ジョン・フランクリン・バーディン 恐怖の研究 忘れられた作家 これは、1976年にペンギン・ブックスから、バーディンの初期3作がオムニバス本 The John Franklin Bardin Omnibus として復刊されたとき、その序文の冒頭で、ジュリアン・シモンズが紹介しているエピソードです。この話が示すとおり、バーディンは一時期完全に忘れられた作家でした。ペンギン・クライム・シリーズの編集にあたっていたシモンズが、このオムニバス本を企画し、作者バーディンに連絡をとろうとしたとき、出版社もエージェントも、作者とはすでにもう何年も音信が途絶えていました。八方手を尽くし、ようやくのことでシモンズは、シカゴで法律雑誌の編集をしていたバーディンの所在をつきとめ、ここに約30年ぶりにバーディンの特異な心理ミステリが多くの読者の前にその姿を現したのです。 ある小説家の数奇な運命 そして1946年、最初の小説 『死を呼ぶペルシュロン』 The Deadly Percheron を発表します。精神科医が悪夢のような殺人事件にまきこまれていくこの小説は、さいわいまずまずの好評をもって迎えられ、バーディンはつづいて第2作 『殺意のシナリオ』 The Last of Philip Banter (1947) を世に送ります。しかし、6週間で書き上げられたという第3作 『悪魔に食われろ青尾蠅』 Devil Take the Blue-Tail Fly (1948) は、アメリカでは出版元を見つけることができず、結局、セイヤーズやイネスの版元として有名なイギリスの名門出版社ゴランツ書店から刊行されることとなりました。エージェントから原稿を見せられたゴランツ書店の社主ヴィクター・ゴランツは即座に買取りを決め、ほとんど書き直しを要求することなく印刷にまわしたといいます。出版されると、作家のキングズリー・エイミス、エドマンド・クリスピン、詩人ロイ・フラーなど、何人かの目利きの読者から高い評価を得ましたが、この作品はアメリカでは、1967年になってペーパーバックで刊行されるまで、陽の目をみることはありませんでした。 この初期3作をとおして、人間心理の奥底に深く探索の針をおろしていったバーディンですが、自信作 『悪魔に食われろ青尾蠅』 が母国アメリカで拒絶されたことがこたえたのか、50年代に入ると作風を変え、グレゴリー・トゥリー、ダグラス・アッシュという2つの筆名をもちいて、より伝統的なスタイルのミステリを数冊と、54年に普通小説 Christmas Comes But Once a Year を出版したあと、沈黙してしまいます。その間にバーディンの名は次第に忘れ去られ、70年代に再評価が始まるまで、その作品は埋もれたままになっていました。60年代には、広告関係、雑誌編集者、創作講座の講師などの職を転々としています。 復活のきっかけを作ったのは、やはりジュリアン・シモンズでした。すでに1958年にロンドン 『サンデー・タイムズ』 のために、数人の作家・評論家の協力を得て 「ベスト100」 (実際には99冊のリスト。最後の1冊は読者が選ぶというもの。丸谷才一編 『探偵たちよスパイたちよ』、文春文庫、に収録) を編んださいに、本書を取りあげていたシモンズは、1972年に上梓したミステリ史 『ブラッディ・マーダー』 (新潮社) のなかで、バーディンの名をあげ、初期3作を犯罪心理小説の先駆として高く評価しました。特に 『悪魔に食われろ青尾蠅』 については、「精神分裂病者の視点からみた世界をえがいた、現代のクライム・ノヴェルでもきわめて希有な作品」 と絶賛しています。 その4年後、前記のペンギン・ブックスのオムニバス本によって、ようやく多くの読者がバーディンの作品を手に取れるようになり、本格的な再評価が始まります。シモンズによって作風を対比されたパトリシア・ハイスミスは、『ニューヨーク・タイムズ・リテラリー・サプルメント』 に、「読者はこれらの物語を恐怖とともに読むだろう……そしてそう簡単には忘れることができないはずだ」 と賛辞を寄せ、また、H・R・F・キーティングの 『海外ミステリ名作100選』 (1987) (早川書房) など、各種のベストにも選出され、遅まきながら古典的名作の地位を獲得しています。 この再評価に気をよくしてバーディンは再び初期の作風にたちもどり、ほぼ四半世紀ぶりに新作 Purloining Tiny (1978) を発表します。しかし残念ながら、かつて彼の小説が持っていた異常な輝きを取り戻すことはできず、この作品を最後に再び沈黙、1981年、ニューヨークで亡くなりました。 夜の果てへの旅──早すぎた傑作群 「これらの作品は書かれた時点では時代の先を行っていた。それゆえ、いったんは忘却という奈落の底に落ちこみはしたものの、ふたたび奇跡的にそこから這いあがり、ミステリ史上でもかなりの高得点を与えられる位置を獲得することができたのだ。そうしたバーディンの作品のもつ先見性とは、当時、人気を集めていたSFで描かれるような世界を探索するのではなく、正反対の方向へむかうことによって見いだされる世界を探索しようとした点である。バーディンは内なる世界へと舵をとったのだ。人間の心の不可解な深みへと」 (長野きよみ訳) そうした精神世界の探究は、初期3作をつうじて次第に深められていきますが、まず最初の2作を簡単に紹介してみましょう。 The Deadly Percheron (1946) 『死を呼ぶペルシュロン』 (晶文社) 翌朝、馬を届けにいったブラントが発見した女優の他殺死体の件で、市警本部に呼び出されたマシューズは、そのあと地下鉄のホームから何者かに突き落とされてしまいます。意識を取り戻すと、彼は精神科病棟のベッドの上にいました。しかし、医者も看護婦も、彼のことをジョン・ブラウンという名で呼び、いくら自分はマシューズだといっても相手にしてくれません。「精神科医のマシューズはすでに死亡している」 と言う医師たちによって精神分裂症と診断されてしまったマシューズは、別人として病院を退院し、誰が自分をこうした苦境に追いこんだのか突き止めようと試みます。 すでに精神異常、アイデンティティの喪失というテーマが正面から取り上げられていますが、どこか奇妙なユーモアをまじえたその扱いに対して、つづく第2作ではぐっとシリアスさが増し、物語はさらに暗く、重苦しいものになっていきます。 The Last of Philip Banter (1947) 『殺意のシナリオ』 (小学館) 子供の頃から記憶が脱落することがあり、酒と女に弱い男バンター、彼に無視され嫉妬に苦しむ美しい妻、娘を溺愛し、その夫であるバンターを憎悪する義父──神経症的で複雑な人間関係を背景にしたこの物語は、記憶の混乱、近親相姦的欲望、さまざまなオブセッションをはらみながら、パラノイア的恐怖の度合いを強めていきます。 異常心理ミステリの時代 精神分析に強い関心を寄せた作家は、こうしたサスペンス系の作家ばかりではありません。アメリカ本格の代表的作家エラリイ・クイーンも、この時期、異常心理ミステリへの傾斜をいちだんと深めています。戦争で神経を病んだ帰国軍人が自分の中に流れる殺人者の血におびえ、過去の事件を再調査しようとする 『フォックス家の殺人』 (45) (ハヤカワ・ミステリ文庫)、記憶喪失症の青年が無意識のうちに犯罪をおかしていたのではないかという疑惑に苛まれ、エラリイに助けを求める 『十日間の不思議』 (48) (ハヤカワ・ミステリ文庫)、異常殺人者による大量殺人ミステリの先駆的作品 『九尾の猫』 (49) (ハヤカワ・ミステリ文庫) と、40年代後半のクイーン作品には、犯罪を一個のパズルとみたて、論理のみを武器として謎を解き明かしていくことに専念していた、30年代国名シリーズの面影はもはやありません。 また、のちに 『サイコ』 (59) (創元推理文庫) で異常殺人者【サイコ】物の金字塔をうちたてるロバート・ブロックも、第1長篇 『スカーフ』(新樹社) を47年に発表しています。少年期のトラウマから、女性を次々に血祭りにあげることで創作意欲を高めていく芸術家を主人公にしたこの作品で、ブロックははやくもサイコ・ミステリに手を染めています。 『サイコ』 といえば、もちろんアルフレッド・ヒッチコックの存在も忘れてはいけません。大戦中イギリスで活動していたヒッチコックのハリウッド復帰第一作 『白い恐怖』 (45) は、精神病院を舞台とし、記憶喪失、アイデンティティの不安、幼年期のトラウマをテーマとした実験的な作品です。「精神分析をテーマにした最初の映画を撮ってみたいと思ったんだよ」 (ヒッチコック/トリフォー 『映画術』、山田宏一・蓮實重彦訳、晶文社)と、ヒッチコック自身がのちにこう語っています。ちなみに脚本はベン・ヘクト。エロティックな描写が問題となり発禁騒ぎを引き起こした新感覚幻想小説 『悪魔の殿堂』 (24) (平凡社・絶版) や、人形怪談の名作 「恋がたき」 (創元推理文庫『怪奇小説傑作集2』所収) も物している才人です。 『悪魔に食われろ青尾蠅』──恐怖の研究 主人公エレンがある朝、精神病院のベッドで目覚める冒頭のシーンから、読者はその脳髄の内側にはいりこみ、彼女とともに退院の喜びをわかちあいます。医師や看護婦も彼女を祝福します。しかし、2年間の入院生活を終え、退院日のその朝になっても、看護婦たちはけっして彼女に背中を見せようとはしません。エレンがほんとうに治ってはいないのではないか、と暗示する見事なシーンです。 夫の出迎えをうけてエレンは帰宅を果たしますが、すべてが、かつてとは微妙に違っていました。鍵穴に差しておいたはずのハープシコードの鍵がどうしても見つからなかったり、抽斗に見覚えのない白粉を発見したり、彼女のまわりでは事実とも妄想ともつかぬ小さな事件がつづきます。 優れたハープシコード奏者であったエレンは演奏活動を再開しますが、テクニックは取り戻せても、その音楽からは何かが決定的に失われてしまったことを知り、愕然とします。その彼女の前に一人の男が現れます。それはかつてエレンが殺したはずの男でした。記憶の奥底に封印していた忌まわしい過去が一挙によみがえり、彼女を混乱に陥れます。もはや何一つ確かなものはなく、何が現実か、何が妄想なのかは判然としません。やがて読者は、不気味な妄想が現実のものとなる瞬間にたちあうことになります。あとはただ、エレンとともに、彼女の不安を、恐怖を、ひとつひとつ追体験しながら、戦慄に満ちたクライマックスへと地獄下りの旅をつづけるしかないのです。 ここにおいてバーディンの異常心理小説は、すでに通常のミステリの枠を超えてしまっています。事実、『幻想文学大事典』 (国書刊行会) のバーディンの項では、本書について、「その残酷な仮借のなさは恐怖小説のものであって、犯罪小説のものではない」 とまで言いきっています。しかし、バーディン自身は、そうしたジャンル分けにはあまり意味を感じていなかったようです。彼にとって小説とは、人間の感情や経験の中に隠されたもの──彼はそれを 「地雷」 と呼んでいるのですが──を探し出す装置のようなものでした。バーディンは自作を語りながら、こう述べています。 「私にとって、ミステリ小説と普通の小説とのあいだには何の区別もない。よい本と、だめな本があるだけだ。よい本は読者を経験の新しい世界へと投げ込む。それはひとつの実験なのである」 【著作リスト】 The Deadly Percheron (1946) 『死を呼ぶペルシュロン』
(晶文社)
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