更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2012年10月30日(火)
むらかみてるあきと『009』

一体なにごとかと思われるだろうが、まあお聞きを。

一応説明しておくと、むらかみてるあきとはエロアニメの巨匠である。
この人の近作、『妹ぱらだいす!』を使用もとい鑑賞した。
これが、作画的に何とも不思議な作品だった。私は決して作画に詳しいわけではないが、「どうやって作ったのかわからない」のだ。
動きはCG特有のヌルヌルした動きなのだが、キャラの顔の造作や表情は明らかに手描き。想像するに、キャラの全身像は3DCGで作っておいて、顔のパーツ、目とか髪とかは手描きで描いた上で取り込み、テクスチャとして貼り付ける。トゥーンシェイダーでセルの色調に似せ、動きはコンピュータ生成にお任せ、というやり方ではないかと思うのだが。
この作品は、カメラが一瞬たりとも静止せずに動き続けて、観ていて大変疲れる。じっくり見せると、CGキャラの不自然さが目立つという配慮かも知れない。CGモデルでエロをやらせるメリットに、「手描きだと難しい体位でも簡単にできる」というのが考えられる。ぜひ狂い獅子とか御所車とか乱れ牡丹とか締め込み錦とかに挑戦してもらいたいものである。
井ノ本リカ子原作の『ラブリデイ』『放課後にゃんにゃん』も、似たような技法を用いた作品である。Amazonの商品説明には、「本作はイノベーティブアニメーション技術を用い、繊細なタッチで描かれる細やかな線をそのままに、コミックでしか味わえなかった世界観を創り出します」とある。「イノベーティブアニメーション技術」とやらがいかなるものであるかは不明ながら、確かに原作そのままの絵が動いている。が、動き自体ははっきり言ってFLASHアニメに毛が生えたレベルだった。

ともかく、エロアニメにも技法的に変革の波が押し寄せている感がある。ここ数年のうちに、何らかのブレイクスルーがあるのではないか。

というわけで『009 RE:CYBORG』の話に移る。
つまり、あのフランソワーズの濃厚なエロシーンのことなんですけどね。私は特に思い入れのある世代でもない、と言うか原作も過去のアニメ版もろくに観たことないのだが、アレはびっくりした。

で上の話題と合わせて思ったのだが、今、CG屋さんにとって、CGアニメでオタの心に(と言うか下半身に)響くエロシーンをやることは、挑戦しがいのある課題になっているのではないか。エロというのは究極のシズル感が必要なわけで、CGにとって最も難しい表現だろう。
「カッコいいアクションを描くことはできるようになった。次はエロだ」というのは、商売人としてもクリエイターとしても合理的な判断に思える。

技術論を離れてみれば例のシーン、フランソワーズにしてみれば3年もご無沙汰だったわけで、少々ビッチくなるのもしょうがないんじゃないかと。
なおこのシーンで、フランソワーズは「自分だけ3年も年を取ってしまった」と自嘲するのだが、それに対してジョーが何も言わない、という演出がとても粋だ。凡庸な演出家だったら、「今でもきれいだよ」とか何とかセリフで言わせてしまうと思うのよ(凡庸なのはおまえだって?ごもっとも)。ジョーが無言でいることで、2人の間の愛情と信頼がより強く伝わる。

下品な話ばかりじゃ申し訳ないので、真面目な話。この映画は、ラストシーンの解釈次第で評価が分かれるだろう。私はいまいち納得がいかない、という感じなのだが。
人対人の抗争の構図が、神対人になったところで、二項対立であることに変わりはない。賢明な神山監督のこと、当然そこに気づいていたはずで、対立の先にあるものを描きたかったのだろう。だが、それでは必然的に勝利のカタルシスは得られないわけで、悩ましいところだ。
最後に付言すると、水面を歩くのは、キリストが起こした奇跡の代表的なものである。

2012年10月23日(火)
終わったアニメと始まったアニメ(少し追記)

ここしばらく堅い話ばかりだったので、久々にアニメの話など。

と言いつつ、最近忙しくて、ろくにアニメ観る時間も取れない。それでも録画はするので、

1 集中して観る
2 食事しながら観る
3 洗い物しながら観る
4 倍速再生で十分

と分類して対処することになるのだが、いきおい優先順位の低いものばかり消化が進む(時間がなくても食事はするので)のが困りもの。


『アクセル・ワールド』『ソードアート・オンライン』
この2作は同じ川原礫原作だから当然かも知れないが、ここしばらくヒーローらしいヒーローを主人公にした作品が増えているような気がする。戦闘美少女もハーレム展開も一段落した、ということではないか。
それにしても、原作未読の身として『SAO』には驚いた。キリト君が二刀流を操る最強の剣士だと判明したのに、次の回であっさり負けちゃうじゃないですか。変わった作劇だなあ、と思ってたのよ。まさかああなるとは。かてて加えて、あのイチャラブっぷりはアレをやるための布石だったのか。堪能しました。


『夏雪ランデブー』
つくづくと思うのは、「1クールアニメも悪くない」ということ。
堂々たる完結ぶりだった。作者本人も1話を覚えてないような大長編の方が偉いなどということはない。日本で3人しか通読していない(当社調べ)山岡荘八の『徳川家康』も星新一のショートショートも、立派な小説だ。短編ならではの計算し尽くされた構成美を味わおうではないか。
なお、観終えてから5分くらいかかって、ラストのセリフの意味がようやく解った。

恥ずかしながら、動画工房というスタジオを知らなかった。時代がかった名称からして老舗だろうとは思ったが、調べてみたら老舗も老舗、1973年創業だ。一方フィルモグラフィを見てみたら知らないのも道理で、私のストライクゾーンをかすりもしていない。ストライクゾーンどころか、牽制球しか投げていないという感じか。
このスタジオが、松尾衡を監督に迎えて、ノイタミナ枠で、この作品を作ったことが最大の謎だ。


『ココロコネクト』
今期一番のダークホースと見込んでいた本作。
扱う題材自体が青臭いことと相まって、率直に言ってエピソードごとの浮き沈みが激しかった。川面監督にとっては、あくまで習作という位置づけになるのではないか。次回作に期待。
ところで、本作のED担当者の豪華さは異常。
大森貴弘はわかる(『デュラララ!!』の監督と監督補)として、後の2人はどういうつながりなんだろうか。


『K』
予告編を観れば本編のセンスの良し悪しは大体わかる、というのが持論だ。本作の予告編を観たとき、こんな既視感のある画ばかりで良いんだろうか、と思ったものだ。
ところがどっこい、本編を観たら意外なほど面白かった。私もまだまだ修行が足りない。さすがに12回は観ませんでしたが。
でも一番いいのは古風なしゃべり方のお掃除ロボット。


『絶園のテンペスト』
凄い!あれだけ複雑きわまる設定と人間関係を25分で説明し切ってしまった。安藤真裕監督はやっぱりこういう作風が向いてる。私の中では、『ストレンヂア』で急騰した安藤株は、『花咲くいろは』で投げ売り状態まで大暴落したのだが、奇跡のV字回復なるか。
ところで、2人の主人公・吉野と真広は何から何まで対照的だが、瞳のハイライトの形まで違う


『ガールズ&パンツァー』
まだ観てないけど観る前から全部想像つくわ。実在する兵器をおもちゃにしているコレと、遊び半分で戦争やってる『ストパン』とどっちが悪質か、という哲学的問題を考えたのだが、2秒で飽きて止めた。どっちにせよ観る必要なし。観る人は『レバノン』と併せて観ることをお勧めします。
戦車はCGか。宮崎御大をスペシャルタンクアニメーターとか言って起用したら、日本のアニメに新生面が開けたのに!
オファーしたら案外、「Ⅳ号戦車はこうじゃないんだ!」とか文句言いつつ喜んでやってくれそうな気がする。


新世界より
観る前に、心配な点が3つあった。
ひとつは、監督・石浜真史。これが初監督。そりゃなにごとも初めてはあるだろうが、大胆な抜擢には違いない。そもそもこの人、演出経験あったか?調べてみたら、結構数をこなしてはいるが、私としては印象的な仕事はひとつもない。
二つ目は、「1000年後の日本が舞台」と最初から明かしている点。確か原作では、それ自体伏せられていたと思うのだが。ばらしちゃったら興味半減じゃないか?でも、2話で早くも「解らない」とか「説明不足」とか言われてるらしいし、まあ仕方ないのかな。
三つ目は、「偽りの神に抗え」という宣伝コピー。とすると、真の主人公は○○ではなくて○○○○○の方だ、ということになるはずだ。そこまで覚悟を決めて作っているのならいいのだが。
さしあたり様子見。

なお、山下清悟の手がけたEDが素晴らしい。
普段はBDレコーダーで観ているのだが、試しにBDを専用プレーヤー、パイオニアのLX91で再生してみた。これがもうびっくり。発色が全然違う!微妙な濃淡や色の明暗がはっきり解る。
専用プレーヤーをお持ちの方は、ぜひお試しあれ。

2012年10月16日(火)
原爆と台風

最近、ブログや掲示板でしばしば「広島に投下された原爆で生じた放射性物質が、台風のおかげで除染された」という言説を目にするようになった。例によって私が気がついたのが最近で、実際は以前から言われていたことかも知れない。しかし少なくとも私は初耳だったので、調べてみた。

まず第一に、昭和20年8月6日の原爆投下ののち、広島が台風に見舞われたのは事実である。枕崎台風という。

枕崎台風は9月11日頃にマリアナ付近で発生し、17日の朝、奄美大島の名瀬付近を通過し、17日14時に九州南部に上陸しました。その後、豊後水道、周 防灘を経て瀬戸内海に入って広島県を通り、18日2時頃に豊岡付近から日本海に出ました。東北地方北部を通って18日の午後には太平洋側に抜けています (図2)。
 台風が上陸した九州南部にある枕崎測候所では最低気圧687.5㎜(916.6hPa)で、当時としては第1室戸台風のときに室戸で観測された684㎜ (911.9hPa)に次ぐ記録でした。しかも690㎜(約920hPa)以下の気圧が20分以上も続き、最大風速は40m/sで瞬間最大風速は 62.7m/sでした。(バイオウェザーサービスより)


広島上陸は9月17日。空前の巨大台風で、広島市内は床上1メートルという洪水に見舞われた。
枕崎台風は、柳田邦男『空白の天気図』(新潮社、1975年)で採りあげられるまで、忘れられた災害だった。原爆の被害から立ち直っていなかった市内は救助を呼ぶことすら満足にできず、広島県だけで2000名を超す死者・行方不明者を出した。九州全体の死者が400人強ということを考えれば、その凄まじさが分かる。いずれにしても、現代からは想像もつかないが。
台風で発生した山津波の目撃者は、「家ほどもある巨大な岩が転がり落ち、互いにぶつかって火花が散っていた。恐ろしいけれど美しい光景だった」という。
その『空白の天気図』は多くの関係者から当時の様子を聞き取った労作であるが、広島市内が台風のおかげで除染されたなどという話は出てこない。

初期の原爆被害調査に関しては、これが基本資料である。
日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告集 第一分冊理工学編』(日本学術振興会、1953年)。

京都帝国大学教授・荒勝文策以下5名からなる第1次調査隊が8月10日正午に広島入り。11日正午に京大へサンプルを持ち帰り分析した。その結果強い放射線を検出し、「新型爆弾」が原爆であることの確証が取れた。
第2次調査隊は同月13、14日に9名。そして第3次調査隊は9月15日から6名が広島入りした。彼らは、投宿していた宿舎が台風災害により発生した山津波の直撃を受け、3名が死亡している。同時に、医学班も9名が死亡した。

本書の中で降水による除染に関して触れているのは、
理化学研究所の宮崎友喜雄ら「原子爆弾により惹起された広島市内およびその附近の放射能について(その2)」で、昭和21年1月27日~2月7日に調査を行った結果、高須地区の放射線調査で、谷間に強く、山稜に少ない傾向を認め、「堆積物が雨に流されたと考えられる」(36頁)という部分。

それから、九州大学理学部の篠原健一ら「長崎市及びその近傍に於ける土地の放射能 第二部 西山貯水池附近の放射能」の昭和20年10月1日~23年10月21日の約3年間の継続調査で、「雨によって地上の放射性物質が洗い流されたため、土地の放射能が急速に減衰した」(51頁)。

以上の2つの記述があるだけで、特に枕崎台風によると特定しているわけではない。

試しに、とある公的研究機関に以下の問い合わせをしてみた。

① 「台風により広島市内が除染された」というのは、科学的に立証された事実か。
② 「台風により広島市内が除染された」ということを主張している学術論文があるか。

答は、① 可能性はあるが立証されてはいない。
② 管見の限り、そのような論文はない。

とのことだった。

では、なぜ近年このような説が流布し始めたのか?
概ね見当はつく。Dosimetry System 1986(DS86)に対する批判が元になっているのである。DS86とは、1987年に発表された、広島原爆の放射線量推計の手法である。原子爆弾爆発の瞬間に発生した放射線による被曝量を、爆心からの距離、角度、日本家屋の特性、被曝したときの姿勢までも考慮するなど、従来の方法に対して改良がなされた。しかし、残留放射性物質については考慮していない。
この点で、DS86は被曝の実情を反映していないという批判がなされており、沢田昭二他『共同研究 広島・長崎原爆被害の実相』(新日本出版社、1999年)第2章が詳しい。

ところで、ネット内にもこのことを批判した言説が見られる。デマの拡散に加担したくないのでリンクは張らないが、「DS86 台風」などでググると容易に発見できる。興味のある方は探してみるとよい。その中で、「DS86は、台風通過後の放射線量データを元にしている。台風で放射性物質が洗い流された後だから、放射線量を過小評価している」と主張しているのだ。前述の沢田他『原爆被害の実相』にはそんなことは書かれていない。

この話が、どう間違ったか「台風で広島市内が除染された」と確定的な事実のように広まってしまった、と断定してよさそうである。

繰り返すが、「台風によって広島市内が除染された」というのは、可能性があるが、科学的に立証された事実ではない。「可能性がある」と「そうである」の間には、極めて広い溝がある。だから、「台風によって広島市内が除染された」と断定的に言うのは危険である。

枕崎台風はウィキペディアにも載っているが、そこでさえ「除染されたという説がある」という控えめな表記になっている。「説」とやらの出典が書かれていないのがさすがのウィキペディア・スタンダード。21世紀になって10年も経つのに未だにウィキペディアの記述なんぞ鵜呑みにする人間がいるのが驚きだ。

2012年10月6日(土)
最近の町山智浩氏

の発言が、何かおかしい。

① 映画『マネーボール』を紹介するラジオで、「サイバーメトリクス」と発言。なんだそれ。電脳戦か?正しくは「セイバーメトリクス」。90年代末頃から採用され始めた野球理論のことだが、「統計学を駆使した手法」というのはよくある誤解。打率だって、統計的に算出した「次の打席でヒットを打つ確率」である。そうではなく、野球選手の能力を評価する指標(打率、打点、防御率など)の有効性そのものを見直した点が、セイバーメトリクスの真に革新的なところである。
② 映画『コンプライアンス』を紹介する番組で、ミルグラム実験に言及しているが、原著を読んでいないと思われる。以前私がここで取り上げたことがあるとおりの、通俗的な誤解をしている。特に「命令されると、普通の人間が嬉々として拷問を楽しむようになる」というのは完全な誤り。ミルグラムはそんなことは書いていない。
③ 先日のラジオで、最近ミニシアターの閉館が相次いでいるという話題の中で「渋谷のシネマライズが閉館」と発言。びっくりして調べたらちゃんと健在だった。シネアミューズあたりと勘違いしているのだろう。罪のない間違いだけどうかつではある。

これらはラジオ番組だから、後に残らないものとして流してしまっていいかも知れない。
しかし、この原稿はちょっと。

  『空軍力による勝利(Victory Through Air Power)』:禁断のディズニー・アニメ

私もこのジャンルのプロだからこのくらいは言っても許されると思うのだが、あまりに細部の誤認が多い。大筋で間違っているとまでは言えないまでも。以下、引用は同記事から。

ミッチェルは第一次世界大戦に戦闘機パイロットとして従軍した撃墜王だった。当時、アメリカにおいて、航空機はあくまで陸軍や海軍を援護する役割だった。ミッチェルは、「どんな巨大戦艦も航空戦力によって沈めることができる」「地上の要塞(ようさい)は航空機からの攻撃には弱い」と主張したが、陸海軍はそれを侮辱と捉え、ミッチェルに濡れ衣(ぎぬ)を着せて軍法会議にかけ、除隊に追い込んだ。


ミッチェルはパイロットなのは事実だが、第1次世界大戦(以下WW1)では米第1軍航空隊司令官から米派遣軍航空隊総司令官まで務め、連合軍の航空隊の統合指揮を執った。一介のパイロットではなく、航空戦の指揮官として評価された人物である。
ミッチェルはWW1後、海軍無用論を唱えるなど過激な空軍独立論をぶち上げ、陸軍省の検閲を受けることなくサタデー・イブニング・ポストに一連の論文を発表した。これがまず規則違反。
1925年9月3日、海軍の飛行船シェナンドーが荒天で墜落した。サン・アントニオの新聞社がミッチェルにこの事件の論評を求め、ミッチェルは徹夜で6000字の論文を書き上げた。
ミッチェルは、「これらの悲惨な事故は、陸・海軍両省による国家防衛運営の無能力、犯罪的な怠惰、そして背任と言える行政の直接的な帰結である」と厳しく批判した。
陸軍省は「不服従、規律及び軍律違反」でミッチェルを告発。
1925年10月28日から軍法会議が開催された。その席上、ミッチェルは海軍の技術、組織、ドクトリン、戦術にまるで無知であることが暴かれた。もともと陸軍将校なんだからこれは当たり前だが、陸軍航空支援隊の事故率、飛行時間、装備品のコスト、訓練所要などの質問にも満足に答えられなかった。陸海軍首脳の「無能力、犯罪的な怠惰、背任」の証拠も提示できなかった。
かくして12月17日に結審、翌1926年2月1日に退役に追い込まれた。
1936年2月19日、インフルエンザで死去(注1)。
攻撃的な性格のミッチェルは、自分がどう思われているかに無頓着で、自分の言動が人にどう受け止められるかをまったく想像できない人物だったという。先見性はあっても、政治的センスがなさ過ぎたのである。

「今まで戦争には二つの力しかありませんでした。陸軍と海軍です。しかし現在は空軍という新しい力があります。それを最初に主張したのは、イタリアのジュリオ・ドーウェ、そしてアメリカのビリー・ミッチェルでした」

ミッチェルの写真の横に立ち、ロシア訛(なま)りの英語で話す、スーツを着た中年の男。彼こそ、この映画の原作である本『空軍力による勝利』(1942年)の著者、アレクサンダー・P・デ・セヴァルスキーだ。


まず、戦略爆撃の主唱者はドゥーエ。著書の『制空』(1921年)で航空戦略を体系的に考察し、理論化した。ミッチェルの主張はもっと戦術空軍よりで実務的だったが、ドゥーエの影響(渡欧して直接対面している)で戦略爆撃も構想に含めるようになった。

それから、普通はセヴァルスキーではなく、セヴァースキー又はセヴァスキーと表記する。岩波の『西洋人名辞典』でもセヴァースキーだった。私が調べた限り、セヴァルスキー表記は黒野耐『「戦争学」概論』とウィキペディアだけ。他には、1979年刊行の古い本『新戦略の創始者』にセベルスキー表記があるくらい。外国人の名前をカタカナ表記するのにそもそも無理があるのでどうでもいいっちゃいいのだが、まともな文献を参照しているかどうかの目安になるので、おろそかにして良いことはない。

頑迷(がんめい)な陸海軍から相手にされないまま、セヴァルスキーとミッチェルの予言は最悪の形で的中する。


ミッチェルの門下生たちの働きもあって、米陸軍航空隊の整備は着々と進んでいた。

1916年 リーブ下院議員による空軍独立法案提出(廃案)
1921年7月 ミッチェルが爆撃により戦艦オストフリースラントの撃沈実験に成功
1925年 下院ランパート委員会による空軍独立法案(廃案)
      クーリッジ大統領の命により、モロー審議会が航空戦略のあり方を研究
      航空部隊の改名(陸軍航空部→陸軍航空隊)と航空担当陸軍副長官の任命を提案
1918年5月 陸軍航空が通信兵団から分離され陸軍長官直轄に
     8月 陸軍航空兵科(Air Service)創設
1920年6月4日 陸軍再編成法成立 航空兵科は陸軍の戦闘部門としての法的地位を確立し、補給部門の機能が付与された
1926年7月2日  陸軍航空隊(The Air Corps)創設 モロー審議会の提案を議会が受諾、陸軍航空隊法によって
          陸軍航空隊を創設。名称には、地上作戦補助よりも攻撃的兵器としての軍事航空概念を強化する狙いがあった。
1935年3月1日 陸軍参謀本部航空部門(GHQ-AF)創設
          長距離爆撃を可能にする航空技術の発展に伴い、航空戦闘担当の幕僚組織として、
          陸軍参謀総長直轄の陸軍参謀本部航空部門が創設された。
1940年11月 航空担当陸軍参謀副長設置 陸軍航空隊司令官アーノルド少将が兼務
        陸軍航空隊と陸軍参謀本部航空部門の一元的指揮が可能に
1941年6月20日 陸軍航空団(The Army Air Forces)の創設
          航空兵力の運用に自由裁量の余地を与えるとともに、陸軍航空隊と航空戦闘司令部(The Air Force
          Combat Command。GHQ-AFの後身)の命令の統一性を確保するため、陸軍航空団を新設。
         アーノルド少将が兼務によって属人的に有していた権限を制度化したもの。(注2)

米空軍の独立は戦後の1947年であるが、陸軍航空隊は開戦の時点で実質的に独立空軍だった。
さらに1943年7月、陸軍省は野戦教範100『空軍力の指揮運用』を刊行。この中で、「地上軍と空軍は対等で、相互に独立した戦力である。いずれも、相手の補助部隊ではない」と謳われ、任務の優先度は①航空優勢 ②航空阻止 ③近接航空支援とされた(注3)。

なお米海軍では、海軍航空局長ウィリアム・モフェットが1921年から12年も同ポストを務めて育成に当たった。この功績で、モフェットは「米海軍航空隊の父」と言われる。

1941年12月8日(日本時間)、日本軍の航空部隊が真珠湾に停泊中の米太平洋艦隊を急襲。あっという間に戦艦5隻と駆逐艦2隻を沈没させた。日本軍はさらにその2日後、マレー沖で、英国海軍が「世界最強」「不沈艦」と誇った戦艦プリンス・オブ・ウェールズを、雷撃機と爆撃機による空からの攻撃だけで轟沈(ごうちん)させたのだ。戦闘中の主力戦艦が航空機からの攻撃だけで沈んだのは史上初のことだった。


真珠湾攻撃の被害は正確には、

撃沈
戦艦 アリゾナ オクラホマ ウェストバージニア カリフォルニア 
標的艦ユタ
敷設艦オグララ

大破
戦艦 ネバダ
軽巡洋艦 ヘレナ ローリー
駆逐艦 カッシン ダウンズ ショー
工作艦 ペスタル

中破
戦艦 メリーランド テネシー ペンシルバニア
軽巡洋艦 ホノルル
水上機母艦 カーチス

戦史叢書『ハワイ作戦』より。

さらに言うと、ウェストバージニアとカリフォルニアはのち引き揚げられて戦線に復帰している。そのため、完全に喪失したのは2隻だけ。資料によってはネバダも沈没としているが、これは沈没を免れるため意図的に座礁したので区別するらしい。
戦艦と駆逐艦では、戦闘艦艇としての格が横綱と東前頭三枚目くらい違うので、「戦艦5隻と駆逐艦2隻」というのは見る人が見れば非常に違和感のある表現。駆逐艦の被害まで書くのなら、全部書かなきゃ。
ちなみに、真珠湾を攻撃した日本機編隊はレーダーで探知されていた。にもかかわらず奇襲が成功したのは、レーダーの担当将校が、たまたまこの日に本土から飛来する予定だった友軍機編隊と誤認して、警報を出さなかったため。

「轟沈」は大爆発して一瞬で沈没する様子。プリンス・オブ・ウェールズの沈没は轟沈ではない。
ついでながら、マレー沖海戦で沈んだのはプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの2隻。最新最強を謳っていたのはプリンス・オブ・ウェールズの方なので間違いではないが。

第二次世界大戦が始まった。フランスがドイツとの国境に築いた要塞、マジノ線は難攻不落と言われたが、トーチカは空からの爆撃には無力だった。ドイツは爆撃機でイギリス本土を攻撃、歴史に残る大空中戦「バトル・オブ・ブリテン」が始まり、英国は戦闘機スピットファイアでドイツ軍を撃退した。戦争はついに空軍の時代に入った。


マジノ線は迂回されたのであって、航空攻撃で突破されたのではない(この点は、IMDbにすら指摘されている)。WW1においても戦略爆撃はすでに始まっていた。ツェッペリン飛行船によるロンドン爆撃はそのひとつ。

「戦死者を最小限に抑えるには、敵の本土中心部を、直接爆撃することです」

セヴァルスキーは断言する。車輪ではなく車軸を潰(つぶ)せ、タコの足ではなく、頭を叩け。武器を作る工場を破壊しろ、と

『空軍力による勝利』は1943年7月にアメリカで劇場公開されたが、興行的にはふるわなかった。しかし、もともと、一般の観客はどうでもいいのだ。


戦略爆撃理論は1920年代から30年代に大流行したから、軍事専門家や政治家で知らない人間などいない。あくまで一般向けの啓蒙映画である。
戦間期の軍事思想の背景には、「WW1の悲惨な塹壕戦の再現をなんとしてでも避けたい」という強迫観念に近い思いがある。例え市民に被害が出ても、短期に戦争が終わるならやむを得ないという一見倒錯した思想はここから出てくる。その意味で、戦略爆撃理論と電撃戦理論は双子の兄弟のようなものである。
ドゥーエは、戦略爆撃の効果についてこう述べている。
「ロンドンのような大都市で、もし市街の中心部の直径500メートルの地域が1つ2つ、または4つも完全に破壊されたらどうなるであろうか」
36時間もすれば全国で暴動が発生し、戦争は終わるだろう-と言うのである(注4)。第2次世界大戦とベトナム戦争を経た現代から見れば、牧歌的とでも言いたくなる見通しだが、これが1920年代の常識だった。首都が焼け野原になり、女子どもも老人も殺されるような事態になってまで戦争を続ける国家があるなど、誰一人想像できなかったのである。
またドゥーエが戦略爆撃を主張した頃は、「爆撃機の侵入を防ぐのは不可能」と考えられていた。しかしその後、レーダー、無線の開発、戦闘機の性能向上、さらに一元的な情報収集と分析体制の構築により、近代的な要撃管制システムが発明された。
バトル・オブ・ブリテンで実証されたのは、「爆撃機が目標上空に侵入するのは戦前の予想よりもはるかに困難」ということだったのだ。そうした戦場の実相からすれば、ディズニーの主張など素人のたわ言である。

ラスカーはローズヴェルト大統領にも『空軍力による勝利』を勧め、セヴァルスキーと会わせようとしたが、大統領の軍事顧問だったウィリアム・リーヒによって阻止された。海軍提督リーヒがセヴァルスキーの戦略爆撃論を嫌っていたのは言うまでもない。


ミッチェルは海軍全員に嫌われていたので、砲術畑出身のリーヒも嫌っていて不思議ではないし、またリーヒは1918~21年にかけて火器管制委員会の一員だったので、まさにミッチェルの海軍攻撃の渦中にいた。セヴァースキーも嫌いだったかも知れない。しかし、直接戦略爆撃論に言及した発言は発見できなかった。逆にミッチェルの評伝にも、リーヒの名は出てこない。

『空軍力による勝利』公開の一カ月後の8月17日、カナダのケベックを英国のチャーチル首相が訪れ、アメリカのローズヴェルト大統領と会談した。その際、チャーチルは『空軍力による勝利』を話題に出したが、ローズヴェルトは未見だった。さっそくフィルムが取り寄せられ、試写が行われた。


ImDBにもチャーチルの薦めでルーズベルトが観た、とだけ書いてあるけど、本当かなあ。チャーチルの『第二次大戦回顧録』には記述がないが。

この後、英国軍は、「ディズニー爆弾(Disney Bomb)」なるものを開発、実戦に投入した。細長い爆弾で、高高度から投下すると垂直に落ちて時速1500キロを超え、コンクリートで作られた敵の防空壕を貫通する、いわゆるバンカー・バスターだ。これは『空軍力による勝利』の中で、Uボート基地を破壊する手段として提案されたので「ディズニー爆弾」と呼ばれたのだ。


これは聞いたことなかったけれど、調べてみたら本当だった。引っかかったのは、時速1500キロのくだり。自由落下の爆弾が音速超えるわけないだろう、と思ったのだが、ロケット推進で加速する仕掛けなんだって。そこを省略しちゃ駄目でしょ。

東京大空襲は、1945年3月に現実になった。違うのは爆撃機がアラスカではなく硫黄島から飛び立ったことと、民間の非戦闘員に10万人とも言われる死者が出たことだ。


違うのは硫黄島ではなくマリアナ諸島から飛び立ったこと。
B-29の母基地はサイパン、テニアン、グアムの各基地であって、硫黄島は緊急時の不時着場。硫黄島から飛来していたのは護衛戦闘機群である。それ以前に、東京空襲の時点では硫黄島攻略戦まさにたけなわだ。

『空軍力による勝利』には、ゲルニカや重慶のことは出てこない。セヴァルスキーは、敵の都市爆撃は自軍の死傷者を減らすのが目的だと何度も繰り返すが、敵民間人の被害については一言も論じない。しかし、このディズニー・アニメがアメリカ軍の戦略爆撃に何らかの影響を与えたのであれば、広島、長崎への原爆投下とも決して無縁とは言えない。


B-17の開発がスタートしたのは1936年。B-29でさえ、メーカーに仕様書が示されたのは1940年1月である(日米開戦の2年前!)。また、米軍の戦略爆撃は本来、高々度から軍需目標に限定しての精密爆撃を指向していた。しかし成果が上がらないので、指揮官のハンセル准将が更迭され、後任のルメイ少将が焼夷弾による無差別爆撃に切り替えたのである。

セヴァルスキーに敵対していたリーヒ提督は、原爆投下に最後まで反対していた。「女子供を殺して戦争に勝ったとは言えない」と。


リーヒ提督は昔気質の軍人であって、原爆投下に心を痛めていたのは事実である。リーヒの秘書ドロシー・リンクィストは、原爆投下のニュースを聞いたリーヒが
「ドロシー、我が国はこの日のことを後悔するよ。アメリカは傷つくことになる。なぜかって、戦争に女、子供を巻きこむものではないからだ」
と語ったのをのちに回想している(注5)。

だが、投下に先立って反対したという記録はなく、『トルーマン回顧録』にもそうした記述は見られない。「投下したことを批判する」のと、「投下前に反対していた」のは別である。そもそも、リーヒが原爆投下の意志決定過程に関与していたかどうかは不明である。リーヒ自身の回顧録によると、リーヒは1944年秋に原爆について説明を受けたが、「爆弾」という言葉から、その破滅的な効果を想像できなかったという(注6)。児島襄『参謀』は、リーヒがそのことを悔いて終戦後直ちに辞任した、と述べている。なおリーヒについては、2012年7月に最新の評伝が出版されているので、何かこちらに新事実があるのかも知れない。


脚注
注1 『戦略論体系11 ミッチェル』芙蓉書房、2006年、307-310頁。
注2 高橋秀幸『空軍創設と組織のイノベーション』芙蓉書房、2008年、40-44頁。
注3 ピーター・パレット編『現代戦略思想の系譜』ダイヤモンド社、1989年、554頁。
注4 ドゥーエ「将来戦の予想」。『戦略論体系6 ドゥーエ』芙蓉書房、2002年、260ページから孫引き。
注5 ガー・アルペロビッツ『原爆投下決断の内幕 上 : 悲劇のヒロシマ・ナガサキ』鈴木俊彦他訳、ほるぷ出版、1995年、496頁。
注6 William D. Leahy, I was there : the personal story of the chief of staff to Presidents Roosevelt and Truman, based on his notes and diaries made, Whittlesey House, 1950, p440.




参考文献

荒井信一『原爆投下への道』東京大学出版会、1985年
アルペロビッツ『原爆投下決断の内幕』鈴木俊彦他訳、ほるぷ出版、1995年
石津朋之他『エア・パワー その理論と実践』芙蓉書房、2005年
ウォーカー『原爆投下とトルーマン』彩流社、2008年
片岡徹也編『戦略思想家事典』芙蓉書房、2003年
高橋秀幸『空軍創設と組織のイノベーション』芙蓉書房、2008年
チャーチル『第二次大戦回顧録17巻』毎日新聞社、1949年
トルーマン『トルーマン回顧録』恒文社、1966年
パレット編『現代戦略思想の系譜』ダイヤモンド社、1989年
フリード『原爆投下決定』原書房、1967年
前田 哲男『戦略爆撃の思想』朝日新聞社、1988年
『エノラ・ゲイ ドキュメント原爆投下の内幕』TBSブリタニカ、1980年
『原爆投下の経緯』東方出版、1996年
『新戦略の創始者』原書房、1978年
『戦略論体系6 ドゥーエ』芙蓉書房、2002年
『戦略論体系11 ミッチェル』芙蓉書房、2006年
『Why Japan? 原爆投下のシナリオ』ディフェンスリサーチセンター、1985年
William D. Leahy, I was there : the personal story of the chief of staff to Presidents Roosevelt and Truman, based on his notes and diaries made, Whittlesey House, 1950

私は予備知識があったし、近くに専門の図書館がある点で恵まれてはいる。しかし、この程度の調べ物ならトータルで10時間も要さない。手間を惜しんではいけない。


10/15日追記。またラジオで、「『恋はデジャ・ブ』の主人公はループを繰り返すうちに強盗や人殺しまでする」と発言。
殺人だけはしていない。て、町山さん自身が以前のポッドキャストで言ってるのに・・・・・・。

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