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 制 服 自 由 化 案、否 決 さ れ る
― 函館東高制服の歴史 ― 
 1973(昭和43)年1月、生徒会総会で制服自由化の提案がなされ否決された。次年度、生徒会総会で制服自由化の提案がなされ、可決。翌年4月1日、制服新制度(完全自由化)制度が正式実施される。制服設定から廃止までの歴史を追ってみた。自由化までの3年に及ぶ制服問題の歴史を年表にまとめた。その後の話と思い出話も入れいる。
 この制服問題の進展こそ、東高らしさが出ているのではないかと考えるからである。
                                                  2007.8.20 管理人、                                                          
函館東高資料集ブログ「制服自由化の歴史」にて公開・非公開のコメントを募集しております。よろしくお願いします。
☆皆さんの声☆
 お初にお目にかかります。同じ川崎在住のオヤジサーハーです。制服自由化の写真見てビックリ、なんとうちのクラスの卒業写真が使われているではないですか。                    2007年10月3日 17:16 ゲン
 制服自由化も私達の時期で、1年生の終りの生徒総会で話し合い多数決で否決。2年生の時の生徒総会で可決。
私達は3年生の時から私服で通いました。制服と私服の生徒の奇妙な光景でしたが次第に慣れていきました。
                                       2007年11月03日 03:20 のん太 さん(昭和50年卒業生)
 昭和47年度に、私は2年生でした。3学期に制服制度を議題とした生徒総会が行われ、その改廃が否決されました。当時、私たち2年生の発言内容は、制服制度を変えることで非行に繋がるような危惧を、3年生に与えた、と思います。また、2年生の1部の発言者は、発言の態度自体も好ましくありませんでした。私には、3年生の多くが後輩と母校を思い遣る結果の反対であった、と思います。
 その後、3年生の時には可決され、学校側からも認められて、私服化が進みました。「服装が華美にならない様に、下校時などの行動に責任を持つ、修学旅行は制服とするなど」、幾つかの取り決めが有った様に、記憶しています。
 さて、私たちの代が制服の自由化では初めての卒業生でした。果たしてどれほどの卒業生が私服で出席するのか。ところが、一人を除いて他はみんな制服を着用していました。2年生の時はあのように乱(はみだ)していた生徒たちが、何と落ち着きの有る卒業生へと変わったのでしょう。
 先生方も父兄も、そして先輩たちにも恥ずかしくない卒業式だった、と思います。ただ、私には拘りが有り、私服で卒業しました。
                                        2010年6月11日 大野章
☆今も語られる制服自由化否決☆
 「23期生(1973年卒)で思い出すことは、制服自由化案を否決したことです」と当時生徒会顧問であった田中久先生はいう。これは2007年10月に行われた23回生同期会の挨拶での言葉である。

 昭和48年3月10日付「青雲時報」は当時の議論の内容を生々しく伝えている。「全生徒へのアンケート結果では半数以上がなんらかの現状打開を望んでいるのに、この(否決)票はおかしい。特に3年生の(賛成)票が少ない。いいかげんなのではないか」と再動議が出された。「別に学年別対抗をしているのではなく、みんなが精一杯考えている。勝手に3年生はヒドイといわれるのはおかしい」「現状維持を支持。自由な服装に課せられる責任についてもっと認識してほしい」「制服制度の自由化により、非行化が著しく増加する危険性がある。この点を考慮する必要がある。」「制服であろうが、私服であろうが非行に走るのであるから、それは本人の自由に由来するといえる」
 2回目の投票でも、1年生351票、2年生334票、3年生53票の合計738賛成票しか集まらず、重要事項の必要可決投票797票に59票足らず否決された。

 34年前のことを思い浮かべ、当時前生徒会長 中野英之さんは「竹内(当時の生徒会長)に言ったんだ。重要事項にすべきでない。普通議題にしていたらすんなり可決していたのに」と述懐する。電話で当時のことを聞くと、「やあ、覚えてない。自分だけの判断ではなく、みんなの意見を聞いて、(重要事項に)したと推測するけれど......」と当時の竹内清生徒会長は言う。

 否決した3年生が卒業したその年9月13日、制服制度に関する臨時生徒会が開催された。第1議案は、「制服制度を変更するか、否か」。「重要事項に指定するのはおかしい」との動議が出され、否決される。「第1議案は可決された。その間、意見を述べる者も、質問するものもなく、きわめて静かな審議だった」(12月22日発行青雲時報) 第2議案は、「変更するにおいて、どのようにに変更するか」。制服制度の完全廃止案が、1年344票、2年359票、3年343票、合計1,053票で採用され、「これを生徒全体の意志として、学校側に提出することが、決定した」。同年11月1日服装新制度試行期間が始ったのである。

 右上の2007年10月7日撮影写真は、1973年まで実際に着用されていた女子の夏制服である。今日までずっと大事に保存されていた。「当時、夏服は2着持っていました。夏服は着る時期も短いかったです。1着は父親の知り合いから頂いたもの。私の1着も近所の後輩に差し上げました」と:現在、小学校を教えている五十嵐(石津)圭子先生は述べている。
                                                 2007.10.14 管理人
☆制服の設定☆
 昭和25年4月、函館東高校(管理人注:開校当時は男子校だった)となって男女共学が実施された当時、制服制度は存在しなかった。太平洋戦争が終わってほど遠くない時期であり、あらゆる物資がまだまだ不足だったから、制服を統一することは難しかった。ようやく「標準服」の制定を見たのは昭和27年のことである。青雲時報代11号(27.9.15)によれば、「女子生徒の服装が華美で学生らしさを欠くという意見と、今年入学した1年女子の基準となるスタイルが欲しいとの希望に応えて」生徒会役員側で、家政科の先生を中心に議会選出の男女7名による委員会をつくり、生徒の世論調査をふまえ色々検討の末、男子は詰襟(学生服)、女子は紺または黒のセーラ服を標準服と決定し、7月22日に披露説明を行った。尚、女子は夏服として白のセーラー服が決められており、6月16日から9月30日までそれを着用する慣わしとなった。
 標準服はやがて、昭和29年3月から正式に制服と定められ、以後約20年間制服時代が続くこととになる。
                                                50年誌より
☆制服自由化の動きから議決まで☆
 48年1月25日、「制服問題」に関する臨時生徒総会が開かれた。役員会から提案された「現状の制服をなんらかの形で変更する」という第1号議案は、重要事項の3分2以上多数決方式で採決の結果、予想に反して否決となった。3年生の圧倒的多数が反対票を投じたためであったが、たんなる感情的対立という図式では説明しきれない、後輩たちへの危惧の念もあったことはいなめない。
 問題はふり出しに戻り、新年度に入ってからあらためて議会に服装問題小委員会が設置され作業を進めた結果、9月13日の臨時生徒総会で最提案、制服制度完全廃止が決議された。これを承認した学校側は、生活指導部を中心に11月1日からの試行期間もふくめ、父母へのプリント配布、生徒心得の改定(服装は、個人の自覚により、勉学を基本とする学校生活にふさわしく、品位あるものとする。」)、特設HRや全体集会での確認と指導という手順をふんで、49年からの服装自由化正式実施にふみきったのである。
                                                50年誌より
☆32年前の制服自由化の思い出 ―― 当時生徒会長・竹内清さん☆
 制服自由化
 高校時代の思い出は、何といっても、制服自由化問題だ。
 制服自由化であって、制服制度廃止ではけっしてない。
 何の因果か、小生は、可愛いかった女性にせがまれ、2年のときに、なかなかなることのできない生徒会長になってしまった。
 当時(昭和47年)は、田中首相の日本列島改造ブームの最中であったが、同時に、制服自由化の波の真っ只中にあった。
 何度も、生徒会内の会議が行われ、「制服の是非」について、先生や親の意見も多く寄せられ、48年春(注:正しくは1月)、生徒総会に「制服自由化法案?」を提出することとなった。
 しかし、卒業を間近に控えた3年生の多くが反対にまわり、法案は否決された。
 重要法案が否決されたことから、社会科の俵先生から、「内閣(生徒会役員)総辞職ものだ」と言われたことも想い出だす。
 やむを得ず、憎き3年生を追い出し、新しい1年生を迎えた5月に法案を再上程し、圧倒的多数で成立させることになった。
 以上が、大まかな流れだが、ときが流れ、同窓会の席上で、憎かった1年先輩と話をする機会に、「反対のための反対ではなかった...」などと聞くと、「上級生としても、真剣に考えていただいたのかなあ....」
 因みに、卒業してから東高付近に行くと、懐かしい制服を見ることもできず、ちょっびり寂しい思いも....
     
                      函館東高等学校関東地区青雲同窓会会報  「関東せいうん」8号より                 
☆話題の人物☆ 1973(昭和48)年3月10日「青雲時報」第90号より
☆当時の先生、制服自由化を語る ―― 菅原善直先生☆
.......これらの運動が高校生の学校に対する批判・要求という形になり、「学園紛争」が起こり、北海道も札幌南高を皮切りに地方都市でも「学園紛争」の波が押し寄せた。
 函館でも、ラサール高校が昭和44年11月、約2週間にわたる授業ボイコットをするなどその影響があったが、その授業ボイコット中の要求項目の一つに「制服制帽全廃」というのがあった(これはどの高校の紛争にもあった要求であった)。
 東高校の場合は、以前から「下駄履き禁止の廃止」・「制帽着用の自由」の要求は出されていたが、昭和44年「制服着用の自由」「制服の下校後の着用の自由」が生徒会を通じて要求され、規律委員会による生徒・保護者に対するアンケートをもとに先生・規律委員会との話し合いの結果、昭和45年7月に「制帽着用の自由」・「制服の下校後の着用自由」が決定された。
 既に、ラサール高や中部高校で制服が廃止されていた昭和47年の生徒議会で、「制服の自由化」に関して発言があり、それを受けて服装小委員会が発足する。その後の経過は割愛するが、昭和48年1月「制服問題」に関する臨時生徒総会が開かれた。教員側としても、何度にもわたる職員会議の結果、「服装自由化」を認めるという結論を出して生徒総会に臨んだ。提出された「制服の自由化」は、賛成多数で簡単に設立するかと思われたが、それが否定されてしまったのである。特に3年生の反対票が多かったが、それには次のような経緯があった。
 この議題に対する論儀が殆ど出ず、裁決に入り否決され、動議により再度審議となり1・2年生対3年生という形の熱の入った議論になったが、再度否決された。3年生から1・2年生を見ると安易過ぎて、「制服自由化に伴う責任」という視点が見られないということだったようである。

 この年の4月から生徒会の顧問となったのであるが、9月に「制服自由化」に関する臨時生徒総会が再度開かれ、1月の総会とは違い、議題に関する論議はなく簡単に承認されてしまった。

              50年誌 二つの生徒会゛「制服自由化」の廃案と「ひんがし」の危機より
☆制服問題を考える☆
 我々若き世代は、旧来の伝統を打破し新しい出発点に立つべきだと意見を耳にする。現状を否定し、これまでの習慣を打破し、その破壊の中から新しいものを生み出そうとするその意気は、ある意味では誠に壮たるものがある。青雲の志を抱く東高男児たるもの、そのくらいの雄大な意気込みを持つことは当然というぺきかもしれない。
 しかし、私は、この威勢のよい、極めて耳ざわりのよい声を聞くたびに、果して我々に現在それだけの能力ありやと自問し、いささか心に抵抗を感じるのである。高校は、9ヵ年の義務教育で学びとった新鮮な頭脳を持つ若人の学問の場であり、それ以外の何ものでもない。我々は、知的に未熟なだけでなく、社会的経験にも乏しく、また思想的基盤も脆弱である。だれかから、耳ざわりのよい言葉を吹き込まれると、すぐその気になってしまう弱さを我々は持っている。そういう我々に、現状を否定・破壊して、新しいものを創造する能力がありや否や、君は。 ............
 私は、ある3年生の発言に強く心を動かされた。彼はこう叫んだ。「灰スクールと呼ばれる高校生活の唯一の思い出は制服を着たことだった」と。制服を着たという思い出だけが明るい思い出として残ったというこの先輩の叫びは、人間疎外の高校生活の実態に多くの示唆を与えているが、それはそれとして、制服は高校生活の象徴であり、将来成人した後で、制服を着てすごした日々を必ずや懐かしく思い出す日があるにちがいないことを、彼は後輩に訴えたかったのだと、私は思っている。
                 1973.3月発行ひんがし第9号より 2年萩野雅彦
写真は東高生、映画俳優ではない。
☆制服と私☆
 ・・・・・学生服を身につけ、参考書を小脇にかかえて青春を語る、これこそ高潔な高校生のあるべき姿と信じていたのです。小さい頃に見た映画からいけば、校舎は木造の方が味があり、何といっても制服でなければなりません。そういう点からも、東高こそ自分の行くべき学校でした。
 ところが、私が東高へ行こうとしていた直前の昭和48年9月、制服制度が廃止されてしまったのです。朝にすれちがっていた東高の生徒が、突然セーラ服からGパン姿へと変わってしまいました。小学生の頃より抱き続けてきた夢の1つが直前になって壊された大きなショックを受けたものです。
 それでも制服は高校生のシンボルと考えていた私は、帽子屋に行って東高の校章を求め東高の金ボタンをつけて入学式に臨みました。以後3年間、詰襟のホックをはずすことなく制服・制帽で通したのです東高の制服に袖を通す度に、高校生であるという喜びを感じそれに恥じぬ行いをしなければならない、という責任感が生まれてきたものです。後に先生方に伺った話によりますと、「それ以後も制服で3年間を通した生徒は何人かいたが、制帽まではおまえが最後だった」ということです。
 ・・・・・・・
 入学して1週間程たった昭和49年4月のある夕方、廊下を歩いていると、井上校長先生が「君、君」と呼び止めるのです。「君はどこの中学生だね、かってに入ってはいかんよ」と注意されます。「いえ、あの....僕はここの生徒ですけれど、」と答えると、「だってその帽子は中学校のものだろう」とおしゃるのです。白線二本入りですから中学校のと間違い易いのかもしれません。そこで付いている校章を見せて説明すると、校長先生は初めてご覧になったらしく、「そうか、これがうちの帽子か「と罰悪そうに笑っておられました。校長先生は4月に着任されたばかり。しかも帽子をかぶっている者がいるとは思ってもみなかったのでしょう。余程印象に残ったのか、それ以後廊下で合うと、校長先生の方から「やあ、宗像君」と声をかれられ、かえって恐縮したものでした。
 その後も度々こうした間違いがあり、札幌へ他校視察に出かけた時など、家出中学生と勘違いされて婦人補導員とすったもんだの一幕もありました。時代に逆行した行動は、時として人を惑わすこともあったようです。
                                         27回生 宗像 英明
(写真は制帽の校章/提供:赤帽屋)
☆服装その後昭和50年代☆
 校舎改築が本格化した昭和54年から55年は、自由化をめざして服装と学習・規律の関係を真剣に論じた世代は去り、始から“自由”を当たり前と考える生徒たちの時代となっていた。校舎移行期という環境と家庭経済の上昇も作用してか、生徒の一部には明らかに指導基準を逸脱した服装・髪型が目につくようになった。
 54年6月には、夏の服装(特に女子)についてノースリーブ、ショートパンツ、装身具類、サンダル履きなどの禁止を確認して父母にも通知した。さらに55年度に入ると、男子の一部をふくめて目に余るパーマの生徒も現われる状況となり、市内各校の規制内容も調査した上、バーマ、リーゼント、染毛等の全面禁止を決め、これもあらためて家庭に連絡徹底をはかった。
                                               50年誌による
☆禁止事項徹底化!! ゛1980(昭和55)年7月21日「青雲時報」第110号
☆ピアス・染髪禁止の廃止を求める著名活動
 昨年(平成9年)の2月頃今の2年生が、ピアス・染髪禁止の廃止を求めて、著名活動を行ったが、活動が広がらずに終わってしまった。
 しかし、生徒の中には、わずかだが、ピアス・染髪をしている人がいる。つまり、そういう生徒は、少なからず学校に対して、不満を持っているのではないだろうか。学校側は、生徒が議会を通して訴えてこない以上、従来通りの規制を通している。
 だか、このような様々な問題を話し合うはずの議会が開かれず、生徒はあまり、本来の議会の姿を知らない。ということは、このような様々な問題に対する不満をどこにも訴えられずにいる生徒が、学校に対して、不満をもったまま、卒業する恐れがある。
 まずは、議会の建て直しを計りたいところだが、その前に、こうような様々な問題が出てきた時、生徒同士、先生と生徒が話し合う機会がもっとほしいものだ。
 東高校は、日常的なことから見れば、生徒同志、先生と生徒の関係は、けして悪くはない。むしろ良い方だと思う。しかし、このような様々な問題が出てきたとき、生徒同士、先生と生徒の関係を疑ってしまう部分もある。
 東高校には、素晴らしい伝統があるが、そうした伝統を作ったのは、人間関係の良さからもできているのではないだろうか。何としてでもまず、生徒同士、先生と生徒の関係をもう一度見直してほしい。
                            平成10年7月23日発行「青雲時報」第147号東風より
☆当時の思い出話☆
Commented by 昭和48年卒のおじさんより
 昭和48年1月の生徒会総会で、制服自由化の提案がなされ、否決されました。私自身は賛成しましたが、その時、たまたま私がクラスの決を体育館で採り、否決の報告をしたときには驚いたと記憶してます。
 酒を酌み交わしながら、1期下の元生徒会長のT氏は「先輩の期が制服自由化案を否決したことは、今でも忘れられない」というのです。彼とは30数年前のことについて楽しい議論を何度もしました。
 今になれば制服も良かったけれど、Pooさんの昔話を読むと私服姿も見てみたかったなあとも思います。
 中学校時代に加盟していた団体の先輩(当時教育大学の学生)に高校進学選択について相談した結果、東高が良いと薦められ、迷わず一校のみを受験しました。その先輩も東高出身です。その選択は間違いなかったと今も確信してます。
 新しい市立函館高校もそんな高校になって欲しいものです。
 それから30余年いろいろありました。
 Pooさんの昔話を読んで、こんなことあんなことが思い出されます。

Commented by poo_easy2  at 2007-04-05 01:39
>昭和48年卒のおじさんさま☆

わたしたちが在校生のときに、全校集会で
お前たちは、私服校ということを当たり前に思っているが、先輩たちがどんなに頑張って制服自由化したのかをきちんと考えてみろ。お前たちがだらしない服装をすることで、昔先輩が勝ち取った自由を、お前たちが無駄にすることになるんだぞ」と、怒られたことがありました。
 東高に限らずですが、先輩たちからの伝統や努力を、受け継いでわたしたちはつながっているんですよね。

プログeasy come easy go 2を引用させていただきました。
☆制服自由化の年表(昭和45年から昭和49年)50年誌より☆
1970
(昭和45年).
4.23 服装問題研究委員会を委託
6.26 社研部主催の制服・制帽についての公開討論会。
7.16 服装問題についての新規定を承認。21生徒に発表。内容=制帽の着用は自由。登校時は制服着用、校外での服装は自由とする。
1972
(昭和47年)
10.5 生徒会役員改選、新生徒会長に竹内清君(2年生)
10.23 職員会議で服装検討委員会の設置を決定。以後経過の説明や生徒「総会」の指導等について報告、討議
10.30 議会で服装問題小委員会の設置を決定。以後12月までの間に服装自由化に備えて精力的に努力。職員側のアンケートによって父兄の意向を調査しつつ、LHRで生徒に討論させ、また生徒側との合同委員会を開いて意思の疎通をはかる。一方生徒側はラ・サール高校、中部高校の実態調査を手始めに、校内の公聴会や討議会を開催し、さらにアンケート・LHR・会長会議等を通じて生徒の意向を調査し、かつ啓蒙活動を行う。
11.20 女子の服装に関する規定も一部緩和=ストッキングは黒または肌色。ハイソックスの着用を認める、と変更。
1973
(昭和48年)
1.25 制服制度問題に関する臨時生徒総会。
重要事項のため3分の2以上の多数決により、第一号議案「現状の制服制度をなんらかの形に変更する」を採用の結果、否決となる。(結局この問題は次年度へ持越し)
5.28 臨時議会で服装問題小委員会の発足承認
6.15 服装問題小委員会、1年生に対し経過説明会を実施
9.4 服装問題についての臨時LHR
9.13 臨時生徒総会、制服制度完全廃止を決議これを受けて職員会議においても服装制度の根本的変更を決定。完全自由化の方向で作業をすすめることを確認。具体的な取組は生徒指導部が担当。
10 11月1日からの服装自由化試行期間への移行に備え、父兄にプリント配布、生徒心得の改定、特設HRでの内容徹底と指導、生徒全体集会における最終確認等をすすめる。
11.1 服装新制度試行期間始まる。(49年3月まで)
1974
(昭和49年)
4.1. 服装新制度(完全自由化)正式実施.
☆日本でセーラ服がいつ誕生したか?

 その歴史は古く1920年11月に遡るという。
 2007年10月27日付読売新聞に新説が発表された。
『「日本最古のセーラー服、京都の平安女学院で復元・披露

 
 中高一貫校の平安女学院(京都市上京区)が大正時代に日本で初めて制服に採用したセーラー服を復元、生徒らが27日、同校で開かれた学校説明会で披露した。

 同校のセーラー服導入は1920年11月。従来、第1号とされていた福岡女学院(福岡市、21年導入)より早かったことが、制服メーカー「トンボ」(岡山市)の調査で確認された。」

 説明会では、初代セーラー服姿の生徒ら2人が登場。紺のワンピースに大きな襟と胸元のリボンは当時、志望動機になるほどの人気だったといい、入学を志望する小学6年の女児(12)は「テレビで見た昔の女学生そのもの。私も着たい」と目を輝かせていた。」』

☆2008年制服はいかに☆
 あれから30余年、今の高校生の服装はどうなっているのだろうかと疑問に思っていた。2008年3月1日付「読売新聞」夕刊に、「私服校なのに詰め襟」と題して、制服の記事が掲載されていた。

 同紙によると、「私服校に詰め襟・ブレザー姿7〜8割「らしさアピール」東京を中心に、詰め襟の学生服を着る高校生が増えている」という。『私服校なのに男子の8割が「カラス」という高校もざらだ。管理教育への抵抗の象徴として、制服廃止運動が盛り上がったのは1970年ごろ。みんなでこぞって「NO」と叫んだものが、なぜいま人気なのだろう。「押しつけがいやでね。閉じ込められた気持ちになる。強制されても人間は育たないよ」。元内閣官房長官の塩崎恭久さん(57)は、東京都立新宿高校で制服廃止運動の先頭に立った。「リーバイスのジーパンをはきたくて……」。求めたのはオシャレではなく、自由だ。 この時代、全国的に廃止運動が起きて、新宿高校をはじめ、多くの高校で制服が廃止に。中央大学付属高校(東京都小金井市)もその一つ。70年、生徒たちに押しまくられて校則を見直した』
 今また、校庭に、学ラン姿が復活しているようだ。

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