『死が二人をわかつまで』

ラジオ・ドラマから生まれたカー中期の傑作

                                                       

 『死が二つをわかつまで』 は、第2次世界大戦もようやく終結を迎えようとしていた1944年に発表されました。ただし、作中の事件が起きたのはその少し前、大戦直前に設定されています。カー自身のお気に入りの作品でもあり1、評伝 『ジョン・ディクスン・カー/奇蹟を解く男』 の中でダグラス・G・グリーンも推奨している、カー中期の傑作のひとつといえましょう。邦訳は、かつて1960年に 『毒殺魔』 という訳題で刊行されていましたが (守屋陽一訳、創元推理文庫)、すでに絶版となって久しく、今回の新訳によって初めて本書を手にする読者も多いと思います。

 この作品を論じるにあたっては、1940年代におけるカーの作風の変化について触れなくてはなりませんが、そのまえにまず、戦時下のカーの動向について、グリーンの評伝を参考にしながら簡単に紹介してみたいと思います。

戦時下のジョン・ディクスン・カー
 大戦が始まった1939年、カーはイギリスのBBC放送の有力者で探偵小説の著作もあるヴァル・ギールグッドに依頼され、「誰がマシュー・コービンを殺したか」 というラジオ・ドラマを書き上げます。このドラマはその年の年末から翌年にかけて放送されますが、これを皮切りに40年代のカーは、BBCやアメリカのCBSで相当数のラジオ・ドラマの台本を書くことになります。カーのラジオ・ドラマは100本近くあり、とくにこの時期のカーにとっては、ラジオの仕事は作家生活の中心を占めていたといってもいいくらいです。

 1930〜40年代は探偵小説ばかりではなくラジオの黄金時代でもありました。アメリカで1920年に始まったラジオ放送はたちまち大産業に発展し、ニュース、スポーツ中継、音楽、ドラマなど、テレビ登場以前の時代における家庭内の娯楽の王座を占めていました。ちなみに、オーソン・ウェルズのドラマ 「宇宙戦争」 が火星人の襲来をニュース仕立てで放送して、全米に大パニックを引き起こした有名な事件は、1938年のできごとです。

 この時代、カーの他にも多くのミステリ作家がラジオ・ドラマの脚本を手がけており、エラリー・クイーン、ドロシー・L・セイヤーズ、F・W・クロフツ、アガサ・クリスティーなどの大御所も名前をつらねていますが、そのなかでもカーのラジオ・ドラマを構成する手腕はひときわ抜きんでていました。彼の劇的な場面を描き出す才能、生き生きとした人物、聴き手の想像をかきたてる雰囲気描写といった長所が、ラジオ・ドラマでは十二分に発揮されたのです。カーが脚本を担当したBBCの 「恐怖との契約」 シリーズや、CBSの 「サスペンス」 シリーズは、ミステリ・ドラマの伝説的番組として知られています。

 いっぽう、その間にも戦局は次第に激しさを増し、1940年半ばまでにアメリカは、戦闘区域に住む自国民にたいして帰国勧告を出しましたが、カーはそれを無視してイギリスに踏みとどまります。その年の9月には、ドイツ軍のロンドン空襲で、カーは家を爆弾によって破壊されますが、そのとき屋内にいたカー夫妻は、奇蹟的にかすり傷ひとつ負いませんでした。家を失ったカーは妻クラリスをイングランド西部の町キングズウッドの実家に疎開させ、自分はひとりロンドンでクラブ住まいを続けます。しかし、そのクラブもまた爆撃にあい、ついにカーもロンドンを離れクラリスと合流することになります。そんななかで、この年の11月、次女ボニータが生まれています。

 1941年から翌年にかけてカーは、BBCでプロパガンダ用のドラマを12本書いています。たとえば、空襲に注意するようにという政府の勧告に従わなかった都市の壊滅を描く 「英国は燃えず」、もぐりの供給元から商品を買うことの危険性を国民に警告した 「闇市場」、女性の軍務への志願を呼びかける 「四人の賢い少女」 といった作品ですが、カーはこうしたプロパガンダ・ドラマにおいても、ストーリーの面白さや意外な結末を忘れてはいませんでした。

 1942年8月、前年12月に参戦していたアメリカは、カーに対して帰国して軍務登録の義務をはたすよう命じ、カー夫妻は船で合衆国に向かいます。アメリカに落ちつくとカーはニューヨーク州クロトン・オン・ハドスンに家を借り、12月には三女メアリーが生まれました。かねてから文通していたフレデリック・ダネイと対面し、ミステリについての議論をかわし、交友を深めたのもこの時のことです。以後、ダネイは前年創刊した 『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』 に、カーの短篇・ラジオ脚本をたびたび掲載することになります。そのダネイを通じて、カーは今度はアメリカCBS放送のためにラジオ・ドラマを書くことになります。そのミステリ・シリーズ 「サスペンス」 は大好評を得て、カーが降りたあとも20年以上つづいた同局の看板番組となりました。

 何度も空襲にあい、転居、移動をくりかえしながらも、この時期のカーは精力的に作品を発表しています。1940年から44年の5年間に、長篇11冊を刊行、加えていまも述べたように相当量のラジオ・ドラマを執筆しています。しかもそのなかには、『皇帝のかぎ煙草入れ』 (42)、『貴婦人として死す』 (43)、『爬虫類館の殺人』 (44)といったカーの代表作が含まれているのですから、この間の充実ぶりがうかがえます。

 これらの長篇のうち半分ほどは、事件の背景を戦前のイギリスに設定していますが、残りはなんらかのかたちで戦争の影を宿しています。とくに 『九人と死で十人だ』40) は、ドイツ潜水艦の襲撃におびえながらニューヨークからロンドンへ向かう船の上で事件が起きる、カー自身の体験をもとにした作品であり、『爬虫類館の殺人』 では空襲下のロンドンという状況設定が、トリック成立に大きな意味あいをもっています。現実から遊離した点をしばしば指摘されるカー作品ですが、この時代の作品をみると、なかなかどうして厳しい現実さえもミステリの一部として取り込んでしまう、お話作りの職人としてのしたたかさを感じさせます。

 さて、このように仕事の面では大活躍を続けていたカーですが、私生活の面では大きな問題を抱えていました。それは、このころますます顕著なものとなっていた過度の飲酒癖です。もともと少年時代から酒を飲むことを大人になること、男らしさと結びつけて考えていたふしがあり、その作品中でもたびたび飲酒礼賛を書きつづってきたカーですが、この時期、彼のアルコール依存は度を越したものとなっていました。酔っぱらって前後不覚になることもたびたびで、幻覚を見ることさえあったといいます。さらに悪いことに酩酊状態をおさえるために鎮静剤として抱水クラロールを服用していたところ、今度は抱水クラロール中毒になってしまったのです。何か手を打たなければと決心したクラリスは、カーに専門的な治療を受けさせ、なんとか彼を立ち直らせることに成功します (しかし、アルコールの問題は一生彼についてまわることになります)。

 1943年の春、BBCからアメリカにたいして、プロパガンダ用の台本執筆のため、カーのイギリス帰国を認めてくれるよう要請があり、合衆国政府はその申請を認可しました。5月、クラリスをアメリカに残してカーはひとりイギリスへ旅立ちます。ロンドンは相変わらずドイツ軍の空襲に悩まされていました。BBCに復帰したカーは、今度は 「恐怖との契約」 と題したミステリ・ドラマ・シリーズに取り組み、これも幅広い人気を博します。物語の語り手として毎回登場する 〈黒衣の男〉 は、「あらゆるラジオ番組の中で最も有名なキャラクター」 になりました。

 このロンドンでの単身時代、カーはある女性と同棲をはじめています。それまでにも、つかのまの 「情事」 は何度かあったようですが、真剣な関係はこれがはじめてでした。相手の女性はBBCの関係者だったといいますが、いずれにせよ、この結婚生活の危機は翌1944年の5月、クラリスがイギリスに到着するとともに終わりを告げます。すべてを知ったクラリスは、きっぱりと関係を清算するようカーに迫り、彼はそれを受け入れました。『死が二人をわかつまで』 は、カーが愛人と同棲していた時期に執筆されています。この作品には、二人の異なるタイプの女性の間で揺れ動く青年が登場しますが、あるいはそこにはカー自身の精神状態が投影されているのかも知れません。こうした男女間の緊張した関係は、『囁く影』 (46)、『疑惑の影』 (49)など、戦後の作品では顕著なテーマとなってくりかえし現われます。

 40年代前半をとおして、カーは英米両国のラジオ・ドラマによってより広範な人気を獲得し、探偵小説界の巨匠の地位を揺るぎないものにしました。この間に旧作が次々にペイパーバックで再刊され、経済的な意味でも成功した作家の仲間入りをしています。戦時中、公私ともにフル回転で活躍したカーですが、彼は自分がこよなく愛した古き良きイギリスが二度と戻らないであろうことも、よく知っていました。本書の冒頭に、戦前のイングランドを懐かしむ、胸の痛むような想いが吐露されていますが、これはそのままカーの本音と言っていいでしょう。1945年5月7日、カーはドイツ降伏の報をBBCのオフィスで聞きます。その日、カーはその複雑な想いをダネイに書き送っています。

 「私はこの手紙を、それがどのくらい重要なのかいまだにわからない日に書いている。オフィスはほとんどからっぽだ。私がここに座っているのは、別段なにもやりたいことがないからなんだ。私は陽気に浮かれ騒いだりなどしたくはない。……本来なら当然そうすべきなんだろうが、歓声を上げたくなるほどの上機嫌の代りに、私は憂鬱で、いささかいらだっている」*2

 戦後のカーは、この時代への違和感を終生抱き続けることになります。

ラジオ・ドラマから小説へ
ご注意:以下の部分には作品の真相に触れた部分があります。伏字にしていますので、該当作品をすでにお読みの方は、マウスをドラッグしてご覧下さい)
 1940年代以降のカー作品には、その中心的アイデアをラジオ・ドラマからとったものが少なくありません。本書 『死が二人をわかつまで』 も、1943年2月23日にCBSの 「サスペンス」 で放送された 「客間へどうぞ」 Will You Walk into My Parlor? (邦訳は「宝石」1959年6月臨時増刊号所載) をもとにしています。このドラマはリライトされて、1947年5月11日、「吸血鬼の塔」 Vampire Tower のタイトルでBBC 「恐怖との契約」 シリーズでも放送されました。

 「客間へどうぞ」 にもやはり、イギリスのある村に最近やってきたばかりの若い女性が登場し、その地方の地主と婚約します。ところが、村の園遊会で占い師に扮した男が、彼女の正体は毒殺者で、証拠がないためいままで警察も手を出すことができなかったのだと、婚約者に告げます。そして、彼女が再び殺人を犯すまえに罠を仕掛けようともちかけます。結末では (以下真相を明かしています)男は彼女の宝石を狙った詐欺師で、すべてはそのための作り話であったことが明らかとなります。

 ご覧のとおり、このプロットは 『死が二人をわかつまで』 の設定にほとんどそのまま活かされています。しかし、ラジオ・ドラマでは、隠されていた犯罪計画があばかれ (以下伏字) 詐欺師が逮捕されて物語は終わりますが、小説版ではその前に、ヒロインを毒殺者として告発した男が、自分が物語った過去の事件と寸分たがわぬ状況で殺されてしまいます。このあたりのカーのプロットのふくらませ方は見事です。

 なお、トニー・メダウォー編集のファンジン Notes for the Curious (カーの歴史物に付された 「好事家のためのノート」 にちなんだ誌名です) の第1号に掲載された、ニック・キンバーのエッセイによると、この設定にはさらに源泉があり、それは1929年に雑誌に発表されたアガサ・クリスティーの短篇 「事故」 (『リスタデール卿の謎』 所載、ハヤカワ・ミステリ文庫) だそうです*3。この作品にも、警察がその犯行を証明することが出来なかった毒殺者として告発される女性が登場します。村のお祭りが背景となり、占い師の予言も出てきます。この短篇がカーに発想をあたえたことはまちがいないようですが、そのプロットの展開のしかたは、カーとクリスティーでは大きくちがっています。読み比べてみるのも一興でしょう。

中期の傑作 『死が二人をわかつまで』
 さて、ラジオ・ドラマのアイデアをもとに小説化された 『死が二人をわかつまで』 は、どのような作品でしょうか。

 この作品のテーマはカーが得意とした密室殺人です。しかし、『プレーグ・コートの殺人』 (34)、『三つの棺』 (35) などの30年代の密室物と比べると、その取扱いには大きな変化がみられます。事件の設定はよりシンプルになり、ことさらに不可能性が強調されることもありません。初期作品に顕著だった怪奇趣味の彩りも、ここではほとんど抑えられています。こうした作風の変化は30年代末からみられたものですが、この時期の長篇をとりあえず年代順にあげてみましょう。

 1939年 『緑のカプセルの謎』/『読者よ欺かるるなかれ』/『テニスコートの謎』
 1940年 『かくして殺人へ』/『震えない男』/『九人と死で十人だ』
 1941年 『連続殺人事件』/『殺人者と恐喝者』/『嘲るものの座 (猫と鼠の殺人)』
 1942年 『メッキの神像』/『皇帝のかぎ煙草入れ』
 1943年 『貴婦人として死す』
 1944年 『死が二人をわかつまで』(本書)/『爬虫類館の殺人』
 1945年 『青銅ランプの呪』
        *はカーター・ディクスン名義の作品

 こうして並べてみますと、30年代後半の作品との違いがはっきりしてきます。『三つの棺』 や 『火刑法廷』 (37)、『曲った蝶番』 (38) で頂点を極めた複雑なトリックや錯綜したプロットは次第に影をひそめ、ひとつのアイデアを中心に長篇を構成する語りのテクニックが目立つようになります。この時期のカー作品では、むしろ単純なトリックをプロットのなかに自然に溶けこませることに大きな注意がはらわれているのです*4。こうした作風の変化には、あるいは先に触れたラジオの仕事も影響を与えているのかもしれません。

 『死が二人をわかつまで』 でも、密室を構成するトリック自体は単純なものです。というよりも (以下伏字)「ピンと糸」 というおそろしく古典的な、使い古された手段をカーはあえて使ってみせているようにみえます。この仕掛けはすでに 『三つの棺』 の 「密室講義」 のなかでも、部屋の外側からドアや窓に錠をかける方法のひとつとして紹介されています。

 この作品のトリックのミソは(以下真相を明かしています)作中でもある人物が指摘するように、現場が正確な意味では密室ではなかった、というところにあります。窓には銃弾による穴があいていたのです。この穴を使ってカーはぬけぬけと、しかも陳腐な密室トリックの代名詞ともいえるピンと糸によって錠をかけています。しかし巧妙なのは、この穴が実際にあいた時刻を、巧みなミスディレクションによってずらしているところです。 ある行為が行なわれた時間を前後にずらすことで、カーは不可能をあっさり可能にしてしまいます。こうした人間の心理が陥りやすい錯覚を利用したトリックは、『皇帝のかぎ煙草入れ』 や 『緑のカプセルの謎』 でも効果的に使用されています。このあたりの呼吸はカーが愛好した舞台マジックにも通じるものがあります。奇術師探偵グレイト・マーリーニふうにいえば、「先に観念をごまかしてしまえば、早業などは必要ない」 というところでしょうか。小さな、使い古されたトリックを組み合わせることによって、新しい驚異を創り出すカーの職人芸を楽しみたいところです。

 『死が二人をわかつまで』 は、巧みなストーリーテリングとすっきりとした謎の解決が特徴的な、ジョン・ディクスン・カー中期の代表的な作品です。不自然な設定や複雑なトリック、あざとい怪奇趣味が嫌だとおっしゃる、カー嫌いの方にこそお奨めしたい逸品です。

(1996.9)

【note】

*1 1963年にスウェーデンのミステリ評論家ヤン・ブロベリから、自作の不可能犯罪物で気に入ってい
   る長篇をあげてほしいと頼まれて、カーは 『死が二人をわかつまで』 『火よ燃えろ!』 『囁く影』
   『青銅ランプの呪』 の4作をあげています。

*2 ダグラス・G・グリーン 『ジョン・ディクスン・カー/奇蹟を解く男』 第12章 (森英俊・高田朔・西村真裕
   美訳、国書刊行会)

*3 Nick Kimber, "Accidental Death," Notes for the Curious, vol.1, Autumn, 1995.

*4 カー中期の作風の変化については、松田道弘 「新カー問答」 (『トリックものがたり』 所収、ちくま文
   庫) を参照のこと。1977年に 『ミステリマガジン』 に発表されたこのエッセイは、江戸川乱歩 「カー
   問答」 (『別冊宝石』1950年8月) 以来のカー観を修正するものとして画期的なものです。


『死が二人をわかつまで』 解説を改稿。