更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2013年9月25日(水)
『青い花』4周目

2000年代を代表するスーパー演出アニメこと『青い花』をBDで観返している。
4回目になるが、今回の新発見。
以前、6話で杉本が差しだした手を握るふみについて触れたが、3話の初デートのシーンで、これに対応する描写があった。もう一目瞭然で、杉本の右手をふみは左手で握り、手をつないでいる。

 



もう一つ感心したのが、帰宅した場面。ふみは帰宅するとまっすぐ階段を上って自室へ向かう。

 

母親がリビングから出てくる気配を察すると、小走りになって階段を上がる。母親と顔を合わせたくなかったからだが、そのことが足音だけで表現されているのである。
自室にたどり着いたふみはベッドに倒れ込む。その千々に乱れた髪が、何よりも雄弁に彼女の心境を物語る。



ことほどさように、名作は観るたびに発見がある。

2013年9月18日(水)
『桐島、部活やめるってよ』

昨年大いに話題を呼んだ『桐島、部活やめるってよ』をやっと観た。
内容については今さら口を挟むことはない。監督は吉田大八。作品歴を見ると私のヒットゾーンにかからないものばかりで、名前は知っているが観た作品はない。「化けた」、ということだろうか。カスみたいな映画が大量生産される中、こうした良作がちゃんと作られ、しかもヒットすることを心強く思う。

ところで、本作を観てすごく気になったことがある。
それは、教室内の向き。普通、学校の教室と言ったら教壇に向かって左手が窓、右手が廊下になっている。私が通った学校はみんなそうだったし、映画でもマンガでもアニメでも大概そうだと思う。
『桐島』ではこれが逆なのだ。教壇に向かって右手に窓、左手に廊下がある。

調べてみたら、右利きの人間が書き物をする際、陰にならないようにするため明治28年の「学校建築図説明及設計大要」で教室は西側を正面にする、と定められた。人工照明が発達した現在ではこの規定はなくなっているが、慣行として左側採光が多いのだとか。
するとやはり、『桐島』のロケを行った教室はかなり珍しい設計だということになる。

左側が窓になった通常の教室だと、「窓の外を見る」という画を撮った場合、人物が右向きになる。普通、映画では画面に向かって右向きが「行き」、左向きが「帰り」の印象を与える。だから、通常の教室では「窓の外を見つつ行く末に思いをはせる」という効果を生みやすい、と言えそうだ。
『桐島』は、青春時代に普遍な閉塞感を見事に表現した映画だが、それには「窓の外を見ると後ろ向きになる」という構図が一役買っているのかもしれない。考え過ぎかもしれないけど。

2013年9月11日(水)
『王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件』

昨年見逃した映画。WOWOWで観たのだが、これがもうサービス満点、荒唐無稽、奇想天外、圧倒的に面白い。このいかがわしいタイトルを考えた人は天才である。

時代は唐代。中国史上唯一の女帝・則天武后の即位を目前にした洛陽で、人間が突然燃え上がる怪事件が頻発。失脚していた判事ディーが呼び戻され、謎に挑む。
牛久大仏みたいな超・巨大仏像!スポンティニアス・コンバッション!洛陽の地下に埋もれた古都!妖術!剣!鞭!弓!クンフー!ワイヤー!
主人公は超絶に強く、美女には秘密があり、権力者は野望を抱き、地下には怪人が跋扈し、友情は裏切られ、巨大構造物は崩壊する。
そうだよ、これがエンタテイメントだよ。こんな傑作が単館上映なんてどうかしてる。ちなみに、人体発火の謎も意外と合理的に解決される。『山海経』的な合理だが。

2013年9月10日(火)
『声をかくす人』

最近ネガティブな記事ばかり書いているのを反省したので、久々にいい映画を褒めようと思う。
表題作は、ロバート・レッドフォード監督の2011年作品。まったく偶然にツタヤの店頭で見かけて借りたら、これが大した傑作だった。
原題は『THE CONSPIRATOR(共犯者)』。リンカーン大統領暗殺の直後。暗殺犯一味を泊めていた下宿の女主人メアリー・サラットは、暗殺の共犯として逮捕され、民間人でありながら軍法会議にかけられる。元北軍大尉の弁護士である主人公フレデリック・エイキンは、元司法長官のジョンソン上院議員から彼女の弁護を頼まれる。

日本公開は2012年10月。ちょうど私の本業が追い込みに入った時期だったせいかノーマークだった。スピルバーグの『リンカーン』が賞レースに浮上したため、便乗で公開にこぎ着けたものと推測(もっともテアトル銀座の単館だが)。

サラットはアメリカ史上初めて死刑に処された女性である。結末が判っているという意味で裁判ものとしての興趣は薄い。
むしろこの映画の本質は、正義と平和の対立にある。
スタントン陸軍長官に代表される政府は、南北戦争という想像を絶する過酷な内戦を克服して国家の統合を回復するために、一刻も速く犯人(と思しき者)を処刑して秩序を回復しようとする。サラットの死刑は最初から決まっており、そのためには証人に圧力をかけることも辞さない。エイキンは、「暗殺犯の弁護人」として白眼視される四面楚歌の中で、それでも、真実の追究と正当な裁判という法の正義を追求する。
『リンカーン』は、奴隷解放という理想を実現するために、法と倫理の当落線上を危うく進んでいく大統領の姿を描いた映画だったが、本作はそのリンカーンの死が、正義か秩序かの二者択一を突きつける。

確か江藤淳のエッセイで読んだ話だと思うが、アメリカにとって戦争の原体験は南北戦争である。だから、アメリカは戦争が終わると裁判をしたがるのだ、という。南北戦争の戦死者は約60万人。この数は、独立戦争からイラク戦争までアメリカが経験した戦争の米軍死者数すべての合計より多いとされる。
地図を見ると、ワシントンD.C.と南部の首都リッチモンドの近さに驚く。200km程度しか離れていないのだ。ワシントンにも南部支持者は多数おり、暗殺犯のブースも南部支持を公言しつつ公演している人気役者だった。内戦というものの恐ろしさが身に迫る。

裁判を取り仕切るスタントン陸軍長官を演じるのはケビン・何でも演ります・クライン。もともと器用な役者だが、うまく年輪を重ねて円熟の境地を見せる。主人公を裁判に引き込むジョンソン上院議員役にトム・ウィルキンソン。こうした重厚な役者が、それにふさわしい役を得られるアメリカ映画界の豊かさ、懐の深さが心底うらやましい。

2013年9月4日(水)
『Free!』の不愉快さ

かなり旧聞になってしまったが、3話で観るのを諦めた表題作について。

先日たまたま、「水泳時における3次元的身体フォームの変化」との研究発表を聞いた。現在、クロールの泳法にはS字プル泳法とI字プル泳法がある。水泳のタイム短縮には推進力の増加と抵抗減少の双方が必要だが、S字プル泳法とは揚力を主な推進力に使う最大効率モード、I字プル泳法は抗力を主な推進力とする最大推力モードである。
発表のあった研究は、泳者の腕にマイクロデータロガーを装着して加速度、角速度を計測し、同時に水中カメラで撮影して3次元的なフォームの特徴を分析しようというもの。

詳細は略す(私にもよく解らないので)が、いかなる競技にも理論はある。理論という単語に抵抗があるなら体系と言ってもいい。もちろんそれは不変の原理というわけではなく、技術や競技者の体格や道具の進歩によって日々変化していく。だからといって、理論が存在しないとか無意味であるとかいうことは断じてない。
昔の偉い人は「考えるな、感じろ」と言ったが、こんなのは褒めることでも何でもない。知識が体系化できていないから言語化できず、したがって伝達ができていないだけだ(だから、伝統芸能はとりあえず基本動作をひたすら反復する)。

そこで『Free!』なのだが。私は内海紘子に以前から注目していたので楽しみにしていたのだけれど、正直がっかりだ。
『おお振り』以降のスポーツものとして、あまりに無邪気すぎる。『おお振り』の連載開始から10年も経ってるというのに。

2話でプール修理やってるシーンで、もうイヤな予感がしたんですよ。自宅の風呂の目地修理してるんじゃないんだからさ。ペンペン草が生えるほど崩壊したプールを、素人がDIYで修理できるもんなのか?それより問題なのは濾過設備の方だろう。

最大の問題が、前述の「理論」のこと。繰り返すが、どんなスポーツにだって理論はある。素人が理論を無視していきなり感覚で動いたって、うまくいくわけがないだろう。理論を突き詰めた先に、初めて応用と才能があるのだ。これはどんな世界でも業界でも同じ、普遍の真理である。
やりたいことはわからんでもない。「努力の鬼と天賦の才の対立」が描きたいのだろう(それ自体陳腐だが)。しかしそこに至る段取りが、雑なこと極まりない。何度も言っているが、特殊な業界を描写するのに、ろくなリサーチも最低限の現実感もない、この雑さは耐え難いほどに不快だ。

要するに本気じゃないのだ。水泳のこともプールのことも学校のことも部活のことも仕事のことも。本気じゃないもので人の心は動かせない。

もちろん、フィクションは学術論文ではないのだからすべて現実をなぞる必要はない。何か一つ、「現実との齟齬に生じる引っかかり」を吹き飛ばす突破口があればよい。それは傑出した作画だったり、演出技術だったり、破天荒な物語展開だったり、はたまた声優の演技である場合もあるだろう。良くも悪くも「戦略的」なスタジオである京アニが、そんなことに気づかなかったとは思えない。では『Free!』の突破口は何だったのか?

それはおそらく、「筋肉」だったのではあるまいか。つまり、鍛え抜かれた肉体が躍動する様を作画で描いてやれば、少々の瑕疵は無視できるという計算だったのではないか。そこに計算違いがあった。それは京アニ作品の写実主義である。肉体を正確に描けば描くほど、それは所詮絵であるという限界に突き当たり、決して実写を超えられない。もしそこを突破口にするなら、小池健「WORLD RECORD」(『ANIMATRIX』所収)くらいやらなければ駄目だったのだ(なお『ANIMATRIX』とその肉感的表現については片渕須直監督が面白い指摘をしている)。http://www.style.fm/log/03_book/review031205a.html


以下蛇足。
金髪チビがうざい。目の前にいたら殴るレベルで。おまけに、「本人がいやがってる名前」でわざわざ呼ぶ無神経。こういうのをギャグのつもりでやってるスタッフの思慮のなさが許し難い。こんなのを微笑ましいと思う人間なんてこの世にいるのか?

京アニの次作『境界の彼方』は、石立太一監督だそうだ。京アニは本腰入れて、監督要員を育てるつもりらしい。

2013年9月2日(月)
『SHORT PEACE』

観てきた。都内で4館しかかけていない。ガラガラと言うほどでもないが3割程度の入りで、「世界のオートモ」の神通力もこれまでか。
「火要鎮」。絵巻物風に始まって、このまま最後まで行くのかと思ったら、途中からはカットを割ったりアップを入れたりと普通の劇映画の文法になって、何か不思議な感じ。
「GAMBO」。これ本当に、『鮫肌男と桃尻女』の石井克人なのか?あの面白さはどこへ行った。
どうでもいいけど、熊って骨格の構造上抱きしめるような動きはできないんじゃなかったっけ?だから、ナイフ1本で熊と戦う場合は、熊が攻撃のため立ち上がった瞬間、懐に入って抱きついてしまい、心臓を一突きすればいいのだ。30年くらい前、『空手バカ一代』かなんかにそう書いてあったぞ。確か。

トリの「武器よさらば」が、やはり頭抜けた出来。この作品の真価は、カトキメカがそのまんま動くところにあるのではない。すごい段取りアニメだ、というところにある。これは褒め言葉として言っている。
訓練された兵士がゴンク(思考戦車)と戦うときのノウハウが確立していて、作戦通りにセンサを破壊し、トラップへ追い込み、飽和攻撃を仕掛けて始末する。
観ていてワクワクする。プロフェッショナルの仕事をきちんと順を追って見せていけば、それだけで面白くなるのだ。

ついでだが、チームの目的が遺棄された大量破壊兵器の処分であるところもいい。凡庸な発想だと、盗み出して一儲けみたいな展開になるものだが。『ガルガンティア』がまさにそうだった。

それはそうと、パンフの出来がひどい。字数は多いのに読むべきところがほとんどない。あらすじを書いてるだけの川本三郎のコラムとか、なんだこれ。

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