更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2015年5月25日(月)
『蟲師 特別編「鈴の雫」』の、劇場展示

シリーズ最終話を劇場公開。あの原作を、あのアニメ化スタッフが劇場向けに作るのだから出来が悪かろうはずもない。

劇場に、スタッフの寄せ書きが飾ってあった。
目を惹いたのが、動画監督・佐藤加奈子が動画に書き込んでいたコメント。パンフレットに原画が多数収録されていて、原画マンの書き込みや注意事項が読めるのだが、動画監督の注意が世に出るのは割と珍しい気がして。




「観て下さる皆様へ こちら動画のギンコです こういう絵を何十枚何百枚と描いて動かしていきます」 



「線の強弱<中割時>
太いところはずーっと太め
細いところもずーっと細く
統一して下さい」

下図は、下アゴから耳へとつながる線の描き方の注意。



これを「何十枚何百枚も」描くのだから、まさしく気の遠くなりそうな仕事である。
原画に比べると注目されにくい動画だが、完成画面に現れるのはあくまで動画であって、その仕事にはもっと敬意を払わねばいけないなあと。

ちなみに、原画にはトレス線を「優しく」「柔らかく」という注意がやたら多かった。
これら入魂の描線一本一本が、本作を支えている。

2015年5月19日(火)
かなた映画全集

ずいぶんと間が空いてしまったが、こういう大物企画に取り組んでいた。

題して「映画は彼岸をめざす」。

ところで、これ「邦題に『~を探して』がつく映画」から思いついた企画なのだが、最初に連想したのが「寂れた炭坑町で手製のロケットを飛ばす高校生の映画があったなあ」ということだった。
記事を書いてる最中にやっと思い出したら、これだった。



かなた映画じゃないじゃん!
ちなみに、この映画で主人公を励ます高校教師の役がローラ・ダーンなのだが、この人「白痴的であるがゆえのエロい聖性」が持ち味なので、いつ脱ぎ始めるかと思ってドキドキした。『ジュラシック・パーク』の学者役が似合わないこと。




すごくどうでもいいけど、うちのATOKが『尾張のセラフ』と誤変換した。あれか、第六天魔王とかそういう人のことか。

2015年4月28日(火)
雑記

○ いつぞや公開した「アニメ作家の35歳」が、『アニメージュ』で話題になっていた。記念に図書館でコピーを取ってきた(買えよ。)。



うわー、あの方があれ読んだのか・・・・・・。
あの作品を当人は代表作とは思っていない、というのが興味深かった。原作付きだから。
無責任な観客の私としては、アニメ版の功績はアニメ化スタッフのものだと思うのだが。


○ 『放課後のプレアデス』
1話はいたって平凡だったのに、2話が見違えるほど面白かった。あまり速く見切りをつけてしまうべきではないな。
特に気に入ったのがこれ。

  

世界が重なってしまった結果、上履きが1足しかないので片方ずつ履いているというカット。
すばるとあおいのつかず離れずの関係を鮮やかに表現している。絵コンテ・演出の春藤佳奈という名前、覚えておきたい。

ところでドライブシャフトのあの駆動音、やっぱりスバル伝統の水平対向4気筒なのかしら。


 『響け!ユーフォニアム』
「ああ、『けいおん!』の夢よもう一度って感じ?商売とはいえ安直だねえ」などと思っていたのだが。
すまん、安直なのはオレの方だった。

問題山積みでやる気のない吹奏楽部の内情が明らかになり、人間関係がきしみをあげる第三回。
これは『がんばれ!ベアーズ』だ。ぜひ変にひねったり照れたりせず、王道のスポ根もので行って欲しい。
絵コンテ・演出は山村卓也。
若手演出家が次から次に台頭する京アニの人材育成の見事さよ。

2015年4月14日(火)
雑記

最近は、野球シーズン到来に加えて『フリンジ』やら『ボディ・オブ・プルーフ』やら『ナイトメア』やら『ニュースルーム』の再放送やら海外ドラマ観るのに忙しくて、あまりアニメを観る時間が取れない。

終わったり始まったりしたものを少しだけメモ。

○ 『ユリ熊嵐』
高橋葉介の『夢幻紳士 怪奇編』(80年代に『メディウム』に連載していた方。高橋葉介初体験だったこともあって、この当時の描線や絵柄が一番好き)に、「老夫婦」というエピソードがある。『ユリ熊嵐』最終話を観て、この作品を思い出した。

てっきりラスボスはユリーカ先生だとばかり思っていたのに、あっさり途中退場。そもそも紅羽の母との因縁てなぜ必要だったのだろう?と解けない疑問がまだあるので、さほど語ることもないのだが一つだけ。

私は割と本気で、この作品は花壇の中の超ミニマルなお話ではないかと思っている。つまりユリは百合の花、熊はクマバチではないか。そう考えるとこの男性性の全き欠如、紅羽の父親がまるで存在せず、あたかも紅羽が母親のクローンのように出現した理由がわかる気がするのだ。


○ 『トリアージX』
大変カッコいいのだが、このカッコよさは『喰霊 -零-』の1話で全滅する方のカッコよさである。


○ 『響け!ユーフォニアム』
1話がとても良かった。主人公が吹奏楽部に入部することを決意するまでのエピソード。その決断に至る理由も決断した瞬間も、明確には描かれない。しかし、目にはさやかに見えねども、1話30分のエピソード全体としては実にすんなりと腑に落ちる。初めて山田尚子の演出を良いと思った。

それととてもよく似た印象を受けたのが、『旦那が何を言っているかわからない件2スレ目』の2話。
いやなんでかちゃんと説明します。

このエピソードは、主人公がふとしたきっかけで、旦那との相性の悪さが気になってしまうが、愛情を確認して落ち着くという話。オタと非オタ夫婦の話なのでつい色眼鏡で見てしまうが、「自分の人生はこれでいいのだろうか」と思ってしまう瞬間は、誰にでもある。幸福な日常に生じたそんな小さなさざ波を、このエピソードは見事にすくい上げている。
それもたったの5分足らずで!
絵コンテ:永居慎平、演出:北村淳一。
よもやここでこの作品を採り上げたり、演出スタッフに注目したりする日が来るとは思わなかった。

最近あるきっかけで思ったのだが、TVアニメの1話30分というフォーマットは長すぎるのではないだろうか。この件はまた改めて。

ところで『響け!ユーフォニアム』のCMを観たときから気になっていた疑問その1。この作品、楽器をどうやって描いているのか?手描きにしか見えないのだけれど、まさかあの複雑な金管楽器を?CGを手描きっぽくベタ塗りしているのか?
疑問その2。私も音楽サークル経験者だけど、吹奏楽部を「すいぶ」って略すの初めて聞いた。私の大学では単に「吹奏楽」か「ブラバン」だったなあ。

2015年4月2日(木)
すべては美しい思い出のなかに ~『アルドノア・ゼロ』完結~

2期に入ってから夢中で観ていた。改めてシリーズ全体を思い返すと、登場人物たちの数々の因縁からなるサブプロット、例えば鞠戸大尉のトラウマ、ライエの復讐、マグバレッジ艦長の屈託等々を、1期のうちに全部片付けてしまっている。
主人公3人に焦点を合わせるためだろう。
SFスーパーロボット宇宙戦争と思われていたこの作品は、実はその本質は優れた青春ものであった。ここで青春ものとは、平たく言えば少年少女がイノセンスを失い、代わりに何かを得る話である。ビルドゥングスロマンとの違いは、喪失の側に重点があることだ。

伊奈帆は左目を。
スレインは自由を。
そしてアセイラムは初恋を。

3人ともに何かを失い、何かを得た。
22話で再会を果たした伊奈帆とアセイラム姫。滅多に内心を表に出さない伊奈帆にかわって、彼の第二人格たるアナリティカルエンジンは、本人よりよほど雄弁に想いを伝える。
「この少年は、あなたを別の個体と認識しながら、自己の一部と誤認している」。
かつて、これほどに情熱的な愛の告白があったろうか。

最初から平和主義者ではあったが、地球と火星との和平を望んでいた「だけ」だったアセイラム姫は、その実現に向けて自ら力を行使し、責務を果たすことを決意する。
今の彼女には、伊奈帆とともに過ごした苦難と冒険の日々を「美しい思い出」と思い返せる強さがある。彼女は思い出を胸に、良き統治者たらんとして残る人生を捧げるのだろう。

映画とは何か?という難しい問いがある。その答えのひとつは、「限られた時間で人生を描き出すこと、画面に映っていない時間を想像させる豊かさを持つこと」というものだ。
そういう意味で、『アルドノア・ゼロ』は立派に一編の映画たり得た。

以前指摘したように、地球と火星の差異を象徴するのが鳥である。ラストカットを飾るのは、青い空を連れだって飛ぶ3羽の鴎。本作にふさわしい締めくくりであった。

最後に、タイトルの『アルドノア・ゼロ』は何を意味するのかについて。解釈は様々にあろうが、私としてはエピローグに登場したアルドノア炉心-アセイラムが地球と火星との架け橋に、との願いを込めて起動した炉心はどんな形だったか、を想起したい。
すべてはここから始まるのだ。

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