往復書簡 ドルリー・レーン四部作を読む
【第4回】

塚田よしと 真田啓介


※エラリー・クイーン 『Xの悲劇』 『Yの悲劇』 『Zの悲劇』 『レーン最後の事件』 の内容に触れています。
 未読の方はご注意下さい。

 引用・参照頁数は特に注記のない限り、角川文庫版 (越前敏弥訳) のものです。


(真田啓介からの第四信)

 今回のレーン四部作吟味もいよいよ大詰ですが、まずは塚田さんの第三信に対するコメントから。

 塚田さんのことですからもちろん皮肉な意味で言われたのではないと思いますが、「大人な真田さん」 という言葉に私は少々暗い気持になりました。「大人」 の分別めいたものが私のミステリの読み方を貧しいものにしているのだとしたら、それは決して喜ばしい話ではないからです。

 ミステリの最も的確な読み手の一人と信じる塚田さんが心酔されている作品を面白いと思えないとすれば、どう見ても原因は私の側にあるということになりそうです。それがつまり 「大人」 らしさ――子供でなくなってしまったということではないのか。ミステリの重要な特質である稚気――塚田さんの言われた 「華麗なる通俗性」 というのもそれに近いもののような気がします――、それが分かるのは子供の心のはずですから。

 実は、私は (ことミステリに関しては) 幸福な子供時代というのを持ちませんでした。ウルトラ怪獣と水木しげるの妖怪マンガと昆虫採集に明け暮れた小学生の頃は、本らしい本を読んだ覚えがなく、ホームズもルパンも少年探偵団もその存在すら意識していませんでした。中学生になってようやくホームズ物と若干の古典名作 (数冊にすぎないそれらの中に 『X』 『Y』 『Z』 が含まれていたのは全くの偶然) を読んで 「今一つの世界」 に目が開かれたのでしたが、その時点で塚田さんとは大学生と幼稚園児くらいの開きがあったと思います。こういう生い立ちの人間ですから、『Xの悲劇』 の背後に 『ルパン対ホームズ』 の世界を透かし見るような感覚が身についていないのでしょう。これは今さらどうしようもないことですが、そうしたハンデがあるだけに、私としては意識的に読み方の幅を広げていく努力が必要なのではないか。そんなことを考えていたときに、その思いにシンクロするような本に出会いました。

 奥泉光の新刊 『夏目漱石、読んじゃえば?』 (河出書房新社) は、漱石作品の案内とともに小説の読み方を指南してくれる本。〈14歳の世渡り術〉 という中学生向けシリーズの一冊ですが、こういう本を面白く読める程度には私も子供なのです。その中にこんな一節が――

 ……小説には正しい読み方とか間違った読み方は存在しないんだ。このことは強く言っておきたい。つまり、正しいとか間違っているとかいう軸では、小説は読めないんだ。
 ただし、面白い読み方とつまらない読み方、豊かな読み方と貧しい読み方という軸はある。自分が思う面白い方、豊かな方、スリリングな方に向かって読み進めていくことが大切なんだ。
 面白い読み方、豊かな読み方というのを一般化するのは難しいけど、強いて言えばイメージを大きく広げてくれる読み方ということになるだろう。

 そのとおりだなあと思います。私の読み方は自ら求めてつまらない方、貧しい方に向かう結果になってしまっているのではないか。もっと自由に、もっと大胆に、もっとスリリングに、と自分にゆさぶりをかけて、新たな世界に踏み込んでいくべきではないか。それでも動かない自分というものがあるとしたら、最後はそれに安んじていくしかないのだろうけれど。

 しかし、改めて思うに、私は 「日常のなかに放り込まれた非日常」、あるいはリアルな背景とマンガなキャラの組合せ、といったものにすべて拒否反応を示してきたわけでもないようです。私といえども 「不信」 の固まりではなく、必要に応じてそれを 「停止」 することはできます。

 必ずしも適切な例ではないかもしれませんが、ふと思い出したのは、先年の 「黄金時代英国探偵小説吟味」 のやり取りの中で、ある時こんなことを言っていました。―― 「年明けにまず読んだのは京極夏彦の 『塗仏の宴』 で、前から感じていたことですが、京極ミステリはマンガである、と今回特につよくそう思いました。そう思ってみるとその作風は水木しげるの画風に似たところがあって、つまり、京極堂のペダンチックな長広舌が水木マンガのビッシリと描き込まれた背景に相当するのではないか、などと思ったりしているのですが……。」 (「ROM」 no.108) そんな風に思いながらもこのシリーズを私はけっこう面白がって読んでいたものです。

 それでは、私はなぜクイーンを受け入れられないのか。つまるところ合う合わない、好き嫌いの問題で理屈ではないのかもしれませんが、思いのほか大きいのは文章に対する好みです。小説を読むとき、ミステリの場合は特に、物語にばかり目が向きがちですが、奥泉氏の前掲書でも 「小説を読むことの醍醐味は、物語ではなくて文章そのものを読むことにある」 と言われているように、文章は小説の魅力の大きな部分を占めているはず。ですから文章が好きになれなければ、それは作品全体の評価に直結します。個々の文のほか構成や叙述のスタイル等を総合して文体と呼ぶとすれば、私はクイーンの文体がどうも好きになれないのですね。

 文体の良し悪しを論じるにはそれこそ精妙な文章力を必要としますから、私のよくするところではありませんが、これまでの議論の中から分かりやすい例を上げるなら、たとえば 『Xの悲劇』 で指摘したサムの 「実況中継」 の場面。塚田さんは愚直なまでの作者の努力に同情されていましたが、同情心なき私は端的に下手だなあと思ってしまいます (その程度にでもオマエは書けるのか、というのは筋の違う議論。ジョンソン博士曰く、「君は悲劇を書けないにしろ、それを酷評する権利はある」)。あるいは、「第何幕第何場」 という構成。これを 「意味のないこだわり」 と評したのは言い過ぎだったかもしれませんが、こだわるなら徹底的にやってほしかった。第二幕第六場 「ウィーホーケン」 の後半が 「ニューヨーク」 というのでは、破綻していますよね。構えが堂々としているだけに、ほころびが目ざわりです。

 それなら 『Z』 におけるペイシェンスの語りはOKなのかというに、純粋に文体の問題としては、私には 『X』 『Y』 よりは抵抗がありません。一貫したトーンでよどみがなく、スラスラ読めます。塚田さんのご不満は、語りの技術というよりはペイシェンスのキャラクターに原因しているようですが、それは分からないではありません。私が紙上探偵のクイーンを嫌いながら、彼と 「同類の、しかも女性であるばかりに、輪をかけて鼻もちならない」 彼女のキャラクターを抵抗なく受け入れている (のは矛盾している) というご批判は、――なるほどご尤もです。ご尤もではありますが、ペイシェンスは女性であるというところがエラリイ君とは決定的に違います。若い女性ならそのナマイキさもかわいく見えるところがある――というのは「大人」な私のオヤジ的感覚でしょうか。どうか塚田さんもペイシェンスをもって彼女を見守っていただきたく。

 私がペイシェンスに甘いのは、彼女のユーモア感覚を評価していることも理由の一つになっていそうです。たとえばこんなところ――

 わたしたちは地方検事の事務所へ引き返した。今回は控え室で三十分も待たされた。そのあいだ、レーン氏はすわって目を閉じ、わたしには眠っているように見えた。実のところ、ヒュームの秘書がようやく呼びに来たとき、父が肩を叩いて起こさなくてはならなかった。レーン氏はすぐに立ち上がり、謝罪めいたことばをつぶやいたが、わたしなどには考えも及ばぬ問題について熟考していたにちがいなかった。 (『Zの悲劇』 p.188)

 へえ、クイーンもこんな風に書けるんだ、と作者をちょっと見直してしまったくらいです。

 塚田さんが最後で言及された、『Z』 の最初の 「ところで、『Xの悲劇』 と 『Yの悲劇』 を読むと……」 というくだりに関しては、何の疑問も感じることなく読み過ごしていた私のうかつさを恥じるばかりです。私も気がつかなかったから言うわけではないのですが、「気がつかずにレーンを賛美しているペイシェンス」 よりは作者の方をとがめるべきかと (こんな風につい彼女をかばってしまう私って、あの子の何なのさ?)。

 あと話題として残るのは、ドルリー・レーンその人についてですが、塚田さんの 「腐りかけの果物」 論に納得です。この四部作を四部作たらしめているものは、シリーズの進行とともに壊れていく探偵としてのレーンの物語ですからね。

 私はハメットは最初に読んだ 『マルタの鷹』 がつまらなくて早々に見限ってしまったので、コンチネンタル・オプを引き合いに出しての塚田さんの議論には何もコメントできないのですが、少なくとも 『赤い収穫』 はいずれ読んでみようと思っています。「探偵役が、事件を解明するだけにとどまらず、介入してその趨勢をコントロールする存在に変化し、やがて一線を越え、壊れてしまう」 というまとめからは、『ジャンピング・ジェニイ』 以降のロジャー・シェリンガムを連想したりもしました (彼の場合はレーンのような悲劇には至りませんが、探偵の領分をこえた振る舞いがシリーズを破壊してしまいます)。

 あと、『Xの悲劇』 の第三の事件でのレーンの 「失態」 についてですが、麻耶雄嵩氏のコメントを一読してドキリとしました。アッ、そういう解釈があったか……。ただ、レーンが 「わざと見て見ぬふりをした」 ということの意味は何なのか、改めて考えてみるとよく分からなくなります。レーンは車掌が通っていくのを見てそれを記憶していたのに気づかなかったと偽証した、ということですよね。その場合、レーンは車掌が犯人だと知っていたのか、知らなかったのか。知らなかったとすれば、偽証の意味は、その後の犯人指摘の推理の価値が損なわれないようにする (車掌の動きを承知していれば、推理するまでもなく彼が第一容疑者になってしまう) という、名探偵としての見栄の問題にとどまるでしょう。一方、車掌が犯人だと知りながら自由に行動させたということになると、そこにレーンの悪魔性があらわになるわけですが、それではレーンは何を根拠に (ドウィットの死体を見る前に) 車掌が一連の事件の犯人だと推理できていたのでしょうか。私が論点を把握しそこねているのだとしたら、ご教示願いたく思います。

 さて、第三信に関してはこれくらいにして、四部作の最後に話を進めるとしましょう。『レーン最後の事件』 については、まず、フランシス・M・ネヴィンズ・ジュニアの評を引用してみます。

 バーナビイ・ロス四部作の最後の作品は、初期のクイーンのなかで唯一、いっそ書かなければよかったのにという感じを抱かせる。(中略) いくつかの優秀なアイディアが含まれてはいるものの、欠陥として性急さ、構成の欠如、偶然の一致、作為、説得力のない動機づけ、そして (クイーンにしては) 驚くべき数のプロットの穴があげられる。
       (名探偵読本4 『エラリイ・クイーンとそのライヴァルたち』 (パシィフィカ) 所収
        「ドルリイ・レーン四部作」)

 この文章を読まなければ自分が同じようなことを言っていたかもしれないのですが、人間とは奇妙なもので(私がいい加減なだけかもしれませんが)、他人の酷評を目にしてしまうと、何もそこまで言わなくてもいいんじゃないの、といった気分になってしまいます。

 実際、この作品を私はけっこう面白く読みました――途中までは。

 冒頭の奇妙な依頼人の話から始まって、博物館の警備員の失踪、稀こう書の盗難事件 (より価値の高い本とのすり替え)、盗まれた本の返却、と続く序盤の展開には、クイーンらしからぬ (というのは偏見か) ファンタスティックな味わいがあって楽しめました。それまでのヴァン・ダイン風の書きぶりを離れて、『夜歩く』で華々しく登場してきたディクスン・カーの物語風の書き方を意識しているのではないかという気もします (作品の発表時期が正確に分からないので、どちらがどちらにということは言えませんが、本書の趣向たる 「シェイクスピアの新発見の手紙」 と、同年刊のカー 『帽子収集狂事件』 の 「ポーの未発表原稿」 との間にはアイディアの面で影響関係がありはしないでしょうか)。

 しかし、中盤以降ゴタゴタしてきて、筋の展開についていきづらくなり、終盤では裏側のストーリーすなわちプロットすなわち構成の論理の不備や不自然があらわになって、ゲンナリさせられてしまうんですがね。視覚に関わる推理でセドラー兄弟の入れ替りを見破ったレーンが、聴覚に関わる推理で自らの犯行を暴かれるという読みどころは用意されているものの、そのロジックが収まるべき全体のプロットが信用の置けないものなので、せっかくの効果が減殺されてしまっています。

 実際、この作には 「驚くべき数のプロットの穴」 があると言っても誇張ではありません。それを指摘し始めたらキリがないし、生産的な作業とも思えませんから、その一々にはあえてふれないことにします。ネヴィンズ・ジュニアはその数点を挙げていましたが、私が一番問題だと思うのは、この作を成り立たせている中心的なプロット、「シェイクスピアの手紙」 にまつわる一連の事柄がほとんど納得できないことです。

シェイクスピアは毒殺されたのであって、その疑惑を友人あての手紙に記していた――小説的想像力の産物たる一つの設定として、それはいいでしょう。しかし、その手紙を誰が何の目的で本の表紙に隠したりしたのか。1758年にそのことを記した手稿の筆者は、どこからその事実を知ったのか。その手稿が、シェイクスピアの手紙に記された毒殺犯人の遠い子孫の手に渡るなど、ほとんどありえない偶然ではないか(だいたい、愛書家たる者が貴重な手稿の内容をあらためもせずに他人に譲るなんてことがある筈がない)。……その辺の設定をもう少し信憑性のあるものにしてもらわないと、話の全体が 「空騒ぎ」 としか見えません。

 ちなみに、本書の 「時」 が 「近い将来」 とされているのは、問題のシェイクスピアの手紙の発見という事実は現在まで起きていないことからする、歴史的事実と小説的構想の折り合いをつけるための配慮なのでしょうね。

 さて、この作品の単体としての評価は上記のようなことに尽きてしまいますが、この作の意義はもちろん四部作を締めくくる最後の作品というところにあり、ドルリー・レーン物語完結編として読まなくてはなりません。本書終章の 「ドルリー・レーン氏の解決」 は、最後の事件の解決という以上に、ドルリー・レーンという人生の結末を示しています。

 この四部作におけるレーンの役割は、「訳者あとがき」 で越前敏弥氏が指摘されているように、「名探偵として明晰な推理を披露して事件を解決へと導くだけでなく、まさに人形遣いとして糸を手繰るかのように、ときには創造主の役割を担うかのように、大いに苦悩しつつも、いわば強烈な演出力をもって登場人物たちの運命そのものを動かしていく」 ものでした。自分の思い描いたドラマを実現するために、他者の人生をも支配しようとする強烈な自我の持主。これはもちろん探偵小説における探偵役の分際を超出しています。そこに私などは違和感を覚えるのですが、その善し悪しを超えて、レーンという人物の強烈な存在感とユニークネスは否定しようもありません。最後には自分の信ずる価値 (シェイクスピアの手紙) のために殺人をも犯し、自決という 「解決」 を提示するレーン。その結末を見届けた後、遡って手紙を求めて手当たり次第に斧をふるう鬼気迫る彼の姿を思い描くとき、狂気と紙一重の妄執のすさまじさに慄然たる思いを禁じえません。

 レーンの人物像を完成させるためには、『最後の事件』 は書かれなくてはならなかった作品でした。そして結果から見ると、前三作はこの結末を導くために全体的な設計図に基づいて書かれていたようにも見えます。実際、クイーン・ファンの間では、この四部作は名探偵の死による退場をもって終わるという構想のもとに書き始められたというのが定説となっているようです。私はクイーンはろくに読んでもいないし、そのあたりのことには何の考えも (関心も) なかったのですが、ふとした偶然からその 「定説」 に疑問を抱くに至りました。

 昨年の一月、やはり当地の読書会でヴァン・ダイン 『グリーン家殺人事件』 が課題書となったので、その機会にジョン・ラフリーによる評伝 『別名S・S・ヴァン・ダイン』 (国書刊行会) を読んでみたのですが、その中に次のように書かれていたのです。

 一九三三年十月は、ウィラード・ハンティントン・ライトにとって肩身の狭い月だったはずだ。一九二八年から一九三二年にかけて、ウィラードは二十回以上にわたり、ファイロ・ヴァンスは六番目の冒険の最後で引退するか殺されるかし、著者は 「念願の本の執筆へ戻る」 ことになると宣言していた。六番目の知力の冒険が終わり、七作目が出版されると、スクリブナーズ社はS・S・ヴァン・ダインが八冊目の本、『カジノ殺人事件』 の最終章に取り組んでいると発表した。大衆文化の鑑ともいうべき、成功した探偵小説家の役をおりる様子は微塵もなかった。     (p.340)

 前衛的な芸術の価値を信奉し、伝統的な文化に挑みかかった妥協を許さぬ文学の闘士ウィラード・ハンティントン・ライトは、かつて軽蔑していた大衆小説の作者、金に魂を売り渡したベストセラー作家S・S・ヴァン・ダインへと転身しました。病後の生活の建て直しのため、手っ取り早く収入を得る手段として探偵小説に手を染め、初めは生活が安定したら (ファイロ・ヴァンス物を六冊書き終えたら) 真面目な文学の世界に戻るつもりだったのに、ぜいたく三昧の暮しに慣れて後戻りできなくなってしまう。――いささか退屈な印象しかもたらさなかったヴァン・ダインの名が、この評伝を読んできわめて興味深いものに変わりました。わがままで自己中心的な性格、家族への冷酷な仕打、芸術家の生涯を貫いた弟との確執、自己正当化のための過去のねつ造、金遣いの荒さ、酒と女、麻薬、……さながら芸術家小説の主人公のようです。

 上記の引用は、その転身の時期のもようを描いた箇所ですが、私が注目したのは、「一九二八年から一九三二年にかけて……二十回以上にわたり……ファイロ・ヴァンスは六番目の冒険の最後で引退するか殺される……ことになると宣言していた」 という部分です。つまり、『Xの悲劇』 が刊行された一九三二年の直近の時期においては、出版関係者やミステリ読者の間では、ファイロ・ヴァンス・シリーズは近いうちに主人公が 「引退するか殺されるか」 して終わる予定であることが知られていたわけです。

 ミステリにおいて名探偵の死による退場というのは、一つの大きな趣向です (シャーロック・ホームズの一時的な退場を別とすれば、T・S・ストリブリングのポジオリ物くらいしかそれまでには例がなかったのでは?)。それが――漠然とした形ではあれ――他の作家 (それも当代随一の人気作家) によって予告されている状況において、クイーンが同じ趣向で終わるシリーズを構想したというのは考えにくいことではないでしょうか。この状況証拠からして、私は、一九三二年中に刊行された 『Xの悲劇』 と 『Yの悲劇』 の執筆時点では、『最後の事件』 における 「レーンの解決」 は予定されていなかっただろうと考えます。

 翌一九三三年八月に第六作 『ケンネル殺人事件』、十月に第七作 『ドラゴン殺人事件』 が相次いで刊行されて (同月には 『ケンネル』 の映画も公開されるという盛況ぶり)、ファイロ・ヴァンスの退場予告が当面は実行されないことが明らかになったわけですが、このことは同年の早いうちから出版関係者には知れわたっていたのではないでしょうか。そしてこの状況の変化が、クイーンに 『最後の事件』 を現にあるような形で書かせることを可能にしたのだと思います。

 クイーン研究家の間では、『Zの悲劇』 は当初の構想には含まれておらず、途中でシリーズに組み込まれたという説が有力なようですが、私もこの状況の変化が新たに 『Z』 を必要としたものと考えます。すなわち、『最後の事件』 をレーンが殺人を犯し自決するという結末にすることとしたため、レーンの犯罪をあばく別の探偵役が必要となり、その役割を担わせるペイシェンスを登場させるための作品として 『Z』 が書かれたのではないかと。

 私はクイーン作品を論じる基本的な素養に欠けているので、この四部作構想問題に明快な見通しを立てることはできませんが、ヴァン・ダインの執筆状況との関係というのは、一つ考慮されてよい論点ではないかと思います。

 さて、レーン四部作についての私の感想は一通り述べ終えました。この先補足したい事項が出てこなければ、これをもって私からの往信は終了しますが、長い間お付き合いいただきありがとうございました。塚田さんのミステリ愛にあふれた精確な読みにふれられて裨益するところ大でした。いずれまた機会があればお手合せを願いたいものです。       
                                           (2015. 5 .5)

 

(塚田よしとからの第四信)

 四部作を巡る、長いやりとり (期間が長期化してしまった原因は、ひとえに遅延を繰り返した小生にあり、ペースを合わせる真田さんには、随分とご迷惑をおかけしてしまいました) も、ようやく 『レーン最後の事件』 にたどり着き、オーラスを迎えたわけですが――

 まず第三信において、「大人な真田さん」 という、舌足らずな表現をしてしまったことをお詫びします。そこには、平生より、お書きになられるものを通して、人品教養その他もろもろの面で 「大人」 と子供の差を痛感させられている当方の、羨望こそあれ、皮肉の意味など毛頭なかったのですが、結果として、そう感じさせかねない書きかたになってしまったようで、失礼しました。

 本格ミステリの特質をきちんと理解したうえで、なおかつ、不自然さの無い小説としての達成を求める――その厳しさは、やはり真田さんの本格ミステリへの愛であると、思っています (優しいばかりが愛ではないですからね)。「約束事」 と称して 「暗黙の了解」 を通そうとする小生は、どこかで本格ミステリを、子供ないし子供的読者のための読み物でいいと、甘やかしている。大人の鑑賞に耐えうる、人間性に立脚した普遍的な傑作 (たとえばウィルキー・コリンズの、不滅の 『月長石』 のような) とは別に、仕掛けと趣向が突出した、特殊な 「傑作」 (『Xの悲劇』 のような、あるいは『三つの棺』のような) も認めていい、というのは、評価基準のイイカゲンさを示すものかもしれないと、少し反省しています。

 でも、それに関しては――唐突かもしれませんが――どこかで都筑道夫氏を反面教師のように見ていたことが、大きいのです。『黄色い部屋はいかに改装されたか?』 で先鋭的なモダーン・ディテクティヴ・ストーリイ論を提唱し、「トリックよりロジック」 をという立場から、そのひとつの理想形として、解明の論理に特化した初期のクイーン作品を評価していた都筑氏は、しかし晩年には、推理の展開だけでは飽き足らなくなり、前掲書においてもE・D・ホックの 「長方形の部屋」 の評価などに潜在的にあった、裏の (事件の背後にある) 論理→犯人の心理を理解することが重要という考えを押し進め、あたかもミステリの理想形をそちらに見出したかのように、ジョルジュ・シムノンのメグレ警視シリーズに傾斜していくようになりました。犯罪を通して人間を理解する読み物として、ミステリを捉えること。それが、酸いも甘いも嚙み分けた、小説読みとしての都筑氏の洗練であることは理解できても、本格ミステリ固有の面白さ、その価値まで疑われているようで、こちらとしては、素直に共感するわけにはいきませんでした。

振り返れば、昭和56年 (1981年) の時点で、『臨時増刊小説現代』 の 「ミステリーこの一冊」 というアンケートの回答に、都筑氏は 『Yの悲劇』 をあげています。そこではなんと 「バーナビイ・ロスの作とした戦前の訳で、はじめて少年期に読んでから、なんども読みかえしたこの作品が、私を推理作家にした、といってもいいからだ」 とまでコメントされているのですが……でもそのあとで 「しかし、いま 「Yの悲劇」 がいちばん好きなミステリイか、と聞かれれば、そうでもない」 と、書かずもがなのことを書いてしまっています。そして曰く、

(……)目下、影響されているのはシムノンで、「メグレ警視シリーズ」 五十冊を、つい昨日、再読しおわったばかり。なかには三読、四読した作品もあるが、そのうちの一冊を選ぶとなると、むずかしい。やはり 「Yの悲劇」 にしておくか。

 面倒くさい親爺だなあ、と、当時も思ったことです。『Y』 は無垢な少年をマニアにし、ひいては推理作家にまでした、それほどの影響力があった作品というわけでしょう、なら、もっと素直に絶賛しなさいよ、都筑さん――と。その頃の小生には、シムノンの良さがピンと来なかったせいもあります。

 まあ最近になって、論創海外ミステリから完訳が出た 『紺碧海岸のメグレ』 (旧訳題 『自由酒場』) を読んで、なるほどシムノンはうまいなあ、と思えるほどには、小生も大人になりました。そしてクイーン・ファンとしては、1932年に原作が出ているこの小説が、クイーンの 『中途の家』 (1936) と共通するモチーフを取りあげていることが、なかなか興味深かったのです。被害者の 「二重生活」 という、そのモチーフを、小説的に掘り下げたシムノンに対し、あくまで謎解きの趣向と割り切って、論理の組み立てに奉仕させたクイーン。結果、それぞれに、作者の持味が如何なく発揮された 「傑作」 に仕上がっていると思います。うん、これはやっぱり、両方楽しめたほうが、絶対得だと思う (笑)。

 閑話休題。

 真田さんが、初期クイーンの、ときに凝りすぎ、努力のあとが判然とする、いかにも若書き的な 「文体」 を好まれないのは、理解できるところです。あの手この手で、精いっぱい恰好をつけようとしているところが、小生は嫌いじゃないんですがね。

逆に 『Zの悲劇』 の、女性キャラクターの立ち上げやユーモア成分の導入といった試みは、小生には、リーダビリティの向上より、勝手が違う違和感のほうが、大きく感じられるわけです。

ただ、ペイシェンスの造形自体は、明朗活発なヒロインと頭脳明晰なワトスン役のはざまで振幅し、成功していないと思うのですが、『Z』 でクイーンが、慣れない一人称記述にまで挑戦し、いきいきとした女性キャラクターを描こうとしたことは、あとあとの作家人生に大きくプラスしているはずです。失敗を恐れず、苦手なこと・新しいことにも挑戦し、その反省をあとにいかす、クイーンは、そういう作家です。

流れとしては、このまま 『レーン最後の事件』 へ話を進めるべきでしょうが、そのまえに、第三信の最後の補足をしておきます。『Xの悲劇』 の第三の事件に関して、ですね。

単体で 『Xの悲劇』 を考えれば、レーンの 「失態」 は、さきに真田さんが述べられたように、いささか作者の 「ご都合主義」 な、ただの失態にとどまります。とはいえ、のちの 『Yの悲劇』 や 『レーン最後の事件』 で、彼の危ない人間性を知ってしまうと……あの麻耶雄嵩氏の解釈に、そんな莫迦なと言いきれない、何かが感じられるのも、また確かです。

当初、車掌が犯人とは知らずに行動させたが、あとになって 「名探偵」 としての見栄から偽証した――これはありそうです。

でも、「わざと見て見ぬふりをした」 というからには、麻耶氏はそこに、もっと積極的なレーンの意思を見ているような気がします。つまり、真田さんの挙げられた可能性の、あとのほう、車掌が犯人だと知りながら自由に行動させた――ですね。これは一見、無理に思えます。仰るとおり、何を根拠に車掌が一連の事件の犯人だと推理できていたのか? ということになりますから。

この点に関して、麻耶説にのっかって考えを進めると、いきおい、レーンは推理で分かったわけではない、車掌を見て直感したらしい、という結論になります。そこで思い出されるのが、第二の事件における、レーンと犯人のニアミスです。あのとき、レーンは目撃証人の一人としての 「ニクソン」 を見、その話を聞いているわけです。もとより相手は、巧妙な変装していたのでしょうが、人間観察に秀でたレーンなら、二度目に同じ人間と列車内で会ったとき (最初に車掌が検札に来たとき)、なんらかの既視感を覚え、そこから思考を重ねて、危険を察知することも可能だったのではないでしょうか。そのうえで、犯人の新しい人格かもしれない車掌を、あえて放置したのだとしたら――レーンの 「悪魔性」 が立ち上がってきます。もちろん、これは小生の勝手な深読みで (麻耶氏の文章の真意とは異なるかもしれませんし)、何の保証も無い話ではありますが……。

さて、いよいよそんな、神か悪魔か定かではない、特異な名探偵を主役にすえた四部作の、最後の作品を見ていく番になりました。

なりましたが、これはねえ、悲しい作品です。幕切れにおいて、ドルリー・レーンが悲劇的な死をとげるから――ではなく、せっかくのシリーズの最後に用意されていたのが、こんなお座なりなお話だったという意味で。『X』 や 『Y』 の充実ぶりとの、あまりの落差に、若き日の小生は涙しました。

もっとも、今回うん十年ぶりに新訳で読み返してみて (越前敏弥氏の訳文の力も大きいのでしょうが)、冗漫だったという昔の印象はかなり払拭されました。前段の、妙な軽みにとまどい、なかなか作品世界に入っていけなかった学生時代が嘘のように、その 「ファンタスティックな味わい」 を素直に受け入れ――後半のシリアス展開とバランスがとれているかどうか、という問題はあるにせよ――クイクイ読んでいけましたから。『Z』 の、癖の強いペイシェンスの一人称をやめ、彼女を相対的に見ることができるようにしたのも (今回は、彼女が真の探偵役ですから、その一人称では結末の意外性を演出できない、という事情もあったのでしょうが)、正解だと思います。

なるほど 「ディクスン・カーの物語風の書き方」 と、確かに通じるものがありますね。ただ、『帽子収集狂事件』 との、アイデア面での影響関係は、どうでしょうか。『レーン最後の事件』 の初出は、クイーンが編纂した雑誌 『ミステリー・リーグ』 の1933年10月創刊号です。ダグラス・G・グリーンの評伝 『ジョン・ディクスン・カー 〈奇跡を解く男〉』 (国書刊行会) によると、『帽子収集狂事件』 の初版は、アメリカ、イギリスとも同年の8月に刊行されているようですから、それを読んだクイーンが、刺激されて 『最後の事件』 を書いたと考えるには、時間が無さすぎるような気がします。にしても、興味深い類似ではあります。

余談ながら、カーがバーナビー・ロス名義のクイーン作品について語った文章というのは、目にした記憶が無いのですが、刊行時に読んでいたのを窺わせる記述が、『帽子収集狂事件』 のなかにチラリと出てきていました。相方ハドリー警部の皮肉に反発して、フェル博士が小説のなかの探偵の鮮やかさを力説する場面 (第9章 「三つのヒント」) で、こんなセリフがあります。

 「(現実の探偵は) 納税者を厳粛な目つきで見つめて、“この殺人の謎を解く鍵はマンドリンにあります、乳母車にあります、ベッド用の靴下にあります” と納得させて、彼らにこれぞ真の警察の姿だなどと感心させたりせん。そうしないのは、そうできないからさ」 (三角和代訳)

 「乳母車」 や 「ベッド用の靴下」 が謎解きの鍵になる、素敵なミステリは何なのでしょう。気になります。

 ところで、前掲の 『ミステリー・リーグ』 創刊号には、エッセイ 「クイーン好み」 が掲載されていて、そこには例の、有名な本格ミステリの採点表も載っているわけですが、その批評方式を、同号所収の 「バーナビー・ロス氏の新作長編 『レーン最後の事件』」 に当てはめているのは、クイーンの自負のなせる業としても、結果が

    プロット         ……10点
    サスペンス         ……9点
    解決の意外性     ……10点
    解決の分析        ……9点
    文体           ……7.5点
    人物描写        ……7.5点
    舞台設定          ……6点
    殺人方法          ……6点
    手がかり           ……9点
    読者へのフェアプレイ ……10点
              合計 ……84点

というのは、さすがに盛りすぎですね (笑)。

 〈解決の意外性〉 と 〈読者へのフェアプレイ〉 の項目はともかく――なんなら 〈手がかり〉 だって、もう1点オマケしてもいい―― 〈プロット〉 の満点はありえないでしょう。ネヴィンズ・ジュニアの指摘を待つまでもなく 「驚くべき数の」 穴があるわけで (直接、殺人に関係した部分だけ見ても、たとえばレーンが当夜、ことを成すにあたり、ハムレット荘とエールズ博士の家を往復した、具体的な手段は?)、どう好意的に考えても、説明不足であるのは否めません。真田さんが問題にされているように、肝心の 「シェイクスピアの手紙」 にまつわる、事件の背景も、薄っぺらい説明で流されてディテールが詰められていないため、およそ説得力に欠けます。

 作品愛に満ちた 「訳者あとがき」 のなかで、越前氏は 「この 『レーン最後の事件』 を訳しているさなか、終盤の十ページぐらいでは涙が止まらなかった。レーンからの手紙は歯を食いしばって訳した。このシリーズと別れなくてはならないのがつらくてたまらなかった」 と書かれています。実際、幕切れは、その気持ちが伝わってくるような、気迫のこもった訳文になっていると思います。思わずこちらまで、感動しそうになるほどに。

 でも……そこで冷静になってしまう自分が悲しいのですが、小生は、優れた悲劇がもたらすカタルシス――あの 『Y』 には、確かにあったもの――を、『最後の事件』 に感じることは出来ませんでした。ここにあるのは、結局、レーンという馴染みのキャラクターがいなくなって寂しい、という感傷だけです。

 彼は確かに、殺人者となってまで、文化遺産ともいうべき 「シェイクスピアの手紙」 が、この世から失われるのを防ぎました。

 しかし。

 あの、エールズの使用人・マクスウェルへの脅迫および監禁、住居不法侵入、器物損傷といった一連の違法行為は、本当に必要だったのでしょうか。もしレーンが、エールズの家に時限爆弾が仕掛けられていることを知っていたのなら、切羽詰まった行為として、その選択もギリギリ分からなくもありません。でも、ハムネット・セドラーが、じつは問題の文書を消し去ろうとしているなんて、誰が予測できたでしょう。

 単に、エールズの家に隠されているらしい文書を探し出す、というだけなら、もっといくらでも妥当な手段があったはずです。そのためにサム父娘だって、動かせたはず。

 いや……しかしレーンは、そういう人ではありませんね。『X』 の頃から、独断専行、問題を自分ひとりの手で解決せずには済まない、困ったちゃんでした。まして、モノがシェイクスピア絡みとなれば、なおさら、まず自分が手に入れたいという欲望 (妄執) に突き動かされても、おかしくありません。そのあげく、殺人・死体遺棄をやらかしたわけです。

 サム警視に宛てた手紙で、レーンは 『マクベス』 第五幕第八場からの引用を、自身に向けた、告別の辞としています。

  “潔く去り、負い目もすべて償えりと聞く
   されば神よ、その者とともにあらんことを!”

ですが、最後の自決が、本当に潔いものか、負い目を償ったものといえるかどうか、はなはだ疑問です。むしろ罪を償うことから逃げ、真相を知ったペイシェンスの前から、悲劇の主人公として劇的に退場したかっただけではないのか?

腐った果実が、ついにポトリと枝から落ちたかのようなエンディングは、その意味では、「レーンの人物像を完成させ」 たものであり、作品の出来に関していろいろ残念なところはあるにせよ、連作の終着点としてここに至るのは、必然だった――いや、そもそもすべては、ここから逆算され、布石が打たれたシリーズだったのだ、と、当然のように思いこんできました。つまり、探偵即犯人というゴールを目指して書きすすめられた、バロネス・オルツィの (第一期) 隅の老人シリーズの、長編化のようなものだと。

なので、真田さんが第四信で提示された、ヴァン・ダインの執筆状況との関係で、シリーズ開始当初はその趣向が予定されていなかっただろうというご意見には、虚を突かれました。

う~ん、これは面白い。

しかし、1932年に、シリーズ2作目のタイトルを、連続性を持たせた 『Yの悲劇』 とした時点で、いきおい次作は 『Zの悲劇』 とならざるを得ないわけで、もし探偵即犯人という趣向に収斂させていかない方針だったとすれば、クイーンはそのあと、どういう展開を意図していたのかな? と思います。バーナビー・ロスという、まったくの覆面 (新人) 作家であれば、ヴァン・ダインに喧嘩を売るような趣向も、ゲリラ的に断行可能と判断したのではないか――と、いまのところ、小生はそう考えておくことにします。

ちなみに、クイーン研究家でもある作家のネヴィンズ・ジュニアが、ミステリー・ライブラリー版の 『Xの悲劇』 (1977年刊) に寄せた序文によれば、クイーンは 『レーン最後の事件』 のあともシリーズを継続する考えがあったが (この点に関し、日本の熱心なEQファンの福山秀樹さんは、『Y』 ~ 『Z』 間の、作中の空白の10年を埋める事件記録が予定されていたのだろうという考察を、QUEENDOM に発表されています)、単行本が刊行されるまえに、『ミステリー・リーグ』 誌に 『最後の事件』 を一挙掲載したことが、レーン・シリーズの版元ヴァイキング社との紛争を引き起こし、結果としてシリーズは四作目で終了することになった、ということです。なお、同じミステリー・ライブラリー版 『Xの悲劇』 に、「もう一つの読者への公開状」 を執筆したクイーンは、上述のネヴィンズのコメントを踏まえたうえで、『Z』 のあと 『A』 に戻ったりせず四つでやめた理由を、労力がかかるわりにロス名義の作はクイーン名義の小説ほど売れないので、不況下の収入増のため、クイーン名義に専念したのだと、きわめてビジネス・ライクに記しています。

と、こんなところで我々の吟味も、そろそろ幕の頃合いでしょう。ドルリー・レーン四部作を大河小説的に読み返す、貴重な経験のなかで、こちらも真田さんの読みに触発されて、自身のミステリ観を見なおすことができ、感謝しております。また次の機会が、是非あらんことを。  
                                      (2015 .5. 19)


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                                    ※初出 《ROM》 144号 (2015年10月)
                                              (2017. 2. 12掲載)

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