各所で絶賛された標題書を読んだ。
被爆から何年も経って原爆症で命を落とす主人公は、死の際でこんなことを思う。
『「嬉しい?」
「十年経ったけど
原爆を落とした人はわたしを見て
「やった!またひとり殺せた」
とちゃんと思うてくれとる?」』
残念ながら、思っていない。
偶然なのだが、同時期に「戦争における『人殺し』の心理学」(デーブ・グロスマン著)という本を読んだ。
軍事社会学(あるのだ、そういう学問が)において、「兵士はなぜ戦うのか」は主要な研究テーマの一つである。本書は、その研究成果をまとめたものだ。
本来人間は、同じ人間を殺すことに強烈な抵抗感を覚える。それは戦争という極限状態においても例外ではない。
それが明確に認識されたのは、第二次世界大戦中、米陸軍が兵士から聴き取り調査をしたところ、実際に敵兵に向けて発砲している兵士は全体の10〜20%しかいなかった、ということが判明したときである。
本書では、こんなエピソードも紹介されている。
南北戦争の激戦地ゲティスバーグからは、戦後27,575丁の銃が回収された。そのうち90%近い24,000丁には弾丸が装填されたままで、うち12,000丁には複数の弾丸が装填されていた。うち6,000丁は3〜10発もの弾丸が詰め込まれていた。何と23発も装填された銃もあったという。
なぜこんな現象が起きるかというと、この当時の戦争は横一列に並んで一斉に発砲する。撃たないと仲間にばれてしまう。そこで、撃ったふりをして、次の弾丸を上から装填してしまうのである。
実際に敵軍から撃たれているような状況でも、殺人への抵抗感はかくも強い。
しかし、人殺しがより容易になる条件がある。
一つは、被害者との距離。
もう一つは、機械の介在である。
以下括弧内は、前掲書から。
「殺人の恍惚に酔いしれているなら別だが、少し距離をおくほうが破壊は簡単になる。一フィート離れるごとに現実感は薄れていく。距離が膨大になると想像力は弱まり、ついにはまったく消え失せる。というわけで、最近の戦争では目をおおう残酷行為の大半は遠くの兵士が行っている。自分の使っている強力な武器がどんな惨事を引き起こしているか、彼らには想像することができなかったのだ。」
「多くのパイロットや砲手は、怯えた非戦闘員を無数に殺してきたにもかかわらず、後悔や反省が必要とはまったく感じていなかった。」(グレン・グレイ「兵士たち」)
そして、
「広島や長崎に原子爆弾を投下した兵士のケースでさえ、有名な神話に反して、精神疾患の発生例はまったくない。歴史文献からわかるのはこういうことだ。エノラ・ゲイのために気象偵察を行った航空機のパイロットは、爆弾投下以前から何度も規律違反や犯罪を犯していた。彼は軍を離れてからもくりかえし問題を起こしつづけ、原爆投下に関わった兵士たちに自殺者や精神異常者が続出したという有名な神話は、このただひとりのパイロットの行動がもとになって生まれたにすぎないのである。」
スタンリー・キューブリックのあの映画を思い出す。いや「フルメタル・ジャケット」ではない。
「2001年宇宙の旅」である。
モノリスに触れて知恵を得たサルは、道具を使って同族を殺す。サルが空中高く投げ上げた骨が、宇宙船に変わる。数百万年の歴史を一気に飛び越える名場面として名高いシーンだ。
この「宇宙船」というのは、実は核ミサイルを搭載した攻撃衛星なのだそうである。
このシーンは、武器を手にして戦い続けてきた人類の歴史をなぞったものなのだが、それだけではない。
「より簡単に同胞を殺せるようになった心の在りよう」を描写したものでもあったのである。
広島・長崎で、まったく無感情に、後悔も自省もなく、彼らは10数万人の人間を殺害した。
だが、実は本題はここからなのだが、合衆国においてただ1人、その重みを担い続けた人物がいる。
以下次回。
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