更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2013年6月26日(水)
『宇宙戦艦ヤマト2199 第六章 到達!大マゼラン』など

メルダかわいい(←アニオタらしい感想)。

実は予告編を観て、一つ心配なことがあった。それは、イスカンダルへの旅が「人類に与えられた試練」と明確にしちゃってる点。
もちろん、苦難の旅という試練を乗り越えた先に未来があるとする作劇はごく一般的なものなのだが、その試練が神ならぬ身の何者かが意図的に与えたものだとするなら話が違ってくる。
彼らはいったい何の権利があってそんなことができるのか?
試練を乗り越えられなかった者は救わないというなら、そこに人道上、倫理上の問題はないのか?という疑問が生じてくる。平たく言えば、「てめえ何様だよ」ということだ。つまり、神のごとく振る舞う者の傲慢を糾弾する役回りが必要になってくるはずなのだ。
いったいどうするつもりなのかと思っていたら、観てびっくり。

デスラーにその役割を担わせているのだ。なるほどその手があったか!


以下、ミリタリーネタのまとめ。もう誰かやってるとは思うが。

第五章、18話で登場する343空の4偵、暗号名ソード3。
紫電改で有名な第343航空隊から。3個戦闘飛行隊の他に偵察第4飛行隊が所属していた。343空の通称が剣部隊、戦闘301飛行隊が同じく新撰組という。コスモタイガーの尾翼に誠のマークが入ってるのはここから。



「彼らは来た」
ノルマンディ上陸作戦を描いた、パウル・カレルのノンフィクション。



「敵機直上」「再攻撃の要ありと認む」
ミッドウェイ海戦で日本空母群が奇襲を受けた際の有名なフレーズ。



442特務小隊
日系人部隊として有名な第442連隊戦闘団から。



惑星レプタポーダの第17収容所
そのまんまですね。




ところで、3ヶ月経ってふと気がついたら『ガルガンティア』と『ヴァルヴレイヴ』の評価がすっかり逆転してしまっていた。誰だ、「TVアニメは監督が絵コンテを描いてる1話を観ればだいたい解る」なんてウソブいていたのは(すみません俺です)。
結局『ガルガンティア』が面白かったのは、レドとガルガンティアが緊張状態にあった3話までだった。以降はすっかり、いかにもジブリ出身者らしいヌルさに終始してしまって。
一方『ヴァルヴレイヴ』はと言えば、人間関係が錯綜するにつれてどんどん面白くなる。
それにつけてもサキちゃんが不憫だ。
何が不憫って、この展開さえ序列下位ヒロインのフラグ立てに過ぎないあたりが。

なお、「年に何度か読み返したくなる文章」というものがあるが、このリンク先はその一つ。
「文脈」を押さえ、「構造」を解析し、「表現」を調査する。完璧!

2013年6月24日(月)
『マリー・アントワネット』

たまたまスカパー!で『ベルばら』を観たらめちゃくちゃ面白かったので、一度ちゃんと勉強しようと思い立った。
シュテファン・ツヴァイクの同名伝記(『ベルばら』は、ほぼこの本に則っているとされる)が有名だけれども、1933年刊行と少し古い。最近の研究成果が反映されたものが読みたかったので、アントニア・フレイザー『マリー・アントワネット』(早川書房、2006年)を選んでみた。
以下、初めて知った事実を摘記。

「パンがなければお菓子を食べればいい」という有名な言葉は、アントワネットの時代の少なくとも100年前から知られており、当時はスペインの王女マリー・テレーズの発言とされていた。正確には「パンがないなら、クルート(パイ皮)を食べさせなさい」。

ルイ16世が真性包茎のため不能だったというのは俗説。手術を受けたという事実もない。

フェルセン伯爵には、王妃と関係を持つようになって以後も、他に2人の愛人がいた。もっともヴァレンヌ事件に見られるように、フェルセンが王妃に献身的に仕えたのは事実。なお『ベルばら』ではフェルゼン表記だが、フェルセンの方が原音に近いらしい。

王妃の寵愛により権勢を得たポリニャック伯夫人は、バスティーユ事件後にアントワネットから逃亡を勧められたが、当初は拒否した。ルイ16世もまじえた強い説得により、ようやくスイスへの亡命を受諾。
王妃の処刑の報を聞いた直後、後を追うように死去した。ガンを患っていたらしいが、王妃の死が死期を早めたとされる。

王妃を中傷する風刺文書は、しばしば王妃を同性愛者として描いた。そのため、現在ではマリー・アントワネットはゲイのアイコンになっている。

一番驚いたのは、ロザリーは実在の人物(がモデル)だという点。
ロザリー・ラモリエールは牢獄の看守夫妻の小間使いをしていた関係で、王妃の最後の日々、身の回りの世話をした。収監中の王妃の様子が現在に伝わっているのは、彼女の回想による。

読み書きはほとんどできなかったが、心根がやさしく、しかも生まれつき頭がよかったロザリーは、年老いてから獄中の王妃について口述の回想録を残したが、そこには胸を打つエピソードが語られている。王妃がもの思いにふけって、二つのダイヤの指輪を指から外しては別の指にはめ、また戻すという動作を延々とくりかえしていたこと。また、過去の暮らしを痛烈に思い出させるハープの音色に顔を上げ、女囚の誰かが弾いているのかと訊ねたこと(本当は、ガラス職人の娘が窓ガラスをこすっている音だった)。358ページ。


もちろん、『ベルばら』のロザリーがポリニャック夫人の娘だったりするのはフィクション。この実在のロザリーをふくらませたものであろう。

2013年6月12日(水)
『あずまんが大王』のプールの件

すでに旧聞に属するが、『あずまんが大王』のプール作画の件。
コメント欄が荒れてるそうなので言及しないでおこうかと思ったのだが、当該ブログの過去ログをさかのぼって読んでいたら2009年の時点でこういう記事を書いておられる。あえてリンクは張らない。

http://sajiya.blog89.fc2.com/blog-entry-175.html 水際の表現はあまり進歩していない

まあつまり、このブログ主さんにとっては以前から関心のあるテーマなわけだ。

その熱意に敬意を表して、少しばかり私の考えを述べておきたい。
これは、いろいろな論点を含んでいる。

1 写実主義がそんなに偉いのか?
うねりのない寒天プール表現がなぜまずいのか?アニメは、抽象度を自由自在にコントロールできる表現である。なにも隅から隅まで現実をなぞって写実的に再現する必要はない。

2 省力化の結果か、画面効果か
CGによるプールが、粗製乱造に伴う省力化の結果なのかどうかは私には判断つかない。だが仮にそうだとすれば、その分のマンアワーをもっと重要な部分に投入できた、ということ(のはず)である。程度の差はあれど、十二分なマンアワーを投入できる仕事などありはしない。
もっと積極的に評価する見方もあり得る。視線誘導効果である。
演出家は、その画面で表現したいことを定め、注目してほしい個所に観客の視線を誘導するものである。その場合、必要のない場所のディテールには下手に凝らない方がいい、とも考えられる。

3 アニメ表現全体への言及
アニメバブルによる多作化、多忙化のため、表現が省略されるようになった(それ自体推測だが)としても、それは一つの事例にすぎない。水際表現の事例から言えるのは、あくまで「水際表現が停滞もしくは退化している」ことであって、そこからアニメ表現全体に敷衍するのは飛躍というものであろう。一事が万事という考え方はすべきでない。

4 そもそも論
ここまで書いたところで、そもそも現実のプールサイドの水って、そんなに波立っているものか?と疑問がわいた。さっそく、大学のプールを見に行ってみたのだが、この季節だから誰もいなかった(当たり前だ)。そこで動画を探してみたのだが。
バタフライでこんな感じ。


水球やっててもこんなもんよ?


水の粘性と表面張力は、思った以上に大きいのだ。もちろん波は伝播するしうねりは立つが、プールサイドに腰かけてばしゃばしゃやってるとかいうのでなければ、「波頭が崩れて白く泡立つ」ほどの波は起きないだろう。

ついでにこんな記事もあった。
http://sajiya.blog89.fc2.com/blog-entry-258.html 大木は横倒しに倒れない

チェーンソー担いで山に入るわけにもいかないので、同様に動画を探す。







・・・・・・やっぱり普通に横倒しになってるように見えますけど。

2013年6月11日(火)
『ショーシャンクの空に』と『フィガロの結婚』

『ショーシャンク』の作中で流れるオペラについて、大変興味深いご教示を頂いたので追記

2013年6月3日(月)
『言の葉の庭』

良い映画でした。
劇場で販売していたBDを衝動買いして・・・・・・しまった!amazonの方が安い!



長くお付き合い下さっている方々はご存知のとおり、私は新海誠については点が甘い傾向にあるので話半分で聞いていただければよいのだが、こうも1作ごとに進歩が見られる作家は、アニメ作家に限らず珍しいのではないか。

事前情報を聞いていた分には、私は「新海は『星を追う子ども』で一般向け指向は満足したので、本来のフィールドに帰ってきた」―という理解をしていた。おそらく大多数はそうだったろう。しかし本作はまぎれもなく、『星を追う子ども』を経た今の新海誠の新境地である。

本作を一言で言うと、「暑苦しい映画」だ。新緑と雨の季節を描いた映画でありながら、映画の熱量、登場人物の熱量が極めて高い。むろんそれは作者自身の熱量でもあろう。
クライマックスで本作の主人公タカオはユキノに対し、涙ながらに思いのたけを訴える。過去の新海作品で、主人公が泣いたり喚いたり殴り合ったりすることなどあったか?
新海の作品は、その制作体制と相まって私小説的と評されることが多い。過去の新海映画の登場人物は、激情を見せることはほとんどなかった。そこに、新海本人の「照れ」を見てとることは不自然ではあるまい。その結果、例えば『雲の向こう、約束の場所』などは仕掛けの大きさ(分断された日本、平行世界、戦争)の割にいたってクールな―静謐なエンターテイメントに仕上がっていて、私などはそこが好きだった。しかし『星を追う子ども』で必ずしも自己の投影でない主人公を転がしてみたことで、新海はおそらくベタで熱いドラマを照れずに描く術を覚えたのだろう。もちろん、観客の感情をコントロールして画面上の出来事を上滑りさせない技術と込みで、である。
スタジオ4℃のオムニバス映画『Genius Party』('07)の一編に、渡辺信一郎の「BABY BLUE」がある。この作品はそれこそ私小説的な青春映画だが、それでもエンターテイメントであろうとする手つきに、観た当時の私は新海との差を感じたものだ。1965年生まれの渡辺は、このとき42歳。1973年生まれの新海が、今『秒速5センチメートル』を撮ったら、こんな作品になるのかもしれない。

以下、雑感。
本作は新海の初めての恋愛映画だが、その初めてのラブシーン、つまり予告でも一部見せていた採寸シーンのことだが、ああまでエロい画を作ってしまうとは、業の深いことである。
万葉集や靴といった小道具が作中できちんと機能している。不思議なことに、オリジナルアニメ映画はこれができていないものが多い。
水や反射光の表現に目を取られがちだが、物語上最も重要な役割を果たしているのは雷である。2人が初めて会ったときは遠景に稲光が走り、再会した時には落雷がある。新海は、「タカオにとってユキノは、神様みたいに神秘的な、天の上の存在のようにしたい」と語っている(パンフレットのインタビュー)。すなわち落雷は天地をつなぐきざはしであり、そのイメージはクライマックスの階段のシーンで反復される。だから天上人たるユキノは、階段を駆け下りる。テーマと表現とが融合し、音と映像が心を揺さぶる、これが映画である。さらに言えば、新海映画に頻出する塔のイメージとも容易に重なる。

最後に付記しておくが、パンフレットが素晴らしい出来である。スチルと声優インタビューくらいしかない凡百のパンフとは一線を画しており、監督のインタビューに加え、大野真、加納新太の評が実に読み応えがある。特に加納の、「新海の興味は【末端】にある。だから塔という【先端のあるもの】をフレームに入れる」という指摘には目を開かされた。編集:落合千春、取材・文:渡辺水央。

バックナンバー