往復書簡 ドルリー・レーン四部作を読む
【第2回】

塚田よしと 真田啓介


  ※エラリー・クイーン 『Xの悲劇』 『Yの悲劇』 の内容に触れています。未読の方はご注意ください。
    引用・参照頁数は特に注記のない限り、角川文庫版 (越前敏弥訳) のものです。


(真田啓介からの第二信)

 体調もよろしくない中、ボリュームたっぷりの返信をいただき恐縮です。

 硬直的で狭量な読み手である小生に対して、塚田さんが作品のタイプに応じ作者の意図を汲んで、できるだけ好意的な読み方をしようとする柔軟な姿勢をお持ちであることは、先年の 「吟味」 のやり取りの中でも明らかになっていましたが、今回またその相違が如実に現れた形ですね。

 『Xの悲劇』 を 「怪人対巨人」 風の物語として読み、その前近代性をむしろ魅力ととらえるわけですか。ふーむ、私には思いがけない話でした。「常人の必然性を超えたところで行動する、犯人のその大胆さが、華麗なる通俗性とでもいうべき、本作の魅力の要因」 ということになると、私があげつらったような問題はほとんど意味がないことになりますね (にもかかわらず一々丁寧に反論してくださったことに感謝します)。

 しかし、そのような読み方は、やはり私には受け入れられません。

 不自然さや荒唐無稽さ、必然性のなさといったことが問題にならない作風というのはたしかにあります。チェスタトンがそうですし、小栗虫太郎がそうでしょう。それは、彼らの作品が現実世界とは別の、乱歩いうところの 「今一つの世界」、独自の論理が支配する強固な物語世界というべきものを構築し得ているからです。語られる内容もさることながら、それ以上に、その文章によって。創造の気迫とエネルギーにみちたユニークな文体こそが、別世界を立ち上げる魔法の力です。

 ひるがえって、クイーンにそれだけの文体があるでしょうか。少なくとも 『Xの悲劇』 に今一つの世界が描き出されているとは、私には思えません。あくまで現実世界――1930年代初めのニューヨークとその住人たちを前提とした、尋常至極、卑俗で日常的な世界の物語です。その意味でこれは私には 「リアリズムの本格ミステリ」 です。

 「リアリズム」 という言葉の使い方が適切でないかもしれませんが、もちろん文芸用語の写実主義の意味ではありません。作品の世界に特別な色合いがなく、常識的・日常的な現実世界にすぎない、という程度の消極的な意味で用いています。平凡と非凡・超凡を対比させた場合の平凡というに近いかもしれません。

 その虚構性・人工性からすれば、すべてのミステリはファンタジーであるとも言えるでしょう。しかし、等しくファンタジーという中にも、上記の意味でリアルな作風というのはあります。小栗虫太郎に比べたら甲賀三郎はリアルだし、チェスタトンに比べればクイーンはリアルでしょう。というより、大部分のミステリは基本的にリアリズムで書かれているのではないでしょうか。クイーンはもとよりクリスティーもカーも、クロフツもセイヤーズもバークリーも、私の言い方ではすべてリアリズムです。(中ではカーに 「今一つの世界」 を創造しようという意欲が見てとれますが、十分成功しているとは言えないようです。『死人を起す』 などに乱歩が何かモダモダした非合理性を感じとっていたのは、その名残であったのかもしれません。『三つの棺』 の 「われわれは探偵小説の登場人物」 云々というフェル博士のセリフは、私も若い頃は大変気に入っていましたが、今では逆にうとましさを感じます。言いたいことはよく分かるが、安直な弁解としか思えないからです。同じ趣旨のことを、作品そのものの力で感得させてくれなくては。)

 私の好きなクリスピンの 『消えた玩具屋』 などは、ある物語世界――エドワード・リアのナンセンス詩のロジックに支配された、お伽噺のヴェールのかかったオックスフォードの町――の構築に半ば成功しかかっていますが、今一歩力及ばずの感があります。やはりチェスタトンほどの自在な文体を我が物となし得ていないからだと思います。

 さて、このような意味で 『Xの悲劇』 は私にとってリアリズムの作品なので、そこに生起する出来事は現実世界の法則に即し、人物の行動は人間性の幅の中にあって常識的に了解可能なものであることを求めます (そうでないものは純文学か精神病理学の方で扱ってもらいたい)。変装したいならいくらでもしてもらってかまわないが、「どんな技術がその 「変身」 を可能にするか」 は明らかにしてもらわないと困ります (その場合、耳の不自由なレーンがどうして当該人物の声を真似られるのか、ということも忘れずに)。そこを不問にするなら、SF的な超能力者の存在を認めるのと同じことになりますから。あるいは、何年もかけて準備した計画犯罪が、なぜ公衆の面前で扱いにくい凶器を使うといったハイリスクなものになるのか、きちんと説明されないことには (「犯人が目立ちたがり屋だったから」 なんてのはもちろん却下)、いくら華麗な推理で犯人が特定されたとしても、なかなか納得できるものではありません。

 というわけで、基本的な立場に関しては塚田さんとの溝は埋まりそうにないのですが、個々の論点の中には、反論を受け入れたいものもあります。

〇「ウッドの死体」 に関する記述の問題については、アンフェアであることは間違いないにしても、たしかに 「致命的」 というほどのものではありませんね。あのクイーンにして、というショックが大きかったので、つい筆がすべったのです。

〇第二の事件のその他の問題点として挙げた諸点については、ほぼ了解しました。このうちウッドを退場させる必要性については、レーンの説明は依然として納得できないのですが (まだ起きてもいない第三の事件と第一の事件が同じ場所同じ時刻に審理される可能性? 取り越し苦労も甚だしい)、塚田さんの説明された 「心理的要因」 には説得力がありました。

 一方で、さらに反論したい点も――

〇第一の事件に関する小林秀雄の発言というのは、私はすっかり失念していましたが、やはり気になる人もいるのだと安心しました。眼鏡ケースを入れていたくらいだから、けっこう幅のある深いポケットだったのでは? 乗車後にウッドが入れたとした場合の方法に関しては、35~36頁の記述と401頁の説明は整合していませんね。後者では 「車掌台で」 乗車賃の支払いをしていますから、それだと小細工はしにくいと思います。また、前者の状況だとしても、前後左右の誰かに目撃される危険は常にあるわけです。その時はたまたまうまくいっただけ、ということになる。結局、私の不満は実行可能性というよりも、そのようなリスクの大きい行動を計画犯罪として行ったということの矛盾に帰着するようです。

〇この場面に関しては、さらに叙述の仕方について次のような不満もあります。50頁のサムのセリフに

「……あんたはロングストリートに手紙を見せた。彼は左の手を左のポケットに入れて眼鏡ケースを取り出し、それから眼鏡を出し、またポケットに手を入れてケースをしまった。……」

「……ロングストリートは手紙を読み終えると、もう一度ポケットに手を入れて眼鏡のケースを取り出し、眼鏡をしまい、そこでまた――つまり四度目に――ポケットに手を入れて眼鏡ケースをもどした。……」

などとありますが (まるで実況中継をしているよう)、サムはその時の状況を前頁のドウィットの説明で把握しているだけです。すると、「左の手を左のポケットに」とかその他細々したことをドウィットが説明したということになりますが、どんなに注意深い観察者が微に入り細をうがつ証言をしたとしても、そんなことまで話したとは思えません。つまり、ここはパズルの構成と解明の手がかりを作者が手っ取り早くサムの口から語らせているわけですが、そうした場面のリアリティのなさ、物語運びの拙劣さも私からすると減点要因です。

〇第三の事件に関して、コリンズが線路側の扉を開けて跳びおりたというのは (そういう降り方が許容されていたということではなく) あくまで彼一人のイレギュラーな行動だと思います (彼は切符を回収されていない (p.350) のだから改札を通って外に出たのでもないようです、理由は分かりませんが)。とすれば、車掌が駅に着くごとに線路側も確認する習慣になっていたなどということはないはずで、もしエドがホーム側の確認を怠って線路側を見ていたりしたら、ボトムリーに怒られたのではないでしょうか。

〇ドウィット殺しに際して犯人は照明をつけたはず、というご意見には私は反対です。車両のドアにはガラス窓がありますから (p.284)、それまで暗かった車両に突然明かりがついたら隣の車両の乗客に気づかれ、不審を招くおそれがあります。もちろん可能性にすぎませんが、これから殺人を決行しようとしている犯人からすれば、少しでも危険は避けたいはず。暗闇の中でも、相手の所在さえ分かれば (窓からさす外の光で人の輪郭くらいは分かるでしょう。あるいはポケットライトを持っていたかもしれない)、間近に寄って胸を撃ち抜くことはできるでしょう。この場面では、ダイイング・メッセージ以前に、ドウィットが回数券を取り出したということ自体がありそうにない。これもレーンに推理の手がかりを提供するため作者が犯した不自然の一つと私には見えます。

 と、いうくらいで 『Xの悲劇』 については切り上げたいと思いますが、最後に一つ、これまでの議論とはまったく関係のないところで私が興味深く思った点をご紹介しておきます。292頁に見える次の箇所です。

「沈黙がおりた。やがてサムがつぶやいた。「まるで探偵小説だな。きっとそこのトイレに、長い牙を持った中国人が隠れてるぞ」 だれも笑わない。」

 こんな風に冗談の種になるくらいに、この時代、怪しげな中国人が跳梁跋扈するいかがわしい探偵小説が珍しくなかったのでしょう。ノックスが 「十戒」 に中国人条項を書き込んだ背景がよく分かりますね。


 さて、引き続き 『Yの悲劇』 に移りますが、この作品については、再読後もなお傑作との評価を維持します (一度下がりかけたのですが、解釈により持ち直しました)。

 井上良夫による初訳本に寄せた序文で江戸川乱歩は、(『Xの悲劇』 も傑作だが) 「今 『Yの悲劇』 を読むに及んで、その恐ろしさと論理の快感とが 『Xの悲劇』 の比ではないことが分った」 と述べていましたが、私もそれに同感です。私の場合は既述のとおり 『X』 をあまり買っていないわけですが、それとの比較においてというだけでなく、絶対評価において 『Y』 はすぐれていると考えます。過去において長らくベストテンの上位に確固たる位置を占めていたのも十分理由があったと思います。

 この作品、ハッター家の一族の異常性が不必要に強調されすぎていて (しかもそれが描写でなく説明にとどまっている)、病気とか遺伝の認識にも問題があるので、本当の意味では好きになれないのですが、探偵小説としてのプロットやロジックはすばらしいと思います。筋書殺人と結びついた意外な犯人という太い柱があって、そこから派生してくる謎がある。犯人はなぜマンドリンのようなものを凶器に使ったのか、とか、レーンが解明の中で「矛盾点」として指摘している事項ですね。

 このプロットがしっかりしている一方、謎の解明も、盲目で聾唖の証人の証言に基づいて (点字盤を介しての証言採取場面のサスペンスも比類ない) 犯人の身長を割り出し、そこから浮かび上がる人物像をもとに犯罪計画書の存在を想定し探偵小説の構想メモを発見、それに照らして事件を再構成することにより矛盾点の意味も了解される、という一連のロジックの流れが見事で、間然するところがない。中盤における事件の輪郭を定める推理(梨の毒は偽装で夫人殺害は計画されたもの、同一犯人のしわざ)も納得のいくものでした。

乱歩言うよう 「その恐ろしさと論理の快感」 に堪能させられます。ヴァン・ダイン 『グリーン家殺人事件』 というモデルはあったにせよ、数々の改良が加えられてそれを数等上回る出来栄えに仕上がっています。

 と、褒めるだけ褒めて終わりにできたら言うことなしなのですが、問題点はやはりあります。構成の論理に関わる二点を取り上げてみます。

 一つは、老夫人殺しに際して用いられたコンラッドの靴についてです。ジャッキーは、コンラッドの靴を履いて自由に歩き回れたのか? まず普通に考えて、子供が大人の靴を履いて足に合うはずはないでしょう。コンラッドの靴は八インチ前後 (p.77) で、身長の割に小さい気がしますが、それでも十三歳の少年の足には大きすぎるはず。ブカブカの靴を履いて歩こうとしたら、脱げないように引きずるのがせいぜいで、爪先立ちなどできないのではないか。

 おそらくこの点は作者も扱いに困ったのではないかと思います。タルカムパウダーを踏んでついた足跡というのは、ルイーザの証言と相まって、犯人の身長を割り出す推理を導くうえで必須のデータになるわけですが、それを子供の足跡にするわけにはいかない。そこで、ヨーク・ハッターの構想メモ 「探偵小説のあらすじ」 (以下「あらすじ」) に出てくるコンラッドの靴を、その必要はないのに、適切な判断ができないジャッキーが履いて犯行に及ぶということにしたのでしょうが、これはこれで上記のような無理を伴うわけです。(ちなみに、このコンラッドの靴はミスディレクションとしても効果的ではないし、はじめは余計なもののように感じたのですが、判断力に乏しい子供の犯行という犯人像の補強材料になるし、それ以上に、子供の足跡を大人のそれに変換させるという重要な役割を担っていたわけですね。)

 この点は、ジャッキーが頭を働かせて、靴の隙間に布切れでも詰め込んで自由に歩けるよう工夫した――とでも解釈すべきでしょうか。

 問題点の二つ目は、「あらすじ」 の中に不自然な記述がみられることです。

「ストリキニーネは、二階の実験室の薬品棚にある九番の瓶から三錠取り出したものである。」(p.329)

「梨には注射器を使って、実験室にある一六八番の瓶の塩化第二水銀を注入する。/注射器は実験室の鉄の戸棚にあるもので、そこには注射器の詰まったケースが置かれている。」(p.330)

「高温で爆発する二硫化炭素入りの瓶(二五六番)を大きな実験台のひとつに置いておく。」(p.332)

「このとき用いるのはフィソスチグミンという、薬品棚の二二〇番の瓶にはいった白い液状の毒薬である。」(同)

 「あらすじ」 が、あくまで大まかな構想を記したメモ、しかも自分のための心覚えであることからすると、これらの記述はヘンではないでしょうか。薬品棚の瓶の番号とか、注射器の置き場所――それら、ヨーク・ハッター自身が誰よりもよく知っていることを、なぜわざわざ書いておく必要があったのでしょう。

 それはもちろん、そうしたことが書かれていないと、ジャッキーが犯罪を実行できなかったからです。ジャッキーがそれを手引書として利用できるようにするために、作者は不自然を承知で 「あらすじ」 の中にそれらを書き込んだのでしょう。これもコンラッドの靴と同じように、プロットを成り立たせるための不自然な設定であり、構成の論理の弱点であろう――と思ったのです、初めは。

 しばらくして、別の解釈もありうることに気がつきました。――ヨーク・ハッターは意識的にそれらを書き込んだのではなかったか。まさにジャッキーが読んで意味をつかめるようにするために。

 私の従来の理解では、この事件はヨークの書き残した 「あらすじ」 がもとで (その存在が前提となって) 起こったのではあるけれども、ヨークはいわば憂さ晴らしに妻殺しの小説の構想を立ててみただけで、その筋書を実現する意図はなかった。それを書き上げることすらしないうちに人生そのものに疲れてしまった彼が自殺した後で、たまたまその原稿メモを発見したジャッキーが、自分の意思で犯行に乗り出したのだと思っていました (レーンがそのように説明しているからですが)。しかし、ヨークは初めからこの筋書を実現する意図をもって、しかもそれをジャッキーに実行させるつもりで 「あらすじ」 を書いた (それは原稿メモの体裁で書かれた犯行指示書だった)、という解釈も成り立ちうるのではないか。上記の不自然な記述をヨークが意図的に行ったものと考えた場合に導かれる解釈ですが、それにはさらに別の論拠もあります。

 メモの紙束が隠されていた、暖炉の中の煉瓦の奥の隠し場所――これをレーンが言うように (p.406)ジャッキーが自分で作った (又は発見した) とは思えないからです。暖炉の中の仕切り壁 (六フィート) の頂上からさらに一フィート上の煙突の内壁の煉瓦が一つ取り外しできるようになっていたわけですが (p.310)、この場所の手の届きにくさからしても (ジャッキーが踏み台も使わずに仕切り壁を昇り降りしている (p.364) のは疑問。実験室の薬品棚の前では三脚椅子を使っているのに)、それを作るのに必要な技術からしても、これを十三歳の子供が作ったということは (不可能とは言わないが) ありそうもない。それよりは、これは実験室に入りびたっていたヨークが作ったもので、ジャッキーはその場所をヨークに教えられて知っていたということの方がありうる話でしょう。

 レーンの推理によると、ジャッキーは実験室の棚の仕切りの中からヨークが生前入れておいた原稿を見つけた (p.405) ということですが、それもどうか? 「あらすじ」 にはハッター家の人々が実名で登場するのだから、生前のヨークがこれを誰かに見られるおそれがある場所に保管していたとは思えない。以前作っておいた (その時新たに作ったのでもよい)秘密の隠し場所に入れておいたのでしょう (だから、ジャッキーが自分で発見したのではない)。

 さて、自殺を決意したヨークは、復讐のための時限爆弾をセットします。実験室にジャッキーを呼んで暖炉の中の隠し場所を教え、原稿を示しながらこんなふうに囁きます。「おまえはお婆さんが嫌いだろう。この紙に書かれているとおりにやってごらん。そうすればあのうるさいお婆さんをやっつけられるよ」 ……この事件の真犯人は、やはりヨーク・ハッターであったのかもしれません。

 レーンは、実行犯である少年と犯罪の計画者である大人の関係について、①狡猾な大人が犯行計画を練って、なんらかの事情でそれを子供に実行させた、②子供が大人の書いた筋書どおりに犯行を重ねるが、当の大人は子供がそうしているのを知らない、という二つの場合しか考えられないとし、この事件は後者だとしていますが (p.402~403)、上記の解釈はいわばその中間形態――計画者の大人が子供に実行を教唆して後退場し、子供は計画書に基づきながら自分の意思でそれを実行する、という場合です。

 名作の瑕疵を好意的解釈によってカバーするというのは塚田さんのオハコですが、今回は小生がそれをやってみました。うまくカバーしおおせていますかどうか。
                                                  (2015. 1. 10)

 

(塚田よしとからの第二信)

 ご返事が遅れて申し訳ありません。気力に体力がともなわず (昨年、五十の坂を越してから、衰えをヒシヒシと感じています)、休日も、疲労回復のため寝てばかり――横になって本を広げると、いつのまにか眠っている――という停滞っぷりでした。

 さて。

 真田さんのおっしゃられる 「リアリズム」 は、理解できます。

 作品世界が日常性に立脚している以上、そこに登場する探偵も犯人も、日常の合理性の範囲を逸脱しないで欲しい、というのは、客観的に考えたら、きわめて妥当な要求でしょう。

 ただ、「大部分のミステリは基本的にリアリズムで書かれているのではないでしょうか」 という文章を、いささか複雑な思いで読んだのも事実です。そこから連想したのが、「小説はどんな形のものにせよ、つねにリアリスティックなものをめざしてきた」 という書き出しで始まる、例の、レイモンド・チャンドラーの戦略的な評論 「簡単な殺人法」 (稲葉明雄訳) だったからです。

 第一信で小生は、エラリー・クイーンは、アガサ・クリスティ、ジョン・ディクスン・カーと共に、青春時代の海外ミステリ読書の中心に位置していた作家だと書きました。でも、さらに遡って、自分にとっての原風景を思い返すと……幼い頃の私にとってのミステリは、ホームズであり、ルパンであり、明智小五郎と少年探偵団でした。こうしたヒーローたちの冒険譚も、あくまで日常的な世界が背景ですが、そこからの飛躍がとてもスリリングで、夢中にさせられたのです。多用される、いま思うと無理目な変装の数かずも、それが逆に 「今一つの世界」 を演出するギミックとして、無垢な少年には有効でした (笑)。

 そういう出自の人間ゆえ、一見モダンでありながら、似たような匂いを感じさせる 『Xの悲劇』 の変装合戦を、寛容の精神で受け入れてしまいますし、その約束事の世界を 「リアリズムの作品」 という表現で律することに、抵抗を感じてしまうのです。

 とはいえ。

真田さんのご指摘のなかで、「耳の不自由なレーンがどうして当該人物の声を真似られるのか」 という部分は、その重要性にこれまでまったく気づかずにいた自分の迂闊さを恥じるばかりです。

これは確かにマズイ。もと俳優にして “変装の名人” というキャラクターの属性が提示されていれば、同時に “声色の名人” であってもいい (あくまで小生的には)。しかし、聴覚を失っているという、基本設定とのあいだに生じる齟齬は埋める必要があります。このままだと、じつはレーンは耳が聞こえているんじゃないか、ということになって、あとあと困ります。

思うに、耳が聞こえなくなってからレーンは、新しく接する相手の声が、とても気になるようになったのではないか。何をしゃべっているのかは、とりあえず唇の動きで読みとることが出来る。しかし、どんな声をしているのか? そのトーンは? 話しかたのリズムは?

もし相手の声をクエイシーが耳にしていれば、レーンはそのへんを尋ね、それに対してクエイシーは、レーンに分かるような例え、たとえば俳優の誰それの声によく似ています、といった感じの答えをしたことでしょう。それを受けたレーンは、当該人物のセリフを即興で演じてみる。もっと軽い感じでした、とか、もっとボソボソ話していました、といったクエイシーの意見をもとに微調整を重ね、できるだけ似せてみようとする。もしレーンが、普段からそんなトレーニングを重ねていたとしたら――

無理をするなあ、とは思いますが、ともかくそうしたエピソードが挿入されていれば、主人公補正でギリギリ救われるかな、と思います。しかしこの点、ご賛同なきことでしょう。

どうも小生は、ロマンの産物たる “名探偵” は作り物でいい、と割り切っているところがあるようです。存在そのものの嘘っぽさ(だがそれがいい)なら、パノラマ島、もといハムレット荘の当主たるドルリー・レーンも、卑しい街をゆく騎士フィリップ・マーロウ――頭を何度殴られても、後遺症の心配が無かったりする、隠れ超人キャラ――も五十歩百歩なのですから。

ただ、あつかう事件は、なんでもありの超展開では困る。結末はあくまで合理的につけないとミステリにならない。そのために、表と裏の論理が大切になってくるのだと考えます。

ですから、「何年もかけて準備した計画犯罪が、なぜ公衆の面前で扱いにくい凶器を使うといったハイリスクなものになるのか、きちんと説明されないことには」 納得できない、といった 『Xの悲劇』 へのご批判は、なされて当然のものだと小生も思います。

市電内の、あの特殊な凶器の使用は、あくまで作者の都合から逆算されたものであり、その狙いどおり、解明の論理は華麗に決まっていますが――解明の手掛りをサム警視の 「実況中継」 に盛り込むくだりは、確かに苦しい書きかたですが、でもこれは、愚直なまでの作者に同情します――犯人に納得のいく動機づけを与えていないため、ホワイの興味という点では不満が残ります。

作者が細々とした説明を省略したものと解して、犯人側の事情を想像するに――復讐のターゲットである三人の中で、ストープスは、ロングストリートを一番の難敵と考えていたのではないでしょうか。体格的には、自分も大柄で引けはとらないが、しかしいざ暴力行為となったら、かりに拳銃をつきつけても、凶暴なロングストリートを完全に圧倒しきる自信は無いと感じていたとすれば。五年間、脅迫の手紙を送り続ける (p.368) ことで、精神的なプレッシャーは与えられても、その行為は諸刃の剣で、ロングストリートは当然、自分が襲われそうな暗い夜道などでは警戒を怠らなくなるでしょう。

ことロングストリートに関しては、まったくの不意打ち、彼が、まさかここで襲われるとは思ってもいないような状況下で、電撃的にケリをつける必要があるという判断が、あの大胆な犯行を決意させたのかもしれません。当然リスクはありますが (個人的には、相手のポケットに入れる前に、電車の振動で、うっかり凶器を落としてしまうのがコワイ)、車掌としての勤務体験から、満員電車の中での特定個人への接触がさして目立たないことに、ある程度の自信を持っていたのだろうと思われます。

 もちろん、これは後付けの、ただの言い訳にすぎません。作者がクイーンであるなら、犯人がリスキーな犯行に踏み切らざるをえなかった、もう少し切迫した必然性が欲しい、というのが本音です。

それでも。

第三の事件のダイイング・メッセージ同様、毒針が突き出たコルク球のイメージは、おそらく多くの読者の心に、刻印となって残るはずです。何年たっても、『Xの悲劇』 といえば “あの凶器” という形で、思い出されるような。そしてそこから、犯人が何者であったかまで、たちまち鮮明に浮かび上がるような。これは、無理が無いとか、良く出来ているといった次元を超越しています。作品をシンボライズするガジェットの、そのイメージ喚起力の強さ、それもまた傑作の証のひとつ、とあえて強弁してみたくもなります。

じつはクイーンは、意外な犯人と異様な凶器の取り合わせに、ユニークな動機づけを用意し、ホワイの興味をも満たしたさらなる名品をものしているわけですが、そちらに話を進めるまえに――

第三の事件についてもう少し。

コリンズが線路側の乗降口のドアを開けて跳びおりたのは、もちろんイレギュラーな行動なのですが、それが可能だということは、切符を買わずに列車に乗った人間が、トイレに隠れたり、それこそ最後尾の暗い車両に隠れたりして車掌の検札をやりすごし、目的の駅で勝手におりることも可能だということですよね。これは大問題だと思うのです。そこで小生は、車掌が二人いるなら、一人は念のため、ホームと反対側も確認する慣習になっているのではないかと考えたのでした。

ドウィット殺しに際しては、わざわざ照明をつけるリスクを犯さなくとも、車掌である犯人が 「ポケットライトを持っていた」 とすれば、なるほど暗闇の中で心臓を撃ち抜くことは可能かもしれませんね。ただその場合でも、無人のはずの車両に、定期的な確認のため入って行ったていを装い、ライトでドウィットを照らせば――言葉のやりとりで相手を車掌と確認したドウィットが、条件反射的に回数券を取りだしても、別におかしくはないと思うのです。そして、いつも何気なく接していた、その、長身の若い車掌が復讐鬼に豹変したとき、相手のシンボルとして鋏のパンチ跡を思い出すプロセス自体は、犯行後、サムが死者の所持品をあらためる場面での、以下のような伏線 (これは、恥ずかしながら、あらためて読み返してみて気がついたのですが) を考慮すれば、了解できます。

 サムは何やらぶつぶつ言いながら、古い回数券綴りのパンチのはいったページをめくった。隅が折れている。表紙にも中身にも多数のいたずら書きがあり、パンチの跡や印刷の文字がなぞってある――どれも幾何学的な図形で、ドウィットの几帳面な性質をうかがわせた。(p.295)

ふう。 『Xの悲劇』 の捕足だけで、かなりの分量を費やしてしまいました。

最後に一点だけ、これまでの流れで書き落していたことに、触れておくことにします。これは半分、冗談みたいな話なので、軽く読み流してください。

ニューヨークにやって来たストープスは、復讐を開始するまでに、なぜ五年もかけたのか? わたし、気になります (笑)。というわけで、例によって勝手に妄想してみました。

ストープスが、憎い敵のうちロングストリートとドウィットを見つけるのは、それほど難しくなかったでしょう。なにしろこの二人、ドウィット&ロングストリート商会の看板を掲げているわけですから。しかし、カナダへ渡ったクロケットとなると話は別。そもそもカナダにいるということ自体、ストープスには知りようがなかったはずです。ロングストリートとドウィットに脅迫状を送りつけてみても、彼らがクロケットと接触する気配はない。せっかく替え玉死体の殺人プランを立案しても、肝心のクロケットが見つからないことには、どうしようもありません。困ったストープスは――人捜しのプロに頼むことを決めたのではないでしょうか。たとえば、ピンカートン探偵社のような (ニューヨークに支局はあったかな?)。

でもそうするためには、かなりな額のお金が必要になります。夕勤と夜勤の、ふたつの車掌職を掛け持ちし、必死に働いて軍資金をため、ようやく余裕をもってクロケットの探索を依頼できるようになるのに、数年かかってしまったのではないでしょうか。

しかし、その甲斐あって、クロケットの所在はもちろん、継続調査により、彼とドウィット&ロングストリート商会との金銭的なつながりまで、把握できるようになりました。かくして、その情報をもとに、ストープスがクロケットに対し、同商会を解雇された経理係を装って連絡をとる (p.426) ことが可能になり、ついに復讐の火蓋が切られた――というのは、どうでしょう。

いや、我ながら野暮なバック・ストーリーで恐縮です。


 それでは、『Yの悲劇』 に参りましょう。

といっても、この作品に関しては、真田さんも (条件付きではありますが) 傑作と認定されていますし、当方の評価も 「当然、然り!」 なので、『Xの悲劇』 ほどには議論にならないかもしれません。

まず思い出話から始めることをお許しください。

記憶をたどると、最初に読んだクイーン作品は、児童向けにリライトされた 『エジプト十字架の謎』 でした。小学校の三、四年生のころで、ホームズや少年探偵団の延長で手にし、面白くて夢中になって読み、最後にヨードチンキの瓶から組み立てられるエラリイの推理に感動しました (感心ではなく、あれはやはり、それまで目にしたことのない、美しく見事なものに接した、感動だったと思います)。

それがファースト・インパクトとすれば、小学校も高学年になって、大人ものの小説に手を伸ばしはじめた小生を襲ったセカンド・インパクトが、新潮文庫 (大久保康雄訳) の 『Yの悲劇』 だったのです (『Xの悲劇』 は、某ガイド・ブックでネタバラシされていたので、読むのを後回しにしたのでした)。

圧倒的でした。得体のしれない迷路の中をさまようような――ときに光が差しこむものの、すぐに闇が立ちこめる――不安感も、ヨーク・ハッターの草稿がもたらす興奮も、暴き出される犯人像の異様さ (マンドリンが凶器であったことの意味!) も、一切を納得させずにはおかない、論理の流れも。そして……複雑な余韻を残す幕切れも。

その後、多くの本格ミステリを読んできましたが、すべての要素が緊密に結びつき、これだけの高みに達した作品には、ついに出会えていない (クイーン自身にしたところで、二つとは書き残せなかった) というのが正直なところです。

記憶の美化作用ではありません。今回、角川文庫の新訳版に目を通す以前にも、これまでに何度か、折に触れ―― 『Yの悲劇』 を批判する文章に刺激されたりすると――違う訳書で読み返してみては、感銘を新たにしてきました。

『Yの悲劇』 批判といえば、ちょっと脇道にそれてしまうのですが、この機会に、書いておきたいことがあります。

初読時、小生は犯人の正体に心底驚いたのですが、『夜明けの睡魔』 の瀬戸川猛資さんに代表される、勘の鋭い読者は、犯人の頬に触れたという、三重苦のルイザ・キャンピオンの、手話による証言のくだり―― 「すべすべした柔らかい頬でした」 「男の頬ではありませんでした」 ――で、一足飛びにジャッキー少年を連想してしまうようですね。で、途中で自分は犯人が分かってしまった、だからそんなに傑作とは思えないとおっしゃる。

でも、かりにその時点で犯人が想像できたとしても、事件の全貌は闇に包まれているわけで、多くのなぜ? の興味が生まれます。犯人の身長をめぐる推論を組み立て、ジャッキーに当たりを付けていたレーンでさえ、事件の性格とのギャップに判断を保留せざるを得ず、「筋書き」 の存在を想定し、その大胆な仮説を検証するプロセスを経なければ、真相には到達できません。そんなレーンの (表面上) 謎めいた行動を追いかけながら、じょじょに事件の核心に迫っていく、そのプロセスには、充分な面白さがあると小生は思うのです。待機した 「死の部屋」 で迎える、検証作業のクライマックス―― 「侵入者」 の確認――には、比類ないサスペンスがあります。犯人の正体を知っていればなおさら、ここは怖い。そして……そんなジャッキー少年もまた、終盤、毒に倒れ死を迎える。この捻りは、探偵小説として見事だと思います (小説として、レーンの行為を肯定するか否かという問題が出てきますが、ここではひとまず措きます)。

結論として、『Yの悲劇』 は、少年が犯人というアイデアだけで勝負している作品ではない、なので、あてずっぽうで犯人が分かったという人たちが、それで作品評価を下げるというのは短絡的にすぎるのではないか、もっと作品全体を見て、なぜこの作品が賞賛されているのか、しっかり考えてみて欲しい――ということになります。

いや、すみません。関係ないことを、ダラダラと。

本題に返り、真田さんが 『Yの悲劇』 の問題点として挙げられた、具体的なポイント二点について、愚感を述べます。

〇ジャッキーは、コンラッドの靴を履いて自由に歩き回れたのか?

 なるほど。歩き回れなかった、と考えるのが普通ですね。サム警視もブルーノ地方検事も、今回は随所でなかなかの頭の働きを見せているのですから、この件に関しては、レーンの説明に対して疑問を投げかけるべきでした。

 推理のためにも、ジャッキーには爪先立ちしてもらわなければなりませんから、彼の足のサイズが極端に大きいといった無理な設定を導入しないとすれば、ここは苦しいところですが、おっしゃるように、事前に靴を履いて歩く練習をしてみようとしたジャッキーが、ブカブカなのに気づき、「靴の隙間に布切れでも詰め込んで自由に歩けるよう工夫した」 と考えるべきでしょう。十三歳にしては、かなり幼稚な面が目立つキャラクターですが(その、明らかな幼児性もまた、一族の異常性の因子かと思います)、遊び感覚の延長で、そのくらいの工夫はできるでしょう。

〇「探偵小説のあらすじ」 の中に不自然な記述がみられること

 ヨーク・ハッターの書きかたは、「あらすじ」 内の記述としては、確かに不自然です。『Yの悲劇』 を高く評価されていて、同書の講談社文庫版 (平井呈一訳) では解説を書かれている、ミステリ評論家の各務三郎氏も、“パズル・ストーリーの非論理性” という文脈で、やはり同様の指摘をされていました。

(……) 彼が知悉しているはずの化学薬品名を 「実験室の一六八号壜の昇汞水」 とか 「二硫化炭素の壜 (二五六号壜)」 また 「実験室の棚の二二〇号壜のフィソスティグミンという白い液体の毒薬」 などと化学の門外漢でもすぐにその壜が発見できるように噛んでふくめる書き方をしている。たかがプロットのメモにすぎないのです。単に昇汞水、二硫化炭素と書くか、化学記号で書くほうが自然な心理状態であったはずです。                    前掲書 「解説」 p.479

そのとおりなのですが、「あらすじ」 の最後、《全体的な覚書》 の (六) の末尾には、次のようなヨークのメモがあります。

実験室の捜査を際立たせる……。手がかりを得るのは瓶に記された番号から。難解は禁物(?)
                                           角川文庫:新訳版p.334

この 「あらすじ」 は、おそらく初稿ではないでしょう。いきなりこれだけの構想をまとめられるとは思えない。はじめはもっとラフな、走り書き程度のものだったのではないか。小生としては、『バニラ殺人事件』 (仮題) のなかで、薬品の番号を何かしらの手がかりとして使いたかったヨークが、その工夫を思いつかぬまま、とりあえず客観的に眺めてヒントを得られたら、くらいの気持ちで、この (結果的にそうなった) 最終稿では、あえて細部まで分かりやすく書いてみたのではないかと思っています。

とはいえ、これはやはり言い訳ですよね。

『Yの悲劇』 の “真犯人” はヨーク・ハッターその人であった、と逆転させる真田さんの解釈は、アクロバティックでありながら不自然さを解消する、妙手の発見に違いありません。

じつは、「あらすじ」 の記述の不自然さをもとに、真犯人は他にいる! と喝破した人は他にもいます。エラリー・クイーンFCの機関誌に、エッセイ 「椿説/Yの悲劇」 を寄せられた、作家の天城一氏です。天城説によると、「あらすじ」 はヨークの手になるものではなく、偽作なのだそうです (その根拠として、同氏は、科学者であるヨークが鈍器を指定するのに instrument という言葉を使ったのは、およそありえないと述べられているのですが、この部分は、いちおうの説明はあるものの、小生にはよく分かりません)。

 すると、偽作者は誰かが問題になります。詩人が言語についてこれほど無神経な使用をするとは思えませんから、化学薬品の件と合わせて、天才詩人の長女は除外できるでしょう。残るたった一人の候補者は三島 (由紀夫:「推理小説批判」 のなかで 『Yの悲劇』 に物言いをつけた。引用者註) がフーテン娘と罵倒した人物でしょう。/ではフーテンを偽装している女がいかにしてジャッキーを籠絡してその手先 tool としたかを説明しなければなりませんが、これは簡単な仕事です。早熟の少年に惜しみなく肉体を与えて愛撫するならば操縦することは容易でしょう。
                                                      QUEENDOM 第76号 p.39

個人的には、「こんな 『Yの悲劇』 は嫌だ」 ですね(笑)。

さて、真田説で気になった点を二つばかり。

その一。「あらすじ」 をジャッキーへの犯行指示書として利用するのであれば、当初、探偵小説のプロットとして真犯人究明のために組み込んだ、Y (わたし) を指し示す手がかり、ペルー・バルサムのくだりは、まるで意味をなさなくなるので――自殺ののちも、死体が確認されないことを確信し、自分が生存していることをほのめかしたいのでない限り――削除するのが自然ではないでしょうか。

その二。ヨークは、ハッター家のなかでは、息子の嫁であるマーサにだけは、気を許していました (p.286)。同じ 「よそ者」 として、同類相哀れむものがあったことが匂わされています。その子供のジャッキーを、殺人機械に仕立てることに、抵抗はなかったでしょうか。マーサは何も気づかずにおわるかもしれない。でも、もしジャッキーがしくじって逮捕されでもしたら、マーサの悲嘆はいかばかりでしょう。あまつさえ、「ヨークおじいちゃんに、やってみろって言われたんだ」 などと暴露された日には、どれほど恨まれることでしょう。小生がヨークなら、気持ちが挫けます。

『Xの悲劇』 で登場したレーンというキャラクターの、本作における変化、ないし多面性の提示という観点からも、触れておきたいことはあるのですが、いいかげん長くなりすぎましたから、そのへんは第三信で捕足的に扱うことにしましょう。今回はこのへんで切ります。               
                                              (2015. 2. 10)


第3回につづく】
【第1回】

                                    ※初出 《ROM》 144号 (2015年10月)
                                              (2017. 2. 8掲載)

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