翻訳苦労話
未熟者の嘆きなど 

井上良夫


 九鬼澹兄

 翻訳苦心談を書けとのお話、その道の達人にして初めて面白くもあれば、有益にも聞かれる苦心談を僕如き未熟者が語ったとて何の意味があろうものかと、お眼鏡違いではない貴兄御厚誼よりの下命を情けなく持てあましましたが、今回はお急ぎの様なので辞退しにくく、翻訳についての思いつく感想を二三書きつけ責を果させて頂きます。第一僕が翻訳上の苦心を語ろうとすれば、苦心だらけにて話の種は尽きぬように思われるのですが、しかし僕の場合の苦心というのは貴兄求めらるる如き名匠苦心談とか経験家の苦心談とかいった場合の 「苦心」 とはまるで訳がちがい、なんのことはない僕のは原語がよくわからないのと日本語による文筆がよく書けないとからの苦心なのですから困りものです。それでは初めから終りまで苦心ばかりかとお笑いになると思いますが事実がそれに違いなく、それで、読むものに窮して仕方なく僕の訳した拙いものに手を出して下さる方々も僕が翻訳をやっている様をご覧になれば、定めし愛想尽かしをなさることと心細く感じている次第です。

 それはまあそれとして、本格探偵小説というものは貴兄よく御承知の通り、おかしいくらいに慎重なからくりが隠してあって、自分が読者になっている時にはそういうからくりを見抜くことも多いのですが、さてへぼ訳者の役割に廻っていると苦もなくこれに一杯くわされて狼狽させられることがよくあります。長篇物の枚数を制限されてずっと短かく訳さなければならないような場合よくあるのですが、こんな所こそカットしておかぬことには短かくなるものではないと思って体よく省いたり或は大ざっぱに抄訳したりなどして進ませて行くと、そういう箇所を無用の長物かなんぞのように思わせておいたところに苦心が払ってあったらしく事実は重大な手掛り伏線が忍ばされていたことがわかり慌てて前の所を探し出して 「無用の長物」 を丁寧に訳して割り込ませておく、(そして解説でも書く段になるとそういう点の作者の技巧を賞揚しておいて、何もかもすっかり知っているような顔をすることは勿論です) これなぞはよく原作を呑み込んでかからなかった場合の失敗でしょう。しかしこんな失敗は恐らく未熟な僕だけのことであろうと思っています。面白くもないからこんな例は一つでよします。それよりも翻訳についての或る感想ですが、去年風邪をひいて少し寝込んだ折に涙香の有名な、「白髪鬼」 を初めて読み、実に面白くまたその翻訳に改めて大変感服してしまいました。内容が涙香氏の訳文に打ってつけといいましょうか、やはりその時に読んでみた涙香物中の傑作と云われている 「死美人」 などは却ってこの訳文が問々滑稽にさえ感じられ、内容共々到底 「白髪鬼」 ほどの興趣を覚えさせられることがありませんでした。それで、こんなにも面白い、またうまく訳出してある小説の原作は果してどんな風なものであろう、また読み較べてみるなら翻訳者として参考になることも多かろうと思い、「白髪鬼」の原著マリイ・コレリ女史の「ヴェンデッタ」を注文して取り寄せてみることにしました。「ヴェンデッタ」はその後到着しましたが、発端の十数頁を読みかけたばかりで他に用が出来中止してそのままになっています。原作はかなり長くむろん幾分の抄訳がしてあることと思われますが、僕が読んだ冒頭のみに就いて云えば涙香の 「白髪鬼」 の方がずっと食いつきがよくて面白く、しかも最初より全篇の鬼気が見事に漂っているように思われました。忠実に訳出しては退屈と思われる箇所がこれはまた一と際うまく取り纏められていて、そして今更に僕を最も感服させたのは原作がすっかり涙香氏のものにされているということでした。涙香氏は尨大な原作を小口から自在に操っているもののようです。僕が時折やるような見損いの失敗なんか涙香氏の如くなれば有ろうとは思われず、また仮りに僕がいくら原作に忠実に訳してみるとしたところで遠く涙香物の興味に及ばないにちがいないこともよく分りました。「翻訳も創作」 という心構えは僕とてもいつも持ってはいますが、精々大胆な誤訳に陥るくらいがおちで、原作の面白味を伝えるさえ出来ず、況んや原作以上に出るなぞとはまずまず夢のような理想談です。

 最後につけ加えておきたいのは、翻訳する上の骨折りもさることですが、翻訳したいと思うものをみつけ出すまでの苦心も一通りではないようです。ここでも涙香氏は選択範囲の広汎さに於て僕を甚だ羨せがらせます。故千葉亀雄先生の解説によれば 「まず二三百部を読んで僅かに一部を採った」 そうですから僕は翻訳態度を涙香氏に学びたいと思うと同様より良い作品を選び出すことに於てもこの様でありたいものと希っています。

 以上、御下命に添わぬ一文を草しましたがお許し下さい。(一一・八・一四)

〈ぷろふいる〉 昭和11年10月号掲載。『探偵小説のプロフィル』 未収録エッセイ。〈ぷろふいる〉 の編集長をつとめていた九鬼澹 (紫郎) の要請に応えて寄稿したもの。井上良夫の翻訳は、公式には昭和8年に 〈ぷろふいる〉 に掲載されたクイーン 「探偵小説批判法」 が最初に活字になったものだが、その前年1月 〈探偵小説〉 誌に一挙掲載された森下雨村訳のクロフツ 『樽』 が、実質的には井上の仕事だと言われている。以後、この時点までに 『赤毛のレドメイン一家』 『陸橋殺人事件』 『ポンスン事件』 の訳書を上梓、つづけて 『完全殺人事件』 『スターベル事件』 『Yの悲劇』 と、精力的な翻訳活動を展開している。
 本文中にある黒岩涙香 『白髪鬼』 (明治26) の原作、マリー・コレリ 『復讐 (ヴェンデッタ)』 は、戦後、平井呈一の翻訳がある (昭和32、東京創元社)。また、江戸川乱歩が涙香の翻案をさらに翻案した 『白髪鬼』 (昭和6-7) もよく知られている。『死美人』 はボアゴベ原作。

 

読書室INDEX