◆はしがき(抄) ――『妖異博物館』
気の利いた化物は引込む時分ということがある。もし夏が怪談の季節であるならば、たださえ寒い冬の今頃、こんな書物を持ち出すのは、世間の評判を待つまでもなく、明かに時期を失している。引込むには遅過ぎ、もう一度顔を出すにはまだ早い。正に戸惑いした形である。(中略)
三田村翁は妖怪変化と幽霊中心の怪談とを時代的に区別し、文化度までは猶両者が入交っているが、文政以後は完全に幽霊の独占に帰するという説であった。幽霊中心の怪談は、演劇、読本、講談、浮世絵その他の作者の協力に成るもので、先ず幽霊の発生しそうな事件を作り、然る後本物が登場する順序に及ぶ。その前提の事件なるものは、例外なしに不愉快な葛藤である。これらの怪談は如何に夏向きであっても、所詮吾々の興味の外に在ると云わなければならない。
ここに陳列したのはすべて不愉快な怪談になる以前のもので、中には妖異とか怪異とかいう域に達せぬ話がないでもない。孤立した話は採らず、多少類似の話があって、比較対照の興味あるものを択んだから、著者は奇談類考ぐらいのつもりでいたところ、青蛙房主人によって
「妖異博物館」 という大袈裟な書名を与えられてしまった。博物館はいささか恐縮である。尤も一口に博物館と云ったところで、全部が全部宏壮な建築物とは限らず、カーライル博物館のように、個人の旧宅に遺品を飾ったに過ぎぬ例もある。読者は世上の博物館中最も小規模なものを連想するか、或は博物館の一小部分と解釈されんことを希望する。
(中略) 柳宗元の 「竜城録」 によれば、「昏夜鬼を談ずるなかれ、鬼を談ずれば則ち怪至る」
というのであるが、深夜明るい電燈の下にインクの滴々より成った本書には、そういう虞れは万々ない事と信ずる。
※「気が利いた化物は引込む時分」 云々とあるのは、本書の刊行が冬のさなか一月だったため。なお、「三田村翁」
とはもちろん江戸文化風俗研究家として有名な三田村鳶魚
(1870-1952) のこと。宵曲は鳶魚の著述・編纂活動の協力者でもあった。カーライル博物館は漱石の訪問記でも有名。
◆はしがき(抄) ――『続妖異博物館』
笑談から駒が出た形で 「続妖異博物館」 が出版される運びになった。然も今度は怪談季節の真最中である。(中略)
尤も続篇と云ったところで、話の続きでないのは勿論、話の方角も大分変っている。前巻にも支那の話を引合に出さぬことはなかったが、今度はその色彩がよほど強く、時には支那を主にしたのではないかと思われる箇所が出て来た。日本の話にしても、前巻の主流であった江戸時代より、少し遡ったところに話題を求めた。(中略)
支那の志怪の書と日本の妖異譚との関係は、支那料理と日本料理のようなものである。似ているようで違い、違うかと思えば似ている。昔からその間に交流のあった消息は、貧弱なこの博物館の陳列だけ見ても、或る点までは看取し得るかも知れぬ。
※或は 「支那」 という語を気にされる方がおられるかもしれない。念のため、青蛙房主人こと岡本経一氏のあとがきから、次の言葉を引いておく。「明治人にとっての支那は中国よりももっと広く深い。軽視のことばではなくて、尊敬と親愛の情を含めたことばである。そして、本書の意図するところも、何千年来の彼我のこころの交流を根底においている」
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