更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2013年5月29日(水)
『電脳コイル』2周目

ここしばらく、『電脳コイル』を頭から観返していた。改めて考えると、本作の中盤以降の展開はめっきりホラーである。なんで放映当時、「小学生のほのぼのノスタルジックSF」みたいな受容をされたんだろう。実際小学生が観たら、トラウマ残るんじゃないか。
それはそうと、続けて観るといろいろ気がついたことがあったのでメモ。

第13話「最後の首長竜」。本放送当時も言及したが、絵コンテは今をときめく『ガルガンティア』の村田和也。このエピソードは一見、箸休めの番外編のように見えるが、「手に触れることのできない電脳ペットであっても、喪失の悲しみは本物である」ことを示す、結構重要なエピソードである。

ラス前の第25話「金沢市はざま交差点」で、ヤサコは金沢を訪れて級友のマユミに会う。初見の時は、なぜこの期に及んで舞台転換?新キャラ登場?と思ったのだが、ヤサコはかつて「親友だと思っていたマユミの力になってやれなかった」ことを負い目に感じている。つまりこれが、ヤサコが「イサコを救う」ことに執着する動機になっているのだ。ここで重要なのが、マユミは自力ですでに苦境を脱しているという点。つまりヤサコの努力は、マユミに対する罪滅ぼしではなく、ヤサコが自分自身のわだかまりに決着をつけるもの-「自分は友と定めた人を見捨てるような人間ではない」と自分自身に証明するための戦い-になっている。「もう少し早い段階で消化しておくべきエピソードではないか?」とか「大黒市と金沢の位置関係がよく解らない」とか指摘はできるが、理にかなったエピソードだ。

前後するが、今回観返して特に印象に残ったのが第17話「最後の夏休み」。ヤサコとハラケンが、図書館横で会話するシーンがある。これが、決して派手さはないが、しみじみと胸にしみる名シーンなのだ。



かんなを死なせた自責に、密かに苦しみ続けるハラケン。
ヤサコは「何か隠していることはない?」と探りを入れる。

 

2人はずっと並んで会話しているが、「かんなのことを気にしてはいない」と否定してみせるときだけヤサコに目を向けるハラケン。



 

このとき、ただ一度2人の目線が合うのだが、ヤサコは目をそらしてしまう。小学校最後の夏休みだから楽しいことをして過ごそう、と言うハラケンにヤサコは向き直るが、今度はハラケンが顔を背け、目を合わせようとしない。

 

視線を交わさぬまま、大切な一言を伝えようとするヤサコだが、折から飛び立った鳩の群れに遮られ、最後まで言えない。

 

無理に明るく振る舞うハラケンに、ヤサコはおそらくそれが虚勢と知りつつ笑ってみせる。



そう考えてみると、「図書館の出入り口が2つある(石段が左右についている)」ことが暗示的に見えてくる。絵コンテ・福田道生と聞いて深く納得(磯光雄と連名)。



で、最終回、エピローグにも同じ「図書館横で話す2人」のシーンがあるのだ。このときは、一度も視線を交わさない。にもかかわらず、明らかに17話よりも通じ合っている(そもそも目線を合わさないのは、気恥ずかしい会話をしているからである)。
同じ「目を合わせない」という芝居付けが、180度反対の意味になっているわけだ。 お見事。

 

 

『電脳コイル』は磯光雄の初監督作であり、有名アニメーターが多数参加していることで話題を呼んだ。しかし、17話のこのシーンは4分弱あるが、作画枚数など微々たるものであろう。画面の出来不出来は、作画枚数で決まるのではない。




余談になるが、私は『ねらわれた学園』がさっぱり駄目だった。あれが「アニメの快楽」なら、オレ別にアニメファンでなくてもいいや。

2013年5月23日(木)
『聖☆おにいさん』

最大のツッコミどころは、パンフレットのスタッフプロフィール。



高雄統子の、京アニ時代の業績がない!
高雄がなぜ京アニを出たのか、そのことをどう考えているのか、つい勘ぐってしまう。高雄が京アニで監督を任されなかったことは、双方にとって不幸だったと私は思う。

それはともかく、作品は実に面白かった。私がこれまで注目していた高雄の作風は、「劇的な場面を理詰めで感動的に仕上げる」というものだった。その高雄がこんなユルい作品を作れたというのがまず驚き。高雄の新境地にして、間違いなく代表作になるだろう。年来のファンとして、何よりもそれが嬉しい(『アニマス』がアレな出来だったので)。
なおチーフ演出に神戸守の名があり、その力も大きいのだろうと推測。

実のところ本作のキモは、イエスとブッダが繰り出す宗教ギャグではない。彼らが見聞する立川の市井の生活である。そこで重要なのは、イエスとブッダがあくまでバカンスで訪れているという設定であろう。すなわち彼らは、いずれはこの地を去ることになる。2000年も前にすでに死んでいる彼らが、現代人のささやかな哀歓に触れてまたいつか去っていく。そのことが、(言葉にするとあまりに凡庸で気恥ずかしくなってしまうが)何気ない日常の愛おしさを際立たせる。不覚にも、ラスト近くでは涙ぐんでしまった。



余談だが、山田尚子の『たまこまーけっと』と比べてみると面白いかもしれない。学園に舞台を限定していた『けいおん!』から、『たまこ』は商店街に舞台を移して、より広い世界を描こうとした。しかしその試みは、成功しているとは言いにくい。「大人らしい大人」が登場しないからだ。なるほど、確かに商店街の大人たちが登場するが、その言動やふるまいはたまこら子どもと同レベルかそれ以下で、どう見ても「大人」のものではない。それでは、実質学園ものと変わらないのではないか。

2013年5月21日(火)
アニメ版『新世界より』

少し前の話題。

私にしては珍しく先に原作を読んでいるのだが、こんな話だったか?確かにこういう世界を舞台にこういう事件が起きるのだが、何かが違う。少なくともこんな百合百合しい話じゃなかったと思うが、それはともかく。本作の面白さは原作に由来し、いまいちな部分はアニメ化ゆえのものに思える。

アニメ版がなんか釈然としないのは、主人公・早季が結局どういう人物なのかよく解らないのが一因である。作中で、早季はいろんな人から「強い子」「指導者の器」と評される。しかし私には、アニメ版の描写を見ている限り、どの辺がそうなのかさっぱり解らない。
アニメ版の早季は、瞬のことでいつまでもうじうじ悩み、社会を嫌悪し、他人に当たり散らし、そのくせ何もしない人物に写る。
象徴的な場面がある。クライマックス、早季は奇狼丸に対して、悪鬼を倒す起死回生の一手を提案するのだが、原作ではそれを聞いた奇狼丸が呵々大笑し、「あなたは大した戦略家だ」と評するのだ。
アニメ版はこの重要なシーンをカットしてしまっている。

そして釈然としないもうひとつの原因は、アニメ版の作り手の、作中世界に対する視線である。私は本作と『PHYCO-PASS』を、「理念あるディストピア」を描いた作品と評したことがある。しかし終わってみると、本作は明るい未来への希望を描こうとした結果、その苦みを担いきれなかったようだ。それはやはり、原作の持ち味を殺すものではなかったか。
悪鬼になる「かもしれない」子どもを排除する社会が異常なのは間違いない。だが原作は、そこに現代の倫理による理非曲直を持ち込むことには慎重だったはずだ。私は本作の放送開始直後に、こんな記事を書いた。「偽りの神」とは何者か、アニメスタッフは正しく理解していた(原作を読めば誤解のしようがないのだが)。だが、それを糾弾するのにやや急ぎすぎた感がある。


もし、現に悪鬼が誕生してしまったらどうするのか。佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』は、『ゴジラ』のラストシーンでの山根博士の独白を批判している。「あのゴジラが最後の一匹とは思えない」と言いつつ、ゴジラへの対抗手段(オキシジェン・デストロイヤー)が失われるのを止めもせず、新たなゴジラの来襲を阻止する努力をしようともしない、と。
同じ批判がアニメ版『新世界より』にも当てはまる。悪鬼への対抗手段、すなわち不浄猫を失い、悪鬼の発生を止めるシステムを失って本当にこの社会はやっていけるのか?ちなみに原作では、早季の両親が放った不浄猫は、あと一息で悪鬼を仕留めるところまで行ったとされている。

SFの作法(と言うべきものと思うのだが)に、現生人類と異なる価値観を持った異質な世界を、とりあえず価値判断を加えずに淡々と描写する、というものがある。私の乏しい知識から代表例として、とりあえずこれを挙げておく。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『愛はさだめ、さだめは死』。異星生物の生活誌を、その生物の一人称で描いた作品。いわゆるSFに限らない。坂東“猫殺し”眞砂子の『善魂宿』は、かつて飛騨に実在したとされる独特な母系社会を描写している。

   

『ガルガンティア』4話でも感じたことなのであえて一般化してしまうが、アニメは、「異質な価値観をとりあえず判断抜きで描写する」ということが苦手だ。テレビアニメという媒体で展開されるSFには、限界があるのかもしれない。
そういえば『ミノタウロスの皿』はOVAとしてアニメ化されている。偶然だが、今回の論旨と平仄が合っていて少し気分がいい。


ところで、『新世界より』の社会は、ボノボの社会を参考にしているという設定である(アニメ版ではほとんど説明されなかったが、性別に関係なくイチャイチャしているのはそのため)。
これまた偶然ながら、『ナショナルジオグラフィック』の先月号はボノボの特集を掲載していた。近年の研究では、ボノボの社会といえど従来の報告ほどセックスばかりしているわけではなく、争いはあるし、原猿類や他の霊長類を捕食する行動も観察されている。
それでもチンパンジーに比べればはるかに穏和な生物であることは間違いない。チンパンジーは同種の他の群れを襲って共食いすることが知られているし、現地人の間では「危険な猛獣」という認識だそうである。『プロジェクト・ニム』でもプードルを壁に叩きつけて殺した、という証言が出てくる。
『ナショナルジオグラフィック』の特集で興味深いのは、ボノボが穏和な種族になった理由である。ボノボとチンパンジーの生息域はコンゴ川の周辺だが、川を挟んで左岸にはボノボのみ、右岸にはチンパンジーとゴリラが生息している。チンパンジーはゴリラと競合して食物を手に入れるために自ずと凶暴にならざるを得ず、ボノボはその必要がなかったため穏和な性質になった、と言うのである。
この事実からは、ヒトとサル、種の違いを超越した真理がうかがえる。

すなわち、「衣食足りて礼節を知る」という奴である。

2013年5月14日(火)
ロボットアニメ二題および『三千里』

気がついたら、当サイトも開設7年を迎えました。いつもお引き立てありがとうございます。



実を言うと、『翠星のガルガンティア』よりも『革命機ヴァルヴレイヴ』の方に期待していた。あの松尾衡監督が、サンライズでロボットアニメを作るというなら、注目せずにおれない。そう言えば『ガンダムUC』6話で絵コンテを担当している-と思ったら、『ガンプラビルダーズ』があった!
それはともかく、松尾監督の作品はしばしば、人形が-正確に言うと「自由意志を持たない人形のような生への嫌悪」がモチーフになる。だから案外、巨大な人形たるロボットを扱った作品とは相性がいいのではないかと考えていたのだが。

2話でまたどっかで見たような露骨な政治情勢が。もう、こういうのどうかと思うのだ。『ガンダム』の頃なら、中立という用語が出てきただけで斬新だったが、もう21世紀だ。中立国の定義、要件、義務などを考えてみてもいいんじゃないか。中立国というのは、交戦国どちらかに利する行為を強要されそうになったら、それを実力で排除する意志と力を有する国のことである。どちらかと同盟したら、その時点で中立ではない。
ボロが出るだけだからあまりそっちに深入りしないでほしいのだが。

・・・などと小癪なことを考えていたのだが、話が進むにつれてそんなことどうでもよくなってしまった。
3話。やる気のないルルーシュが主人公の『コードギアス』。
4話。フラウ・ボウかと思ったらミネバ様。
5話。『蠅の王』プラス『沈黙の艦隊』。・・・・・・・・・『無限のリヴァイアス』か。

この作品、率直に言って正視するのが恥ずかしい感があるのだが、かと言って切り捨てる気にはなれない。とにもかくにも、「ヘンなこと」をやろうとする意欲は買う。


かたや『ガルガンティア』。全編を流れるこのSFマインド!
例えば1話で、チェインバーが「建造物に気密と放射線防護の配慮がなされていないから宇宙空間ではない」と推測するあたりの論理性がたまらん。
だったんだけど、4話でやけに趣が変わってしまった。このエピソードは虚淵脚本ではない。アニメ作品の特質を個人の作家性に求める危険は承知で言うが、案の定という感じだ。
なに、「宇宙の非人間的な管理社会で育った戦争屋が、自然豊かな地球で人間らしい心を取り戻します」って?まだ先が長いとは言え、そういう安易な文脈に帰着しないでほしいもんだ。

人類の誕生以来、地球の総人口はほぼ横ばいだったが、18世紀から増加を始め、1950年以降爆発的に増大している。これは憂うべきことでも何でもない、緑の革命による食糧の大増産、上下水道の整備に代表される衛生環境の向上、医学の進歩などによって平均寿命も乳幼児生存率も桁外れに向上したからだ。
人類文明が無駄飯食いを養っておく余裕を手に入れて、まだ100年にもならない。ガルガンティア世界ってのは、ずいぶんと平和で豊かなんですな。
とまあ、つい皮肉を言ってしまったが、真面目な話あの世界では食糧をどうやって確保してるんだろう。オール漁業に依存してるんじゃないだろうな。そのうち描写されることを期待する(5話で牧畜をやってたが、飼料はどうするんでしょうね)。

ところで本作は、異質な言語を翻訳・通訳・習得していく過程をとても丹念に描いている。これまた、サンプルが多いほど解読が進むあたりが科学的でよろしい。普通なら文明の進んだ側が万能翻訳機みたいなものを出して一発解決してしまうところ、大変自然な描写で好感が持てる。この描写を見ていて唐突に思い出したのが、ご存じ高畑勲監督の歴史的名作『母をたずねて三千里』である。昨年BSで放送していたので、教養のつもりで観ていたのだが、すぐに飽きてしまった。マルコがなにか障害に突き当たっては、「ジェノバから一人で来たんです」「母さんが心配なんです」で一点突破を繰り返すだけなんだもの。もう少しひねりなり知恵なりないのか。

それはともかくふいに気になったのは、『三千里』には「言葉が通じなくて困るというシチュエーションがない」ことである(あくまで私の記憶によれば。実際はあったのかもしれない)。普通、異国で一番心細い思いをするのはそこだろうに。
もちろん、理由はいろいろ考えられる。元来子ども向けの作品だという事情が一つ。また、歴史的事実としてアルゼンチンのイタリア系移民は一大勢力であり、大きな社会を築いていたこと。この辺は当てずっぽうだが、スペイン語とイタリア語なら意思疎通にそんなに苦労しないのかもしれない。
だがそれだけではないような気がする。私は高畑監督の熱心なファンというわけではないので以下は思いつきに過ぎないが、高畑作品では誤解やコミュニケーション不全に基づく衝突や葛藤があまりないように思うのだ。衝突は、相手を正しく理解した上で発生する。
ミミ子は突如現れたパンダ父子といともたやすく仲良くなれる。清太と節子は、おばさんの悪意を正しく受け止めて家出する。ヒルダは二面性があるが、確信犯である。
高畑は基本的に、人間の善意を心から信じているとってもいい人なのではないだろうか。


ひとつ余談。旅に出るまでに丸々1クールを費やしてるのに感心というか呆れた。最近の作品を「展開が急」とか「説明不足」とか言う向きは、こういう悠揚迫らぬペースを基準にしてるんですな。

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