更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2009年3月23日(月)
命令と服従

このネタは以前から考えていたものだが、こういう記事(→「アニメが好きな部活と軍隊」)があったので、ちょうどよいと思ってアップしてみた。

フィクションには軍隊またはそれに準ずる組織が頻繁に登場するが、細部の描写に引っかかってしまって楽しめないことがよくある。
その一つが、「命令には絶対服従」という奴。
それ自体は間違っていないのだが、よく勘違いされているのだ。

ひとつは、指揮系統の問題。
「命令」とは、部隊の指揮権を有する者が指揮下の部隊員に対して発するものだ。指揮権は階級ではなく、役職に付与される。したがっていくら階級が上でも、指揮下にない者に対して命令はできないし、下位の者は聞く義務はない。よく「部隊が全滅して生き残った雑多な兵達がチームを組む」というシチュエーションがあるが、あれは本来の指揮系統が機能していないので、臨時に部隊を編成して先任者が指揮権を持つのである。ちなみに部隊とは「複数の隊員がおり、指揮官を有する組織」である。指揮官1人部下1人でも、目的と指揮系統があるかぎり部隊なのだ。
また、命令は直近下位の者に対して出されるのが原則。上級司令部が、中間司令部を飛ばして現場に命令することはできない。もっとも、直感的に解るように、こういうヒエラルキー型の組織は情報伝達が遅く、動きが鈍くなりがちなので、近年軍隊と言えども見直される傾向にあるのだが、それはまた別の話。

第2に、実行可能性の問題。
「命令には絶対服従」。それは本当だ。だからこそ、命令は下される前にその実行可能性が厳しく精査されなければならないのである。いくら命令でも、物理的に実行不可能なことならできないに決まっている。命令によってなされた行為の責任は指揮官が負う。実行不可能な命令を下すのは、指揮官の無能を証明するようなものである。もちろん状況の変化によって命令の訂正や撤回はあるが、部下を危険にさらす以上、指揮には尊厳というものが必要である。朝令暮改では部下の信頼を失う。だから軽々しく訂正したりせずにすむよう、事前に厳しく命令内容がチェックされなければならないのだ。
軍隊組織は巨大官僚機構なので、細部調整のために幕僚部というものが発達している。で、その事前チェックは幕僚同士で行うのだが、うっかりしていると指揮官が知らない間に話が進んでしまって、最後に決裁をもらいに行くだけ、ということが起こる。こういう指揮官の意図をないがしろにしたやり方を「幕僚統制」と言って、厳しく戒められる。

第3は、指揮権の根拠。指揮権は法律や規則によって定められている。
したがって、違法行為は命令できない。このへん誤解があるかもしれないが、ここで違法と言っているのはその軍隊を律する軍法と、戦時国際法(近年は武力紛争法という)に対する違反のことである。戦場で兵士が敵兵を殺すのは違法ではないが、非戦闘員を殺せば犯罪になる。指揮官はそんなことは命令できないし、命令を実行した者も罪に問われる。もちろんこれは建前で、実際には守られないことも多い。だが、その規範そのものは確かに存在する。だから、普通「これは侵略戦争である」と言って戦争を始める国はないのだ。内戦が、国家間の戦争に比べて悲惨なものになりがちなのは、こうした規範が作用しないからだと言われている。
同じ理由で、兵士に「危険な任務」を命ずることはできるが、直接「死ね」と命ずることはできない。だから、特攻は命令ではなく志願が建前だった。

なお言葉だけはよく知られている「軍法会議」は、軍法に違反した者を裁く専門の裁判所である。当然被告には弁護人が付くし、検察側には起訴事実の立証責任が生じる。自衛隊には軍法会議がないので、もしも自衛隊法違反で起訴されたら一般の裁判所で裁かれる。昔、「自衛隊は軍隊ではない」と言っていたのは、「軍法会議がない」ことが一因なのである。

2009年3月18日(水)
「空を見上げる少女の(以下略)」

以前触れたお師匠様の作品ということで、とりあえず観ている。

作品自体はさておき、エンディングテーマの「光と闇と時の果て」の話。バックコーラスがとても美しい曲でCD買ってしまったんですが、歌詞が一箇所、ひっかかってしょうがない。

「君が授けてくれたものは 信じるという力」

というくだり。

この「授ける」は明らかに誤用でしょう。というのも、「授ける」というのは「目上の者が目下の者に与える」という意味だからだ。

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E6%8E%88%E3%81%91%E3%82%8B&stype=1&dtype=0

あ、それとも「君」というのは「○○の君」という尊称か?そんなわけないか。
いずれにしても正しい表現は「授けてくださったもの」になるはずだ。

もちろん、言語が時代とともに変化するものであることくらいは承知しているが、だからといって「今現在正しいとされる日本語」に意味がないとまで言ったら行き過ぎだと思う。

これだけだとただの揚げ足取りなので、どうしてこんな誤用が起きたのかちょっと考えてみた。以下は完全に想像。

日常会話で「授ける」・・・・・・と言うよりは「授かる」という言葉を使うのは、十中八九「赤ん坊を授かる」という用法だろう。この言葉にはいかにも日本語らしく主語がないが、ここで「授けて」いるのは、天である。配偶者ではないし、もちろんキャベツ畑でもない。

「子供は天からの授かりもの」という感覚が薄れてきた結果、生じた誤用なのではないかな。
そういう意味でも「神は死んだ」のだなあ、などと考えてみた。

2009年3月15日(日)
「Canvas2」とリアリティのレベル

最近愛読している某ブログで、「Canvas2」の最終回を絶賛していたので、たまたまスカパー!で放送していたのを途中から観てみた。

まあ名塚佳織の名演は認めるけど、ことごとく私のストライクゾーンを外れてました(→公式サイトのあらすじ)。観る前に気づけよって話だが。


で、気になったのが重要な小道具であるエリスの描いた絵。以下ネタバレ。

主人公浩樹は、エリスが自分のトラウマを克服して描いた絵を見て、自身の絵に対する情熱を取り戻すとともに、幼なじみの霧を捨ててエリスのもとへ走る−という展開なのだが、そのエリスの絵が、これ。



私にはどうしても、この絵が大の大人の人生に影響を及ぼすような力のある絵に見えない。
アニメの中の絵画といえば「時をかける少女」に登場する「白梅ニ椿菊図」が思い浮かぶ。あれは、時間旅行の動機となりうるだけの力を持った絵だった(注1)。

何も技術の巧拙(だけ)を問題にしているのではない。
作中の人物に大きな影響を及ぼすという設定の絵が、こういうリアリティのレベル−写実性とか抽象度の度合いと言ってもいい−であって良いんだろうか、と思うのだ。

分かり易い例を挙げる。
下の図は、「マリア様がみてる 4thシーズン」9話に登場した生徒会選挙のポスター。



作中において写真なのかイラストなのかはわからないが、これがつまり「作中における写実的なポスター」の表現なわけだ。キャラクターと同じリアリティのレベルにあるから、一目瞭然である。どうでもいいが、「マリみて」のキャラがデジカメ写真を撮ってフォトショップで加工している図って想像しにくいですね。

一方これと対極にあるのが、「トップをねらえ!」5話に登場するこのカレンダー。



作中人物はあからさまにアニメ絵なのに、カレンダーの写真には生の人間が写っている。よく考えるとこれは不思議な表現だ。これは幻視球さんからの受け売りだが、庵野監督作品はこういう「リアリティのレベルのコントロール」を非常に意図的に行っている。

先日公開された「ウォーリー」にもこれに近い表現があった。アクシオム号艦長の歴代肖像写真が、昔は実写なのに時代が下るに従って次第にCGに変化していくのである。

で、エリスの絵の件に戻る。
要するに、二次元にベタ塗りされた絵に過ぎないアニメという表現に、絵画という異質なリアリティを持ち込むことで生じる(生じかねない)問題に、あまりにも無自覚すぎないかということなのだ。


重要なのは、エリスがトラウマを克服して赤い絵の具を使って絵を描いたという事実そのものであって、絵自体は問題ではないという意見もあるだろう。
だが私はそうは思わない。
浩樹の心を動かす絵なら、それにふさわしい力があって欲しい。優れた芸術は、背後にあるドラマなど関係なく人の心を動かすものだ(注2)。第9が名曲なのは、ベートーヴェンが難聴だったからではないだろう。

「エリスが絵を描いた」事実そのものが重要なのなら、完成画面を観客に提示する必要などない。
「エリスの絵を見て衝撃を受ける浩樹の芝居」→「使い切った赤い絵の具のチューブ」といった具合につなぐだけで良いのだ。
これは何も暴論ではない。画家とヌードモデルの創作の死闘を描いた映画「美しき諍い女」('91)では、完成した(真の)画面はついに観客に提示されない。


ではどうしろと言える問題でもないので、まとまりなく終わる。


注1:劇場作品とTVシリーズでは予算も納期も違うというのはわかるが、その議論はひとまず置く。それを指摘したところで何を言ったことにもならない。
注2:細かいことを言うと、芸術と言えど文脈とか時代背景といったものと切り離して論じるべきではないのだが、今はそこまで踏み込まない。→「『古池や蛙飛び込む水の音』の革新性

'09.3.18追記
絵画が重要な役割を果たすアニメといえば、その名も「コゼットの肖像」があった。また、TVアニメで「リアリティのコントロール」を意識的に行っているのが「WHITE ALBUM」である。

'09.6.14追記

「初恋限定。」9話から。リアリティのレベルとしてはアニメよりながら、演出の妙と相まって十分に心に染み入る出来栄え。



2009年3月10日(火)
「とらドラ!」における男と女

今シーズン、ダントツで面白いのが「とらドラ!」。・・・・・・なのだが、何でこんなに面白いのか、非常に語りにくい作品だ。例えば、私は以前「スカイ・クロラ」についてこんな文章を書いている。
この作品は、その出来や面白さに関係なく極めて「語りやすい」作品で、この程度の文章はでっち上げられてしまう。

しかし「とらドラ!」にはこのようなとっかかりがまるでない。別段哲学的なテーマを扱っているわけではない。作画やレイアウトが際立っているわけでもない。鬼面人を驚かす奇抜な演出があるわけでもない。キャラクターの魅力や丁寧な心情描写、テンポの良い演出などは指摘できるが、わざわざ言うほどのことでもなし・・・・・・と黙って観ていたのだが、16話・生徒会長選まで観てちょっと思いついたことがある(なお、原作は未読)。

作中での男女の極端な描き分けである。

平たく言うと、男はとことんバカでガキで役立たず、一方の女性陣は一様に自分の立ち位置や役割に自覚的で、かつ人の気持ちに配慮できる、端的に言って「大人」に描かれているのだ。

これが明白に描写されているのが生徒会長・狩野すみれだ。
彼女は、北村を真に大切に思えばこそ、自分の気持ちを押し殺してでも北村にとってのベストを選択する(いや、お察しの通り、私こういうキャラに弱いんですよ)。

これは大河を思いやって竜児を遠ざける実乃梨や、傲慢なようで常に周囲に気を遣っている亜美についても言える。亜美には「私ってオトナ」とひとりごちるシーンまである。また、この2人は手に職を持ち、自分で食い扶持を稼いでいるのが重要なポイントだ。

これはサブキャラにも言えることで、例えば竜児の母・泰子は一見だらしないが女手一つで家計を支え、竜児を育ててきた人物である。

男性側に目を転じてみれば、竜児と北村は言うに及ぶまい。竜児は生活能力という意味ではしっかり者だが、実際には母の庇護下にある。名前に「児」という字が付くのも象徴的ではある。
そして丁寧なことに、竜児と大河の父はそろって親の責任を果たさないろくでなしとして描かれる。

さて、そこで注目は大河だ。
生徒会長との対比で露わになるように、彼女は女性でありながら、バカでガキで無神経な生活無能力者である(注)。つまり、本作における男女両方の属性を併せ持ち、男女の境界に位置して自由に行き来できるキャラとして描写されているのである。そういえば貧乳なんて設定は「女性性の剥奪」の最たるものだ。

こうしてみると大河は極めて特権的なキャラであり、何となくシリーズの先が見えてしまう気も・・・・・・とここまで書いて気が付いた。これ全然「アニメ版とらドラ!」について語ったことになってないじゃん。「アニメでなければ描けないこと」じゃないし。

えー、まあとりあえず長井龍雪監督の代表作になるのは間違いなさそうで良かったなあと。



注:誤解のないように慌てて付け加えておくが、これらは大河の可愛らしさとして魅力的に描かれている。

'09.3.18追記
「(キャラクター同士の)関係値を動かさずとも、気持ちが揺れることで空気感がかわる、そこから生まれるドラマの魅力もあるんだなということが、この作品を通じての発見です」。「オトナアニメ」Vol.11の岡田麿里女史のインタビューより。
その後の展開を見ていると、大河が竜児を異性として意識し始めるのはまさに関係値の変化であり、特権的な地位を失うことにもなるわけだが、さてどうするのか。楽しみで仕方ない。

2009年3月2日(月)
「狼と香辛料」

毎度今さらながら、原作を読んでみた。

なるほど、これは面白い。
なかでも出色の出来なのは3巻。

中世を舞台にしたファンタジーだが、小説としての面白さのキモは、経済小説もしくはコン・ゲームのそれである。
原作者のインタビューによると、もともと中世の貨幣経済の複雑さ、面白さに魅せられ、それを生かした小説を書きたいというのが、執筆の動機だったとのこと。

経済小説及びコン・ゲームものは、本質的にある欠点を持つ。
非常に映像化しづらい、という点だ。
例えば為替制度にしても、小説ならいくらでも言葉で説明できる(読者に理解させられるかどうかはまた別として)が、映像ではなかなかそうはいかない。センスのない監督なら延々台詞で説明してしまうところだが、それは映像という表現手段にとっての敗北というものだ。
詐欺もの映画というのは、「スティング」('73)以来あまり成功例がないはずである。

これまでにアニメ化されたのは単行本の1、2巻で、これらのクライマックスには追っかけのサスペンス、裏切り、そしてホロの正体の顕現、といういわば映像的見せ場があった。
3巻ではちょっとした行き違いからこじれていくホロとロレンスの関係が描かれるが、そのクライマックスはなんと仕手戦(使い方合ってますよね?)なのだ。キャラが確立したことと相まって、「映像的見せ場」を必要としなくなってしまったのである。
考えてみるとこれは危うい方向性である。だって、ホロが狼でなくても成立してしまう話だもの。

作者も反省したのか、これ以降はホロの見せ場を用意するよう方向転換したようだ。

現在待機中の第2期アニメシリーズは、公式サイトにアマーティの配役があるところからすると、果敢に3巻のアニメ化に挑戦するらしい。

上記の理由でこれは見物だ。映像化を成功させる戦略としては2つ考えられる。

ひとつは、原作どおり虚虚実実の仕手戦を描くやり方。しかしこれは成功すれば傑作になるが、大変な演出技術を必要とする。言っちゃ悪いが望み薄だろう。

そこでもう一つの方法。ホロの可愛さで一点突破を図る、これである。

という訳で、第2期は第1期以上にホロの萌えキャラ化が進行するものと予想。
(ホロの魅力と言えば、あの廓言葉がある。もともと遊女のお国訛りを隠すために開発されたものだとかいうが、娼婦はある種の聖性を帯びるものな。いやもちろん男の幻想だというのは承知してますが)

本編とは関係ないが、一番笑ったのが3巻の著者あとがき。
『さて、そんな私の最近の趣味は不動産物件のホームページ巡りです。それも普通のじゃありません。いわゆる億ションと呼ばれる億の単位で売りに出されている高級マンションです。
(中略)
ただ、極度の乱視かなと目頭を揉んでしまうほどゼロがたくさん並ぶ見積書の中に、町会費二百円という記述を見た時、とても安堵しました。なんとなく、この先もがんばって生きていけそうな気がしました』。
私も生きていけそうな気がします。

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