翻訳回顧

井上良夫


 創作探偵小説が乏しすぎるものだから.なんでも良い、訳してほしいというファンの声はよく耳にはいっていた。然し昨年度の翻訳探偵小説の氾濫はファン諸氏を満足させたかどうか。多分うんざりはしたであろうが決して満足はしなかったにちがいない。新訳の長篇が数多く刊行されたこと、昨年ほど著しかったことは稀れであったにちがいなく、一二週間を置いて書店に寄って見るともう新しい訳書が必ず一冊ふえている。仕舞いには本屋を覗くのがいやになってしまった。

 だが、無いよりも有った方がいいにちがいあるまいから、あの翻訳の氾濫は相当喜ばれはしたであろうし、次々と貪り読んだファンもきっとあったにちがいない。そのような熱心な人々の話を時たま聞かされて、私どもが昔の博文舘の叢書などをワクワクしながら読んだのと同じなのであろうと思った。しかし何が何処から何んという題で、出たかを調べるさえ難事に思われるほど氾濫した訳本を、一々読むなどは並大抵のことではあるまいと敬服もするが恐ろしいような気もしてしまう。

 それほどにも数の上では沢山訳出されはしたが、さて本当に画白いもの、そして立派な翻訳、というのを捜す段になると、五本の指をも屈し尽くせないらしいのだから、之にもまた驚かされる。畢竟、昭和十一年度翻訳界の盛況は粗雑な訳書の氾濫にすぎなかったものか。われ等の先輩延原謙氏などは悪訳跳梁を嘆いて憤慨叱正の筆を取っていられたのを見受けたが、良い訳と悪い訳との区別は購読者がよく知るであろうし、悪訳が跋って一層良い訳の有難さも身に泌みて感じられようというものだから、その点延原氏などは御必配無用であろう。しかし立派な作品が見窄らしく紹介されることは、間々原作を知っている私などにも実に残念なことに思われる。がそうなると私自身もその責任の一端を負わなければならないから、大きなことは言っていられない。

 粗雑な翻訳跋扈の原因は、印税その他の報酬問題を第一としてその他様々であろう。それらのうち翻訳者自身が探偵小説を一向に好いてもいなければさして理解もしていない、唯語学の素養があるからというばかりで簡単に翻訳をやる、或は原作の評判ばかりを便りにして訳出する、それでは良いものが出よう筈はない。これは労力に報酬が伴わないから自然良いものが出なくなる、というのとは別個の問題であるし、悪訳出現の一因でもあったと思う。

 これからの翻訳に就いて考えたいのは、立派な翻訳なれば創作とは全然別に存在価値は勿論あるが、探偵小説というものの性質上、今後の翻訳は訳文の正確さばかりに苦心せす、昔の涙香物、下っては保篠氏のルパン物、などのように原作を充分把握理解して、これを全く独自のものになしてしまう、そういう行き方を辿ることによって、一層翻訳物の面白味を加え存在価値も大きくする必要がありはしないかと思う。

 「翻訳というやつは読みにくくて」 と言って、正確に訳してあって正に 「立派な翻訳」 で通っている翻訳探偵小説を読みづらく思う人々にも、涙香物や保篠氏のものなどは創作探偵小説と殆んど同じような気持と期待を持って取上げられるのを屡々見受ける。私の母親などは格別探偵小説を好くのではないが、涙香のものは非常に面白がって読むし、保篠氏のルパン物なれば新聞小説を読むのと同じようにして読む。

 然し私は自分が訳したものを勧めてみたことがない。持って行っても残念ながらルパン物と同じように読んでもらえそうにないからだ。意味把握の正確は等閑視されてならぬこと勿論ではあるが、しかし、それとこれとは決して両立しないのではない。宜しく涙香氏や保篠氏などの翻訳態度に範を取るべきだと思う。――近頃翻訳者の末座を汚している私の、これは翻訳探偵小説観、私自身への戎め、として聞いて頂いても結構だ。

 少し横道に外れ込んでしまった。昨年度長篇物によって初めて紹介された作家は少からずあったと思うが、私の知る範囲ではこのうち 「霧中殺人事件」 (エバアハート) 「魔棺殺人事件」 (カア) 「陸橋殺人事件」 (ノックス) などはその作者の作風なり、着想なりに接してみるのは無駄ではあるまいから、一読を勧めしておきたい。(カアの長篇は以前一つ紹介されたことがあるが)

 このうち 「霧中殺人事件」 のエバアハート女史は 「雰囲気の女王」 と呼ばれさえした。ストオリイを包む雰囲気に特異さを持たせている女流作家であるが、但し其の読物の雰囲気は霧とか闇とか沈黙とか、探偵小説としてはお定まりの道具立使用によるところが多いから感心はしない。しかしおとなしい上品な探偵小説としてはこれ以上のものはなさそうに思われる。「魔棺殺人事件」 に就いては紹介したことがある。奇術探偵小説としては一読に価いしよう。「陸橋殺人事件」 は犯人を当てようなどと四角張って読むと当て外れになるかもしれないが、本格探偵小説の面白味を一通り呑み込んだファンが読むと一層妙味の味わい得られる探偵小説であろう。

 この他ではクリスチイの 「十二の刺傷」 も多分昨年度に属する収穫であったと思う。原作もよし訳者にも恵まれている。最も読み応えある本格翻訳物に違いない。シメノンの 「倫敦から来た男」 は犯罪心理小説風のものとして、前の、より一層探偵小説であった 「男の頭」 同様退屈なく読めて面白い。その他は枚数がなくなったから割愛する。結局昭和十一年度の翻訳は応接に遑 【いとま】 ない盛況ではあったが、多くのファンを喜ばしたかどうかは頗る疑わしい。恐らく今年度には、ああした状態が持ち越されるようなことはあるまいと信じる。

〈探偵春秋〉 昭和12年1月号掲載。『探偵小説のプロフィル』 未収録エッセイ。翻訳探偵小説の 「氾濫」 に対する感慨などは、あるいは現在のファンにも共通する思いがあるのでは。その流通量は当時とは比較にはならないのだが。しかし、昭和10年から11、12年頃にかけて、翻訳探偵小説、とくに長篇の出版ラッシュがあったことは間違いなく、春秋社 〈傑作探偵叢書〉、黒白書房 〈世界探偵傑作叢書〉、柳香書院 〈世界探偵名作全集〉、日本公論社の翻訳叢書などが次々にスタートし、探偵小説ファンを喜ばせた。新雑誌の創刊、国内作家の活躍も含めて、江戸川乱歩はこの時期について 「日本探偵小説第二の山」 と呼んでいる (『探偵小説四十年』)。 しかし、この未曾有の隆盛も長くは続かず、昭和12年頃から探偵雑誌が次々に廃刊、叢書のいくつかは中絶と、沈滞期に入っていく。ブームのさなかにあって、海外作品紹介の仕掛人のひとりであった井上の状況を見る目は冷静である。
 ここで井上のいう 「昔の博文館の叢書」 というのは、おそらく 〈探偵傑作叢書〉 (大正10年〜昭和2年) や 〈世界探偵小説全集〉 (昭和4年〜5年) あたりを指すものと思われるが、その時代の紹介がドイル、ガボリオ、フリーマン、ウォーレスなどの作家が中心だったのに対して、この昭和11年前後の翻訳ブームでは、クリスティー、クイーン、カー、バークリー、クロフツなど、1920年代に登場した本格長篇作家が多数紹介された。わずか5〜10年の差ではあるが、その間に本格物の長篇探偵小説を受け入れる下地が、着実に形成されつつあったということだろう。しかし時局の悪化などもあって、その後英米作品の翻訳は途絶えがちとなり、探偵小説の紹介史に大きな空白が生じることになる。
 一方、ブームに便乗してか粗雑な翻訳が少なからず出回ったことも井上の指摘のとおりで、とくにこの時期、クイーン、ヴァン・ダインなどを精力的に訳出した伴大矩には、当時から拙速との評が多く、未熟な下訳者を多用したやり方は 「翻訳工場式」 と批判された。
 ご参考までに、昭和11年に出版された翻訳探偵小説をあげておく。目についたものを列挙しただけなので、漏れは多いかと思う。なお、本文で昭和11年中の収穫として挙げられているクリスティー 『十二の刺傷』 (オリエント急行の殺人) は、実際には昭和10年12月の刊行である (延原謙訳、柳香書院)。井上自身もこの年、 『陸橋殺人事件』 『ポンスン事件』 『完全殺人事件』 と3冊の訳書を上梓している。
◆昭和11年(1936)出版の翻訳探偵小説
「陸橋殺人事件」 ノックス 井上良夫訳 柳香書院
「矢の家」 メイスン 妹尾アキ夫訳 柳香書院
「二つ靨の女」 ルブラン 保篠龍緒訳 春秋社
「霧の夜」 R・H・デーヴィス 延原謙訳 春秋社
「大学祭の夜」 セイヤーズ 黒沼健訳 春秋社
「ポンスン事件」 クロフツ 井上良夫訳 春秋社
「山峡の夜」 シメノン 伊東鋭太郎訳 春秋社
「完全殺人事件」 ブッシュ 井上良夫訳 春秋社
「世紀の犯罪」 アボット 新井無人訳 黒白書房
「爆弾」 アルフレッド・マシャール 水谷準訳 黒白書房
「当りくじ殺人事件」 コニントン 河瀬廣訳 黒白書房
「第二の銃声」 バークリー 人見秀夫訳 黒白書房
「廃人団」 ヴァル・ギールグッド 藤山安夫訳 黒白書房
「魔棺殺人事件」 カー 伴大矩訳 日本公論社
「偽眼殺人事件」 ガードナー 伴大矩訳 日本公論社
「アリ・ババの呪文」 セイヤーズ 黒沼健訳 日本公論社
「霧中殺人事件」 エバハート 酒井嘉七訳 日本公論社
「絹靴下殺人事件」 バークリー 土屋光司訳 日本公論社
「消ゆる女」 ビガース 西田政治訳 日本公論社
「文化村の殺人」 G・D・H・コール 西村久訳 日本公論社
「変装の家」 クイーン 井上英三訳 日本公論社
「紙魚殺人事件」 ロス 伴大矩訳 日本公論社
「博物館殺人事件」 デヴィド・フローム 伴大矩訳 日本公論社
「月光殺人事件」 ヴァレンタイン・ウィリアムス 伴大矩訳 日本公論社
「希臘柩の秘密」 クイーン 伴大矩訳 サイレン社
  (改題再刊 「地下墓地の秘密」 アドア社)
「トレント殺害事件」 イサベル・マイヤーズ 寺田鼎訳 サイレン社
  (改題再刊 「標石荘殺人事件」 アドア社)
「白魔の一夜」 ルーファス・キング 泉一郎訳 サイレン社
「倫敦から来た男」 シメノン 伊東鋭太郎訳 サイレン社
  (改題再刊 「倫敦から来た男・自由酒場」 アドア社)



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