鏡もて見るごとく
ヘレン・マクロイの自選傑作集 『歌うダイアモンド』 に “Through a Glass, Darkly” という作品が収められている。女教師の分身(ダブル)があちこちで目撃され、やがてそれが不気味な事件に発展する、という暗鬱なムードの異色作で、1949年のEQMMコンテストで第2席を獲得した彼女の代表作のひとつである。さらにマクロイがこの短篇をふくらませて長篇化し、Through a Glass, Darkly (1950) という同じタイトルで発表していることも、よく知られている (正確には、最初に書かれたのは300枚の原稿だった。マクロイはこれを1/4の分量に縮めてEQMMコンテストに応募。その後、最初の300枚に加筆して長篇を完成した、という事情がある)。 原題は同じだが、邦題は短篇が 「鏡もて見るごとく」、長篇のほうが 『暗い鏡の中に』 (駒月雅子訳、創元推理文庫) と異なるので、ちょっとややこしい。いずれにしても、このタイトルは聖書から取られたもので、キリスト教徒ならすぐにピンとくる有名な一節なのである。欧米の作品にはこういう聖書からの引用・転用が多くて、小さい時から教会や家庭でこれに親しんできた彼らには、たちまちあるイメージを喚起するのだろうが、「異教徒」 のわれわれには、一見なんのことやら、という場合も多い。 Through a Glass, Darkly というのは、しかしかなり有名な一節で、小説のタイトルだけでなく、先行不透明な世界情勢や経済を論じる新聞のコラムや、エッセイの見出しなどでもよくお目にかかる。また、スウェーデン映画の名匠ベルイマンの 『鏡の中にある如く』 (1961) や、『ソフィーの世界』 で世界的大ヒットをとばしたヨースタイン・ゴルデルの 『鏡の中、神秘の国へ』 (NHK出版) も、原題は同じこの一節だ。SF作家ゼナ・ヘンダースンにも 「鏡をもてみることく」 (〈SFマガジン〉 1987年12月号) という短篇があった。出典は、新約聖書の 《コリント人への第一の手紙》 第13章。文語訳でその前後を引いてみよう。
さすがに格調高い。短篇の邦題 「鏡もて見るごとく」 はここから取っている。この一節、押井守の 『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』 でも重要な役割を果たしていたのをご記憶の方もいるだろう。これではちょっと難しいという方のために、今度は現代語訳。
使っている言葉は平易だが、なんだか下手くそな英文和訳をみているようでもある。どうせだから、ジェイムズ欽定訳の英語版を。ひょっとしたら、これがいちばんわかりやすいかも。
ちなみに 「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない」 と説くこの 《コリント人への第一の手紙》 第13章は、結婚式で牧師が行なう説教にもよく使われるようだ。知合いの結婚式で、いきなり 「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」 という一節に出くわして吃驚したことがある。 ところで Through a Glass, Darkly という一節で思い出す、きわめて重要な本が、実はもう1冊ある。怪奇幻想文学のファンならすでにお気づきだろう。19世紀怪奇小説の巨匠ジェイムズ・シェリダン・レ・ファニュ晩年の作品集 In a Glass Darkly (1872) である。「吸血鬼カーミラ」 「仇魔」 「緑茶」 「判事ハーボットル氏」 など、彼の代表作を収録した里程標的傑作集だ。In a Glass Darkly とは、因果応報的な旧式の怪談から、人間心理の奥底にひろがる闇の世界へと踏み込んでいった近代怪奇小説の祖に、まことに相応しいタイトルではなかったか。(ちなみに、聖書との関連に気づかなかったのか、『くもりガラスのなか』 という訳題をつけた文献があったりするのはご愛嬌。あるいは漱石 『硝子戸の中』 を意識したものか) しかし、そもそも、なぜ 「鏡の中」 に見えるものが 「おぼろ」 なのか、という根本的な疑問を抱かれる方もいるだろう。現在の鏡を想像すると、鏡の中の像が暗いのは、部屋が暗いからか、などと考えてしまいがちだが、もちろんそうではない。聖書の時代の話なのだ。そのころ、鏡といえば、銅などの金属を磨いたものであった。滑らかな表面に映った像は、しかし当然ながら対象を直視するようにはいかず、おぼろげな映像となる。そこで、「鏡をもて見るごとくおぼろなり」 という喩えが生まれるのである。ガラスに水銀アマルガムを塗った鏡が発明されるのは、はるか後年、1317年、ヴァネチアでのことであった。古代からの鏡の歴史とイメージの変遷については、リトアニア出身の異端美術史家ユルギス・バルトルシャイティスの奇書 『鏡』 を是非ひもとかれたい。 (2002.9.16) |