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大 学 区 制 ス タ ー ト
紹介プロク゜
1966(昭和41)年度
 「♪南渡島の風うけて 秀才鈍才まじりたる まじりたる」 ―― これは御存知、今も同窓会で歌われる第4応援歌の一節である。作詞、作曲者不明だが、大学区制時代以前に作られたものではないだろうか。函館東高設立当初、中学校と同じように決められた地域から生徒が入学する小学区生が採用されていたからだ。設立前年の1949(昭和24)年11月、高等学校通学区域設定委員が発足し、その結果、翌年1月、函館地区普通高校小学区暫定措置案にこぎつけた。その決定によって、市立函館高が3高に転校をよぎなくされた。
 今度は一転して、大学区制が誕生する。その当時の様子を「50年誌」と「青雲時報」から拾ってみた。 
 大学区制スタートにより下宿生が現われてくる。7年後の下宿事情の記事を紹介。また、4年前の進学、就職事情も記した。
                                          2008.2 管理人
大学区制の採用☆・・・・函館史「通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み」から「大学区制の採用」が紹介されている。
☆小学区制から大学区制へ☆
 昭和25年以来全道130学区の小学区制が行われていたが、昭和40年5月15日、道教育委員会は昭和41年度における公立学校の通学区域および入学者選抜方式の改善に関する基本方針を決定、それによって全道公立高等学校の通学区域は次の9学区大学区制となった。
  1.石狩、後志学区
  2.渡島、檜山学区
  3.胆振、日高学区
  4.空知、留萌学区
  5.上川、宗谷学区
  6.網走学区
  7.十勝学区
  8.釧路、根室学区
 小学区制と大学区制との比較に於ける利害損失については広く一般父兄、現場の教師及び道教育委員会の間論議応答がなされた。
 例えば、
 1.大学区制になると、いわゆる有名校に入れない子供達に劣等感を与え、非行化を促進させはしないか
 2.入試の激化の試験地獄をいっそう助長する心配はないか
 3.大学区制によって有名校等の格差が増大するのではないか
といったような疑問がだされ、反対運動も起ったのであるが結局昭和41年から大学区制が施行されたのである。
                                           50年誌より
☆小学制終わる☆
 (1961)昭和36年以降の大学受験者は年々増加し、36年には約60%、37年度は73%、38年以降は70〜75%という高い進学希望を出している。進学希望校は道内、東北地区が多く、創立以来の傾向は変わらない。こうした中で道教委より出された大学区制は41年度より施行されることとなり、大きな問題となった。従来、越境入学問題などで批判こそあったが、昭和25年以来の小学制の歴史は、高校教育の普及、男女共学の推進など大きな成果があった。しかし「その能力に応じて等しく教育する」目的で各自の能力にあった学校を自由に選択させることが第一の利点であるとの大学区制に対する道教委の考え方に対して、高校の格差が広がる・受験地獄に拍車をかける・男女共学制がくずれる等の批判がだされている。そして通学問題も当然予測され、父兄の負担増は覚悟しなければならないものとなった。
                                          青雲時報縮刷版 解説より              
☆波紋なげかける大学区制☆
 ――高校生はいかに考えるか!?・・・・・どう変わる中等教育
■不安つのる中学生
 大学区制は「その能力に応じて等しく教育する」ということを目的としており各自の能力にあった学校の自由に選択できるということが第一の利点としてあげられている。だが高校間の格差をつくり、受験地獄に拍車をかける、男女共学制がくずれるといったことなどが予想される。・・・・・・・・「自分は入ってしまったから関係ない」というような無責任な声も聞かれるが、ほとんどは大学区制に移行されたことに大きな関心を持っているようだ。一番身近な問題として直面している中学生、特に来年度の受験生には反対の声が強い。一部には「自分の実力がないから困る」という利己的な考えを持ったりする者もいて、やはり大学区制になったということに対しての不安が大きいようだ。来年度受験する当人にとって自分の学校のメドがつかなく初め決めていた志望高も変えるといったような生徒もあり、また中学校の教師にしても頭の痛い問題だとのことである。
■格差は今もある
 反対理由の最も多いものは“学校間に格差がつく”ということであるが、これについては「郡部の生徒が都市に来れる、といっても実力のある者に限られるので郡部と都市との学力にますます格差がつくのではないか」「同じ公立でありながら一流高、二流高のレッテルをはられると優越感や劣等感を持つようになるのではないか」などの意見がある。「各学校の個性を出せるので良い。お互いの競争によって学力を向上できるのではないか」・・「ある程度格差がついても義務教育ではないのだから仕方がない」との意見も少なくない。・・・・・・・・
■能力本位の学校を
 ・・・・・・「今の状態では自分の通学区域にある高校が自分の能力に合っているとはかぎらない実力に合った学校を選んで勉強することによって自分の個性を伸ばすことができる」「郡部の生徒に、都市の学校で学べるチャンスができ『教育の均等』をなしえるのではないか」という賛成意見や「大学区制を実施する前に、郡部の学校の設備を良くし都市との格差を縮めることはできなかったのだろうか」などの意見も見うけられた。
■よく聞け道民の声
 ・・・・・一方「抜き打ちだ」「勝手である。もっと道民の声を聞いてやるぺきだ」との声が強く、・・・・こうしたやり方に疑問を持っている者も少なくないが「いずれこうなるものだから道教委の態度は適切である」との意見も聞かれた。
 大学区制、小学区制それぞれにプラス、マイナスがある。問題のプラス、マイナスを差し引いてどちらが多く残るかである。我々は世論にまどわされず、利己的な考えに陥らず、各自、自分の意見を固めることが必要であろう。   

                                          昭和40年7月7日発行「青雲時報」第68号   
☆プロフィール―東高生下宿事情☆
 現在下宿生は、どれほどいるかというと、なんと全校の10%の110名である。以外に少ないのに驚く人もいると思うし、私の同胞は割りに多いと改めて関心する人もいるであろう。北は稚内から、南は函館まで、広い範囲で親元をはなれ、誇り高き東高に入学してくるのである。しかし期待は裏切られ、下宿費は高いし(1月1万5千円ほど)親のすねをかじって、B・F、G・Fとデートするなんて申し訳ないと思いつつ、夜の函館の町へフラリと......なんていうことが多いのではないかと思う。
 下宿に帰っても話す相手もいなければ、からかって遊ぶ兄弟もいない。いるのは下宿のオバサンとオジサン、これじゃあ下宿に帰りたくないし、ますます家が恋しくなるばかり。もっともこの年になれば親に甘えることも、必要がないわけだ。しかし、いざ、病気をした時の心細いこと、医者も知らないし、ましてや介抱してもらうなんて、申し訳なくて申し訳なくて、というところが実状だろう。我々は、あたかも親の手元をはなれ一人立ちしていると考えがちである。しかしながら、それは錯覚である。我々の不安定な精神のころに親からはなれて生活するということは、マイナスにあろうと決してブラスになり得ないだろう。結局、地方では、ある程度成績が良く、中級家庭の子が多い。・・・親は自分を無理して函館へ出してくれている。
 この寂しさと苦悩に耐えることが、いったいどれだけの価値があるというのだろう。普通の家庭でも、月2万円からの出費はきつい。親としては食べるものも食べず、忍びがたきを忍び、堪えがたきを堪え、この出費に、自動の夢と、望みをかけているのかもしれない。・・  しかし、ある意味では、こんな状態に耐えるとこから、人間として耐えていける底力のようなものが成長していくのではないだろうか。今年からひかれる中学区制とともに、今の教育体制を考えなおす時期である。
                                          昭和48年3月10日「青雲時報」第90号
補足☆昭和37(1962)年、七(進学)、三(就職)の卒業生
      受験者増す東北地方、昨年より悪い金融関係
 今年も早や卒業シーズンがやって来た。卒業生470余名のうち就職希望者130余名、進学志願者は350名である。
 ・・・・・本校今年の受験の特徴は北大には昨年より大幅に減少して73人、東大は昨年旧卒1人だったが現役で2人、京大には今年1人、昨年4人(いずれも現役)・・・・・・地元北海道大学函館分校は昨年とほぼ同じ100人近くと依然我高からは圧倒的に多い。
 本校の1年1番活躍した美術部ではほとんどが自分の好きなこと(本能)をのばすためか一流の美術大学、学部を志望している。
 応援歌にもある“競いてここに幾有余闘魂もよる若人が、いざやと一声矛をたつ、ふるえふるえよいぞ時をあげよ”のごとく試験を突破して欲しいものだ。我が母校の為にも.......。
 本校の就職状況はどうであっただろうか。・・・・・・・さて、仕事の内容は先に示してあるように事務係が大部分であるように今後もますますその傾向が強くなって行きそうだ。又初任給は約8,000円〜15,000円となっている。昨年度は学校側で強く力を入れた銀行、証券会社などの金融関係が半数近くをしめていたが、本年度は残念ながら相当減って、学校側をがっかりさせた。昨年同様に好調だったのは市役所(15名)等であった。
                                          昭和37年2月22日「青雲時報」第55号より
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