更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2009年5月20日(水)
「羊たちの沈黙」のちょっと気になる表現


観返してみて、
少しばかり考えたことがあったので、以前書いた記事に追加

2009年5月17日(日)
「咲-Saki-」と前田智徳

麻雀を知らない人でも面白いと聞いたので、「咲-Saki-」1話を試しに観てみた。
・・・・・・まあ確かに面白かったけど、この面白さは何故かと言いますと。

「自他共に認めるサラブレッド」対「在野の天才・自覚なし」という王道パターンに、「同じゲームを違うルールでやってる」というズレを持ち込んだことだと思うのですよ。
つまり「勝つ麻雀」と「プラマイゼロの麻雀」と。
まるで噛み合っていなくて、なおかつ観客には優劣が判ってしまう。

だけど、これどうやって話を続けるんだ?
だって勝負しようと思ったら、どちらかのルールに合わせるしかないわけでしょ。
どちらかのルールに合わせたら、「ただの」バトルものになってしまう。
案の定、2話はさっそくそんな感じだった。ちなみに原作は未読。

ところで、「同じゲームを違うルールでプレーするアスリート」が、1人実在する。いや、実在したと言うべきか。
広島カープの前田智徳である。

落合が、「才能だけならイチローより上」と評した天才打者。
彼のエピソードに、こんなのがある。

インタビュアーに「今までで一番記憶に残っている打球は?」と聞かれて、腕組みをしてしばらく考え込んだ後、「ファウルならあります」と答えたのである。

前田は、打球がフェアかファウルかに興味がない。
ただ、投手の投げる最高の球を完璧にとらえて理想の打球を打ち返すことだけに情熱を燃やす。
試合の勝敗どころか、野球というゲームにすら興味がないのだ。

『−野球というスポーツをどういうものだと考えているの?
「バッティングは好きですけれど、野球そのものは嫌いです。そもそもぼく自身は守ることも走ることもあまり好きではないですから」
−そうすると、団体競技そのものが性に合わない、ということ?
「ええ、好きじゃないです。そういう意味では、あくまでも個人プレーのゴルフが好きです。正直言って道を間違えたといまでも思っています。でも、ぼくの子供のころは近所にゴルフをやれるところなんてなかったですから。もしもう一度子供のときからやり直すことができたら、ぼくは迷わずゴルフをやっていたと思います」』

野球は、ほかのどんな球技とも似ていない。その1つの表れが、団体競技でありながら投手と打者の1対1の対決の要素が極めて強いという点だ。だから、野球にはやたらと個人記録が多い。

プロ入り5年目の95年、前田は1塁に走り込んだ時に右足アキレス腱を断裂する。その音は、当時ショートを守っていた池山にも聞こえたという伝説がある。
1年間をリハビリに費やし、96年には見事復活したものの、本人は「前田智徳というバッターはもう死にました」とまで言う。
それでも前田はプレーを続けている。近年は代打が多いが、打席に立った時の声援、そしてその存在感は何ら衰えを見せない。

こういう選手を見続けられるのもファンの幸福の一つであり、こういうプレースタイルが許容されるのが野球というスポーツの魅力なのだろう。

前田の発言は二宮清純「最強のプロ野球論」(講談社現代新書)、また引用は同「プロ野球『人生の選択』」(廣済堂出版)から。

2009年5月12日(火)
「PERFECT BLUE」の色彩設計

ブルーレイで観返してみて、ひとつ気がついたこと。

どちらかというと、プロジェクタの性能のおかげかもしれない。

 → 紅の「PERFECT BLUE」

ところで、私は「オーディオコメンタリーは老後の楽しみ」という主義なのだが、これには今監督と演出の松尾衡がコメントをつけているそうで。これは聞かないといかんなあ。

2009年5月9日(土)
ゴールデン・ウィークに宿題

「グレンラガン」観てきた。
あの新メカのネーミングはやっぱりこれだよね−と思ったんだけど、ウィキにも既に出てるらしいので引っ張らない。

休日にはひたすら積ん読してた本を読んでいた。
で、宿題にしていた「クロノアイズ グランサー」を読んでみたのだが。

・・・・・・なるほど。

例の問題はさておき、とりあえず調べてみた。

  → クロノアイズとFateの時系列

何事も、まずは事実認定から。

2009年5月3日(日)
「グラン・トリノ」

観てきた。
もはやイーストウッドにハズレなし、となって何年経ったか。しかも「チェンジリング」の公開からまだ2ヶ月しか経っていない。今現在、イーストウッドは新作の撮影で南アフリカにいるそうな。
我々は何と幸福な時代に住んでいるのだろうか。

作品そのものはもう私が褒めるまでもあるまいから雑感だけ。

パンフレットの出来が素晴らしいので、必ず買うこと。遠山純生氏のまとめたイーストウッド映画歴の分析が実に充実している。
ハスミ御大はまあ別格として、内田樹氏のコラムが読み応えがある。以下「 」内引用。

「彼(イーストウッド)は、自分で選んだ『ステレオタイプ男』の役柄を実に誠実に、ほとんど命がけで演じ抜きます。
 自分が何ものであるか、何ものに生まれついたのか、といったことは副次的な条件にすぎない。人間は自分で造形し、自力で演じるのである。私たちが『本当の自分は何ものであるのか』といったことは問う必要のないことである。それよりは与えられた条件の中で、『自分がそうありたい人間』として、語るべきことを語り、なすべきことをなせ。ただし、どんなときもそれが虚構であることを忘れるな。クリント・イーストウッドはそう言っているように私には思えます。私はこの人間理解に深い共感を覚えるのです。」

イーストウッドは「許されざる者」('92)以降、徹底して暴力を否定する映画を撮り続けているのだが、本作はその極限の形になる。クライマックスのイーストウッドの、両手を大きく広げた姿を見れば、それは明らかだ。

本作の主人公コワルスキは、朝鮮戦争で敵兵を殺した罪の意識を60年近くも引きずり続けている。そして、親しくなった隣家の少年に、何人殺したのかと問われて、「13人かそこらだ」と答えるのだ。
もしここで、誰でも思いつくような「数えきれない」というセリフを言わせてしまったら、このシーンは凡庸なものになってしまっていたと思う。
コロンバイン高校乱射事件の死者がちょうど13人だ。この、ライフル1丁あれば誰でもできてしまいそうな手近な数字。この数字の具体性とリアルさに心底ぞっとした。

参考 → 戦争における「人殺し」の心理学


余談だが、ポーランド人の名前はロシア風に「スキー」と伸ばさない。また、アクセントが頭にあるのだそうだ。

2009年5月1日(金)
ブルーレイ版「時かけ」

観直してみて、初めて気づいたこと。





河原で、真琴が初めてジャンプするシーン。この画像ではわかりにくいが、遠景にはちゃんと空気遠近がかけてあるのですな。作り手からすれば当たり前のことなのかもしれないけど、初めて気がついた。
セルアニメというのは、セルが完全に透明ではないため重ねる枚数に限度があるかわりに、自然と空気感、奥行き感を醸し出すものなのだそうだ。
初期のデジタル制作アニメが妙に平板でのっぺりした画面に見えたのは、こういう「動画でも遠景はぼかす」といったノウハウがまだ確立していなかったためかもしれないなあ、と。

もうひとつ。



オープニングシーンで遅刻遅刻と騒いでいる真琴。ぶら下げたマスコットが揺れて、パタパタとバッグにぶつかる音がちゃんと聞こえる!TRUE HDって偉大だ。

ちなみに、クレジットにはマスコットデザイン:荒木哲郎と出ている。これ「デスノート」「黒塚」監督の荒木氏ですよね。マッドハウスだし。

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