仮面のドラマ

井上良夫


 或る一つの領域で捜し求めているものを全然他の分野で呆気なく発見するということはよくある。探偵小説の面白味の一半である推理、論理の面白味などは、なまじっかな本格探偵小説でよりも専門的な学術書でより濃厚に味わえることがあるものだが、心理探偵などもさしずめその類であろう。今年の初め頃から、私は横光利一氏の 「紋章」 その他長短篇数種を読んで、それらの作で(とりわけ 「紋章」 の場合が面白いのだが)作者が登場人物の頭脳の程度を忖度したり、性格の奥底を洞察したり、または登場人物のお互が相手の肚【はら】の奥の奥を読もうとつとめ合ったり――そうした点に作者の一かたならぬ鋭さを感じさせられ、並々ならぬ興味を覚えさせられたものであったが、こうしたような面白味は考えてみるに、悉くが探偵小説的な面白味である。探偵小説の領域に於て真先に取扱われてよい面白味であると思う。

 十月号の本欄で江戸川乱歩氏が外国の文藝作家が片手間に書いた探偵小説のよさを云っていられた一文に対しては私も全く同感であって、フィルポッツやヒルトンなどの探偵小説は専門作家の書く探偵小説には全く欠けているところの探偵小説的な面白味を余分に持っていることが多い。その筆頭がいま云う心理探偵、性格探偵の面白味である。

 チェスタトン氏が以前公にした探偵小説論の中で、こんな風に云っているところがある。「大体探偵小説は普通の小説とちがって、登場人物が皆マスクをかぶっている。それは謂わば顔のドラマではなくて仮面のドラマである。物語は人々の真実の性格よりもむしろその虚偽の性格にかかっているのだ。作者は最後の章が来るまでは作中もっとも興味ある人々に就いての最も興味ある事柄を物語ることを許されない。恰度それは、各人が皆誰かほかの者のように扮装している仮装舞踏会のようなもので、最後の時刻が来るまではその人々の真実の個性の面白味というものは隠されて了っている、だから……」

 こう云ってチェスタトン氏は探偵小説に附き物の不自由さを記し、結局探偵小説は、その偽瞞過程が短くて済むからというので、長篇よりも短篇に一層適した小説である、との断定を下している。探偵小説が短篇によいか長篇によいかは別問題として、「顔のドラマでなく仮面のドラマである」 という言葉はまことに穿っていて面白いと思う。これはなんと云っても探偵小説が持って来た大きな悩みの一つに違いない。

 併し考えてみるに、探偵小説は何もチェスタトン氏が云うように必ずしも徹頭徹尾そうした仮面のドラマでなければならないとは云えなかろうと思う。成程、現今のヴァン・ダインやクイーンのものなどは典型的にかかる種類の仮面のドラマであろうし、長篇探偵小説の九分通りまでがそうした傾向のものではある。併し長篇の一部、短篇のより大きな一部は必ずしもそうではない。短篇に就いて云うとポオの書いた探偵小説などは本格的な探偵小説であるが、仮面のドラマであるとは云い難い。プロットはチェスタトン氏が云うような意味での偽瞞過程ではないと思う。また過般本誌上に 「バルバドス島事件」 と題して訳載されたフィルポッツの短篇「スリー・デッド・メン」なども偽瞞過程に終始する仮面のドラマなんかではない。而も立派な探偵小説である。長篇では、やはりフィルポッツ氏の書いた 「闇からの声」 の如きは決してかかる種類の仮面のドラマではない。この一篇は、犯人たる人物はそれと判っていて、確たる証拠が存しないため、探偵がなんとかして尻尾を出させようとこの男に近づき、お互が何気ない顔をしながら智慧の戦いを交えるといった行き方のもので心理探偵の面白味が躍如としており、偽瞞過程としてのプロットを持った探偵小説ではない。(一種の仮面のドラマの面白味ではあるが、チェスタトン氏の云う如きものとはちがう)つまり、ヴァン・ダイン風な定石通りの本格探偵小説としては確かにチェスタトン氏の一言は当っている。が、そうした扱いをしなければ探偵小説が全然成り立たないとか、探偵小説としての固有な面白味が盛られないというのでは決してないということを云っておきたいのである。

 またもう一つ私は異説を立てたいのだが、それは多くの本格探偵小説の面白味の一半は 「仮面のドラマ」 である点に存すると思う。更に私は、仮面のドラマであればこそ心理探偵の面白味を、他のどの種類の小説ともちがって、面白く開拓出来る筈のものではあるまいかと考えたい。同じく仮面を選ぶにしても、人それぞれの性格に応じて選ぶことであろう。仮面の選択に性格の現われが有るにちがいない。こう解釈してみれば、かように選ばれた仮面を透視して、その彼方に隠された本性をあばく、ということは出来ないことはないであろうし、またそれは非常に探偵小説に適した戦慄を生むものであろうと考えられる。これは何も理窟の上だけのことではない。フィルポッツとかヘキストとかヒルトンなどが彼等の長篇探偵小説で多少ともに示している所の面白さであるし、ヴァン・ダインにしてもこの面白味は意図しており、「僧正殺人事件」 等は相当の成功を示していると思う。

 勿論色んな理由もあることではあろうが、一つにはやはりチェスタトン氏が云ったような探偵小説の不自由さを意識し、飽き足りなく思ってであろう。我国では近頃あまりこうした傾向の本格探偵小説が書かれていない。その結果所謂変格的な色んな探偵小説的面白味を持った作品が数多く書かれているのであるが、一と工夫して、心理探偵、性格探偵に結びついた 「仮面のドラマ」 の面白味を多分に盛った本格探偵小説がもっと書かれてみてよかろうと思う。

〈新青年〉昭和10年(1935)年12月号に掲載。『探偵小説のプロフィル』 (国書刊行会) 未収録エッセイ。〈ぷろふいる〉 誌を主な舞台に英米探偵小説の紹介や論評を行なっていた井上良夫は、この年8月に 「欧米の探偵小説界展望」 で 〈新青年〉 デビューを果たした。本エッセイは2度目の登場となる。この頃から翻訳者としても本格的な活動を始め、同年10月には 『赤毛のレドメイン一家』 (柳香書院) を上梓、翌年には 『陸橋殺人事件』 『ポンスン事件』 『完全殺人事件』 出版と精力的に本格長篇紹介につとめている。(井上良夫が戦前の英米探偵小説紹介ではたした役割については、〈柳香書院「世界探偵名作全集〉 をご覧いただきたい)
 文中で触れられている 〈新青年〉 昭和10年10月号掲載の江戸川乱歩のエッセイは 「ハアリヒの方向」。フィルポッツの 「スリー・デッド・メン」 は、現在は 「三死人」 (『世界短編傑作集4』、創元推理文庫、所収) として読める。また、『闇からの声』はこの時点では邦訳がなく、井上良夫自身による訳書が出るのは昭和17年のことである。
 このエッセイで取り上げられたテーマは、『探偵小説のプロフィル』 収録の 「探偵小説の本格的興味」 「A君への手紙」 などでさらに詳しく論じられているので、是非ご参照いただきたい。ここでは井上がその評論活動の初期から、探偵小説の面白さを必ずしも犯人当てのパズル的興味のみに限定していなかった、探偵小説を通して人間の心理や性格を探究していく方向の可能性を考えていた、ということを確認しておきたい。
 井上良夫のエッセイの主なものは 『探偵小説のプロフィル』 に収められているが、未収録の短いものが若干残っている。今後すこしずつご紹介していきたいと思う。 

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