探偵小説批判法

エレリイ・クイーン 井上良夫訳


 私は永い間探偵小説の真に科学的な批判法というものの必要を痛感させられて来た。あらゆる書籍の良き批評家であることは、到底万人の企て得るところでないが、しかし、探偵小説の批評ということに於ては何等の秘密もあるものではない。一体探偵小説なるものは、その根本に於て、一定の法則にあてはまるべく書かれているものであるから、一とたび諸君が此の法則に根本要素をさえ理解するなれば、それ等要素の価値、無価値を判断することは決して難かしいわざではないのである。

 私は常々在来の探偵小説の評論なるものに少なからぬ不満を抱いている。それ等の殆ど総ては次の二つの型を出ていない。即ち、その探偵小説の主要なプロットの梗概を至極大胆に述べ立てておいた後で、ホンの一二行、全体としての評価を書き添えておくものがその一つ、もう一つは、例の金言式な短評で出来ているところの簡単な批評の抜萃なのである。此の二つは共に探偵小説の満足な批判形式とは称し難いものだ。私は上の如き評論を読むとき、果してそのプロットは優れているものであるかどうか、ストーリイの書方の巧拙は如何、手掛りは巧妙に与えられているかどうか――即ちミステリ・ストーリイ構成上の肝要なる諸点であり、評価の単位たり得るところの要点に就いて、的確に知らせてほしいと望むのである。

 ここに於て私は、極めて簡単にして有効なる評価の一方法を考案したのである。此の方法に依る時は、凡そ如何なる探偵小説といえども、それが近代の智的探偵小説でさえあれば、更に一段の技術的正確さを以て評価することが出来るのである。私の考案した評価表は十個の主要な部門に区分されているが、これを用うれば、普通の智力を持った読者は、その探偵小説がどの程度の巧みさを以て書かれているかということを、容易敏速、しかも正確に指摘することが出来るであろう。

 序ながら、私は曽て此の方法を論説の形式にして発表したことがある。即ち本年七月十六日のニュウ・ヨーク・ヘラルド紙の書籍欄に載って、案外の好評を受けたものだ。

 さて、説明に入ると、私の図表の十個の項目の各々に私は10パーセントという点を振り当てた。つまり、各項目は10パーセント満点というわけである。従って、完全なる探偵小説なるものは、(曽て出現したことはないが)十個の全項目に亘り10パーセントが与えられて、合計100パーセントなる最高点をかち得たものでなければならない。例えば、私が選んだ第一の要素はプロットであるが、これに就いて云ってみると、10パーセントをかち得るものを完全なるプロットなりとすれば、それを基準としてどの程度までを「よきプロット」であるとみたものか、というに、5パーセントから6パーセントのものは先ずもってそのプロットは価値あるものと見做す。そして、全部の要素の採点の総計を以て最後の得点とするのである。

 最後の採点が出れば、そこに幾分たりともその作品の科学的評価が得られたことになる。総計50パーセント或はそれ未満は貧弱な作、――つまり普通の出来であり、60パーセントはやや佳、――つまり平均を少し出たもの、70パーセントは佳作、80パーセントは秀逸、85パーセントは傑作、90パーセント及びそれ以上はクラシックとして、常に探偵小説の最上に位すべき価値を持った作品、ということになる。

 既に一寸触れてはおいたが、私の此の批判法は、ミステリ・ストーリイ中純粋に冒険小説型に属すべきものには適用されない。例を挙げてみれば、ダッシェル・ハムメットとか、フィリップ・オップンハイムとか、モーリス・ルブランやエドガー・ウォレスとかの書くミステリ小説は除外されるわけで、S・S・ヴァン・ダインや、アガサ・クリスティ、ドロシイ・ソーヤーズ、コーナン・ドイル、オースチン・フリーマン、バーナビイ・ロス、私自身、その他一群の作家の書くところの、普通探偵小説の最高形式と見做されているかの「推理型の探偵小説」にのみ適用される方法なのである。

 さて、私の云う十個の要素とは――

1.プロット――先ず諸君の評価点は二つの要点、即ち「着想」と「発展」との二点に置かなければならない。ストーリイとしてはそれは斬新な思いつきであるかどうか? 論理的にしかも面白く、そして豊富な発展を遂げているかどうか? 超現実的状態の上に立ってはいはしないか? 横筋は果して緊密な役目を演じているかどうか? 話を延ばす為めの単なる思いつきではなかったか?――これ等の諸点に就いての完璧は私の見たところでは未だ達し得られていないが、極く少数の作家のうちには此の完璧のプロットへ近づき得ているものがある。“Charlie Chan Carries On”(訳者註、邦訳「世界観光団の殺人」【チャーリー・チャンの活躍】)に於けるE・D・ビッガース、“The Bellamy Trial”【ベラミ裁判】に於けるフランセス・ノイズ・ハート、“The Tragedy of X”【Xの悲劇】に於けるバーナビイ・ロス等、其他少数の作家、――極めて少数である。

2.サスペンス――つまり、読者の抱く興味である。仮りに今その作の発端がよく諸君の好奇心を掴み得たとする、ではそれ以後の状況、発展は絶えず諸君の興味を保持し続けるか? 或は反対に、どの点に於ても諸君がその小説を惜し気なく放棄し得る程に退屈な読物でありはしないか?――注意しておくが、サスペンスなるものは、必ずしも動的な行為によって醸し出されるものではない。例えば、動きの点では殆んど昂奮を齎さなくともその興趣湧くが如きものがあるであろう――つまり、諸君がその解決を知ろうとしてあせるていの魅力ある問題が提出される場合の心的活動から来るところの興味、そうしたものこそ探偵小説の真に正当なサスペンスなのである。

3.意外なる解決――探偵小説は一のゲームであり、作者と読者との間の智慧の戦である。勿論諸君がそれを読みながら、自身謎の解決をつけようと努力する場合は文字通り智慧の戦であるが、たとえ諸君が単に興味だけを追って読み進み、種々の解決への鍵に頭を働かせようとしない読者層であるとしても、同じように、採点要素として此の項目の存在理由はあるのである。何故なら、よし諸君が解決への積極的な参加者であろうとなかろうと、終局に於て作者の提出する犯人がいささかも諸君の意表に出得ない場合には、私の考では、それは材料を取扱う上での作者の側の不手際さを表明しているからなのだ。真犯人提出に際してその作は諸君にセンセーショナルな、しかも正当な意外さ【サープライズ】を与え得るかどうか? 或は、諸君をして、「こんな書方なれば犯人が誰であろうと驚きはしない」と思わせる式のものではないか?――80パーセントの優秀点に値する「意外な解決」を持った作品の顕著なるものとして、アガサ・クリスティの“The Murder of Roger Ackroyd”(訳者註、邦訳「アクロイド殺し」)がある。――此の作の評価に関しては私はヴァン・ダイン氏やブラウン氏、その他の人々の意見に敬意を表しはするが、しかし私自身に就いて云えば、決してこれはクリスティ女子の側でのアンフェアプレイであるとは思えなかった。此の作品に就いてはこれ以上は語らないことにしよう。何故と云えば、もし諸君のうち「アクロイド殺し」を読んでいない方があれば、その人は正しく「意外なる解決【サープライズ・ソリウション】」として古典に属すべき作品の一つを逸しているわけだからである。

4.解決の分析――事件の終局に於ける探偵の分析解剖は明瞭にして平易であるか? 何等か矛盾した点を持ってはいないか? 或はまた作者は読者に提示された事実よりして、唯一の可能なる犯人へ到達すべき不動の結論を演繹し得ているかどうか? 極めて多数の探偵小説の解決が破綻を来しているのは、主として此の最後の一点なのである。探偵小説中の探偵はいかにも得意然たる理論を組み立てはするが、もし諸君が彼の解決を仔細に吟味してみれば、彼の理論は作中の他の人物に対しても同じように成立するかも知れないことを発見する場合が多いに違いない。論理的解決にいささかの矛盾がなく、それが登場人物中の唯一人に対してのみ成立つものでなければ、諸君は作者の「解決への理論」に対して相当な点を与えることは許されない。

5.文体――ストーリイの書方の巧拙はどうであるか?――アメリカの作家は一般に文学的素養の点に於てはイギリス作家の作品に学ぶべき所がある。採点者たる諸君は、探偵小説といえどもその文体に於ては普通一般の小説と同様の評価標準を以て臨んでよいことを記憶しておいて頂きたい。

6.性格描写――ストーリイの登場人物は単なる傀儡ではなく、本当らしい人間に書けているかどうか? それ等のうち顕著な性格の持主がいるかどうか? 特に作中の探偵に就いては――その人物には実在性のある個性が出ているかどうか? 等々。

7.舞台――此の部の採点はその独創性【オリジナリティ】によって高められるであろう。「人里離れた荒地に建つ家」ぐらいでは最早読者の空想に何等の刺戟も与えることは出来ない。一と頃は大洋通いの汽船とか、博物館とか、汽車が目新しく思われた時代もあったが、それはもう過ぎ去った。ともかくも舞台が新奇であることは、ストーリイの味わいを一段と高めるものであるから、真に斬新な舞台が用いられた場合には採点は上げらるべきである。コートランド・フィッツシモンズの「七万人の目撃者」の如きは、試合中のフットボールのフィールドで殺人が行われるが、その舞台の斬新奇抜さに於て10パーセント満点を与えて差支えないであろう。

8.殺人方法――殺人の方法に就いては殺人の舞台と全く同じ標準が適用される。勿論、あり来たりの殺人方法を用いているとしたところで、傑れた作品は書かれ得ようが、しかし例えば、オースチン・フリーマンが使ったような原因不明の死を惹起せしめる空気の皮下注射法といった新しい殺人方法を使用するとすれば、その場合の評価は更に上げられなければならないだろう。

9.手掛り――此の項目での重要な問題は、作者がどういう手掛りを用いているか? ではなく、それ等の手掛りをどんな風に取扱っているかである。手掛りそのものは極めて平凡な事物であることもあろうし、色んな事情の組合せでもあろう、或はまた証言中の微妙な点に存在しているかもしれない。が、作者はそれ等を取扱う上でどの程度の巧妙さを示しているか? 例えて云えば、一個の時計を手掛りにすることは恐らくこれ迄に何千回となく行われているが、その同じ時計も取扱いによっては如何に新奇に生きて来るか、という点の実例の一つはA・E・W・メースンが彼の有名な「矢の家」の中で驚く可き程明確に示している。同じような意味で、ヴァン・ダインが彼の第一作「ベンスン殺害事件」に於て、被害者の「義歯」という極く平凡なものから巧妙な推理を立てて行ったのも賞すべき点である。勿論これ等の作を読んでいない人々の妨げになること故、ここにその推理を引用することを避けるが、私の此の紹介で興を覚えられた読者は宜しく一読してごらんになるがよい。尚此処に関連した事であるから一寸附加しておきたいのは、ヴァン・ダインが彼の「ケンネル殺人事件」に於て、犯罪者に錠のかかっている扉をあけさせる折、その微妙な方法をエドガー・ウォレスの作から借用して来たということを作者自ら「ケンネル殺人事件」中で述べていることである。これは謂わば巧妙な離れ業であるが、しかし私としてはオリジナリティの問題から云って感心出来る行き方とは思われない。もし諸君が私の批判法によって「ケンネル殺人事件」を評価しようとする場合、此の「手掛り」の部に於ては諸君はヴァン・ダイン氏に満点を与えることは出来ないのである。事実此の「手掛り」上に諸君が幾らかの功績を認めるとすれば、それは理窟上悉く故人となったウォレスへ与えられるか、でなくば、私の記憶にして誤りがなければ、そのトリックの最初の発案者へ与えられてよいものであろう。

10.読者へのフェアプレイ――倫理的に云って、智的探偵小説を批判解剖する際最も肝要なる観察点は、此の読者へのフェアプレイ問題である。作者は果して諸君に対して公明正大な戦を続けて来たか? 作者はその解決にあたり種々なる事実手掛りを使用して来たが、では彼はその悉くを結末に達する以前に於て諸君に提示し尽したかどうか? 更にまた、彼はそれ等の手掛りを仔細に記述していたか? 或は、それ等事実手掛りの重大な性質を隠蔽していはしなかったか? もし彼が総べての点に於てフェアプレイを演じておれば、ストーリイ自身は如何程貧弱であろうと、そのフェアプレイの点に於ては10パーセントの満点を作者に与えなければならないのである。

〈ぷろふいる〉 昭和8年12月号に掲載。『探偵小説のプロフィル』 未収録。読みやすさを配慮して、而も (しかも)、扨 (さて)、雖も (いえども)、然し (しかし) など一部の漢字をかなにし、「一〇パーセント」 などの数字は算用数字にあらためた。また 「ワ」 に濁点の文字も 「ヴァ」 にあらためている。またこの時点での未訳作品、現在流布している邦題とはなはだしく異なるものについては 【 】 内に補注をつけた。

 エラリイ・クイーンが1933年10月に創刊、わずか4号で惜しくも休刊となったミステリ専門誌〈ミステリ・リーグ〉に連載されたコラム “To the Queen’s Taste (クイーン好み)” の一部を翻訳したもの。訳出されたのが同年 (昭和8) 12月だから、井上は同誌を入手してすぐに翻訳にかかったのだろう。創元推理文庫 『フランス白粉の謎』 の中島河太郎解説に、この採点法の概要が紹介されていたのをご記憶の方も多いと思う。採点基準にクイーンの探偵小説観が如実に現われているのも興味深いし、たとえば 「舞台」 の項などをみると、デパートのショーウィンドウやロデオ競技場など、新奇な事件現場の提出に腐心したクイーン自身の試みも想起される。「探偵小説は一のゲームであり、作者と読者との間の智慧の戦である」 という一節は、日本の大方のミステリ・ファンが考える 「本格」 概念に通じるものだろう。また、あらすじ要約式の 「探偵小説評」 への不満など、70年後の現代にもそのままあてはまる言葉のような気がしないでもない。

 なお、『探偵小説のプロフィル』 所収の 「欧米の探偵小説界展望」 では、〈ミステリ・リーグ〉 誌で実施された読者投票による長篇ベスト10選出の結果が紹介されている。また、『名探偵の世紀』 (森英俊・山口雅也編、原書房) には、〈ミステリ・リーグ〉 からコラム 「クイーン好み」 が抜粋して訳出されており、井上が紹介した採点表とは別の作品をとりあげた表 (「バスカヴィル家の犬」 「813」 「フレンチ警部最大の事件」 他) も掲載されている。あわせてご覧いただければ幸いである。

「推理型の探偵小説」 の作家として、クイーン自身とともにバーナビイ・ロスの名があがっているのは、もちろん1933年のこの時点ではロス=クイーンという事実が伏せられていたため。完璧に近いプロットの作に 『Xの悲劇』 を挙げているあたり、クイーンの自負がうかがえる。

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