更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2009年6月28日(日)
アニメギガ 金巻兼一

先日NHK−BSで放送されたアニメギガ・金巻兼一の回の抜粋。それにしても渋い人選だなあ、この番組。

『「夏目友人帳」は、作品の空気を伝えるために作者の現住所である熊本にロケハンした。重要なのはストーリーではなく空気。ストーリーを語る上で重要なのは、いかに感情点(ドラマの頂点。主人公の感情が変化する点)を見せるか。感情点さえ押さえておけば、後は空気を見せるだけでよい』

『「元気爆発ガンバルガー」で初めてシリーズ構成を担当した時、1年分のシリーズ構成案を最初に提出したら、内田健二プロデューサーに怒られた。
「結末の決まっているものを子供が面白がるわけがない。スタッフを信用して、最初から全力を出し切れ」
そういうわけで、せいぜい3話程度しか先を考えずに書いたので演出担当者には苦労をかけた。ちなみに、なぜかいつも細部が決まっていない無茶な回の演出に当たってしまうのが、かの谷口悟朗だった』

『「地獄少女」は、当初は自分が面倒を見ていた若手脚本家が担当していたが、ストレスで戦線離脱してしまい、急遽自分に回ってきた仕事。そこで物語の基本チャート「地獄通信にアクセス→状況説明→人形を渡す→糸を解くかの葛藤→地獄流し」だけ決定して、各ライターに依頼した。
初期にプロデューサーから「物語は勧善懲悪であるべき」とクレームが付いたが、譲らなかった。表現に社会的正義はある程度必要だとは思うが、今の時代に、インターネットに書き込むだけで人を地獄に送り、その報いを受けないなどという話を書くことはできなかった。それが自分なりの誠実さだと思った』

以前、第1期シリーズの各エピソードの出来不出来を指摘したことがあるのだが、これが理由なんだろうな。

『「三鼎」は少女マンガ。次の地獄少女になろうとしていたゆずきを、あいが身を挺して救うというのが「三鼎」のストーリーだが、ゆずきのラストのセリフは「ありがとう」ではなく「彼氏のいたあいがうらやましい」。ドラマは「ありがとう」で完結しているが、そのドラマに何を感じたかを登場人物が口にしているのが「うらやましい」であり、少女マンガの表現の本質はこれ−「テーマではなく気持ちを語らせる」−だと思う。
これは、「夏目友人帳」で学んだこと。夏目のモノローグは、常にドラマやテーマではなく自分の気持ちを語っている』

『座右の銘はHit by the Bus rule。あるミュージシャンの言葉で、スタジオを出た途端にバスにはねられて死ぬかもしれない。だから、いついかなるときも手を抜いた演奏をしてはならない、という意味』


なお、池袋コミュニティ・カレッジの「氷川竜介のアニメの楽しみ方」を聴講してきたので、以前の記事に少し追記

2009年6月20日(土)
小銃と拳銃

アニメ版「ファントム」を観ていて特に思うのだが、小銃(ライフル)と拳銃の描き分けができている作品って、あまりない。

小銃の貫徹力、射程、命中率は凄まじいもので、拳銃とは比較にならない。拳銃はせいぜい20メートル程度の距離で撃ち合うもの。小銃は、200メートル以上離れた敵を撃つ武器である。

ガンマニアの方には常識的な話だと思うので、体験的な話を書いておく。
小銃弾は防弾チョッキでは止められない。小銃弾も止められる防弾プレート、というのを見せてもらったことがあるが、コンクリ製の側溝のフタみたいなのを身体の前後にぶら下げているような代物だった。歩くのも大変なくらいだが、これで命が助かるかもしれないと思えば安いものだ。
もっとも、防弾チョッキに意味がないかと言えばそんなことはない。戦場での負傷で一番多いのは、弾丸ではなく爆発の断片が当たることだからだ。

小銃弾は、土嚢を貫通してしまう。だから、陣地を組む時は土嚢を二重に積んだうえにコンクリか鉄板で裏打ちする。
鉄筋コンクリートは、1発2発なら良いが連射を浴びると砕け散ってしまう。木材なら、30センチ以上の太さのある生木の中心ならどうにか停弾効果がある。

小銃弾は高速で貫徹力が高いため殺傷力が低いというのは、俗説。これはあくまで猛獣撃ち用の弾丸に比べて、の話である。確かに小口径で高速なので、弾丸自体は人体に当たると貫通していってしまう。しかし問題は、弾丸が後に引きずってくる衝撃波。これが組織をぐちゃぐちゃに破壊してしまうのだ。頭及び胴体にあたればまず死ぬ。手足にあたれば、運が良ければ被弾部位から先を切断せずにすむ。腋下動脈又は大腿動脈が傷つくと、たいがい失血死する。

この辺、非常に正確に描写しているのが映画「ヒート」('95)。
中盤に、警官隊と銀行強盗グループとの市街地での大銃撃戦シーンがある。警官隊の武器が拳銃とショットガンなのに対し、デ・ニーロたちの武器はいずれも自動小銃。警官隊はパトカーを盾にしているが、小銃弾は車のドアや車体を貫通してしまうのである。これは作中、ちゃんと描写してある。犯人グループは基本通り、一人が制圧射撃をしているうちに仲間が次のポジションに移動していく。これでは勝負にならない。ただし、アル・パチーノの率いるチームだけは小銃を使っているし、隠れるときは、小銃弾でも貫通しない石造りの建物や、車のエンジンの陰に入っている。それだけ訓練と装備が行き届いた、特別なチームなのである。
余談だが、クライマックスの空港での対決シーン、「妖獣都市」に似ているのがどうも気になっていたのだが、どうやら「ブリット」('68)へのオマージュなのですな。マックィーン偉大なり。
ついでに、アシュレイ・ジャッドが子供と遊んでいるシーンで、背後のテレビ画面を走るテールライトの光! あれに見えるは「アキラ」じゃないか。

アニメで正確に描写している作品というと・・・・・・ちょっと思い当たらないなあ。まあ「身近に武器がないため感覚的に分からない」ということだから、慶ぶべきではありますが。

2009年6月14日(日)
雑記いろいろ

・某アニメ感想サイトの昔の記事を読んでいたら、「R.O.D. -the TV-」の後半が駄目だ、という話があった。私もあの後半はぐだぐだだと思うが、その記事によると、「升成監督はアクション演出が不得手だということを自認している」のだそうで。

アニメに限らず、演出家の得手不得手というのは確かにあると思う。

その昔、バリー・レビンソン監督作品の「スフィア」('98)と「ワグ・ザ・ドッグ」('97)がたまたま同時期に日本公開されて、続けて観たことがある。「スフィア」はSFサスペンス、「ワグ・ザ・ドッグ」は政治コメディと全然ジャンル違いの作品である。バリー・レビンソン監督といえば「レインマン」('88)で有名な感動作を得意とする人で、上の2作も当然のように「スフィア」の方がボロボロだった。

ところで、アニメの場合「アクション演出が下手」というのは、どういうことだろう。アニメのアクション設計はアニメーターの仕事なわけ(絵コンテは演出家が描くにせよ、レイアウト段階でアニメーターの意向が強く入ると思う)で、極端な話、中村豊に任せておけば自動的に凄いアクションシーンができてくるだろう。納期に間に合うかどうかはともかく。

とすると、一言で「アクションが下手」と言ってしまうけど、その内実は「ドラマのクライマックスにアクションシーンを持ってくる段取りが下手」もっと言えば「アクションによってコンフリクトが解消=カタルシスを得る」という作劇をするのが下手」ということではないかと。
でもアクションだろうとディベートだろうと、コンフリクトの解消というのはドラマの基本なわけで(だから裁判もの映画は面白いのだ)、「アクションが下手」なヒトはそもそもドラマを描くのに向いていないんじゃないだろうか?
・・・・・・特にまとまりなく終わる。

・何となく観ていた「初恋限定。」。9話が凄い傑作だった。その前の8話が酷い話だったのを、ちゃんとフォローしてるし。
シナリオ:國澤真理子 絵コンテ:山川吉樹 演出:橋本敏一 作画監督:佐野恵一

とりあえず、「アニメ作品中における絵画」の話に1枚追加
この話題、「カリオストロの城」と「ルパン対複製人間」の比較論にも使えそうな気がしてきた。

・BSで「宇宙水爆戦」('55)を初めて観た。かの有名なメタルーナ・ミュータントって、あれしか出番ないんですか?

・同じくBSで、「バヤヤ」を観る。チェコの人形アニメの巨匠、イジー・トルンカがチェコの民話を題材にした映画。竜の生け贄にされそうになったお姫様を勇者が救う、という典型的な話なのだが、その竜というのが、「3つ首竜の3兄弟」というよく解らないヒトでして。

結果、こんなになってます。
 


・「けいおん!」を観ていて気になっていたのが、階段の手すりのオブジェ。



この床の、ドアの通り道に敷かれた金属部分の描写にも言えることだが、いくらアニメ屋さんでも想像だけで描けるものとは思えない。



何かしらモデルがあるのだろうと思うが。
いや、私は聖地巡礼の趣味ってまるでないんですがね。もしモデルになってるのが本当にどこぞの学校なのなら、非常識なことする奴がいなきゃ良いんだけどなあ、といらん取り越し苦労をしてみる。

・最大瞬間風速的に、「Heaven's Feel再論」がやたらとアクセスされてた。
たまたまハンナ・アーレントの勉強がしたいなと思っていた時に「今こそアーレントを読み直す」なる新書が出ていたので読んでみた。で、ちょっと思い当たるところがあったので追記
まがりなりにも院生なんだし、アーレントくらい原著で読めって?すみません、英語力的にも時間的にも無理です。

・「レスラー」を観てきた。
ドキュメンタリーと言えどもフィルムに写された時点でそれはフィクションになるのだが、この映画はやはりミッキー・ローク自身の人生に重ねて観ざるをえない。過酷な現実よりもさらに過酷な虚構の中でしか生きられない男の意地と誇りに、ただ涙する。
このロークにオスカーやらなかった選考委員はやっぱりどうかしてるよ。

2009年6月6日(土)
暮らしの中の軍事用語

本日小ネタ。
軍事関係の論文を読んでいると、日本語化している英単語に実は軍事的な意味がある、という場合が多くて驚く。
いくつか紹介してみる。

captain:大尉又は艦長 まあこれは有名だな。
private:新兵。「プライベート・ライアン」だ。「ライアン2等兵」じゃ確かに客入らんわな。ロボット3等兵じゃあるまいし。
front:前線。「西部戦線異状なし」の原題は「ALL QUIET ON THE WESTERN FRONT」。
company:中隊
engineer:工兵
recruit:これも新兵、徴兵の意味。
veteran:退役軍人
draft:ドラフト会議のドラフトだが、これも徴兵の意。
campaign:戦役
theater:戦域、戦場
volunteer:(徴兵に対する)志願兵。命がけなのも当たり前。

2009年6月1日(月)
「けいおん!」をめぐって

「けいおん!」の感想を見て回っていると、ときどき、主に否定的な文脈で「ただの萌えアニメ」という表現を見かける。(例:「しょせんただの萌えアニメでしょ」)

別に「けいおん!」に限った話ではなく、誰でも一度や二度は眼にしたことがあると思う。

しかしこのフレーズ、重点はどこにあるのだろう。
「ただの」萌えアニメなのか、ただの「萌えアニメ」なのか。

いや、禅問答したいわけじゃないので、分かり易く言います。

後者の様に「萌えアニメ」に重点があるとする。
するとその趣旨は、「『けいおん!」は萌えアニメだからつまらない」ということになる。
だがこれは自明の理ではない。
この理屈を実証するには、「そもそも萌えアニメとはなんぞや」という定義に始まり、「萌えアニメは他のどのようなアニメに比べていかなる理由でつまらないのか」を明らかにしなければならない。
しかるのちに「けいおん!」は上の定義に合致する萌えアニメの1つであることを指摘して、ようやく証明終わりとなる。

これを本当にやったら、まず最初の定義論でつまづき、次いであれは萌えアニメ、これは違うという不毛な分類合戦に終始するのが目に見えている。ま、だから現実には論者が自分で定義を決めてしまえばよいのだが。
いずれにしても、ここまでやった上で「萌えアニメはつまらない」と断言できる人間はあまりいないんじゃなかろうか。

一方、「ただの」に重点がある場合はどうか。
これは「ただの」萌えアニメと言う以上、「ただならぬ」萌えアニメが存在することを前提にしている。つまり、「『けいおん!』は萌えアニメでありながら優れた先行作品に比べてこういう理由でつまらない」という趣旨になる。
これならば、発展性のある議論になる。少なくとも私は、こっちの方が論じる価値があると思う。

実は、「ただの○○」というのは、何に対しても言えるんだよね。
「ただのロボットもの」とか「ただのファンタジー」とか「ただのラノベ」とか「ただのエロゲ」とか。

「ジャンル分けとは思考停止ワードの一種である」と自戒を込めて書いておく。

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