の発言が、何かおかしい。
① 映画『マネーボール』を紹介するラジオで、「サイバーメトリクス」と発言。なんだそれ。電脳戦か?正しくは「セイバーメトリクス」。90年代末頃から採用され始めた野球理論のことだが、「統計学を駆使した手法」というのはよくある誤解。打率だって、統計的に算出した「次の打席でヒットを打つ確率」である。そうではなく、野球選手の能力を評価する指標(打率、打点、防御率など)の有効性そのものを見直した点が、セイバーメトリクスの真に革新的なところである。
② 映画『コンプライアンス』を紹介する番組で、ミルグラム実験に言及しているが、原著を読んでいないと思われる。以前私がここで取り上げたことがあるとおりの、通俗的な誤解をしている。特に「命令されると、普通の人間が嬉々として拷問を楽しむようになる」というのは完全な誤り。ミルグラムはそんなことは書いていない。
③ 先日のラジオで、最近ミニシアターの閉館が相次いでいるという話題の中で「渋谷のシネマライズが閉館」と発言。びっくりして調べたらちゃんと健在だった。シネアミューズあたりと勘違いしているのだろう。罪のない間違いだけどうかつではある。
これらはラジオ番組だから、後に残らないものとして流してしまっていいかも知れない。
しかし、この原稿はちょっと。
『空軍力による勝利(Victory Through Air Power)』:禁断のディズニー・アニメ
私もこのジャンルのプロだからこのくらいは言っても許されると思うのだが、あまりに細部の誤認が多い。大筋で間違っているとまでは言えないまでも。以下、引用は同記事から。
ミッチェルは第一次世界大戦に戦闘機パイロットとして従軍した撃墜王だった。当時、アメリカにおいて、航空機はあくまで陸軍や海軍を援護する役割だった。ミッチェルは、「どんな巨大戦艦も航空戦力によって沈めることができる」「地上の要塞(ようさい)は航空機からの攻撃には弱い」と主張したが、陸海軍はそれを侮辱と捉え、ミッチェルに濡れ衣(ぎぬ)を着せて軍法会議にかけ、除隊に追い込んだ。
ミッチェルはパイロットなのは事実だが、第1次世界大戦(以下WW1)では米第1軍航空隊司令官から米派遣軍航空隊総司令官まで務め、連合軍の航空隊の統合指揮を執った。一介のパイロットではなく、航空戦の指揮官として評価された人物である。
ミッチェルはWW1後、海軍無用論を唱えるなど過激な空軍独立論をぶち上げ、陸軍省の検閲を受けることなくサタデー・イブニング・ポストに一連の論文を発表した。これがまず規則違反。
1925年9月3日、海軍の飛行船シェナンドーが荒天で墜落した。サン・アントニオの新聞社がミッチェルにこの事件の論評を求め、ミッチェルは徹夜で6000字の論文を書き上げた。
ミッチェルは、「これらの悲惨な事故は、陸・海軍両省による国家防衛運営の無能力、犯罪的な怠惰、そして背任と言える行政の直接的な帰結である」と厳しく批判した。
陸軍省は「不服従、規律及び軍律違反」でミッチェルを告発。
1925年10月28日から軍法会議が開催された。その席上、ミッチェルは海軍の技術、組織、ドクトリン、戦術にまるで無知であることが暴かれた。もともと陸軍将校なんだからこれは当たり前だが、陸軍航空支援隊の事故率、飛行時間、装備品のコスト、訓練所要などの質問にも満足に答えられなかった。陸海軍首脳の「無能力、犯罪的な怠惰、背任」の証拠も提示できなかった。
かくして12月17日に結審、翌1926年2月1日に退役に追い込まれた。
1936年2月19日、インフルエンザで死去(注1)。
攻撃的な性格のミッチェルは、自分がどう思われているかに無頓着で、自分の言動が人にどう受け止められるかをまったく想像できない人物だったという。先見性はあっても、政治的センスがなさ過ぎたのである。
「今まで戦争には二つの力しかありませんでした。陸軍と海軍です。しかし現在は空軍という新しい力があります。それを最初に主張したのは、イタリアのジュリオ・ドーウェ、そしてアメリカのビリー・ミッチェルでした」
ミッチェルの写真の横に立ち、ロシア訛(なま)りの英語で話す、スーツを着た中年の男。彼こそ、この映画の原作である本『空軍力による勝利』(1942年)の著者、アレクサンダー・P・デ・セヴァルスキーだ。
まず、戦略爆撃の主唱者はドゥーエ。著書の『制空』(1921年)で航空戦略を体系的に考察し、理論化した。ミッチェルの主張はもっと戦術空軍よりで実務的だったが、ドゥーエの影響(渡欧して直接対面している)で戦略爆撃も構想に含めるようになった。
それから、普通はセヴァルスキーではなく、セヴァースキー又はセヴァスキーと表記する。岩波の『西洋人名辞典』でもセヴァースキーだった。私が調べた限り、セヴァルスキー表記は黒野耐『「戦争学」概論』とウィキペディアだけ。他には、1979年刊行の古い本『新戦略の創始者』にセベルスキー表記があるくらい。外国人の名前をカタカナ表記するのにそもそも無理があるのでどうでもいいっちゃいいのだが、まともな文献を参照しているかどうかの目安になるので、おろそかにして良いことはない。
頑迷(がんめい)な陸海軍から相手にされないまま、セヴァルスキーとミッチェルの予言は最悪の形で的中する。
ミッチェルの門下生たちの働きもあって、米陸軍航空隊の整備は着々と進んでいた。
1916年 リーブ下院議員による空軍独立法案提出(廃案)
1921年7月 ミッチェルが爆撃により戦艦オストフリースラントの撃沈実験に成功
1925年 下院ランパート委員会による空軍独立法案(廃案)
クーリッジ大統領の命により、モロー審議会が航空戦略のあり方を研究
航空部隊の改名(陸軍航空部→陸軍航空隊)と航空担当陸軍副長官の任命を提案
1918年5月 陸軍航空が通信兵団から分離され陸軍長官直轄に
8月 陸軍航空兵科(Air Service)創設
1920年6月4日 陸軍再編成法成立 航空兵科は陸軍の戦闘部門としての法的地位を確立し、補給部門の機能が付与された
1926年7月2日 陸軍航空隊(The Air Corps)創設 モロー審議会の提案を議会が受諾、陸軍航空隊法によって
陸軍航空隊を創設。名称には、地上作戦補助よりも攻撃的兵器としての軍事航空概念を強化する狙いがあった。
1935年3月1日 陸軍参謀本部航空部門(GHQ-AF)創設
長距離爆撃を可能にする航空技術の発展に伴い、航空戦闘担当の幕僚組織として、
陸軍参謀総長直轄の陸軍参謀本部航空部門が創設された。
1940年11月 航空担当陸軍参謀副長設置 陸軍航空隊司令官アーノルド少将が兼務
陸軍航空隊と陸軍参謀本部航空部門の一元的指揮が可能に
1941年6月20日 陸軍航空団(The Army Air Forces)の創設
航空兵力の運用に自由裁量の余地を与えるとともに、陸軍航空隊と航空戦闘司令部(The Air Force
Combat Command。GHQ-AFの後身)の命令の統一性を確保するため、陸軍航空団を新設。
アーノルド少将が兼務によって属人的に有していた権限を制度化したもの。(注2)
米空軍の独立は戦後の1947年であるが、陸軍航空隊は開戦の時点で実質的に独立空軍だった。
さらに1943年7月、陸軍省は野戦教範100『空軍力の指揮運用』を刊行。この中で、「地上軍と空軍は対等で、相互に独立した戦力である。いずれも、相手の補助部隊ではない」と謳われ、任務の優先度は①航空優勢 ②航空阻止 ③近接航空支援とされた(注3)。
なお米海軍では、海軍航空局長ウィリアム・モフェットが1921年から12年も同ポストを務めて育成に当たった。この功績で、モフェットは「米海軍航空隊の父」と言われる。
1941年12月8日(日本時間)、日本軍の航空部隊が真珠湾に停泊中の米太平洋艦隊を急襲。あっという間に戦艦5隻と駆逐艦2隻を沈没させた。日本軍はさらにその2日後、マレー沖で、英国海軍が「世界最強」「不沈艦」と誇った戦艦プリンス・オブ・ウェールズを、雷撃機と爆撃機による空からの攻撃だけで轟沈(ごうちん)させたのだ。戦闘中の主力戦艦が航空機からの攻撃だけで沈んだのは史上初のことだった。
真珠湾攻撃の被害は正確には、
撃沈
戦艦 アリゾナ オクラホマ ウェストバージニア カリフォルニア
標的艦ユタ
敷設艦オグララ
大破
戦艦 ネバダ
軽巡洋艦 ヘレナ ローリー
駆逐艦 カッシン ダウンズ ショー
工作艦 ペスタル
中破
戦艦 メリーランド テネシー ペンシルバニア
軽巡洋艦 ホノルル
水上機母艦 カーチス
戦史叢書『ハワイ作戦』より。
さらに言うと、ウェストバージニアとカリフォルニアはのち引き揚げられて戦線に復帰している。そのため、完全に喪失したのは2隻だけ。資料によってはネバダも沈没としているが、これは沈没を免れるため意図的に座礁したので区別するらしい。
戦艦と駆逐艦では、戦闘艦艇としての格が横綱と東前頭三枚目くらい違うので、「戦艦5隻と駆逐艦2隻」というのは見る人が見れば非常に違和感のある表現。駆逐艦の被害まで書くのなら、全部書かなきゃ。
ちなみに、真珠湾を攻撃した日本機編隊はレーダーで探知されていた。にもかかわらず奇襲が成功したのは、レーダーの担当将校が、たまたまこの日に本土から飛来する予定だった友軍機編隊と誤認して、警報を出さなかったため。
「轟沈」は大爆発して一瞬で沈没する様子。プリンス・オブ・ウェールズの沈没は轟沈ではない。
ついでながら、マレー沖海戦で沈んだのはプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの2隻。最新最強を謳っていたのはプリンス・オブ・ウェールズの方なので間違いではないが。
第二次世界大戦が始まった。フランスがドイツとの国境に築いた要塞、マジノ線は難攻不落と言われたが、トーチカは空からの爆撃には無力だった。ドイツは爆撃機でイギリス本土を攻撃、歴史に残る大空中戦「バトル・オブ・ブリテン」が始まり、英国は戦闘機スピットファイアでドイツ軍を撃退した。戦争はついに空軍の時代に入った。
マジノ線は迂回されたのであって、航空攻撃で突破されたのではない(この点は、IMDbにすら指摘されている)。WW1においても戦略爆撃はすでに始まっていた。ツェッペリン飛行船によるロンドン爆撃はそのひとつ。
「戦死者を最小限に抑えるには、敵の本土中心部を、直接爆撃することです」
セヴァルスキーは断言する。車輪ではなく車軸を潰(つぶ)せ、タコの足ではなく、頭を叩け。武器を作る工場を破壊しろ、と
『空軍力による勝利』は1943年7月にアメリカで劇場公開されたが、興行的にはふるわなかった。しかし、もともと、一般の観客はどうでもいいのだ。
戦略爆撃理論は1920年代から30年代に大流行したから、軍事専門家や政治家で知らない人間などいない。あくまで一般向けの啓蒙映画である。
戦間期の軍事思想の背景には、「WW1の悲惨な塹壕戦の再現をなんとしてでも避けたい」という強迫観念に近い思いがある。例え市民に被害が出ても、短期に戦争が終わるならやむを得ないという一見倒錯した思想はここから出てくる。その意味で、戦略爆撃理論と電撃戦理論は双子の兄弟のようなものである。
ドゥーエは、戦略爆撃の効果についてこう述べている。
「ロンドンのような大都市で、もし市街の中心部の直径500メートルの地域が1つ2つ、または4つも完全に破壊されたらどうなるであろうか」
36時間もすれば全国で暴動が発生し、戦争は終わるだろう-と言うのである(注4)。第2次世界大戦とベトナム戦争を経た現代から見れば、牧歌的とでも言いたくなる見通しだが、これが1920年代の常識だった。首都が焼け野原になり、女子どもも老人も殺されるような事態になってまで戦争を続ける国家があるなど、誰一人想像できなかったのである。
またドゥーエが戦略爆撃を主張した頃は、「爆撃機の侵入を防ぐのは不可能」と考えられていた。しかしその後、レーダー、無線の開発、戦闘機の性能向上、さらに一元的な情報収集と分析体制の構築により、近代的な要撃管制システムが発明された。
バトル・オブ・ブリテンで実証されたのは、「爆撃機が目標上空に侵入するのは戦前の予想よりもはるかに困難」ということだったのだ。そうした戦場の実相からすれば、ディズニーの主張など素人のたわ言である。
ラスカーはローズヴェルト大統領にも『空軍力による勝利』を勧め、セヴァルスキーと会わせようとしたが、大統領の軍事顧問だったウィリアム・リーヒによって阻止された。海軍提督リーヒがセヴァルスキーの戦略爆撃論を嫌っていたのは言うまでもない。
ミッチェルは海軍全員に嫌われていたので、砲術畑出身のリーヒも嫌っていて不思議ではないし、またリーヒは1918~21年にかけて火器管制委員会の一員だったので、まさにミッチェルの海軍攻撃の渦中にいた。セヴァースキーも嫌いだったかも知れない。しかし、直接戦略爆撃論に言及した発言は発見できなかった。逆にミッチェルの評伝にも、リーヒの名は出てこない。
『空軍力による勝利』公開の一カ月後の8月17日、カナダのケベックを英国のチャーチル首相が訪れ、アメリカのローズヴェルト大統領と会談した。その際、チャーチルは『空軍力による勝利』を話題に出したが、ローズヴェルトは未見だった。さっそくフィルムが取り寄せられ、試写が行われた。
ImDBにもチャーチルの薦めでルーズベルトが観た、とだけ書いてあるけど、本当かなあ。チャーチルの『第二次大戦回顧録』には記述がないが。
この後、英国軍は、「ディズニー爆弾(Disney Bomb)」なるものを開発、実戦に投入した。細長い爆弾で、高高度から投下すると垂直に落ちて時速1500キロを超え、コンクリートで作られた敵の防空壕を貫通する、いわゆるバンカー・バスターだ。これは『空軍力による勝利』の中で、Uボート基地を破壊する手段として提案されたので「ディズニー爆弾」と呼ばれたのだ。
これは聞いたことなかったけれど、調べてみたら本当だった。引っかかったのは、時速1500キロのくだり。自由落下の爆弾が音速超えるわけないだろう、と思ったのだが、ロケット推進で加速する仕掛けなんだって。そこを省略しちゃ駄目でしょ。
東京大空襲は、1945年3月に現実になった。違うのは爆撃機がアラスカではなく硫黄島から飛び立ったことと、民間の非戦闘員に10万人とも言われる死者が出たことだ。
違うのは硫黄島ではなくマリアナ諸島から飛び立ったこと。
B-29の母基地はサイパン、テニアン、グアムの各基地であって、硫黄島は緊急時の不時着場。硫黄島から飛来していたのは護衛戦闘機群である。それ以前に、東京空襲の時点では硫黄島攻略戦まさにたけなわだ。
『空軍力による勝利』には、ゲルニカや重慶のことは出てこない。セヴァルスキーは、敵の都市爆撃は自軍の死傷者を減らすのが目的だと何度も繰り返すが、敵民間人の被害については一言も論じない。しかし、このディズニー・アニメがアメリカ軍の戦略爆撃に何らかの影響を与えたのであれば、広島、長崎への原爆投下とも決して無縁とは言えない。
B-17の開発がスタートしたのは1936年。B-29でさえ、メーカーに仕様書が示されたのは1940年1月である(日米開戦の2年前!)。また、米軍の戦略爆撃は本来、高々度から軍需目標に限定しての精密爆撃を指向していた。しかし成果が上がらないので、指揮官のハンセル准将が更迭され、後任のルメイ少将が焼夷弾による無差別爆撃に切り替えたのである。
セヴァルスキーに敵対していたリーヒ提督は、原爆投下に最後まで反対していた。「女子供を殺して戦争に勝ったとは言えない」と。
リーヒ提督は昔気質の軍人であって、原爆投下に心を痛めていたのは事実である。リーヒの秘書ドロシー・リンクィストは、原爆投下のニュースを聞いたリーヒが
「ドロシー、我が国はこの日のことを後悔するよ。アメリカは傷つくことになる。なぜかって、戦争に女、子供を巻きこむものではないからだ」
と語ったのをのちに回想している(注5)。
だが、投下に先立って反対したという記録はなく、『トルーマン回顧録』にもそうした記述は見られない。「投下したことを批判する」のと、「投下前に反対していた」のは別である。そもそも、リーヒが原爆投下の意志決定過程に関与していたかどうかは不明である。リーヒ自身の回顧録によると、リーヒは1944年秋に原爆について説明を受けたが、「爆弾」という言葉から、その破滅的な効果を想像できなかったという(注6)。児島襄『参謀』は、リーヒがそのことを悔いて終戦後直ちに辞任した、と述べている。なおリーヒについては、2012年7月に最新の評伝が出版されているので、何かこちらに新事実があるのかも知れない。
脚注
注1 『戦略論体系11 ミッチェル』芙蓉書房、2006年、307-310頁。
注2 高橋秀幸『空軍創設と組織のイノベーション』芙蓉書房、2008年、40-44頁。
注3 ピーター・パレット編『現代戦略思想の系譜』ダイヤモンド社、1989年、554頁。
注4 ドゥーエ「将来戦の予想」。『戦略論体系6 ドゥーエ』芙蓉書房、2002年、260ページから孫引き。
注5 ガー・アルペロビッツ『原爆投下決断の内幕 上 : 悲劇のヒロシマ・ナガサキ』鈴木俊彦他訳、ほるぷ出版、1995年、496頁。
注6 William D. Leahy, I was there : the personal story of the chief of staff to Presidents Roosevelt and Truman, based on his notes and diaries made, Whittlesey House, 1950, p440.
参考文献
荒井信一『原爆投下への道』東京大学出版会、1985年
アルペロビッツ『原爆投下決断の内幕』鈴木俊彦他訳、ほるぷ出版、1995年 石津朋之他『エア・パワー その理論と実践』芙蓉書房、2005年
ウォーカー『原爆投下とトルーマン』彩流社、2008年 片岡徹也編『戦略思想家事典』芙蓉書房、2003年
高橋秀幸『空軍創設と組織のイノベーション』芙蓉書房、2008年
チャーチル『第二次大戦回顧録17巻』毎日新聞社、1949年
トルーマン『トルーマン回顧録』恒文社、1966年
パレット編『現代戦略思想の系譜』ダイヤモンド社、1989年 フリード『原爆投下決定』原書房、1967年 前田 哲男『戦略爆撃の思想』朝日新聞社、1988年
『エノラ・ゲイ ドキュメント原爆投下の内幕』TBSブリタニカ、1980年
『原爆投下の経緯』東方出版、1996年
『新戦略の創始者』原書房、1978年
『戦略論体系6 ドゥーエ』芙蓉書房、2002年
『戦略論体系11 ミッチェル』芙蓉書房、2006年
『Why Japan? 原爆投下のシナリオ』ディフェンスリサーチセンター、1985年
William D. Leahy, I was there : the personal story of the chief of staff to Presidents Roosevelt and Truman, based on his notes and diaries made, Whittlesey House, 1950
私は予備知識があったし、近くに専門の図書館がある点で恵まれてはいる。しかし、この程度の調べ物ならトータルで10時間も要さない。手間を惜しんではいけない。
10/15日追記。またラジオで、「『恋はデジャ・ブ』の主人公はループを繰り返すうちに強盗や人殺しまでする」と発言。
殺人だけはしていない。て、町山さん自身が以前のポッドキャストで言ってるのに・・・・・・。
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