往復書簡 ドルリー・レーン四部作を読む
【第3回】

塚田よしと 真田啓介


※エラリー・クイーン 『Xの悲劇』 『Yの悲劇』 『Zの悲劇』 の内容に触れています。未読の方はご注意下さい。
 引用・参照頁数は特に注記のない限り、角川文庫版 (越前敏弥訳) のものです。


(真田啓介からの第三信)

 またまたタップリとした返信をいただきありがとうございます。この内容充実ぶりからはお疲れの気配など感じられませんが? 今回もクイーン作品に寄せる愛の深さがヒシヒシと感じられる良いお手紙でした。何だか私がつまらぬ難癖をつけているクレイマーのようで、居心地悪くなったりもするのですが……。

 塚田さんが言及されたチャンドラーの評論を読み返してみて、私の大好きなミルンの 『赤い館の秘密』 が攻撃されているのを見たりすると、私自身、何をトンチンカンなことを言ってるんだ、そんなことは 『赤い館』 の評価には何の関係もない、アナタ (チャンドラー) の批判をすべて受け入れたとしても、『赤い館』 を愛する私の気持にはいささかの揺るぎもない、なんて思ってしまいますから、おそらく塚田さんも同じような気持でおられるのではないでしょうか。

 “あの凶器” について言われた、「これは、無理が無いとか、良く出来ているといった次元を超越しています。作品をシンボライズするガジェットの、そのイメージ喚起力の強さ、それもまた傑作の証のひとつ、とあえて強弁してみたくもなります」 という言葉からは、安易な批判者をたじろがせる強い気持が伝わってきます。

 実際、この言葉は私のミステリ評価の方法論の弱点を鋭く突いています。構成の論理の観点からの吟味というのは、一つの手続として欠かせないものだと思うのですが、それに終始してしまうと、アラさがしをするだけの結果となり、作品の読みどころや他の美点を逸してしまうことになりかねない。目立ったアラはなくとも読んで面白くないという作品はあるし、アラは多くあっても、それを帳消しにしてしまうほどの魅力をもった作品というのもあるでしょう。そのことは私自身十分承知していますし、視野狭窄の弊に陥らぬよう気をつけているつもりなのですが、「こんなことはありそうにない」 とか 「不自然だ」 という類の問題には過敏に反応してしまうきらいがあるようです。

 ディクスン・カーは、『三つの棺』 の密室講義の中で、フェル博士に次のように語らせていました。

 「さて、いかなる場合においても、推理小説の悪口を言うのに、“ありそうにない” という言葉は最もふさわしくない言葉だということを指摘するのは、正当なものと思われる。われわれが推理小説を好む大きな要素は、ありそうにないことに対する好みにもとづくものだ。(中略)
 「“こういったことは起り得ない!” という叫びが起るとき、(中略) それは単に、“わたしはこういった種類の話を好まない” と言っているにすぎないのだ。」             (三田村裕訳)

その言わんとするところは非常によく分かるのですが、それが作者のプロット構築力や筆力の不足の言い訳であってはならないと思うのです。読者に 「ありそうにない」 などと思わせないだけの、紙上に架空のリアルを現出させるだけの技術と力を作者に求めたいのです。要求水準が高過ぎるのかもしれませんが……。

 さて、本信では話を 『Zの悲劇』 に進めたいと思いますが、その前にこれまでの補足をしておきます。

〇「リアリズム」 について

 誤解のないよう願いたいのは、私は 「リアリズム」 をよしとし、そうあるべきだと主張しているのではありません。チャンドラーの言う 「リアリスティックなもの」 には目標としての価値が与えられているのでしょうが、私が言った 「リアル」 は単に 「日常性」 と置き換えられる程度の没価値的な認識にすぎません。むしろ私が好きなのはアンリアルな作風で、チェスタトンの寓話的世界のようなものをこそ愛します。若い頃ディクスン・カーに入れあげていたのも、その非現実的なプレゼンテーションに魅せられていたためです (年とともにその嘘っぽさが鼻についてきてしまったのですが)。その頃使っていた 「那柴研夫」 (ナシバトギオ) というペンネームは、「お伽噺」 のアナグラムでした。

 しかし、言葉によってアンリアルな世界を立ち上げるというのは非常な難事で、凡百の作家のよくなしうるところではない。それが可能なのは、独自の文体を持ち得た作家だけなのではないか (残念ながらクイーンは……) というのが、私が前信に記した意見でした。

 塚田さんは 「約束事の世界」 と書かれていましたが、この言い方が私は好きではありません。「約束事」 「お約束」 という言葉が、物語の必然性のなさや不自然さを不問にする安易な免罪符として使われることが往々にしてあるからです。そういう約束の世界なら、それと了解できるように世界を描いてほしい。そうでないと、誰も約束なんかしてないよ、と言いたくなってしまいます。

 名探偵は作り物でいいが事件の展開や結末は合理的でないと困る、というご意見にも疑問を感じました。キャラクターとプロットを分離してダブル・スタンダードを適用するというのでしょうか。両者が混然一体となってこそ統一感ある「世界」が産み出されると思うのですが。

〇「じつはレーンは耳が聞こえているんじゃないか」 疑惑

 実際、そんな風に思わされる記述が散見するんですね。

「背後の廊下から足音が響き、ふたり (レーンとサム) はすばやく振り返った。」(『Yの悲劇』 p.72)

「レーンはルイーザのベッドへ歩み寄り、片手で押してみた。スプリングがきしむのを聞いて、レーンはうなずいた。/「音がしますね」 レーンは言った。」(同 p.153)

「突然ドアが開き、ドロミオが燃えるような赤毛の頭を突き出した。「騒がしいからみんなどこか行くようにと、先生
(レーン) がおっしゃっています!」 (同 p.360)

 マアこれらは作者のうっかりミスで、深読みする必要はないと思いますが。仮に耳が聞こえていたとしても、レーンが 「聞く耳もたぬ」 人物であることはたしかなようです。

〇第三の事件 (『Xの悲劇』) についてさらに

 車掌がホームの反対側も確認する慣習になっていたということは、コリンズ以前にもしばしばイレギュラーな行動をとる乗客がいたことが前提になりますが、そうなんでしょうか。私の感覚では 「ありそうにない」。だいたい、ドアの開閉を乗客が自由にできるものなのか? 今なら運転士が制御しているわけですが、当時の電車は違ったのか?

 あと、これまでふれずにきましたが、犯人は犯行の前後にレーンたちのいる車両を通行しているわけですよね。それが、レーンを含め誰にも気づかれず、記憶されずにしまった (p.310、422) というのはあまりにご都合主義ではないか。車掌は 「見えない人」 だったからという説明ですが、少なくともレーンは第一の事件の犯人は車掌であったと目星をつけているわけです。そんな弁解が通用するものでしょうか。

 もし誰か一人でも車掌の出入りを覚えていたら、死体発見後まっ先に疑われるのは車掌のはずで、華麗なるレーンの推理を待つまでもなかったでしょう。回数券をめぐる推理とダイイング・メッセージの解読という見せ場を作るために、ずいぶん無理な設定をしている印象はぬぐえません。

 以下は 『Yの悲劇』 関係ですが、

〇「あらすじ」 の記述の不自然さについて

 私が気づくほどのことは、もちろん既に誰かが気づいていますよね。各務三郎氏に先をこされていましたか。

 《全体的な覚書》 (六) の 「手がかりを得るのは瓶に記された番号から」 という記述は、たしかに薬品の番号の記述を不自然でなくする理由として解釈できそうですが、注射器の場所に関する記述はやはり不自然なままです。

 ちなみに、薬品の番号を手がかりにするというのは、(『バニラ殺人事件』 ではなく) 『Yの悲劇』 の中で実際に行われていますよね。実験室の薬品棚に規則的に並べられた瓶の配置からして、特定の番号は特定の瓶の場所に対応する。このことに基づき、棚板のへりについた指の跡から、レーンは犯人が最上段の瓶をとるために踏み台を用いたことを推理しています(p.400)。これは犯人が子供であることを指し示す手がかりですから、「あらすじ」 においてヨークが犯人であることを示す手がかりとして想定されていたはずはありませんが、作者 (クイーン) の頭の中では両者が奇妙に混同されていたのではないでしょうか(あるいは、『バニラ』 の方ではまったく別の形で手がかりとする考えがあったのかもしれませんが)。

〇ヨーク犯人説に関して

 塚田さんの疑問その一については、「あらすじ」 の基本的な性格はあくまで 「あらすじ」 であって、それが犯行指示書としても利用されたのだと考えれば、実際の犯行にとっては無意味な記述が含まれていてもおかしくはないと思います。ヨークは初めは純粋に 「あらすじ」 としてメモを書いたのであって、練り直し、書き直しをする過程でそれを現実化する考えがわいてきたのではないか (初めから犯行指示書にするつもりであれば、小説の構想を装うといった回りくどいことをする必要はなく、ストレートに指示書を書けばよい)。自分はあくまで小説の構想をメモしただけであって、それを実行に移したのはジャッキーが勝手にやったことだというズルいエクスキューズを用意しておきたかったのかもしれません (自殺を決意した人間にエクスキューズが必要か、という気もしますが)。

 疑問その二については、たしかにマーサを悲しませることは本意でなかったでしょうが、ジャッキーはマーサの子というよりコンラッドの子、いやそれ以上にエミリーの孫という意識が強かったのではないでしょうか。ジャッキーのうちに明らかに見てとれるエミリーの血に対する憎悪が、マーサへの配慮を忘れさせたのだと思います。

 
 さて、補足はこのくらいにして 『Zの悲劇』 に進みます。

 まず目につくのは、やはりペイシェンス・サムという新キャラクターと、彼女の語りによる記述スタイルの導入です。

 このペイシェンス、前二作では影も形も見えなかったわけですが、サムに娘がいることをうかがわせる記述がまったくなかったわけではありません。『Yの悲劇』 の60頁から61頁にかけて、サムはハッター家の不良娘ジルに言及しながら、「ジルには同情のかけらもありません。そういう女です。わたしの娘でなくてよかった」 と語っていますが、この 「わたしの娘でなくてよかった」 という感想は、娘がいる人間ならではのものではないかと思います。それは 「ウチの娘がこんな風でなくてよかった」 という思いに近いものでしょうから。もちろん、これをもってペイシェンス登場の伏線とするに足るほどのものではあり得ませんが。同じく年頃の娘をもつ父親 (私のことです) の過敏な感覚にすぎないかもしれません。

 ただ、この 「娘の父親」 という立場が、『Zの悲劇』 におけるサムの印象を好ましいものにしているのは事実です。実を言えば、『X』 『Y』 に描かれるサムは粗野で横柄で無教養な感じで嫌いだったのですが、『Z』 でペイシェンスの扱いに困惑している様などを見ると、ヨウご同輩と肩をたたきたくなるような親近感を覚えるのですね……閑話休題。

 若き女探偵の一人称による記述スタイルは、行き詰りを見せていた前二作のスタイルを刷新する新たな風といってよく、結果的に四部作における起承転結の 「転」 の役割も果たして、成功だったといえるでしょう。『X』 『Y』 で試みられた 「第〇幕第〇場」 という芝居風のしつらえは、元シェイクスピア俳優のレーンの人物像に合わせようとしたのでしょうが、かなり無理を伴うものでした。たとえば――

 『Xの悲劇』 第一幕第一場でブルーノとサムがハムレット荘にレーンを訪問した場面に続く第一幕第二場は、サム等が語った事件の事実経過を再現する内容ですが、こういう筋の運び方は芝居というより映画的ですね。その流れが三、四、五場と続いた後、第六場はハムレット荘に戻りますが、ここはレーンが電車の窓はすべて完全に閉まっていたことを確認するだけの二頁ばかりの章で、第七場は第五場の続き。本物の芝居で第六場のような一場が設けられることは考えられず、この辺に 「芝居風」 の無理が出ているでしょう。あるいは、第二幕第六場は 「ウィーホーケン」 となっていながら、途中からは 「ニューヨーク」の場面になっている (こうした例は他にもあり)。こんな具合に、「第〇幕第〇場」 という枠が窮屈な拘束衣のように物語を締め付けていたのですね。

 『Z』 における話法の転換は、意味の乏しいスタイルへのこだわりを捨てて叙述の自由さを獲得したものでしょう。しかし、今度は 「一人称」 というのが枷となって無理が生じている部分があります。第13章 「ある男の死」 はレーンによる死刑執行見学記ですが、これがペイシェンス自身の見聞ではなく後日レーンから聞いた内容なので、話の進行を破って不自然な形で挿入されています。物語の流れは12章末から14章へと続くわけですね。この辺のつなぎがうまくいっていないので、ペイシェンスが 「その夜にひとりの男がどんなふうに死んだかを知ったのは、何週間も経ってからだった」 (p.227) はずなのに、その話を聞く前に 「わたしは自分がその不吉な死の部屋にいて、スカルチが革の締め具の束縛を振りほどこうとするさまを目にしている錯覚すら覚えた」 (p.246) という矛盾した書きぶりになってしまっています。

 叙述スタイルという点では、『レーン最後の事件』 のごく普通の三人称記述が一番無理がないと思うのですが、そこに至るまでに試行錯誤があったということなのでしょう。

 『Z』 の構成の論理についてはあまり議論するつもりはないのですが、一応気になった点を記してみると――

〇〈スター・オブ・ヘジャズ〉 号の事件は停泊中の港で起きたのだと思いますが、エアロン・ダウを除く全員が皆殺しにされ、船も沈められたほどの事件なのに、周囲の誰にも気づかれず、海上保険会社が調査しても何もわからず “海上で行方不明” として処理された (p.307)――なんてことがあるでしょうか?

〇事件がそういうことだったとして、それから二十年もたった後で、ダウがフォーセット兄弟らをゆすることができたでしょうか。公的には「行方不明」で処理されている事件について、刑務所を出たばかりの人間が 「実はあれはフォーセットらによる海賊行為だったんだ」 と警察にタレ込んだとして、誰がそれを信じるというのでしょう。ダウにはそれを裏づける何の証拠も提出できないはず。逆に言えば、ダウの脅迫を受けたフォーセットらが恐れおののく理由があったとは思えません。

〇第二の事件の前にダウが脱獄した件について、この脱獄を仕組んだのは状況的に見てアイラ・フォーセットだと思われますが、医師がダウを脱獄させた理由が分かりません。ヘジャズ号の旧悪露見を恐れたということならば、上記の疑問に行き着きます。相手は終身刑で収監されているのだから、そのまま刑務所内で果てるのを待てばよいだけなのでは?

〇刑務所と外部をつなぐ秘密通信システムについて、マグナス所長はそれに気づいていて絶えず通信の行き来を見張っていたということだが、そんなことができるのか? 手紙はミューア神父の祈祷書の背張りに縫い込んであった (p.256) ということなのですが、それを一々取り出し、また縫い戻していたとでもいうのでしょうか。

 このほか、第一の事件の捜査中、「青天の霹靂のごとく」 (p.92) エアロン・ダウの脅迫状が見つかってダウが容疑者として急浮上したり、ダウの死刑執行の当日に 「良心が疼いた」 (p.303) ファニー・カイザーがレーンらの前に現れて過去のいきさつを告白したり、といった安易な物語の進め方や、「Zの悲劇」というタイトルに (「X」 「Y」 と合わせる以外) ほとんど何の意味もないことなどにも不満を覚えますが、今回それらは 「ただ見て過ぎる」 (ダンテ 『神曲』 より) ことにしましょう。本書の読みどころは、解明の論理の華麗さにこそあるはずですから、そこに焦点を合わせることにします。

 『Z』 で展開される推理は、大きく見て二つのパートに分かれますね。第一は、第9章 「論理学の講義」 でペイシェンスが披露し、レーンからお墨付を得たところの、利き手利き足をめぐる推理。第二は、第22章 「最終幕」 でレーンが繰り広げる、消去法により犯人を特定する推理です。

 この第一のパートについては、レーンが言うように 「生理学上の事実につねに論理をあてはめうるとは思えません」 (p.166) という疑問が基本的にあるほか、推理の手がかりとなる被害者の腕の異なる二つの傷――そのナイフがかすめたのでない方の傷について、(腕と腕のぶつかり具合が明確にイメージしにくいのですが) カフスボタンがこすったくらいで傷がついたりするものか、これもまた推理のための手がかりの不自然な設定ではないか、といった不満もあるのですが、前座の位置づけの推理ですし、確証を得るためレーンが監房での実験をするというフォローもされているので、あまりうるさいことは言わないでおきます。

 問題とすべきは第二のパート――この作の眼目というべき消去法推理についてです。初読のときには私も切れ味の鋭さに打たれ、その輝かしさが強く印象づけられたことは先に述べたとおりなのですが、再読の結果、この推理に穴があることに気づいてしまいました。

 「本件の殺害犯が満たさなくてはならない条件」 として332頁でレーンが列挙する四項目のうち、最も重要なのは第四の 「スカルチの電気処刑に立ち会った」 という一項でしょう。これに該当する二十七人が消去の対象となる一団を形成するわけですから。

 して、この条件が導き出される推理が330頁~331頁に語られていますが、それは、犯人がダウの脱走を水曜日から木曜日に変更することを望んだのは、水曜日には自分がフォーセットの殺害を実行できず、木曜日なら可能だったからだ。その理由として 「考えうる唯一の答」 は刑務所内で通常業務以外の何かが持ちあがり、そのために水曜日の夜がふさがってしまった場合だ。あの水曜日の夜にはスカルチの処刑が行われた。犯人はスカルチの死刑執行に立ち会わなくてはならなかった人物だ。――ということなのですが、この推理に問題はないでしょうか。

 なるほど、犯人は水曜日は死刑執行に立ち会わねばならなかったから犯行予定日を水曜から木曜に変更した、というのはありうる話でしょう。状況からして最もありそうな話だとまで言ってもいい。しかし、それが「考えうる唯一の」場合ではないでしょう。水曜日にはデートの約束があったのかもしれない。お腹をこわしていて、一日余裕をみたのかもしれない。おばあさんの遺言で水曜日には人殺しをするなと言われていたのかもしれない。……想像力の貧困な私には冗談ぽい理由しか思いつきませんが、塚田さんなら、あるいはロジャー・シェリンガムなら、もっと説得的な理由をいくつも考え出せるのではないでしょうか。刑務所の仕事だけが犯人の全生活ではないのですから、そこには彼の水曜日の時間を占めるべきさまざまな事情がありうるはずでしょう。そうした数多の可能性に目をふさいで、探偵が考えついたたった一つの可能性だけが正しいものとして推理が進められるのだとしたら、それが真相に合致する保証はどこにもないでしょう。

 『毒入りチョコレート事件』 におけるアンブローズ・チタウィック氏の意見に改めて耳を傾けてみたいと思います。

 「その種の本の中では、与えられたある事実からは単一の推論しか許されないらしく、しかも必ずそれが正しい推論であることになっている場合がしばしばです。作者のひいきの探偵以外は、誰も推論を引き出すことができなくて、しかもその探偵の引き出す推論は (それも残念ながら、探偵が推論を引き出せるようになっているごく少数の作品でのことですが) いつも正解にきまっています。」 (創元推理文庫版 p.272)

 上記のレーンの推理は、まさにこのチタウィック氏の批判に該当する一事例なのではないでしょうか。

 この場合は特に、消去法推理の条件となるべき事柄に関わる推理なのですから、絶対確実な精度が求められるはず。蓋然性が高いという程度のナマクラな刀では、一方を確実に切り捨てる 「消去」 などできないでしょうから。

 消去法推理というのは、ミステリ作家にとっても難度の高いものだと思います。本書に先立ってクイーンがそれを試みた『フランス白粉の謎』 にも問題がありましたから、成功例というのはそれこそこの 『Z』 くらいなのではないかと思っていたのですが、今またそれにも難を見つけてしまいました。この穴をふさぐ妙策などというものはあるでしょうか。 
                                                 (2015. 2 .28)


(塚田よしとからの第三信)

またまた、ご返事が大変遅くなり、申し訳ありません。

パソコンが突然に壊れ、唖然呆然。データの消失が危惧されましたが、なんとか無事に修理から戻ってきて、胸をなでおろしています。とはいえ、古い機種ゆえ、いろいろと不安要素は残り……いずれ確実に訪れるXデイまで、だましだまし使っていく、そんな感じになりそうです。

気を取りなおして、本題に入りましょう。

まずは、捕足的な事柄から (とはいえ、これが長くなりそうな)。

一連の 「リアリズム」 をめぐるやりとりの根底には、大人な真田さんと、いつまでたっても子供気分が抜けない塚田の違いが、あるようです。

自分にとってミステリというのは、年齢にともなう嗜好の変化はあっても、つまるところ心の中に残っている、もう帰ることが出来ない子供時代――あの頃みたいに幼稚なままでは、とても世の中を生きてはいけないけれど、でも、見るもの聞くものが新鮮で、満ち足りていた日々。否定することがどうして出来ようか――の象徴のようなものかもしれないと、あらためて感じました。

天才性・超人性を備えたアマチュアの名探偵が、警察に協力しながら事件を解決していく、というたぐいの虚構を楽しむためには、ある程度は不信を停止して、作者が用意した、そういう主人公がパフォーマンスを披露できる前提を、「約束事」 として受け入れるべきだろうと、小生は思っているのです。

もちろんチェスタトンのように、作者が文章の力で寓話的な世界を立ちあげられれば、そこに探偵役はもちろん、被害者、犯人、証人たちにいたるまで、少々アンリアル な人物が配されても、それはいずれも寓意を体現した存在となるわけで――個々の作品を見ていけば、当然、出来不出来の差はあるでしょうが――作品の統一感という意味から、何の問題もありません。

でも、あの、まったくファンタスティックな世界を警句と逆説で否応なしに普遍化する、芸術上の妙技に憧れを感じつつも、あるいはM・P・シールや小栗虫太郎のように、世界を一色に塗りつぶすかのごとき力技に感嘆しつつも……いっぽうで、あくまで日常的な世界に、イレギュラーのように存在する名探偵という、そのギャップ (日常のなかに放り込まれた非日常) を愛する自分がいます。

シリーズ第一作目だけに、キャラクターを立てるための試行錯誤もあってか、『Xの悲劇』 のドルリー・レーンは、もと俳優という 「前提」 に頼った “変装の名人” ぶりが誇張されすぎている嫌いはあります。それでも小生などは、「第〇幕第〇場」 という芝居風のあつらえが、そうした変装ドラマの虚構性をいくぶんカヴァーする役割を果たしている、と受け止めていました。つまりは、そういう人工的な世界なのだと。そして、その構成に一種の美学を感じてもいました。なので、第三信で真田さんが、全体の芝居仕立てを不自然な 「意味のないスタイルへのこだわり」 と表現されているのには、かなり驚かされたというのが本当です。なるほど、『Zの悲劇』 以降の小説スタイルのほうが、より自然ではあるのでしょう。でも、小生には、このドルリー・レーンという大仰なキャラクターは、「第〇幕第〇場」 という窮屈な枠の中でこそ、実在感を発揮できる存在に思えてなりません。枠が無いとなんだか――マンガみたいになってしまう。

いやいや、枠があろうと無かろうと、あんな変装をするレーンはマンガ的じゃないか、と言われてしまえばそれまでなんですが……。

ともあれ、そんな、肉体上のハンディキャップを補って余りある天才性、超人性を作者に付与されたレーンが、『Xの悲劇』 の第三の事件では唯一ポカをやらかし、ドウィットに同行していた列車 (その「ドアの開閉を乗客が自由にできるものなのか?」 という点に関しては、小生も第一信で 「へえ、そんな事ができるんだ」 と書いたように、いささかビックリさせられたのが本当のところ。繰り返しになりますが、実際にそうした行為が任意の駅で可能なら、キセルに利用される場合もあるでしょうし、もしかしたら酔っぱらいが誤って転落するような事態だって。となるとやはり、車掌が停車時に、念のためホームと反対側を確認する必要もでてくるのではないでしょうか) のなかで 「見えない人」 の犯行を許してしまいます。

のちにレーンは、それを反省し――でもそこに、ドウィットの死を悼む気持ちは微塵も無く――ため息まじりに 「わたしはこの事件において真の勝利を宣言することができません。英知に欠け、犯人の隠し持つ能力に気づくだけの注意力がなかったのですから。いまだ素人探偵の域を脱していないのでしょう」 (p.414) と述べています。「素人探偵の域」 を脱するとか? お前は何になりたいの? 神か? 神のごとき名探偵か? とツッコミを入れるところでしょうか。

ところが、ここに、ドウィット殺しは本当にレーンの犯した失態だったのか? という興味深い指摘があります。

国内・翻訳を問わずオールタイムで好きな本格作品を3作選びコメントする、という本格ミステリ作家クラブのアンケート企画に応え、作家の麻耶雄嵩氏が執筆された文章 (ちなみにそのときの麻耶氏のベスト3は、『Xの悲劇』 と、あと 『ABC殺人事件』 『僧正殺人事件』 でした) から、問題の箇所を引くと――

 実は第三の事件に関しては、凡庸な栗売りならともかく、天下の名探偵 (役) がなぜ気づかなかったのか、あまりにふがいなさ過ぎるだろうと、かつては気になっていた。だがある時、わざと見て見ぬふりをしたのではという可能性に気づき、今は勝手に納得している。巻を追うごとにエスカレートする名探偵のもう一つの貌 (かお) のスタート地点という位置づけではないかと。
                     光文社 『本格ミステリ大賞全選評2001―2010』 所収

何の説明もなしに 「凡庸な栗売り」 を持ちだすあたり、麻耶氏も性格が悪いですが (笑)、これがチェスタトンの 「見えない男」 で、現場のアパートを見張っていた証人のひとりを指しているのは、真田さんには言わずもがなでしょう。郵便配達夫を “訪問者” として認識できず、無意識のうちに偽証してしまった、くだんの栗売りと違って、レーンはちゃんと、犯人たりうる車掌の動きを捉えていたにもかかわらず、幇助者の役割を果たし偽証したのだという解釈ですね。犯人には殺人を完遂させ、被害者には手掛りを残させるという、まさに 「人形遣い」 ぶりを見せたレーン――それが正解であるという保証はありませんが、のちのシリーズ展開を知ったうえで 『X』 を読み返すと、そうした補完もアリではないかと、思えてきます。

そして、これはまったく小生の、漠然とした印象にすぎないのですが……探偵役が、事件を解明するだけにとどまらず、介入してその趨勢をコントロールする存在に変化し、やがて一線を越え、壊れてしまうという点で、このドルリー・レーンというキャラクターは、同時代の、他の本格ミステリの名探偵たち、たとえばヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスなどより、むしろあの、ダシール・ハメットが創造した、コンチネンタル探偵社の名無しのオプに通底するものがあるような気がします。

会社員探偵のオプは、仕事として調査活動をおこないながら、いくつかの短編で “裁くのは俺だ” を実践したあと、集大成的な長編 『赤い収穫』 で怪物領域に入ってしまいましたが (でも、ハメットはその先を描けず――キャラクターを使い切って――シリーズは停滞したまま終了したと小生は見ています) レーンも 『Yの悲劇』 から 『最後の事件』 へとエスカレートし……堕ちていきました。

閑話休題。

ごたごたしてしまって、さだめしご閉口のことと思いますが、毒を食らわば皿までで、『Y』 の話もしてしまいます。もう少しご辛抱ください。

作中に、腐敗した梨が出てくるから、というわけでもないのですが、シリーズ2作目の 『Yの悲劇』 は、どこか小生に、腐りかけの果物を思わせます。これはでも、非難ではありません。腐りかけは――おいしいのです。

では、何が腐りかけているかというと、それはもちろん、あの変人ぞろいのハッター家の面々……ではなく (あちらははもう、完全に腐っていますからね)、自身の考える正義のために、法を逸脱する羽目になる、主人公ドルリー・レーンのほうです。

前作 『X』 では、レーンは表面上は、マンガ的な無敵超人――その本質は、おのれの欲望のおもむくまま、勝手気ままに犯人狩りに奔走する困ったちゃん――でした。でも、同族の 「怪人」 を向こうに回した 「華麗なる通俗」 ものの主人公としては、まことにふさわしいわけで、その手のお話に、なまじレーンの人間くさい内面など持ちこめば、かえってバランスが崩れてしまいます。

ところが 『Y』 になると、実行犯が十三歳の少年だったばかりに、真相へたどり着いたレーンは、事件にどのような幕引きをすべきか悩み、終盤、それまでの平面的な属性の集合体から、多面性を持つ人間的なキャラクターへと立体化されていきます。そして、そんな彼が選択した“解決”は、私的な処刑でした。

小生は、ジャッキーを矯正不能な存在と判断し、将来の脅威を防ぐためという理由で勝手に判決を下し、己が手で処刑するレーンは、明らかに間違っていると思います。思いますが、にもかかわらず、To kill, or not to kill をめぐってギリギリまで苦悩する――ああ、ハムレットだ――その姿には、ある種の感銘を覚えると言わざるをえません。そして、すべてが終わったあとで、サム警視、ブルーノ地方検事と対峙した 「舞台裏」 での、レーンの最後の沈黙、伝えられることのない万感の思いには、胸打たれるものがあります。

かつて、

 「泣く蝉よりもなかなかに、泣かぬ蛍が身をこがす」

という浄瑠璃の詞章を引いて、言わぬは言うにまさる、ハードボイルド小説の精神を説いたのは都筑道夫氏でしたが、『Y』 の幕切れには、それに通じるものがあると思うのです。これはいささか特殊な見方かとばかり思っていたら、角川文庫の新訳版の 「解説」 で、作家の桜庭一樹氏も似たような感想を書かれていましたね (ただ桜庭氏には、レーンが――腐りかけた――危ない人であるという認識は無いようですが)。

そんなわけで、小生にとって 『Yの悲劇』 の主人公は、あくまでドルリー・レーンなんです。この作品に関しては、「探偵」 レーンは、かのチェスタトンが 「青い十字架」 のなかでパリ警察の主任ヴァランタンに自嘲させたような 「批評家」 にとどまらず、「創造的な芸術家」 の座を、主役たるべき 「犯人」 ジャッキーから奪取してしまった――ずっとそんなふうに受けとめてきました。

作中の 「あらすじ」 の記述の不自然さから、ヨーク犯人説を浮上させた真田さんの論考は、じつは真の 「芸術家」、もうひとりの人形遣いが主人公だったのだ (この作品でも、レーンは絶対の 「神」 にはなれなかった) という意味でも、まことに興味のつきない別解の提示でした。さきに当方のあげた疑問に対するお答えも、了解できるものでした。衝動的に自殺したわけでもないヨーク・ハッターが、あとで誰かに見つかったら、ある意味とても恥ずかしい内容の (自慰的な) 「あらすじ」 を、なぜ処分もせず残して行ったのか? という心理的な側面からも、ジャッキーへの教唆材料としての委託は、説得力をもつと思います。ヨークの失踪 (前年の十二月。死体の発見は、あけて二月) から、最初の 「ルイーザの毒殺未遂」 (四月) まで、時間があきすぎている点は、さすがに踏ん切りがつかないでいたジャッキーを、三週間まえの鞭打ち騒ぎ (p.124) が後押しした、と考えれば納得できそうです。

とまあ、ここまで長々と贅言をつらねてきましたが、それほどに、小生にとって 『X』 と 『Y』 の両作は、欠点を補ってあまりある、語り尽くせぬ魅力に富んだ作品であり、それぞれ違ったタイプの傑作(前者はかりに 「昨日の本格」 と評するにしても、黄金時代を代表するその精華であり、後者はまぎれもなく 「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」 の金字塔) なのです。

そして。

お待たせしました。ようやく 『Zの悲劇』 に話を進める番になったわけですが……最初にぶっちゃけてしまうと、じつは小生は、昔からこの作品があまり好きではありません。最後の謎解きで盛り上がるけど、そこまでがどうにもイマイチな作品、とずっと思ってきて、今回、新訳で読み返してみて、意外にリーダビリティが高くスラスラ読めたことには驚きましたが、それでも、お話自体は、やはり積極的に評価する気になれないというのが本当のところです。

まず基本的なところで、ペイシェンスのキャラクター造形とその一人称のナレーションに抵抗があります。とても成功とは思えない。この点、真田さんとは、真逆ですね。『最後の事件』 のための布石として、こういうスタイルの変化が必要だったとは思うんです。角川新訳版の解説で、法月綸太郎氏が現代の米国ミステリの女性捜査官ものを例に挙げて指摘されているような、「警官の娘」 が 「名探偵の弟子」 になるという意味での、設定の先見性を認めてもいい。でも、このペイシェンスって、嫌な女ですよ (笑)。

第一信で作者の 「紙上探偵クイーンの気障でナマイキなところが鼻もちならないし、どこか気取った文体にも嫌味を感じる」 と書かれた真田さんが、同類の、しかも女性であるばかりに、輪をかけて鼻もちならない (と小生には思える) ペイシェンスのキャラクターを、抵抗なく受け入れられているのは意外でした。「娘の父親」 という立場が、サムの印象を好ましいものにしているというのには同意しますが、逆、にペイシェンスのサムに対する態度は、どんなものかと。こういう、父親や世の男どもを軽く見て、頭の良さを鼻にかけた美人キャラ――いざとなったら女の武器も使います――は、本人に語らせたら、魅力もヘチマもないんですよね。魔法にかかって、その個性の虜になる (いまどきのラノベなら、意外なギャップを発見して萌える、とかする) 他のキャラクターの目を通さないと。

まあこれは、『Z』 のミステリとしての出来に、直接関係ないことではありましょう。ただこの作品、それ以外の登場人物も、なんだか胡散臭いのばっかりで――表層的な、ハードボイルド・ミステリの住人みたい――全体に、読んでいて楽しくないと感じてしまいます。

「第〇幕第〇場」 という堅固な枠を取りはらわれ、かつ十年の歳月経過による老いを強調され、中盤、大失態を見せるドルリー・レーンにも、往年の輝きはありませんし。もっとも、レーンがペイシェンスの披露した、利き手利き足をめぐる推理を実証するため、監房で無責任な実験を敢行したため、かえって容疑者ダウが有罪になってしまう、というその 「失態」 に関しては、クイーン・ファンのあいだで、じつは犯人に次のアクションをおこさせるため、わざとやった (ダウを刑務所に送りこんだ) のじゃないのか、という声があることはあります。前掲の解説のなかで、今回のレーンには 「あまりにもらしくないというか、怪しい行動が多すぎる」 とし、「(……) レーンが意図的に事件を歪めた可能性すらあるのではないか、と邪推したくな」 ると述べられた法月氏も、おそらくそうした意見をお持ちのひとりでしょう。ただ、例の 『Xの悲劇』 の前例 (?) にくらべても、こちらで想定されるレーンのバック・ストーリー (予想される第二の殺人にあたって、刑務所関係者の犯人が再びダウを利用するため動く――そしてなんらかの手掛りを残す――のを、ミュア神父の家に滞在しながら見張る) には、構成の論理のうえから、いささか無理が多すぎるのではないかと思います。

構成の論理といえば。

真田さんがそれに関してお挙げになられた諸点は、基本的に当方も、いささか安直ではないかと、気になっていたものです。とりあえず、フォーセット兄弟がダウの密告を恐れたのは、必ずしも<スター・オブ・ヘジャズ>の犯罪行為が立証されるからではなく、もし関連した調査がおこなわれれば、スキャンダルになり地元での活動に支障が出る可能性があったからだ (特に弟ジョエルは、選挙を控えていたわけで)、くらいに受けとめて、あとは 「ただ見て過ぎる」 ことにしましょう。

やはり 『Z』 の場合、ミステリとして最大の焦点になるのは、その消去法推理ですからね。「最終幕」 の死刑執行の場で展開される、この、レーンの推理の迫力は素晴らしい。反面、勢いで持っていかれるけど――そして消去法だけで押し切る論理構成に無類の美しさは感じるけど――なにぶん裏付けに乏しいからなあという、そこはかない不満を、初読時からもっていました。

たとえば犯人が満たさなくてはならない四つの条件のうち、「一、右利きである」 「二、アルゴンキン刑務所の関係者である」 はいいとしても、「三、夜勤の常習者ではない」 はどうでしょう? フォーセット上院議員が殺されたのは夜である。夜勤者は、刑務所を抜け出して被害者の家で犯行に及ぶのは不可能である。よって、犯人は夜勤者ではない――と言われても、念のため、夜勤者全員の当夜のアリバイを確認してみなければ (もしかしたら、なんらかの理由で欠勤したものだって、いるかもしれない)、それは独断的な断定だろう、と言い返したくなります。

そして、より大きな問題として、真田さんがご指摘になられたように 「四、スカルチの電気処刑に立ち会った」 への疑義があります。この点は、小生も再読し気づきました。確かにレーンは、スカルチの処刑に立ち会わなかった刑務所職員のなかに、なんらかの事情から水曜日の都合がつかなかった者がいた可能性を、まったく無視しており、これでは消去法推理の前提に、大きな穴があることになります (残念ながら、小生の貧弱な頭脳では、この穴をふさぐだけの妙案は出せませんでした)。犯人のマグナス所長は、土壇場で逃げ出そうとしたりせず、ここを突いて反撃すればよかったのですね。

もしかしたら、作者自身、推理のその部分の弱点は分かっていたけれど、妥協してしまったのかもしれません。ペイシェンスの一人称記述のなかに、伝聞というかたちで強引に挿入された、第13章 「ある男の死」 は、なんとか弱点をカヴァーしようと導入された、メタ手掛りだったのかも。つまり、ペイシェンス不在のこの場面を、作者はなぜわざわざここに描いたのか? その意味を考えれれば、“容疑者” が分かりますよ、という。でも、小説の書きかたとしては、それはいかにも下手に見えて、損をしています。

全体を見れば、『Xの悲劇』 などよりは無理のないプロットですが、前述のように、読み物としての魅力に乏しく、最大の長所であるべき論理の正確さにも難があるとなると……小生としては、これを 『X』 より高く評価するわけにはいきません。シリーズの完結をにらんで、ガラリと小説のスタイルを変えてみせた、そのチャレンジは認めつつも、意欲的な佳作にとどまる、というところでしょうか。

あと、本筋とは全然関係ないことですが、『Z』 の最初のほうで、妙に気になった記述があります。

 ところで、『Xの悲劇』 と 『Yの悲劇』 を読むと、それらの胸躍る物語のなかで、威厳と巨驅と醜貌を具えたわが父サム警視が、諸国遍歴中の娘について一度たりとも発言していないのがわかる。(p.11)

この作中世界では、ドルリー・レーンの事件簿が公刊されているのですね。
しかし、『Xの悲劇』 はいいとしても、『Yの悲劇』 まで小説化されているというのは、変ではないでしょうか。公的には、ハッター家の事件は未解決のはず。いや、その伏せられた真実に光を当て、レーンの功績を称えるという内容なら、ではジャッキーの死には、どんな説明がつけられているのでしょう。もしかりに、こちらの現実世界で、われわれ読者が目にしている 『Yの悲劇』 と同じ内容なら、レーンが殺人者であることはモロわかりではありませんか。気がつかずにレーンを賛美しているペイシェンスが、莫迦に思えてきます。                        
                                             (2015.4.24)

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                                    ※初出 《ROM》 144号 (2015年10月)
                                              (2017. 2. 10掲載)

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