『ストップ・プレス』 について



 『ストップ・プレス』 は、1939年に発表されたマイクル・イネスの探偵小説第四作です。『学長の死』 (36。東京創元社・絶版)、『ハムレット復讐せよ』 (37。国書刊行会・世界探偵小説全集既刊)、『ある詩人への挽歌』 (38。社会思想社・絶版) に引きつづき、スコットランド・ヤードのジョン・アプルビイ首席警部が登場し、カントリーハウスで発生した怪事件の解明にあたります。この4作を 「ミステリ史上最強のカルテット」 と呼ぶ森英俊氏は、とりわけ本書について 「とてつもない傑作」 「前代未聞のミステリ」 と最大級の賛辞を惜しみません (久坂恭名義 「ジュリアン・シモンズとマイケル・イネス」、『創元推理』 8号掲載)

 〈スパイダー〉 という犯罪者、のちに探偵役に転向するヒーローを主人公とするシリーズで絶大な人気を誇る作家リチャード・エリオットが、その屋敷ラスト・ホールで、関係者を集めて 〈スパイダー〉 生誕20周年のパーティをひらきます。しかし、屋敷の周囲では、あたかも 〈スパイダー〉 が本の中から抜け出してきたかのような悪質ないたずらが繰り返され、人々を不安に陥れていました。やがていたずらはエスカレートし、エリオットが構想しながら本になっていないプロットにそっくりの事件が勃発、殺人予告らしきものまで飛び出します。犯人も、動機も、もし殺人が計画されているとすれば誰がその標的かも判然としないまま、パーティの参加者をまきこんだドタバタ騒ぎのうちに物語は進んでいきます。ラスト・ホール内の劇場でのショッキングな 「死体」 発見、夜の偽廃墟見学ツアーでの銃撃など、スリリングな場面にも事欠きません。

奇人変人が多数登場するのがイネスの探偵小説の特色ですが、本書にも、リチャードに寄食するいずれも一癖ある二人のいとこ、心霊主義かぶれの女性劇作家、時が止まったまま今もヴィクトリア時代に生きる老婦人、莫大な財産を費やし屋敷内にゴシック趣味の偽廃墟 (隠者付き!) やポーの小説に出てくるようなピクチャレスクな風景庭園を造りあげた武器商人など、エクセントリックな人物がたくさん登場します。なにより 〈スパイダー〉 の作者で、今回の事件の標的と目されるリチャード・エリオット氏自身、砂漠や極地のような非日常的な場所を背景とした奇想に満ちた作品で人気を博し、スパイダー産業ともいうべき集団の中心にいながら、創作よりむしろ養豚のほうに情熱を傾けているらしい、きわめてとらえどころのない人物なのです。

 イネスの作品としても異例な大作ではありますが、本書に所謂 「パズラー」 (たとえばクイーンの大作 『ギリシア棺の謎』 のような) を期待して読む読者は、肩透かしをくうことになるでしょう。イネスの探偵小説の本質はその喜劇性にあります。作中人物が現実世界に抜け出すという奇想、奇抜な動機、奇人変人たち、莫迦ばかしさと紙一重のユーモア、ドタバタ騒ぎなど、ここにはイネスの探偵小説をイネスの探偵小説たらしめているもののすべてがあります。

 このあとアプルビイは、南太平洋を航行中、Uボートの襲撃を受けて漂着した無人島で奇怪な殺人事件に遭遇したり (Appleby on Ararat)、人の考えを読む馬や幽霊屋敷の盗難事件の手がかりを追って南米にまで赴いたり (The Daffodil Affair) と、まるでエリオット氏が書いた探偵小説のような奇想天外な事件に取り組むことになります。本書は45冊にも及ぶイネス探偵小説のエッセンスが詰まった作品といえるでしょう。

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