「ブルー・ソネット」では、古代超人類の怨念に乗っ取られた主人公・蘭は、親友・奈留の命とひきかえに正気を取り戻し、また恋人バードを失う。
「ペット・セマタリー」では、主人公は殺人鬼に変貌した息子に妻を殺され、我が手で息子を殺す。そしてその妻を・・・という2段落としになっている。
「うろつき童子 魔胎伝」で超神の血により怪物に変身した明彦は愛した女性・恵に殺され、「ザ・フライ」の蠅男も同じパターンだ。
ジョン・ソールの「クリーチャー」は異色作で、主人公は人の世を離れ、一人、怪物として生きていく。

こうして見ると、人の世に仇なすものに変貌した者の末路は、大きく3パターンがありそうだ。

@ 愛する者の手で殺される場合
A 何かとひきかえに生還する場合
B 怪物として世を捨てて生きる場合

@が「ペット・セマタリー」「ザ・フライ」「魔胎伝」、Aが「鉄腕バーディ」、Bが「クリーチャー」だ。「ブルー・ソネット」はAとBの混合型である。

そこでHFルートを考えると、ノーマルエンドはAである。ひきかえになったのは士郎自身であり、妥当な結末だ。ここで重要なのは、生還する場合、ひきかえにするのは「生還した本人にとって大切な者」である、ということだ。「ブルー・ソネット」は親友と恋人であり、「鉄腕バーディ」は愛しあった記憶だ。トゥルーエンドはここに当てはまらない。犠牲になったセイバーは、桜にとっての重要人物ではないからだ。
まったくの第三者を犠牲にし、その上で人並みの幸福を手に入れる、という結末は非常に珍しい(←婉曲表現)。もちろん、既存の作品と異なる、ということ自体は悪いことではない。しかしこれだけ多くの先行作品がありながら先人がやっていないのは、なにがしかの理由がある。それが多くの作者にも観客にも受け入れがたい展開だからだ、と考えてもいいだろう。

 →「渇き」に見る吸血鬼ものの類型分析('10.3.30追記)


Fateルートでのセイバーは、「守護する者」から「救われる者」へ、「思想的対立者」から「真の理解者」へ、と2重に役割の転換があった。これがキャラとストーリーに奥行きを与えている。
HFルートでの桜はこの逆で、「救われる者」から「敵対者」への転換がある。ところが最終的に桜は「救われる者」に戻ってしまい、かわりに「敵対者」として排除されるのがセイバーである。本来桜が負うべき役割を、セイバーに肩代わりさせているのだ。

ちなみに、全シナリオを通じて役割の転換がないのが凛である。彼女は一貫して「協力者」及び「導師」の役を演ずる。彼女はこういう意味でもパーフェクトキャラだ。これが凛の魅力であり安定感の源であり、ある意味、限界でもある。蛇足だが人気投票で常にセイバーに一歩及ばないのは、これが原因ではないかと私は思っている。


3 言峰の主張
 真の最終決戦である言峰との戦いについても見ておく。
士郎に、言峰と戦う積極的な動機がないのは先に指摘したとおりだ。だからこの決戦は一向に盛り上がらない。
本作における「悪」を体現した人物である言峰がここで語る論理を、検討する。
言峰がアンリ・マユを守るのはこういう論理だ。

自分の願いで人の願いを塗りつぶすのが人の生である
   ↓
だから、人が生きること自体が罪である
   ↓
ゆえに、まだ産まれていない者に罪は問えない

この論理は、容易に反駁が可能だ。
第1に、人が己の欲望のままに生きれば他人を傷つけるのは事実だ。しかし、「傷つける」ことと「殺す」ことは同義ではない。罰は、罪の重さに応じてあるものだ。普通の人間は、人を殺さずとも生きていける。
第2に、本作の桜は確かに「人を殺さなければ生きていけない」者だ。だがそれは極端な例であり、人間一般に適用はできない。極端な例を挙げて一般論に見せかけるのは、典型的な詭弁の一種である。何を以て極端とするかは議論の余地があるが、この場合は健全な社会通念に照らせば十分だろう。何度でも言うが普通の人間は人を殺さないし、まして喰らったりはしない。
第3に、何よりも、仮に「欲望のまま生きて人を傷つける」生があったとしても、それは人の目指すべき姿ではない、ということだ。そりゃ原始社会はそうだったかもしれない。だが我々は、何千年もかけて文明と社会を築き、譲り合い我慢し合って共存することを学んできたはずだ。おりしも、アメリカでは初の黒人大統領が誕生した。自由と平等という理想に、キング牧師の夢に、また一歩近づいたのである。歩みは遅いが、それでも人類は前に進んでいる。

しかし、士郎はこれに反駁できない。士郎自身が、己の欲のために人を殺したからだ。
だから士郎の拳は、言峰を捉えない。
士郎は「ただ何となく許せない」から言峰に対峙し、言峰は単に力尽きて倒れていく。

60時間も費やして、最後に言いたかったことがこの粗雑なシニシズムか?
それに反論もできないのが主人公の在り方か?

こんな結末を回避するのは簡単だ。主人公に、「己の欲のために人を殺す」などという行動をとらせてはいけなかったのである。少なくとも、物語の最後にこれを持ってくるべきではなかった。

参考になるのが、「ダークナイト」である。この映画におけるジョーカーは、「ただ楽しいから人を傷つけ、殺す」純粋悪である。そして、それは誰の心にもあると挑発する。
だがそのたくらみを打ち破ったのは、無名の市民の善意、それが言い過ぎならちょっとした不決断・不作為、悪を為すことへのためらいだった。
バットマンはその小さな希望を守るために、真実を胸に秘め、自身を悪へ落とす決意をするのである。
「Fate」の最終結論は、こういう「虚無の論理」を打破するものであるべきだったと私は思う。


おわりに
 「生きることが償いだ」という言葉は誤解を呼ぶ。「生き続け、罰を受け続け、償い続けろ」という意味に解すべきだ。断じて、小市民的な幸福に埋没することではない。
生きるだけなら、犬畜生にもできる。
「いかに生きるか」を考えるのが、人の在り方だ。
ふと、「ベルセルク」を思い出した。
これも、「愛する者の変容」と「夢のために何かを犠牲にすることの是非」を問うた作品だ。この作品のグリフィスこそが、「己の夢(エゴ)のために大切なものを犠牲にする」ことを選択した男だ。
それが幸福への道か、人の道と言えるだろうか。


脚注

イリヤはどうなのかという疑問が湧くが、あれは当人の意志である点で異なる。また物語上の機能から言うと、デウス・エクス・マキナそのものである。(本文へ


追記

私がどうにも理解できないのが、「セイバーを殺すかどうか」の選択肢を置く神経。タイガー道場では、ここでセイバーを助けることを「優柔不断」と言う。想像だが、ギャルゲにおける「どちらのヒロインを優先するか」という選択肢と同じ感覚なのではないか。しかし、これは「どっちをデートに誘うか」という問題とは根本的に異なるだろう。私の感覚では、無抵抗の者を刺殺することを「覚悟」などとは絶対に言わない。まあ理論的には、あの行動は正しいかもしれない。極めて合理的に判断し、合理的に殺す。この「存在の耐えられない軽さ」は、悪い意味でまことにゲーム的だ。


追記2

町山先生のアメリカ映画特電第72回「『ダークナイト』はなぜ素晴らしいか ジョーカーとミルトンの『失楽園』」を聞いていて思いついたこと。士郎の生き方、自分が犯したのではない罪を背負い、人々を救うという生き方は、キリストのものである。つまりHFは、「キリスト(救世主)になることをやめたイエスの物語」なのだ。とすると、桜がなぜ娼婦的な性格を帯びたキャラなのかも解る。彼女はマグダラのマリアだからだ。詳しくは、スコセッシの「キリスト最後の誘惑」('88)を参照。
もちろん、善なるもの一切に価値を見出せない男・言峰がサタンだ。本来の「Fate」は、黙示録的対立の物語を目指していたのではないだろうか。ところが、サタンに対峙すべき士郎の動機を「惚れた女さえ助かれば他はどうでもいい」というチンケなものにしてしまったために、竜頭蛇尾に終わってしまったのだ。そもそも、「善悪の転倒」「正義の相対化」などというテーマは、「デビルマン」「ザンボット3」を経た我々には目新しくも何ともないものだ。まして「デビルマン」は、主人公が恋人との愛に逃げ込むことさえ許さなかったのである。
「Fate」の扱ったテーマで目新しかったのはただ一つ、「悪として生まれたものは、自らを悪と認識するか?」である。言峰ではないが、私もその答えを見てみたかった。


追記3

聖杯の正体や数々の謎が明らかになるのがHFであるが、実のところ聖杯は「マクガフィン」「マルタの鷹」に過ぎず、その正体なんてどうでもいいのだ。ドラマになるのは聖杯を求め、あるいは否定する人々の心の在りようである。だから、「Fate」ルートは(有り体に言えばアニメ版のように)単体でも物語として成立するのだ。


追記4('09.5.8)

だいぶ前のことになってしまうが、WEB拍手で大変建設的な指摘を頂いた。「このルートでの士郎は、すべてを救うことはできないからいわば『中途半端な正義の味方』を目指したのだ」という趣旨である。

まったくもって、ご指摘のとおりだと思う。確かに士郎はそのように振る舞っている。
で、私が主張しているのは、それこそがHFの欠点だということなのである。
理由は2つ。
1つは、HFはUBWのアンチテーゼとして存在する、という点。したがって、その結末はUBWと正反対のものにならなければ、そもそもルートとしての存在意義がないのだ。

第2は、少し長くなるが、まずOTAPHYSICAさんのこの辺の議論をお読み頂きたい。

 ・和月伸宏『武装錬金』にみる「ヒーローとはなにか」
 ・長谷川裕一の少年漫画道

以前触れたようにOTAPHYSICAさんは「Fate」に関しても説得力ある議論を展開しておられ、私の以下の文章はそこに乗っかったものになる。


もう一度整理する。HFのテーマは、信念か愛する女か、というアンビバレントな選択にある。
そして、「アンビバレントな選択を強制された時点で、ハッピーエンドの可能性は消失してしまう」のである。

以下に、これまでに何度か紹介してきた「責任という虚構」(小坂井敏晶、東京大学出版会)から引用する。

『ウィリアム・スタイロンの小説『ソフィーの選択』に劇的な場面が出てくる。アウシュヴィッツでのこと、強制収容所前で「選別」を待つソフィーは男女二人の子供を連れている。そこを通りかかったナチの軍医は彼女に恐ろしい提案をする。「子供のどちらか一人だけなら助けてやる。どちらかを選べ」。初めはこの理不尽な選択を彼女は拒否する。しかし「もういい。二人とも向こうに送れ」と部下に告げる軍医の声を聞いて、ついにソフィーは発作的に「娘を連れて行きなさい」と叫んでしまう。こうして息子の命を救うために娘が犠牲になる。
ソフィーはどうすべきだったのか。この状況で彼女に与えられたのは二つの可能性しかない。一つはどちらかの子供を犠牲にして、残る子供の命を救う道。もう一つは選択自体を拒否して子供が二人ともガス室で殺される道だ。ソフィーは選択をし、一人を救った。しかしそれにより彼女は一生、凄まじい良心の呵責に悩まされる。ここでソフィーが乱数表やサイコロを持ち出して、どちらの子供を犠牲にするか決定しても何の救いにもならない。』(92頁)

『哲学者が「真理」を見つけたとしても、それを我々が受け入れられる保証はどこにもない。第2章で言及した『ソフィーの選択』の場面をもう一度思い出そう。娘の死を選択したソフィーを誰が責められるだろうか。子供が二人とも殺されるなら一人でも救う方が合理的だ。娘を魔の手に差し出そうが息子を犠牲にしようが刑事責任もなければ道義的責任もない。しかし選択した当人にそのような発想はできない。ソフィーの立場なら我々の誰もが罪の意識に苛まれるにちがいない。しかしそれは何故なのか。』(165頁)

最善の解決は、何らかの手段で「選択そのものを破壊」し、両立を図ることである。これが正しいヒーローの在り方だ。
だがHFにおいては、最初からその選択はありえない。このルートのテーマは、ヒロイズムの否定にあるからだ。さりとて、美少女ゲームとしての制約から、ヒロインを犠牲にするわけにはいかない。したがって結論は一つしかないのだが、作者には女を救って世界を滅ぼすだけの覚悟も度胸もなかった。
そこでどうしたか。犠牲になるキャラクターをもう一人用意して、全部肩代わりさせてしまったのである。言うまでもないが、これは問題のすり替えに過ぎない。
より悪質なのは、作者も作中人物もこのことに気づいていない、ということだ。
繰り返すが、アンビバレントな選択を強制された時点で、明朗なハッピーエンドなどありえない。重要なのは、これは構造的な問題で、小手先の描写では回避できないという点だ。

これを回避する方法は、3つある。
1つは上述した、選択自体を吹っ飛ばす方法。
2つ目は、犠牲者が自らすすんで犠牲を甘受する方法。私が以前書き散らしたのは、このバリエーションということになる。
これなら、残された者は犠牲となった者の分まで精一杯生きようという気になるかもしれない。
3つ目はあえて言わない。

別に少年の物語でも青年の物語でもいいし、こうした過酷な問いを問う物語があっても別に構わないが、作劇上の原則−と言うか人の心の常識くらいはわきまえていて欲しい。

ついでだが、前述の「ソフィーの選択」の一場面は、浦沢直樹「MONSTER」でそのまま引用されていることでも有名だ。「MONSTER」は、「選ばれなかった子供」が万一生き延びたらどうなるか、という物語だったのである。


追記5('09.6.14)

「今こそアーレントを読み直す」(仲正昌樹、講談社現代新書)を読んだら、面白いことが書いてあった。以下『』内は引用。

『「人格」を意味する英語の<person>の語源になったラテン語<persona>の原義は、古代の演劇で役者(actor)が着用する「仮面」である。「仮面」は当然、その芝居の中で役者が演じる「役割 part」を表示する。先に述べたように、アーレントは『人間の条件』で、「政治」における「活動 action」を演劇における「演技 action」と関連付けて記述しており、「仮面=人格」は、「活動」とも意味的につながっている。
(略)
アーレントは、法廷において人が「法」によって役割を与えられた「人格」として振る舞うことと、公的領域において各市民=活動主体(actor)が、他の市民にアピールするために、良き市民としての「仮面」を被って「活動=演技 act」することは、根底において繋がっていると考える。「人格」は、人が成長する過程で“自然”と備わってくるものではなく、「公衆」の目を意識した「演技=活動」において演ずべき「役割」なのである。従って、それは、公衆のまなざしに晒されることのない「私的領域」で見せる“素顔“とは、自ずから異なったものである。
(略)
「ヒトとして生まれたこと」よりも、「人格=仮面を演じること」を「人間の条件」として、より重視するアーレントにとって、人々がせっかく被っている「仮面」を取って、その下にある素顔を暴露することは有害でしかない。「仮面」こそ「人格」そのものであり、「仮面」が破壊された後に顔を見せるヒトは、ルソー主義者が想定しているようなすばらしい、同胞愛に満ちた存在ではなく、自らの欲望のままに生きる動物でしかない。
フランス革命の指導者たちは「偽善者」を嫌ったわけだが、「偽善者」を意味する英語の<hypocrite>の語源になったギリシア語の<hpokrites>は元々「役者」を意味する。これもまた演劇に関連する言葉である。「偽善」という言葉には、本性から善良ではないのに、善良であるかのように見せかけるということが含意されているが、「人間」の生まれながらの“善良なる本性“を認めないアーレントにしてみれば、「見せかけ」を全面的に否定することは、「活動=演技」を最重要条件とする「人間性」自体の否定に繋がる。大事なのは、その人の振る舞いが、人間の“自然本性“に適っているか否かではなく、「公的領域」における「現れ=登場=見せかけ=仮象 appearance」として一貫性があり、それが他の市民たちに認められているか否かである。心底から“善人“であるかどうかではなく、「良き市民」という役割を、公衆の面前で演じ切れているかどうかが問題なのである。そこを取り違えると、「偽善的な『見せかけ』を破壊すれば、自然本性が復活する」という幻想に囚われ、西欧文明において「人間性」という理念を支えてきたものを次々と破壊することになる。
近代の哲学者が、「人間」存在の根底にある最も本質的なものを追求してきたのに対し、アーレントは「見せかけ=現れ」を重視する。「政治」の本来の場である「公的領域」は、「現れの世界」である。「現れ=見せかけ=仮象」などを意味する英語の<appearance>に対応するドイツ語<Schein>には、「輝き」という意味もある。各人が、生のままのヒトとして振る舞う私的領域ではなく、「人格」という「仮面」を被って自らの「役割」を演じる「公的領域=現れの世界」においてこそ、「人間性」が「輝く」のである。』(本書138-142ページ)

内田樹氏のイーストウッド論「自分が何者かではなく、何者でありたいかを重視せよ」とも通ずるものがあるが、社会のなかで与えられた役割を果たすために被る仮面こそが人間性だ、という考え方は、現代日本の文化−映画でも小説でもアニメでも−が示す志向とは正反対ではないだろうか。
以前、士郎の人格設定の奇妙さを指摘したことがある。作者も、「欲望を全肯定するのは動物と同じだ」ということを知っていたのではないだろうか?
しかし、前述の志向性ゆえに、それを否定するわけにはいかない。その結果苦しまぎれに考え出したのが、普通の人間なら持っているはずの欲望を一切持っていないという設定であり、いわば「普通の人間よりもスタートラインを低くする」という方法だったのだろう。私が再三指摘してきたように、成功しているとは思えないが。


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「シナリオライティングの黄金則」による分析

試しに、「シナリオライティングの黄金則」(金子満 ボーンデジタル 2008)を当てはめてみた。本書は膨大な数の映画シナリオを分析し、あるルールを提示したものである。それによると、基本的なシナリオは、以下のような13個の「ロット」からなるとされる。

名称 内容
1 普通 主体者と生活
2 異変 破壊と犠牲
3 覚悟 依頼と決意
4 苦境 行動と苦境
5 支援 失敗とヒント
6 成長 成長と対抗
7 切り替え 視点の切り替え
8 試練 困難と試練
9 危機 破滅の予兆
10 糸口 解決の糸口
11 対抗 対決を制する
12 排除 対抗を排除する
13 満足 満足を得る

例えば、シナリオの明快な映画として「ダイ・ハード」を例にとって考えると、こんな感じになる。

名称 内容 ポイント 映画のシーン
1 普通 主体者と生活 ナカトミ・ビルへ向かう。パーティ会場の様子
2 異変 破壊と犠牲 テロリストがパーティ会場へ
3 覚悟 依頼と決意 ロットポイント1 ナカトミ社長殺害を目撃・宣戦布告
4 苦境 行動と苦境 屋上の銃撃戦・エレベータへ
5 支援 失敗とヒント 警察と連絡・マスコミにリーク
6 成長 成長と対抗 警察突入・爆破
7 切り替え 視点の切り替え ミッドポイント 素性がばれる・FBI登場
8 試練 困難と試練 エリス介入・ハンスと遭遇・ホリーの正体露見
9 危機 破滅の予兆 FBIから銃撃
10 糸口 解決の糸口 ロットポイント2 屋上からジャンプ
11 対抗 対決を制する マルチプルソリューション ハンスと対決
12 排除 対抗を排除する マルチプルソリューション カールと対決
13 満足 満足を得る マルチプルソリューション ホリーと和解・退場

ここで、「ロットポイント1」は「主人公が何かに巻き込まれ、損害や犠牲を受け、葛藤の末あることを決意し、行動を開始する」点であり、観る人に今後の展開を期待させる役割を持つ(本書205ページ)。
「ミッドポイント」は作品の中間点であり、観客の気分を改めさせ、席に座り直させるような機能を持つ(同208ページ)。
「ロットポイント2」は、絶対のピンチに立たされた主人公がこれまでの展開の中から何かを掴み、観客にどのような感動や満足を与えるのか、という期待感を抱かせる点である(同209ページ)。
「マルチプルソリューション」は、「クライマックス」とほぼ同義だがより範囲が広く、これまで起こった問題、摩擦、事件などに解決を与える(同210ページ)。


これを「Fate」の各ルートに当てはめると、こんな感じになるかと思われる。

まず「Fate」ルート。

名称 内容 ポイント 作中の場面
1 普通 主体者と生活 日常生活
2 異変 破壊と犠牲 ランサーと遭遇〜セイバー召還
3 覚悟 依頼と決意 ロットポイント1 教会・参戦表明
4 苦境 行動と苦境 バーサーカー戦〜ライダー戦
5 支援 失敗とヒント ライダー戦の合間・セイバーと本当の契約
6 成長 成長と対抗 エクスカリバー使用
7 切り替え 視点の切り替え ミッドポイント アインツベルンの森
8 試練 困難と試練 バーサーカー戦〜橋上の別れ
9 危機 破滅の予兆 ギルガメッシュ戦
10 糸口 解決の糸口 ロットポイント2 教会地下
11 対抗 対決を制する マルチプルソリューション セイバーVSギルガメッシュ戦、士郎VS言峰戦
12 排除 対抗を排除する マルチプルソリューション 聖杯破壊

まずミッドポイントは7。士郎の守護者であるセイバーが、実は庇護され救われるべき存在であることが明らかになる、という点である。もちろんHというアクセントもある。
続いて8で、「漠然とみんなを守りたい」→「セイバーを救いたい」という士郎の動機の変化。及び、「セイバーとの対立」が重要。
10が、「テーマの解決」。士郎は命がけで聖杯を否定し、過去をやり直すことはできないとセイバーを諭し、救う。「鞘」のエピソードを含めても良い。繰り返しになるが、このルートでの士郎が主人公=ヒーローたり得るのは、ひとえにその生き方を示すことでセイバーを苦悩から救ったことによる。


次に「UBW」。

名称 内容 ポイント 作中の場面
1 普通 主体者と生活 日常生活
2 異変 破壊と犠牲 ランサーと遭遇〜セイバー召還
3 覚悟 依頼と決意 ロットポイント1 教会・参戦表明
4 苦境 行動と苦境 バーサーカー戦
5 支援 失敗とヒント 遠坂戦・ライダー戦
6 成長 成長と対抗 キャスターVSアーチャー、葛木戦
7 切り替え 視点の切り替え ミッドポイント ルールブレイカー
8 試練 困難と試練 アーチャー造反
9 危機 破滅の予兆 アインツベルン城
10 糸口 解決の糸口 ロットポイント2 キャスター戦・セイバー救出
11 対抗 対決を制する マルチプルソリューション アーチャー戦
12 排除 対抗を排除する マルチプルソリューション ギルガメッシュ戦
13 満足 満足を得る マルチプルソリューション 聖杯破壊・別れ

5のライダー戦がきっかけで、凛と協力関係に。
6で、士郎がアーチャーの憎悪の対象であることが判明。
7で、マスターとサーヴァントの絆を断つ宝具登場
11が「テーマの解決」。士郎が自身と戦い、勝利する。
UBWがとりわけ見事なのは12。このギルガメッシュ戦が、「偽物が本物を凌駕する」というもう一つのテーマの解決にもなっている。


最後に「HF」。

名称 内容 ポイント 作中の場面
1 普通 主体者と生活 日常生活
2 異変 破壊と犠牲 ランサーと遭遇〜セイバー召還
3 覚悟 依頼と決意 ロットポイント1 教会・参戦表明
4 苦境 行動と苦境 黒い影と遭遇
5 支援 失敗とヒント セイバー喪失
6 成長 成長と対抗 遠坂と共闘
7 切り替え 視点の切り替え ミッドポイント 桜を守る
8 試練 困難と試練 アーチャーの腕を移植・あくまで桜を守る
9 危機 破滅の予兆 桜黒化
10 糸口 解決の糸口 ロットポイント2 バーサーカー戦・宝石剣
11 対抗 対決を制する マルチプルソリューション セイバー戦
12 排除 対抗を排除する マルチプルソリューション ルールブレイカー・言峰戦・聖杯破壊
13 満足 満足を得る マルチプルソリューション ED

7が「テーマの解決」だとすると、この後エンディングまでが長すぎる。
9で桜が庇護者→敵対者へ。
10を「テーマの解決」とすると、このルートのテーマは「イリヤを救うこと」となってしまう。
10から12が、どう見ても詰め込みすぎ。

価値判断は避けるが、前2ルートに比して、「テーマの解決」が「命がけの戦いの結果としての選択」になっていないとは指摘できるだろう。



なお、本書が出版されたのは2008年になってから。この法則に則って「Fate」が作られた、と主張しているのではないので、念のため。
また、「ダイ・ハード」も含めて、実作への適用は私が恣意的に行ったものである。より適切な考え方もあると思うので、興味のある方は本書をご一読の上、挑戦してみてください。


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「クロノアイズ」と「Fate」の時系列

まず「Fate」の制作日程(Fate/side material±αから抜粋して作成)。

できごと
2001 10 企画スタート
2002 3 プロット概略完成
5 導入部(後の体験版)脱稿
7 「カラフルピュアガール」9月号で制作発表
8 発売予定日その1(同人ゲームとして夏コミ頒布予定だった)
9 Aルート脱稿。「Fate」を凍結し「MELTY BLOOD」の作業に
10 TYPE-MOON商業化決定
12 発売予定日その2。Bルート脱稿。「MELTY BLOOD」冬コミで頒布
2003 2 発売予定日その3。Cルートプロット再構築。イリヤルート削除
4 Cルート作成開始。「月箱」発売
7 Cルート脱稿。立ち絵作業完了
9 発売予定日その4。テキスト修正・分岐テキスト作成開始
11 発売予定日その5。アルファ版完成
12 制作作業終了
2004 1 発売


続いて「クロノアイズ」連作の掲載日程(単行本から)。

できごと
1999 6 「クロノアイズ」連載開始(8月号)
2002 1 30話「最良解」掲載(3月号)
4 第1部完結(6月号)
6 「グランサー」連載開始(8月号)
2002 12 ACT6.「サンタクロースの国」「千界の王」グリーナム初登場(2003年2月号)
2003 2 ACT8.「過去の顔」アナとグリーナムの過去の因縁を示唆(4月号)
6 ACT12.「前門のパペッティア 後門のグリーナム」正体を提示(8月号)
9 連載完結(11月号)


「クロノアイズ」の方が先行してはいるが、見事なまでにほぼ丸かぶりである(注)。

「Fate」に登場するガジェットの大半が過去の先行作品の引用だ、というのはよく指摘される。超人的能力を持った者たちのバトルロワイヤルといえば「甲賀忍法帖」(山田風太郎)だし、過去の英雄が一堂に会するというのは「スペースオペラ大戦争」(豊田有恒)なんかもある。マスターとサーヴァントの関係は「ファイブスター物語」(永野護)を彷彿とさせる。

表現というのは、たいがい過去の先行作品のイメージを積み上げたものだ(そうだ)。そこに何らかのプラスαを加えていくのが創作というものであり、「Fate」は十分なオリジナリティを有していると思う。


・・・・・・とは言うものの、これは表面的なガジェットの問題ではなくて根幹的なプロットに関わる類似であり、偶然にしては似過ぎているという気は、確かにする。
ゲームの発売予定日というのはあってないが如きものらしいが、5度にわたる発売延期は何が原因なのだろう。私はゲーム開発にはまるきり無知なので、このへんは詳しい方にお考え頂きたい。


ところで、偶然の一致ならもっと類似作品があってもよさそうなものだ。しかし例えば、ここにタイムトラベルものの特集サイトがあるが、この中には見当たらないようだ。「未来警察ウラシマン」も、ウィキペディアによると少なくともアニメ版は、そのプロットは採用しなかったと書いてある。
いや、探せば出てくるとは思いますが。
ついでだが、タイムトラベルものってアーサー王がらみが意外と多いんですね。


注 細かく言うと、「Fate/side material±αの記述が事実なら」という留保がつくのだが、そこまで疑うのはナントカの勘ぐりというものであろう。