往復書簡 ドルリー・レーン四部作を読む
【第1回】

塚田よしと 真田啓介


      ※エラリー・クイーン 『Xの悲劇』 の内容に触れています。未読の方はご注意ください。
       引用・参照頁数は特に注記のない限り、角川文庫版 (越前敏弥訳) のものです。


(真田啓介より塚田よしとへの第一信)

前略、ご無沙汰していますが、レオ・ブルース 『ミンコット荘に死す』 解説、コニントン 『レイナムパーヴァの災厄』 解説と健筆をふるわれているご様子、たのもしく拝見しておりました。

 さて、先日当地の読書会 (せんだい探偵小説お茶会) でエラリー・クイーンのドルリー・レーン四部作が (四冊まとめて) 課題書となったので、実に数十年ぶりに再読してみて、いろいろ思うところがありました。時間の限られた読書会の場では語り尽せぬことも多く、このままだとお腹がふくれてきそうなので、塚田さんに話を聞いていただき、できればご意見もうかがいたいと思ってお便りしたしだいです。

 まず申し上げておかねばなりませんが、小生、クイーンの良い読者ではありません。未読の作品もかなりあります。どうも作風が肌に合わないのですね。紙上探偵のクイーンの気障でナマイキなところが鼻持ちならないし、どこか気取った文体にも嫌味を感じる。ユーモアに乏しく、キャラクターは類型的。肝心の推理も一般に言われるほど論理的でない。……などと悪口を並べていると、わが国に広く分布している熱心なクイーン・ファンから石をぶつけられそうですが (塚田さんからも? そういえば 『靴に棲む老婆』 の解説も書かれてましたね)、正直に言えばそういうことになります。

 それでも、レーン四部作にはかなり良い印象を持っていました。中学生の時に読んで圧倒された記憶がそのまま保存されていたためです。『Xの悲劇』 のダイイング・メッセージは今一つピンときませんでしたが、『Yの悲劇』 の犯人の意外性、『Zの悲劇』 の消去法推理の鮮やかさなどに驚嘆し、この作者は何て頭が良いんだろうと思ったものです。

 それが今回の再読で、各作品について色々とアラが見えてしまい (決してアラ探しをしようと思って読んだわけではないんですが)、私の中でかなり評価を下げることになってしまったのでした。どこがどう気に食わなかったのかということを、以下具体的に記していこうと思います (テキストは越前敏弥訳・角川文庫版を使用)

 まずは 『Xの悲劇』 ですが、この作品、一般的な評価は非常に高いですね。本書の解説を書かれている有栖川有栖氏をはじめ名だたるミステリ通の方々がこぞって賞賛しておられますし、ネット上の評判をうかがっても絶賛の嵐という感じです。上記塚田解説で紹介されているエラリー・クイーン・ファンクラブの人気投票 (1997年) の結果を見ても、『Yの悲劇』 (五位) をおさえて二位という高評価。まず大勢として 「不朽の名作」 という評価の定まっている本作に物言いをつけようとするのは天を恐れぬ大それた所業というべきですが、それほどの作品であればこそ批判のしがいもあるというもの。

 細かいことを言い出すときりがないので、ざっくりと、論点を五つにしぼってみました。

(1)モダン・パズラーにそぐわぬ要素

 この作品には、新しさと古さが奇妙に同居している印象があります。ハムレット荘の中世風の外観と近代的なエレベーター設備くらいなら調和が保たれていたでしょうが、都市交通を舞台にしたモダンな犯罪の底から顔を出すのが古めかしい復讐劇 (といっても、ドイルの 『恐怖の谷』 から二十年もたっていないのですがね) ということになると、いささかチグハグな感じもします。

 それはまあいいのですが、私が気になるのは、モダン・パズラーたる作風にそぐわない要素が散見されることです。たとえば、変装。犯人も探偵も自由自在に変装しまくっていますが、アルセーヌ・ルパンじゃあるまいし、リアリズムの本格ミステリの登場人物として浮いていないでしょうか。特にひどいのは、レーンがサム警視に化けて調べまわる場面。変装名人のフランボウですら身長は変えようがなかったのですから、背格好はたまたま同じくらいだったのでしょうが、クエイシーがいかに扮装術の天才であろうとも、サムの 「ひしゃげた鼻」 (p.104) をレーンの端正な顔に再現できるとは思えません。それに、いやしくもニューヨーク市警の刑事たるものが、上司を騙る者を見破れないなんてことがあるでしょうか。被害者 (ロングストリート) に化けて犯人をおどしたりもしていますが、その馬鹿馬鹿しさたるや明智小五郎の通俗物とどっこいどっこい。

 本格ミステリの登場人物が変装してはいけないとは言いません。現に多くの名作に有効に使われています。しかし、その使い方には節度があってしかるべきでしょう。レーンの変装は許容限度を超えていると思います。

 作者の変装に対する安易な考えが、叙述のアンフェアを生んでいるのも問題。サムに変装したレーンのことを地の文で 「サムは」 と記してはいけないでしょう (第二幕第六場)。ここは本筋とは関係ないお遊びということですまされるとしても、次の箇所は本格ミステリとして致命的なアンフェアです。

・「帆布の担架に載せられたチャールズ・ウッド車掌の変わり果てた死体は、……」(p.124)

・「そう言うと、ウッドの死体のかたわらに膝を突き、……」(p.125)

・「……かつてチャールズ・ウッドであったずたずたの肉塊……」(p.136)

 地の文でウソを書いてはいけないというのは、パズラーの鉄則でしょう。例外的に、特定の人物の視点に立った描写であることが明らかな場合には、事実と違うことを書いても許されると思いますが、上記三つともそれにはあてはまりません。

 これらの記述に行き当たって私は目を疑い、ひょっとして犯人を間違えて覚えていたのかと不安になって結末をのぞいてみたのでしたが……。この時点で私の 『Xの悲劇』 評価はかなり下落しました。

(2)構成の論理の諸問題

 ナントカの一つ覚えみたいにまた 「構成の論理」 を言い出しますが、犯行の動機と計画を中核とする犯人側の論理が物理的・心理的に可能であり、不自然なものでないというのは、良き探偵小説の必須の条件と認識していますから、この観点からのチェックは常に欠かせません。今回はきちんとノートをとったわけではないので、一読して目についた問題点を拾うだけになりますが。

(a) あの奇妙な凶器、毒針を刺したコルク球を、犯人がどうやって被害者のポケットに入れることができたのか分かりません。この球は一インチ半というから四センチメートル弱、けっこうな大きさです。そんな物をポケットに入れようとしたら、本人を含め誰に見咎められるか分かりません。針の球なのだから、ポケットを十分広げて落とし込まないと、入口で引っかかってしまうはず。だいたい、「ロングストリートが車掌台で仲間の乗車賃を払い、釣り銭を受けとろうと待っているあいだに、それをポケットへ滑りこませた」(p.401) ということですが、相手が釣り銭を待っているなら自分はお金を数えて手渡さなければならないわけで、そんなことをしている余裕はないでしょうし、妙な動きをしたらすぐに相手に気づかれてしまう。瑣末なことのようですが、これが確実に実行可能でなければそもそも事件は起こらなかったわけだし、誰かに見られたらたちまち万事休すというリスクの大きな行動なので、そこは十分に納得させてもらう必要があります。

(b) フェリー発着場での第二の事件では、被害者が身元確認できなくなる保証がないという問題があります。結果的に死体が損傷して見分けがつかない状態になったからいいようなものの、死体を甲板から落とす角度やタイミングが少しでもズレたら望む結果は得られないでしょう。身体はつぶれても顔は無傷のままということもありうる。そんなことになれば、ウッドの外観が偽装されている以上 (ところで彼は制服で通勤してたんでしょうかね?) たちまちウッド自身が疑われることになるのだから、これもリスクが大きすぎる。また、顔が損傷された場合、指紋による確認は考えられなかったのでしょうか。

(c) 第二の事件には他にもいろいろ疑問あり。犯行現場の上甲板にはふだん人が来ないという設定だが、何かの事情でいつ誰が来ないとも限らず、時間のかかる犯行を目撃されるおそれがある。ニクソンに変装した犯人はフェリー着岸後なぜすぐに下船しなかったのか (他に何人も下船しているのだから十分可能だったはず)。あまつさえ人が落ちるのを目撃したなどと名乗り出たのはなぜか (目立たぬよう静かにしているべき)。そもそも、ここでウッドを退場させる必要はあったのか。べつに第一の事件で警察から目をつけられていたわけでもないのに、わざわざ投書で警察を呼び寄せて自分に注目を集める理由が分からない。

(d) 列車内でのドウィット殺しに関しては、コリンズが下車してドウィットが一人になったことを犯人はどうやって知ったのか。「コリンズがドウィットとともに後方へ行き、コリンズだけが列車から抜け出すのを前方の昇降口から目にしたとき、ストープスはその機会が訪れたのを知った」(p.434) とあるが、コリンズはリッジフィールド・パーク駅で 「停車するとすぐ、おれは線路側の扉をあけて跳びおりた」(p.348) のだから、ホーム側の乗降口を開けていたはずの車掌の目に入ったはずはない。

(e) そもそも犯行全体が、三人の裏切者に復讐するという犯人の本来の目的にうまくマッチしない気がする。犯人はなぜ犯行現場にわざわざリスクの大きい公衆の面前を選んだのか (そこにチェスタトン風の逆説があるわけでもない)。人知れず三人を殺害するだけでは足りなかったのか。五年も前から二重(三重)生活を送り、足の傷を偽装して同僚に見せたり、というのは何とも迂遠で回りくどいやり方ではないか。その五年の間に、もっと簡単に、確実に三人を殺せる機会などいくらでもあったのではないか。車掌としてロングストリートやドウィットの前に顔をさらしても平気だったのはなぜかと思いきや、「体は以前に劣らず強健だったが、すさんだ監禁生活のせいで容貌が無残なほど変わっていた」(p.394) というのはずいぶんご都合主義ではないか。刑務所の規則的な生活の中で無残なほど容貌が変わるどんな理由があったというのか。……とあれこれ考えていくと、こういう事件が起こったということ自体が納得できない。結局、パズルのために、名探偵の見せ場を作るために、無理矢理こしらえあげたお話ではないかと思えてきてしまう。

(3) 推理のくもり

 本書を高く評価する人は、レーンの推理の見事さを理由の第一に上げることが多いようです。たしかに、作者は謎解きの論理を重視し、それに最も力を注いでいる。作中に占める推理のウェイトを著しく高めた点において、クイーン作品はパズラーの新風を樹立したといってよいでしょう。しかし、そこに展開される推理が完璧なものかというと、そうとばかりはいえないように思います。

(a) 第一の事件では、凶器が被害者のポケットに入れられたのは市電に乗った後だと断ずる理由として、乗る前に何度かポケットに手を出し入れしたが何ともなかったことをあげていますが、これは確実な論拠たりうるのでしょうか。コルク球は既に入っていたがたまたま手がふれなかったという可能性もなきにあらずでしょう。乗車後にコルク球を入れることの困難さを考えれば、そちらの可能性の方が高いようにも思います。

(b) 乗車後の犯行とすれば車内に手袋が発見されねばならないが見つからない、すると唯一人外に出た車掌が処分したに違いない、という推理はロジックとしては理解できるものの、具体的な場面を想像してみると、すんなり飲み込みがたい。車掌の手袋といえば普通には薄い木綿の白手袋が思い浮かびますが、それでは毒針が布を通ってしまう危険がある。厚手の革手袋なら大丈夫でしょうが、そんなものをはめていたら切符やお金の取扱いがうまくできないし、乗客に不審をもたれるでしょう。つまり、どんな手袋かイメージできない (車掌が手袋をしていたかどうか、なぜ目撃証言を取らなかったのか)。また、警官への連絡を命じられて下車した車掌が、時間も動ける範囲も限られた状況において、街の真ん中のどこで手袋を処分できたのかも理解しがたいところです。

(c) 裁判で有罪の瀬戸際に追い込まれたドウィットを救った、指の傷にまつわる推理はなかなか鮮やかですが、推理を成り立たせるお膳立てが不自然な点が気になります。傷口が薄いかさぶたで覆われていたのをサムとレーンが目撃していたからこそ成り立つ推理ですが、一インチ半もの傷が、医者の手当ても受けたというのに、絆創膏も貼らずにむき出しにされていたというのは、どうもありそうにない。ドウィットがあれこれ訊かれて煩わしい思いをしたくなかったから包帯を拒んだということなのですが、そんな大きな傷をむき出しにしていたら余計人目につくでしょう。無理にこしらえた手がかりというゲタをはかせられた推理、という感じは否めません。

(4) ダイイング・メッセージの不可解

 「X」 が車掌の鋏のパンチ跡を示しているという解釈は、私には妙なこじつけとしか思えないのですが、それはまあよしとします。しかし、ドウィットが殺害された状況においてそのようなメッセージが作られたということに疑問を感じます。

 ドウィットが一人でいた最後尾車両は暗かった。「照明のほとんどない闇に目を慣らすべく、三人は目を細めてしばし立っていたが、何も見えなかった」(p.285) という状態だったのです。犯人はその車両に、まさか 「検札にまいりました」 なんて言いながら入っていったわけではないでしょう。ドウィットは誰か来たことには気づいても、それが車掌だとは分からなかったはずです。犯人はすぐに正体を明かし、復讐を告げたでしょう。こうした場面展開を思い描いてみるとき、ドウィットが相手を車掌と認め、さらに彼の鋏のパンチの形状を思い出して (それを覚えていたということ自体ありそうもないことですが)、それを指のメッセージに変換するなどということができたとは思えないのです。

 ドウィットがメッセージを残したのは、その少し前にレーンから聞いた話が頭に残っていたからということですが、その話というのもちょっと信じがたいものでした。「砂糖は犯人が糖尿病患者であることを示すと思えなくもないが、より脈のある解釈は、コカイン常用者を指す場合である」(p.279) ですって? 私はてっきりレーンが冗談を言っているのかと思いました。シュロック・ホームズあたりの言いそうなセリフじゃないですか。これこそ 「巧まざるユーモア」 などと評したら、作者に嫌な顔をされるでしょうか。

(5) ドルリー・レーンの身勝手

 この事件でレーンは、当初から犯人が分かっていたと言いながら最後までそれを明かすことを拒んでいますが、この態度は許されるものでしょうか。レーンの沈黙は、自分が事件を支配して劇的な結末を演出したいという彼の欲望を除けば、正当化されるべき理由が見当たりません。ドウィットが殺された後には 「もう殺人は起こりません。Xは目的を果たしました」(p.315) と述べていますが、この時点ではまだウルグアイ領事の話を聴いておらず、事件の背景も把握していないのに、なぜそんなことが言えたのでしょう。「サム警視とブルーノ地方検事が、ジョン・ドウィットの執事を尋問するという知恵を持ち合わせていないのなら、知らせてやるには及ばない」(p.195) などと意地の悪いことを言わず、早い段階で彼らに自分の推理や調査の結果を知らせていたら、事件の展開の仕方は違ったものになったはずで、ドウィットの殺害も防げたのではないかと思います。

 自分の個人的興味のために事件に介入し、公的捜査の便宜は最大限利用しながら、発見したことは自分だけのものにしておく身勝手さ。ミステリとしての評価とは関係のない事柄ではありましょうが、そのような人物がヒーローとして描かれることにいささかの不快を覚えるのは事実です。

 これを要するに、『Xの悲劇』 はモダンで精緻なパズラーの外観を呈しながら、興味の中心をなすべきパズルの構成と解明に納得のいかない点が多々ある。都筑道夫いうところの 「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」 たりえず、「昨日の本格」 にとどまっているということが、私が不満を感じたゆえんであります。

 さて、塚田さんはこの作品をどう読んでおられるのでしょうか。
                                              (2014.12.10)


(塚田よしとより真田啓介への第一信)

前略

『Xの悲劇』 についての率直なご感想に接し、「黄金時代英国探偵小説吟味」 をやりとりしていた頃のことを、懐かしく思い出しました。あれから随分と時間が流れ――またこうして真田さんと、忌憚のない意見を交換できる機会が得られたことを、嬉しく思います。

ひさしぶりに風邪をひいて、しかもこじらせてしまい、このところ、もっぱら寝床で角川文庫の新訳版を読んでいました。

 エラリー・クイーンは、アガサ・クリスティ、ジョン・ディクスン・カーと共に、小生の青春時代の海外ミステリ読書の中心に位置していた作家ですから思い入れもひとしおですが、そうした想い出補正を抜きにしても (再読三読して評価の変動はあっても)、幾つかの作品はいまでもやはり、本格ミステリの醍醐味を味あわせてくれる、傑作中の傑作だと考えています。『Xの悲劇』 も、当然、そのなかに含まれます。

しかし。

「リアリズムの本格ミステリ」 ではありません。作中人物が 「われわれは探偵小説のなかにいるからだ」 と発言する、ディクスン・カーの 『三つの棺』 ほどではないにしても、とことん趣向に淫した、華麗な――きわめて人工的な傑作です。

コナン・ドイル (『緋色の研究』) やG・K・チェスタトン (「見えない男」) の伝統につらなり、路面電車、フェリー、夜汽車と、1930年代当時のニューヨークの多彩な交通機関を利用して、ターゲットを捕捉し屠っていく復讐鬼の、その変幻自在の犯行ぶりは、さながら 「怪人」 の仕業と割り切るしかないのですが、作者は捜査側にもう一人の 「怪人」 を対峙させることで、ぎりぎり虚構世界のバランスをとっていると思うのです。

つまり、ドルリー・レーンという浮世離れした主人公に、あえて変装のための変装をさせ、そのパフォーマンスを有効とすることで、クイーンは読者に、これは巧妙な変装がアリの、そんな物語ですよ、というメッセージを送っているのではないかと。

ズルイといえばズルイ、安易といえば安易かもしれませんが、作者の思惑はともかく、結果として、レーンと犯人の変装バトル (?) からは、なにやらモダン都市を異界の住人が跋扈するような幻惑感が生じ、それは小生にとっては、『Xの悲劇』 の不思議な魅力のひとつにもなっています。

しかし、いくらなんでもそれは贔屓の引き倒しだ、と真田さんに怒られそうですから、問題点もあげておきます。

レーンの超人的な変装は、その経歴と、扮装術の天才クエイシーの存在で、一種の 「お約束」 として受け入れるとしても (この場合、どんな技術がその 「変身」 を可能にするか、は小生にはあまり気になりません)、対する真犯人マーティン・ストープスのほうは……ただの、もと探鉱者です。そんな彼が、幾つもの役柄を演じわけ、警察関係者の目を欺くほどの、変装の名人であるのであれば、その特殊な才能のことを、解決まえにデータとして提示しておくべきでした。それが、ファンタジーにおけるリアリティというものだと思います。

「第三幕第八場 ウルグアイ領事館」 で、レーンの要請に応えた領事アホスの話を通して、ストープスのことがクローズ・アップされますね。

 アホスは深く息をついた。「服役後十二年目に、ストープスは大胆な脱獄を成功させて、看守たちの度肝を抜きました。何年もかけて綿密に計画された脱獄だったそうです。くわしくお話しいたしますか」
 「いえ、その必要はないでしょう」
 「ストープスは大地に呑みこまれたかのように姿を消しました。南米大陸じゅうをくまなく探したものの、足どりはつかめずじまいでした。奥地へはいり、苛酷なジャングルへ踏み込んで、そこで朽ち果てたのではないかというのがおおかたの見方だったようです。(……)」(p.355)

ここでレーンは、くわしい話を聞くべきでした。

私見では、ストープスの 「大胆な脱獄」 計画においては――そしてそれに続く逃避行においても――偽死なり、人の入れ替わりなり、変装なりが、確実に試みられていたと思います (そして、無事に南米を脱出できたことで、ストープスは自分の能力に絶大な自信をもったのではないか?)。

もしそうしたエピソードが具体的に描かれていれば、つまり 「前提」 が与えられていれば、本題の事件の、犯人の 「変幻自在の犯行ぶり」 も、もう少し受け入れやすくなっていたはずです。

次に、真田さんの挙げられた難点について愚感を述べます。

(1) モダン・パズラーにそぐわぬ要素

 変装については前述しました。付け加えるなら、すでに 『ローマ帽子の秘密』 『フランス白粉の秘密』 『オランダ靴の秘密』 といった、初期国名シリーズで、論理重視の都市型探偵小説ともいうべきスタイルを打ち出していたクイーンにしてみれば、正体を伏せた別名義では、まったく同じことをやるわけにもいかなかったでしょうから、探偵役の超人性を含めて、あえて前近代的な要素を導入し作風の差別化を図ったのかもしれません。

 叙述のアンフェアの問題。原書は未見ですが、他の訳書を見ても、ご指摘の箇所は同様の表現なので、これは原文自体がやはりそうなっているのでしょうね。地の文 (この場合、作者の視点) で、替え玉死体を車掌のチャールズ・ウッドと表記しているのは、たとえ、のちにその死体がウッドのものでありえないという、決定的な手掛りが読者の前に提示されるとはいえ、やはり看過できないキズです。フェアプレイを標榜する作者だけに、ことさらそれが気になる――クイーンの創作ルールで、これはアリなのか? という素朴な疑問が湧く――ということもありますが。ただ、なんだかんだいって、容易に修正可能な文章表現なので、作品にとって致命的なミスとはいえないでしょう。

(2) 構成の論理の諸問題

(a) 凶器をどうやって被害者のポケットに入れることができたのか?

そのとき、電車は満員、すし詰め状態でした。なので、

ロングストリートは後部の動きにつれて揺られながら、一ドル紙幣をつかんだ右手をほかの乗客たちの頭上にかざしていた。(p.35)

 そこへ犯人が近づきます。

車掌がなおも大声を張りあげて、身をよじるようにして車内を進み、ロングストリートの手から紙幣をつかみとった。乗客が押し合いへし合いするなか、ロングストリートは怒れる熊のようなうなり声をあげたが、やっとのことで釣り銭を受けとると、肩で人を押し分けて仲間のもとへ向かった。 (p.36)

 お金のやりとりは、押し合いへし合いするなか、お互い片手を高くあげた状態でなされたものと考えられます。ロングストリートが、釣り銭を落とさず受けとることに神経を集中しているときに、車掌は、数え終わった釣り銭を渡すのとは別なほうの手で、被害者のポケットを狙えるのではないでしょうか? ポケットに触れるアクションも、自分の体が押された反応、あるいは、押されたロングストリートの体を支える反応を装っておこなったとすれば、必ずしも 「妙な動き」 として目につくとは思いません。満員電車という状況設定を考慮するなら、許容範囲ではないでしょうか。

(b) 第二の事件で、被害者が身元確認できなくなる保証はないのでは?

 これは確かにおっしゃるとおりです。この替え玉死体のくだりは (車掌ウッドが「制服で通勤してたんでしょうかね?」 という真田さんのご指摘には、虚を突かれ……笑ってしまいました。さながら、歩く市電の広告塔でしょうか)、賭けの要素が大きすぎます。事前に凶器で被害者の顔をつぶしておきたいところですが、生活反応のことを考えれば、あくまで被害者は生かしたままで甲板から落とさざるをえず、その匙加減 (殺さぬように、意識不明の被害者の顔だけつぶす) は難しいでしょう。

 じつはこの件に関しては、エラリー・クイーンFCの斉藤匡稔氏が、以前、機関誌の 『Xの悲劇』 特集のなかで、次のような見方を示されています。

 それは、ウッドと名乗って車掌を勤めていたストープスは、赤毛と傷跡ばかりでなく、その外見まで、あらかじめ被害者クロケットに似せていたのではないか、というものです。そのため、かりに死体の顔が識別できる状態で発見されても、ウッドだと誤認されたのではないかと。

 とても面白い発想ですが、ストープスが、かつての仲間クロケットを思わせる外見で、車掌として、ロングストリートやドウィットの前に姿を現すものだろうか? という点で、引っかかります (それでも、もし車掌に対する、ロングストリート、ドウィット両人の反応が、なんらかの伏線――こっそり変なあだ名で呼んでいた、とか――として描かれていれば、納得せざるを得ないでしょうが)。

 何にしても、いざ指紋の確認がおこなわれてしまえば、すべてがオジャンになるわけですが……その場合でも、重要容疑者として車掌のウッドが指名手配されるにとどまり、もうひとつの足場を確保しているストープスは、そのまま残りの復讐を続行できるという、安心感が、大胆な賭けを可能にしたのでしょう。

(c) 第二の事件のその他の問題点

・犯行現場の上甲板は、事前に何度も下見をして、ここならまず大丈夫と判断していたのでしょうが、確かに 「何かの事情でいつ誰が」 来るか分からない。ただ、人気のないおりを見て、まず被害者を殴り倒してさえおけば、いざとなったらストープスは、急遽、用意の凶器でとどめを刺して残りの工作を中止し、現場を離れ、乗客の群れにまぎれるつもりだったのではないでしょうか。現行犯で身柄を拘束されないかぎり、とりあえず切り抜けられるという自信が彼にはあったのだと思います。

・フェリー着岸後、なぜすぐに下船しなかったか? 

これはやはり、できなかったのでしょうね。「かなりの乗客がすでに船から出ていた」(p.152) としても、その乗客たちは、下船に備えて下甲板で準備していたわけで、人目を避けて下甲板に向かわなければならなかった「ニクソン」には、ハンデがありましたから。

・人が落ちるのを目撃したなどと名乗り出たのはなぜか? 

作者の都合ですね (笑)。具体的に犯人と名ざせる乗客を、読者の前に出しておかないと、最後の謎解きに実感がともなわないと考えたのでしょう。犯人は 「群衆の人」 でした、だけでは弱すぎると。確かにそうなので……この無茶は、小生は目をつぶります。ただ 「ニクソン」 にしても、あくまでモブキャラゆえ、おおかたの印象は、誰それ、そんな奴いたっけ? でしょうが。 

・ここでウッドを退場させる必要はあったのか? 

いちおう、作者はレーンの口を借りて、将来的に 「必要に迫られた」 からと強調していますね。「エドワード・トンプソンとして第三の事件の証人席に呼ばれる可能性があり、同時にチャールズ・ウッドとして第一の事件の証人席に呼ばれる可能性もありました。同じ場所で同じ時刻に、どうしてふたりの人間になりえましょう?」(p.408) と。「もうひとつの理由」 としては、自己抹殺と合わせて、復讐のターゲットの一人を (人知れず) 抹殺できる一挙両得さを挙げています。

小生は、それに加えて 「ウッド退場」 を後押しした心理的要因に、第一の事件の、犯人ストープスの勇み足が尾を引いているのではないかと、勝手に考えています。

当初の計画では、ロングストリート殺しは晴れの日に決行する予定でした (p.400~p.401)。もともと彼は、犯人が危険なコルク玉の凶器を扱うのに手袋を使用したという、その単純な事実に警察が気づかないなんて想像もしていなかったわけです (自分の手袋は、職業柄、不自然に思われないだろうとは計算できても)。被害者と一緒に乗り合わせた犯人が、使用後、窓かドアから証拠の手袋を捨てたと思わせるはずが……ロングストリートが 「おおぜいの仲間を引き連れていて、全員が嫌疑をかけられてもおかしくなかった」 という、待望のチャンスに目がくらみ、よりによって雨の日に犯行に及んでしまった。すぐに気がついたでしょう。悪天候ゆえ、窓もドアも閉ざされた市電は、いわば密室状態であることに。誰も手袋を始末できない!

 もしこれで、乗客の誰も手袋を持っていないなんてことになったら、自分の仕業とバレてしまう (手袋を押収されたら、表面にニコチンの反応が検出されてしまう)。車掌ゆえ訪れた、唯一の機会を利用して、外部で手袋を処分することには成功しましたが……。

警察に目をつけられる可能性が、にわかに高まったことを自覚して、疑心暗鬼にかられてもおかしくありません。まだ警察の目がロングストリートの仲間に向けられているうちに、先手を打って危険な存在のウッド (もとより使い捨てのためのキャラではありました) を抹殺し、計画を第二段階に進める必要がある――というのがストープスの判断だったのかな、とか、その場合、ロングストリート殺しの共犯者ウッドが主犯に殺された、というたぐいの筋書きを暗示すれば、ウッドへの疑いが浮上していても、逆に警察を納得させられるだろうと、そこまで考えた (というか考えすぎた) のかな、とか、小生の悪い癖で、つい夢想してしまうわけなのです。

(d) 列車内でのドウィット殺しに関して

車両の構造や人の動きが、もうひとつ分かりにくい気がします。なので、以下の推測はとんだ間違いかもしれませんが……。

ドウィットとの交渉が決裂したコリンズは、リッジフィールド・パーク駅に停車直後に 「線路側の扉をあけて跳びおり」 ています(p.348)。へえ、そんな事ができるんだ、というのが、まず素直な感想でした。お客が、ホームを通らずに出ていけるのか。これって、保安上も、かなり問題があるのでは?

当然、車掌は、線路側も確認する必要があります。問題のウィーホーケン=ニューバーグ間普通列車には、二人の車掌が乗車していました。小柄な年配のポップ・ボトムリーと、背の高いエドワード・トンプスン(以下エド。その正体はストープス)です。

エドは、「(……) コリンズだけが列車から抜け出すのを前方の昇降口から目にした」(p.434) といいますが、実際には、ホーム側の昇降口を開けていたのはボトムリーのほうで、エドは、同じ前部車両の、もう一方の窓のほうからでも、線路側に目を向けていたのではないでしょうか。そして、たまたまコリンズが立ち去るところを目撃した。本来なら、職務上、呼び止めて事情を聞くべきところ、ドウィット殺害の好機到来と知り、これをスルーしたというのが、ありそうな話ではないでしょうか。

(e) 不自然な復讐計画にご都合主義、結局は名探偵の見せ場を作るため無理矢理こしらえあげた話ではないかという事

なるほど筋立ては、それだけ見たら荒唐無稽です。こんなやりかたで復讐しようとする人間は、現実には存在しないでしょう。しかし……常人の必然性を超えたところで行動する、犯人のその大胆さが、華麗なる通俗性とでもいうべき、本作の魅力 (小生にとっては、です) の要因でもありますし、もし、そうした絵空事の犯罪を納得させるに足る、充分な 「名探偵の見せ場」、推理の裏打ちを備えた作品であれば、やはりそれは、傑作という評価に値すると思います。

(3) 推理のくもり

(a) 凶器が被害者のポケットに入れられたのは市電に乗った後だ、と断ずる理由が弱いのではないかという事

 以前に読んだ、江戸川乱歩と小林秀雄の対談 「ヴァン・ダインは一流か五流か」 のなかで、小林秀雄が 『Xの悲劇』 に関して、その点をしきりに問題にしていたのを思い出しました。

(……) あれはポケットに針の玉があるわけでしょう。ポケットに手を入れれば針にふれて死ぬというあれでしょう。ところがバスを待っているときにポケットに手を入れる。ポケットに手を入れたら針がささる。死なないから針の玉はポケットになかったと断定しているわけです。この推理は粗雑です。ポケットにたとい手を入れても玉というのは針でしょう。針ならポケットの中で動くわけがない。どこか一定の場所にささっていて動かないわけだ。もしこいつがポケットの一番すみにささっちゃって動かないとすれば、そのときに手を入れたって、ふれない可能性はたくさんあるわけだ。必ずしもポケットに手を入れたらふれるという必然性はない。ところがあれではポケットに手を入れたのをみた人がある。ポケットに手を入れてポケットをかき廻したのを見たのではない。だから針の玉はバスに乗ってから入れられたものと推断する理由はないわけだ。もしもポーが書いたらこんな風には書かないだろう。
        講談社 『江戸川乱歩推理文庫第64巻 書簡 対談 座談』 p.238~p.239

小林氏のその指摘を目にしたときも思ったのですが……あまり幅のある、深いポケットではなかったのではないでしょうか (笑)。

電車に乗るまえ、ロングストリートは雨宿りのあいだにポケットへ四回手を入れています。

ロングストリートは右腕をチェリー・ブラウンの腰にまわしていたが、上着の左ポケットから銀の眼鏡ケースを取りだしたあと、右手をチェリーから放して眼鏡をつかみ、ケースをもとのポケットへもどして、眼鏡を鼻の上に載せた。(p.33)

(……市電がゆっくりと近づいてきた。) ロングストリートは眼鏡をむしりとってケースにもどすと、それを左のポケットへ突っ込み、手をそのまま入れっぱなしにした。チェリー・ブラウンがその巨体にしがみつく。 (p.34)

 そして、市電が停まると

濡れ鼠となった人の群れが、開きかけた後部のドアに殺到する。ロングストリートの一行もその群れに加わり、乗降口をめざしてもがいた。チェリー・ブラウンは相変わらずロングストリートの左腕にしがみつき、ロングストリートの左手もポケットに突っ込まれたままだ。/一行はステップにたどり着いた。(p.34)

 注目すべきは、ロングストリートが左手をポケットに入れたままで、群衆にもまれたまま、市電に乗り込んでいるという流れです。ポケットの中に、もし 「四センチメートル弱、けっこうな大きさの」 針の玉があったら、触れずにすむものかと思ってしまいます

 これだけの状況設定があって、そのうえで、凶器がロングストリートのポケットへ入れられたのは電車に乗ったあとだと断定されるのですから、それは受け入れるに足るのではありませんか?

(b) 車掌の手袋の件

 どんな手袋かイメージしにくい、というのは同感です。どこかに、当時の市電の車掌の、手袋の写真でもあるといいのですが……。

 備品として支給されるとすれば、やはり 「薄い木綿の白手袋」 が一般的かな、と思います。となると、あとは毒針が布を通らないよう、その手袋に、自分でなんらかの加工を施すしかないでしょう。あの凶器を手作りするようなストープスのことですから、手袋の内側にもなんらかの処理を施して、それでも指先をスムーズに動かせるよう、練習を重ねたに違いありません。

 下車したあと、それをどこで処分できたか理解しがたいとありましたが、突然の豪雨 (p.33) のなか、道を行く人たちは、いちいちウッドに注目する余裕などなかったでしょうから、走っている途中で、目についたごみ箱に捨てるなりなんなりしたのだと思います。

 また 「車掌が手袋をしていたかどうか、なぜ目撃証言を取らなかったのか」 とのことですが、これは仕方ないでしょう。なぜなら、レーンの推理が開陳されるまで、警察関係者は誰も、犯行と手袋を結びつけて考えていないのですから。

(c) 指の傷にまつわる推理の、前提の不自然さ

 ご指摘は、よく分かります。ただあげ足とりのようですが、作者は 「ドウィットがあれこれ訊かれて煩わしい思いをしたくなかったから包帯を拒んだ」 とは、書いていません。

「(……)モリス先生の手当てで出血も止まったので、包帯などして煩わしい思いをしたくなかったんです。それに、包帯をしていたら、周囲の人たちが気づかってあれやこれや訊いてくるでしょうから、それに答えなくてはなりません。わたしはそういうのがどうも苦手でして」  (p.243~p.244)

 なによりまず、包帯をすること自体が、ドウィットには煩わしかったようです。これは彼の、「見た目を気にする性格」(p.246) からくるものです。つまり、人目につくところに、グルグル包帯なんか巻くのはカッコ悪いから嫌だ、というのが本音でしょう。

 もちろん、カッコ悪かろうとなんだろうと、怪我の状態 (指を曲げたりぶつけたりすると傷口がまた開いて血が出る) を考えたら、包帯をするのが当然です。しかし、不自然なそのやせ我慢 (?) が、ドウィットの 「性格と合致する」 という証言 (p.246) まで作者は用意しているのですから、ここは目をつぶってよいのではありませんか?

 そのお膳立てのもとに展開される、推理の鮮やかさは、真田さんも認めていらっしゃるとおりです。あの法廷シーンは、およそリアルなものではないかもしれませんが、きわめて劇的で、知的興奮を感じさせ、読み返すたびに胸が高鳴ります。

(4) ダイイング・メッセージの不可解

 最後尾車両は暗かったから、ドウィットは入ってきたのが車掌だとは分からなかったはず、というご意見には、まったく同意できません。「銃弾は左胸のポケットを貫いて、心臓を撃ち抜いている」(p.291) のです。これが暗闇の中の犯行でしょうか?

 普段は暗くても、「(……) 車両の壁のスイッチを入れると、薄暗かった車内に照明が灯(とも)り、はっきりと見えるように」 なる (p.287) のですから、犯人は当然そうしたはずです。ブルーノ検事の説明 (p.434) は、そのへんを省略しているのでしょう。

 外からドアを叩き、「失礼します。どなたかいらっしゃいますか?」 とでも声をかければ、ドウィットは応じるでしょうし、かりに反応がなくても、犯人は車掌なのですから、確認を装って中に入り、照明をつけても不自然ではありません。

 彼を車掌と認めたから、ドウィットは右手で回数券を取りだし――拳銃を突きつけられます。そして死の宣告を受けながらも、レーンの話 (信憑性には欠けますが、きわめて印象的) を思い出したドウィットは、頭を必死で回転させ、ふさがっていない左手で、こっそり犯人を暗示しようとします。いつも利用する列車で、車掌によってパンチの跡が違うことが、なにかのおりにでも、仲間うちで話のネタになったことがあるのかもしれません。もちろん、冷静に考えたら、そんな独りよがりの指のメッセージがうまく第三者に伝わる可能性なんて、ゼロに近いでしょう。でも、そのときの彼には、それが精一杯だったのです。『頼みます、レーンさん』、心の中で祈っていたのではないでしょうか。

 そして、じつはこの一連のシチュエーションで重要なのは、メッセージの解釈よりも、右利きの被害者がなぜ左手でメッセージを残したのか? という、そのこと自体の意味ですよね。それに気づいて推理を組み立てれば、一気に犯人が絞り込まれる。いかにもクイーンらしい妙技だと感嘆させられます。また、「妙なこじつけとしか思えない」 メッセージの解釈も、真相解明のあと、最後の一行で明かされることで (この趣向は、1930年に刊行された、英国作家ヘンリー・ウェイドの 『議会に死体』 を意識したものでしょうか?)、タイトルの 「X」 と連動し、余韻を残すことに成功していると思います。

なんだかんだいって、この 「X」 が喚起するイメージは、一度読んだら、ミステリ・ファンの心に終生、残るでしょう。

(5) ドルリー・レーンの身勝手

 ここは、真田さんのおっしゃることに、全面的に同意します。若い頃に読むと、うっかり “品格のある英国風紳士” みたいに誤魔化されてしまいますが、年を経て再読すると、その胡散臭さたるや半端ではありません。あのファイロ・ヴァンスが可愛く思えてくるくらいです。その 「名探偵」 の皮をかぶった 「怪人」 的な造形が、のちのちの布石かどうかは即断を許しませんが、少なくとも、これは小生にとっては、ダーティー・ヒーローの物語です。主人公が高潔さを欠き、いっさいの感情移入を拒みながら、それでも読者を興奮させ、引きずり込まずにはおかない、そんな物語。

 推理を重視しながら、トリック偏重の面もあり、また伝奇小説的な尾を引きずっている。「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」 の純然たる見本とは、確かに言い難い 『Xの悲劇』 ですが、かりにこれが 「昨日の本格」 だとしたら、「昨日の本格」 は、かつて、ここまでの面白さを達成していた、という、その到達点のような傑作ではないかと、いまの小生はそんなふうに思っています。
                                                                 (2014.12.25)


第2回につづく】

                                    ※初出 《ROM》 144号 (2015年10月)
                                              (2017. 2. 2掲載)

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