更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2020年12月29日(火)
『ジョゼと虎と魚たち』と、今年観た海外アニメーション

○『ジョゼと虎と魚たち』
とてもよかった。
ボンズが有り余る作画力を日常芝居に投入するとこうなると言うか、久々にさわやかな感動を味わった気がする。

序盤で、ジョゼが室内を移動する様子をはっきり写さないのはなぜだろうと思っていたら、海辺のシーンで最大の効果を上げるためだったか。こういう計算された演出は大好き。
パンフレットから、気になったところ引用。太字は引用者による。

キャラクターデザイン・総作画監督 飯塚晴子インタビュー
-恒夫のデザインの最終的な決め手となったのは?
首の太さですね。鈴木(麻里プロデューサー)さんもよく言われていたんですが、首の筋肉の胸鎖乳突筋、その筋がセクシーでいいんですよって言われていて(笑)。

そういえば『リズと青い鳥』を観たとき、首がひょろっと細長いデザインが目を惹いたのだった。あれは、生々しさと非現実感の絶妙なバランスを追求した結果だったのだろうな、と思う。

コンセプトデザイン・loundrawインタビュー
-loundrawさんが感じた、本作の魅力を教えてください。
ジョゼや恒夫が、すごく人間らしいなって思うんですよね。アニメーションの登場人物は「キャラクター」になっていくもので、それは良い部分でもあればそうでない部分でもあると思うんです。ともすれば人間というより記号的表現になってしまうものもある中で、今回は本当にキャラクターが生きていて、悩みながらちょっとずつ前に向かっていくところが、実写っぽいけれどちゃんとアニメとして面白いものになっている。すごいバランスで成り立っているなと思います。逆に実写だとできない、現実世界のネガティブな側面を描いているのも新しいですよね。たぶん見え方としては恋愛ものに大別されると思うんですが、実際に描かれていることはもっと複雑で、「生きていくこと」そのものがちゃんと描かれている。恋愛映画を観たくて来たという方たちに、それ以上のものを持って帰っていただける作品になっていると思います。皆さんにもぜひ何度も観ていただいて、浸ってほしいです。

パンフレットはスタッフインタビューが充実していて、とても良い出来映え。欲を言えば、画面設計・川元利浩の仕事の詳細が知りたかった。それと、スタッフリストの字が小さすぎて読めないのは、決して私の老眼が進んだからではないと思う。

どうでもいい余談。
・恒夫が、まるで気にしてない舞を名前呼びするのはどうなのか。
・飛行機でメキシコに行くのに、恒夫の高所恐怖症はどうなったのか。
・エピローグの、家を解体するパワーショベルの描写に「ロボットアニメのサンライズ」の血を感じる。


今年は、海外アニメーション映画をよく観た年でもあった。
○『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』
世評の高いこの作品、WOWOWで放送してくれたのでやっと観られた。もっとファンタジーよりの作品かと思っていたら、ガチの極地探検ものだった。氷山に帆船が押し潰されるシーンの迫力と恐怖といったら、ちょっと類例がないほど。

○『羅小黒戦記』
これも世評の高い作品で、充実したアクションが素晴らしかった。
が、たまたま観た直後に「マイノリティの側が融和を求めるのはいかがなものか」という批判を耳にして愕然。
確かに、現実の政治に基づいて考えれば「チベットもウイグルもおとなしくしてろ」という話だもんな。そこまで思い至らなかった自分に、少しばかり自己嫌悪に陥った。

○『ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒』
十分に発達した人形アニメは、CGと見分けが付かない。
ライカの技術は、もはや袋小路に入りつつあると思う。
前回の『KUBO』もそうだったが、ライカ作品共通の欠点は、悪役にまるで魅力や説得力がないことである。そこをどうにかしない限り、せっかくの高度な技術も意味をなさないと思うのだが。

○『Away』
横浜での最後の上映回を滑り込みで観に行った。やはり劇場で観て良かった。ラトビアのアニメ作家ギンツ・ジルバロディスが1人だけで作った81分。緊張と静寂、それでいて躍動感に満ちた映画。
監督は『トゥモロー・ワールド』『イット・フォローズ』などを影響を受けた作品としてあげているが、私は『ライフ・オブ・パイ 虎と漂流した227日』を連想した。遭難ものという意味でもそうだが、途中のエピソードなどよく似ている。

パンフレットから、ギンツ・ジルバロディス監督インタビュー
-『Away』のカメラワークは本当に素晴らしいですね。特に「鏡の湖」のシークエンスはこの映画の最も美しいシーンの一つです。
GZ カメラというものはとても表現豊かなツールです。カメラの動かし方や動きを止めることは言葉のようなもので、僕はそれを探求することにとても興味を持っています。可能な限り少ないカットにして、代わりに長回しをしてカメラが漂いながら周囲を探求するように撮る。ワイドショットからクロースアップにカットするのではなく、カメラを近づけます。これによって観客はキャラクターの世界の中で隣にいるような感覚を得るのだと思います。

ただ、日本版エンディングは蛇足だった。こんな地味な映画、劇場公開にこぎつけただけで快挙だし、いろいろあるんだろうなとは思うが。

あとは、 『ホフマニアダ ホフマンの物語』『幸福路のチー』もWOWOWで観たけど、感想は特になし。

2020年12月27日(日)
『シー・バトル 戦艦クイーン・エリザベスを追え!!』とか

最近たまたま、『誓い』('81)と『シー・バトル 戦艦クイーン・エリザベスを追え!!』(2012)を続けて観た。
『誓い』はオーストラリア時代のピーター・ウィアーの初期作品。まだ若手純真美青年だったメル・ギブソンが主演。『シー・バトル』の方はトルコ映画である。

タイトルでピンときた人は相当映画と歴史に詳しい人だと思うが、いずれも、第一次世界大戦最中のガリポリ攻略作戦を描いた映画なのである。イギリス、フランスなど連合軍は、オスマン帝国の戦線離脱を狙って海路ガリポリ半島に上陸し、首都イスタンブール攻略を狙う。しかしガリポリはオスマン帝国によって堅固な要塞と化しており、膨大な損害を出して作戦は失敗する。『誓い』は、無垢な青年が地獄の最前線に送り込まれて無為に死んでいく悲劇として描く。

一方、オスマン帝国の側から見れば当然、これは輝かしい勝利ということになる。『シー・バトル』の邦題は大嘘八百で、クイーン・エリザベスはわりとがんばった感のあるCGで確かに出てくるが、主体は要塞戦である。なおトルコでは、チャナッカレの戦いと呼ぶそうな。2012年製作だっつーのに「祖国とアラーのために命を捧げよう!」という大変男らしい映画である。いまだにこんな戦意高揚映画が作られてるんだから、世界が平和にならんわけだ。

前の期の話になるが、『銀河英雄伝説 DIE NEUE THESE』を澤野弘之のOP目当てで録画したら、本編も意外なほど面白かった。メカもキャラも、現代アニメ風のリファインがとてもうまくいっている。(特にメカデザインは、前回のアニメ化当時からすでに古くさかったと思う。)

ところで、私は『銀英伝』も含めて田中芳樹の作品を読んだことがない。私の中学、高校生の頃が人気絶頂だったと思うが、特に『銀英伝』の民主政治の理想を謳う様子がどうにも青臭く思えて嫌だったのだ。
しかし、時は流れて2020年。今や現実の世界は、18世紀さながらの専政独裁国家と、ポピュリズムに首まで浸かった「民主主義」に二分されている有様だ。田中芳樹に先見の明があったとは言いたくないが、現実が『銀映伝』に追いついてしまった。嘆息せざるを得ない。

2020年12月5日(土)
『アサルトリリィBOUQUET』第9話など

激しくて、ある意味泥臭いアクションシーンが良かった。コマ送りしてみると、モノクロ反転したこんなカットが。





ぶっとい描線、荒々しいタッチ、オバケ影の多用。
まるで70~80年代のロボットアニメのようだ。

作品としてはたわいもないものだし、3DCGも多用しているが、いざというときは手描きがものを言う。

ふと思い出したのが、『SAO アリシゼーション』。
この作品を観ていてずっと気になっていたのが、キャラクターの輪郭線の細さ。とても人間業とは思えない細さで、どうやって描いているのだろうと思っていた。たぶん撮影で何らかのエフェクトを加えているのではないかと思うのだが、いずれ全面的に3DCGに移行するための布石のように感じられて憂鬱だったのだ。

ところがクライマックスに近づいてアクションシーンが激しくなると、ここぞという見せ場はGペンで描いたようなぶっとい輪郭線が頻出するようになって、大変心強い。手描き作画は健在だ。

2020年12月3日(木)
『映画にまつわるxについて』

最近たまたま、西川美和監督のこの本を読んだ。

日本映画界の未来を一人でしょって立っている西川監督が自身の映画制作について綴ったエッセイ集。映画を撮れば賞を総ナメ、小説を書けば直木賞候補。世の中はどこまで不公平なのか。それはともかく、本書にこんなくだりがあった。

(自分の映画に、聴覚障碍者向けの字幕をつける作業をしていて)

誤解を承知であえて言えば、映画の中の「聴いてもらうべき音」を「言葉」に直して字幕で観せる、「観てもらうべき風景」を「言葉」に直してアナウンスで聴かせる、という作品の披露の仕方というのは、本来自分の目指した表現としては不完全であることは否めない。「ストーリーが解ればいい」「大体でいい」のであれば、一切合切、大体でいい、ということになる。そんな感覚ではワンカットも作っていない。不完全なものを提供していいのか、という大きなジレンマがある。しかし、この不完全さの根幹は、こちらが聴かせようとしている音を、観客が「聴きとることができないこと」ではなくて、聴かせようとしている音を、「言葉=記号」に置き換えていることなのだ。私は、言葉の威力というものが怖い。ガイダンスや字幕のように短いセンテンスになればなるほど、描写力のエッジは強くなり、ずばりと型にはめていく霊力に似たものを発揮する。それゆえに、「言葉」に圧倒され、潰されていくのだ。映画の中の、「得も言われぬもの」が。それこそが、私たちが、死にもの狂いで捉えている映画の真骨頂なのに。

西川美和『映画にまつわるxについて』実業之日本社、2013年、47ページ。

先だっての『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』について述べたことにも通じるし、『鬼滅の刃』についても言えることだ。
一応観てきた。わざわざIMAXで。
つまらんとは言わないが、なんともはや、一本調子の、およそメリハリとか緩急とかいうもののない映画だった。『空の境界』から『Fate』まで観てきたが、ユ-フォーテーブルは、そろそろまともな映画を作るべきだ。2時間のうちにその映画の世界があり、作品の中で完結している映画を。

2020年10月27日(火)
『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』と『どうにかなる日々』

○ 『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』

TVシリーズのころから、何か理解に苦しむ作品だと思っていた。あれだけの文明があるのに代筆業が商売として成り立つという世界観がまず解らん。ビジネスパーソンなのに胸元全開のファッションセンスが解らん。配達人が上役にもクライアントにもタメ口きく神経(と、制作者の無神経)が解らん。
それでも美しい画面には見応えがあったのだが。

いくら京アニの○○○○映画だからって、これはひどすぎるんじゃないの。
映画ってのは、登場人物が泣きじゃくる場面を見せてもらい泣きを誘うもんじゃないだろう。いやまあ需要はあるのかも知らんが、品のないやり方である。

私見だが、京アニは、作品ごとにテーマを設けている。本作のTVシリーズにおけるテーマは、「TVシリーズの画面にどれだけの情報量を盛り込めるか」だったのだろう。そしてこの劇場版のテーマは、「すべての感情を作画芝居で表現すること」だったのだと思う。
しかし映画とは、静止画でも風景でも、カットの一つとして組み込まれることで何かを語ることができる芸術である。
残念ながら、本作の芝居に感じられるのは、オーバーアクトの空疎な騒々しさでしかない。

本作で唯一良かったのは、ガス灯の点灯係の爺さんが電灯を見上げることで、時代の移り変わりを示すシーンである。

ちょっと検索して見つけた、現存する手紙代筆業の人々。

 すたれゆく手紙代筆業 インド・ムンバイ

 御年86歳、サイゴン中央郵便局の代筆屋


○ 『どうにかなる日々』

比べるのも何だが、対極にあるのがこの作品である。
時間は60分、キャラクターの描線は少なく、感情は抑えめ、美術は写実よりも絵画寄り。だが、圧倒的にこれは映画である。

パンフレットから、監督・佐藤卓哉と演出・有冨興二の対談。強調は引用者による。 

-ドキュメンタリー作品を見ているかのように、そしてキャラクターが実在しているかのように見せることが、本作にとって重要だったんですね。

佐藤 今回、オムニバスという形式も、そこにうまく作用してるんじゃないかなと思いますね。1本の話だったら、どこかで僕らも主人公に感情移入させたくなったと思うんですよね。オムニバスだからこそ、観る人と登場人物たちとの距離感を適度に保つことができるんじゃないかなって。

-主人公に感情移入するというより、俯瞰で見ているような感覚ですね。

佐藤 そうなんですよね。アフレコでキャストさんにお願いした芝居も、あんまり感情を吐露するような感じじゃなくて、少し抑えた感じで。本音はまだ言えないぐらいのテンションで言ってほしいんだという話をしました。あのとき、改めて自分でも思ったんですけど、これって作品全体のことだなと思ったんですよ。登場人物の内面にあんまり近寄れないなって。ある程度距離を置いて、ただ彼らの日常の瞬間を撮ることに徹するのが必要だなと思ってすごくさじ加減が難しかったです。そういう意味では、ライデンフィルムの京都スタジオって劇場向きで、本当にぴったりでしたね。なるべく日常のペースを守って、決められたペースで仕事を上げていけるスタイルをちゃんと守ってる人たちと仕事ができたのはすごく大きかったです。

(中略)

佐藤 一定のペースで、なるべく規則正しく上げるという制作スタイルって、『どうにかなる日々』の内容やテーマ、客観的視点にもすごくマッチしていたと思うんです。例えば、もっとこのカットを厚くしたいからと、ものすごくこだわりの強い人がいたら、バランスが取れなかったかも知れない。そういう意味で、客観性のあるメインスタッフが揃っていてよかったなと思います。

(中略)

有冨 僕の方では、日常芝居の画面づくりをやっていきました。自分たちの日常を肯定して、その目線で描くというのをアニメで表現するのであれば、真俯瞰とか真アオリみたいにアニメ的な表現は意図的に排除して。できるだけ人の目線と同じアイレベルにしようと。それから、二人の人物が会話をしていて、一方にカメラがあったら、当然ながら向き合っているから片方は正面で片方は後頭部が映るんです。それをアニメでは、顔を見せたいという演出意図で顔を見せるような角度で描写することも多くて。でも、そうすると二人の目線が合わないという問題が生じるんです。それはリアルじゃないということで、本作ではそれはやらないという映像のスタイルについて佐藤さんと話をさせていただきましたね。

佐藤 はい。本格的にエピソード3に着手した辺りで、「パンフォーカス(画面全体の近くから遠くまでピントがあっている状態)でやって、手前をボカすのはやらないですよね?」と有冨さんから言われて。僕はここまで厳密にやるとは言ってなかったんですけど、有冨さんが「このカットはパンフォーカスでいきましょう!」と。

有冨 他の作品ではできないような演出が、この作品ではできたんです。

佐藤 そこで乗ってくれたのは良かったですね。

有冨 前をボカすとか、デジタルになって結構簡単にできるようになったんですが、演出って、できるからやるんじゃなくて、できるけどやらないという判断することも大切だと思うんですよね。

佐藤 美術に関しても、ディテールの描き込みは要らないですと。それは手を抜いていいよというわけじゃなくて、むしろ難しいことを要求していました。時間をかけて、描き込みすぎないほうがこの作品の映像として絶対良くなるということを伝えていたら、みんな分かってくれました。それは撮影も色彩設計もそうですね。制作が進んでいくと、やりすぎないことをみんな楽しんでくれるようになったと思います。引き算するのって難しいんですよ。不安だから何かやりたくなっちゃう。それをいかに我慢して、不安に打ち勝って、引き算のままでより良いものにするかをこの作品で実践しました。
2020年10月9日(金)
『姉妹いじり』

表題は、1999から2000年にかけて発表されたアダルトアニメ。
美人姉妹が親の借金のカタに売られて、性奴隷として調教を受ける。その調教を請け負った調教師の男が、仕事に嫌気が差して引退を考えているというのが物語上のポイント。

本作は、一部でとみに有名である。なぜかと言うと、『エヴァ』に強く影響されているらしいからだ。
どのくらい似ているかというと、このくらい。

登場人物の顔を真正面から捉える大胆なカット。
 

家を追われて旅に出る姉妹の、長い長い横移動カット。この場面だけ画面が上下に狭まる。
 

 

たどり着いたのは団地の一室、というのがまたなんとも。


ドアが開くとその向こうは真っ赤に染まっていて(これ自体はイメージシーン)。
 



画面いっぱいに明朝体で示されるタイトル。黒字に赤という鮮烈さ。


モニター越しに組織から指示を受ける調教師。画面の中はもちろんおなじみのポーズ。残念なことにSOUND ONLYではない。
 



闇の中にスポットライトが当たると、新たな登場人物がいる。


これもおなじみ、様々な姿の自分に責められる自己嫌悪シーン。
 

 



調教師は姉を連れて逃げるが、結局は組織に粛清される。下がそのラストシーン。
「よお。遅かったじゃないか」
 

誤解してほしくないのだが、本作は紛れもなく見応え十分な傑作である。ネタとして消費されるのはあまりにも惜しい。
監督、脚本、絵コンテ、演出、アニメーションキャラクターデザイン、作画監督(脚本と作画監督は共同名義):米田光宏。

作画@wikiによると、シャフト出身で新房監督の薫陶を受けているそうな。なるほど、私の趣味に合うわけだ。

気がかりなのは、「一時期は奇抜なアダルトアニメを連発していたが、現在は地上波アニメがメインの仕事となっている」という記述。近年、アダルトアニメはほとんどがマンガかエロゲー原作で、商業ばかりか同人誌が原作ということも珍しくない。それもインモーション方式(マンガの絵を直接取り込んで動きをつけるやり方)が多い。1話30分というフォーマットも崩れ、15分程度が主流でストーリーなどなきに等しい。抜きゲーばかりになってしまった、と言えばいいだろうか。

エロと言えども奇天烈な企画が実現しなくなっていることと、米田の動向は無関係ではないように思う。
『タワー・オブ・エトルリア』など、米田が絵コンテ・演出を手がけた1話だけが突出して面白いことからしても、大変な実力者であることは間違いない。しばらく監督作がないようだし、腕を振るえる場があると良いのだが。

2020年8月31日(月)
animatorの意味

2016年の日記で、「米バラエティ誌が今注目すべき10人のアニメーターの一人に新海誠を選んだ」という件の記事を書いた
「英語においてanimatorという単語は、アニメ制作者全般を指すらしい」という趣旨で、最後にこんなことを付け加えた。

「アメリカでは商業映画としての手描きアニメはすでに絶滅しているので、原画も動画もなくなっているのだ!」

そうしたら、これを「手描きアニメがCGに取って代わったので、animatorという単語の意味が変化した」という風に解釈した方がいたようだ。

私としてはそこまで言うつもりはなかったのだが、誤解を招く書き方をした責任上調べてみた。国会図書館がようやく使用できるようになったので。

結論から言うと、CGの普及によってanimatorという単語の意味が変わったという事実はない

権威ある英英辞典Oxford Advanced learner's Dictionary of Current English で調べてみると、1995年の5th editionでも2010年の8th editionでも、animatorはa person who makes animated filmsと書かれている。
ちなみに1975年の3rd editionにはanimatorという単語自体が収録されていない。

もちろん実制作の現場やファンの間では、用語の変遷があるのだろうが、少なくとも一般向けの辞書に収録されるような次元では、animatorという単語の意味は昔から一緒である。

さらにもう一つ衝撃の事実。『現代用語の基礎知識』2019年版でも、アニメーターは「動画製作者」とある。なんのこたない、日英ともに原画だ動画だ仕上げだ撮影だとこだわっているのは、我々だけだということである。

2020年8月25日(火)
『Fate』完結

『劇場版Fate stay night Heaven's FeelⅢ spring song』(タイトル長ぇ!)
結末の答え合わせのつもりで、とりあえず観てきた。

感想は10数年前に書いたのと同じ。ただ例のシーンも、自分で選択肢を選ぶゲームと違って、流れの中で観られるアニメならわりと素直に観られた。
パンフレットを見ると、川澄綾子がインタビューでセイバーオルタを演じる辛さについてかなり突っ込んだ発言をしているのが興味深かった。それと、下屋則子のインタビューの歯切れの悪さも。これはキャラクターと物語を誰より熟知しているがゆえだろう。

ところで、昔、本作の感想を探しては読んでいた頃、最後の決戦の場が地下空洞というのが地味だ、という意見を眼にしたことがある。その点、映画では狭い閉鎖空間のバトルゆえに見せ方に工夫がこらされていて良かった。・・・と思ったら、やっぱりこのシーン三浦貴博の絵コンテだそうだ。この映画三作とも、見せ場は全部三浦絵コンテじゃないの?
それも物語の進行と直接関係ないシーンばかり。第一作のランサー対アサシン戦とか。
本筋と関係ないシーンにやたらとリソースを投入して見せ場にするのは、映画のあり方としてあまり健全ではない。
それは、この作品そのものへの感想とも重なる。

2020年8月20日(木)
『少女歌劇レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド』

この作品、私はTVシリーズを1回観ただけで舞台の方は知らない。以下の文章は、その上で映画を観てのものである。

TVシリーズを観たとき、その面白さとは別に、結末に何となく割り切れないものを感じていたのだが、映画で復習して理由が分かった気がする。
本作は、有り体に言えば「デスゲーム巻き込まれ型」の一種である。
普通この種の物語は、ゲームのルールを破壊してゲームの外へ脱出することで解決する(この辺受け売り)。主人公・華恋は、ひかりと2人でスターになるために物語の結末を変えてしまった。しかし本作の場合、ゲームのシナリオを改変しただけで、ゲームのルールは変わっていないことになる。これがすっきりしない原因の第一。

第二が、なぜ華恋にだけそれができたのかいまひとつ納得がいかないという点。華恋を衝き動かしている動機はひかりと2人でスターになりたいというものだった。しかし、何もかも切り捨てて、友と刃を交えてでも頂点に立ちたいという渇望に対して、いくら幼少期からの約束とはいえ、友情だけでは弱いのではないか。

そして第三。勝ち残れるのはたった一人というルールに対して、華恋とひかり2人がスターになれるという改変で対抗した場合、「3番手以下は切り捨てていいのか?」という倫理的な問題が生じるはずだ。

実は、この問題を愚直に突き詰めた作品がある。『カレイドスター』('03)である。本作は、舞台に立つために足を引っ張り合うことに嫌気が差した主人公が、「争いのないステージ」を実現するという結末になった。結果的に、倫理的にも論理的にも正しいが、物語としてはどうにもふやけた代物になってしまった(もっとも10数年前に1度観たきりなので、今観たらまた違う感想になるかもしれない)。

本作はその問いに答えようとはしていない。実質的な見せ場が決闘シーンである以上、本作にそれを求めても詮無いことではあるが。


表現的には、あくまでアニメで舞台を再現することにこだわっているのが面白かった。舞台上では、例えば火事だったら、背景画に赤い照明を当てたりスモークを炊いたりして火事が起きているように見立てる。しかし本作では、舞台上で起きていることを現実に起きていることのように描くのではなく(やろうと思えば可能なはずなのに)、本当に書き割りが出たりハリボテの怪物が出たりするのだ。リアリティのレベルが2周くらい回っていて斬新だった。

パンフレットの古川知宏監督・黒澤雅之(編集) 対談インタビューから、古川監督の演出技法の面白い点。強調は引用者による。

-「再生賛美曲」の歌詞もラストで呟いていますね。
古川 そこは「ここで必ず主題歌の歌詞を言う」と決めて編集していました。結果、歌詞が来た段階で黒澤さんに「すみません、5秒伸ばしてください」と言うことになって。
黒澤 たしかに伸びましたね。
古川 これって完全な後出しジャンケンです。絶対に勝つという。だから、個人的には後出しジャンケンをするということに関して勇気をもとうと思っています。なるべくしてはいけないことではあるのですが、フィルムをよくするために「申し訳ない!」と言いながらもそれを要求するのが僕の仕事だと思っているので。
黒澤 私は後出しジャンケンとは思っていなくて、ライブ感があるということですよね。本当に「スタァライト」の編集というのは飽きないなと思います。

-「スタァライト」の編集は、どういったところが独特なのでしょうか?
黒澤「スタァライト」の作品ということよりも、古川監督のスタイルという方が正しいと思うんですけど、普通は30分のTVシリーズを作ろうと思ったら、たとえば編集前の状態が3分オーバーしていますとなったら、基本的に縮めながら編集していくんですよ。ところが古川さんはいったん尺のことは忘れて、多いなら多いなりに作品のベストな状態を1回作って、そこから放送尺に落とし込んでいくというスタイルをとるんです。7話もたしか編集前の状態が6分くらいオーバーしていて、アニメだと6分オーバーはちょっとあり得ない。当然、どう短くしていこうかという話を普通はするんですけど、古川さんは伸ばし始めましたからね(笑)。最終的に7分半くらいのオーバーになったのかな?そこからループを1回削るとかして、うまいこと放送時間に収めていったんですけど、そういう作り方をするのは古川さん以外には私はちょっと経験がないですね。


2020年7月5日(日)
2度目で気づいたこと
最近BDで観直して気づいたこと。
その1
『天気の子』で、陽菜が天から地上に帰ってきたとき、チョーカーが外れている



このチョーカーは母の形見であり、



ずっと肌身離さず身に着けていたものだが、それはいわば陽菜を縛る枷でもあった。だから、旧世代から受け継いだ責任なんか負わなくてもいいんだ、という結論に至ると外れているのである。
確認したら、絵コンテの段階でそうなっていた。



相変わらず新海監督は理詰めの人だ。


その2
『空の青さを知る人よ』のラスト近く。
あかねを無事救い出した後、しんのと慎之介の3人で車で帰るといい、と言うあおいに対して、しんのが「ありがとな。目玉スター」と声をかける。

それに対してあおいが顔を上げると、肝心の眼のほくろが画面から切れてしまうのである。

 

あおいにとって、このほくろはベースを弾き続ける理由、しんのを慕い続ける理由、大げさに言えば彼女の拠って立つ土台、生きるよすがだった。



だが曲折を経てあかねと慎之介の思いを知り、少しだけ-あまりこの言葉使いたくないが-成長したあおいは、もうほくろに頼らなくてもやっていける。
それがこのカットの意味するものである。

なお、あかねはしばしば何かに周囲を取り囲まれた構図で描かれる。下図は車のドアだが、ご丁寧なことに、このドアはあおいが開けっ放しにしたものである。



音楽堂の裏手で慎之介と語るシーンもまたがんじがらめという感じなのだが、



よく見ると後方にドアがあることに気づく。



気の持ちよう、視点の置き方によって道は開けるという暗示であろう。

こうしてみると、昨年公開されたこの2本はいずれも、若者は己を縛る地縁血縁とどう向き合うか、という話だったとまとめられそうだ。それぞれが出した答えの差異に思いを巡らすのも一興だろう。

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