更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2007年10月27日(土)
アニメ関係者の生年

ふと思い立って、こんなものを作ってみた。

あまり世代論に偏重するのはよくないと思うが、作品を楽しむ上でなにがしかの助けになるだろう。
実際こうしてみると、小林七郎・斯波重治両氏が業界の重鎮たるゆえんがよく解るし、石黒昇が富野・宮崎両御大より年上だというのも初めて知った。庵野さんと板野さんが1歳しか違わない事も。板野アニキの方が一世代上のような気がしていた。
働き盛りの年代だから当然とはいえ’60年代生まれが圧倒的に多いが、とりわけ’64、’65年の充実ぶりは一種異様である。

ところで、似たような事をしている人がいないかとググってみたら、「女性声優生年一覧」がいろんなところでリンクされているのを発見。この分で行けば、うちのサイトもアクセス激増か!?(無理です)
神奈川県警ホームページの身元不明死体の推定生年一覧がヒットしたのにはさすがにビビった。

2007年10月22日(月)
音響監督のお仕事

「すごい!アニメの音づくりの現場」(雷鳥社)から、印象に残った言葉。

平光琢也((有)円企画音響監督 ミュージカル「セーラームーン」など)
『作りこんだリアリティっていうのがあるから。僕らはドキュメンタリーを見たいわけじゃないからね。それ言い出したら、八百屋の役は八百屋にやってもらうのが一番なのかって話だし、殺人犯は殺人しないとできないのかってそういうことになっちゃうし。ドキュメンタリーではなく、演劇的リアリティの追求だから。それは僕らの日常的リアルではなく、演劇的・アニメ的でいいんだけど、それぞれのリアリティで騙していくわけだから。すごいリアルさで。そのリアルの基準をもっている人は声優さんにも俳優さんにもいる。逆に、それをもっていない人はだめなんだよね。自分の中での演劇的リアリティ、アニメ的リアリティをもった人が勝つわけだから。そのリアルさを間違って、ドキュメンタリーみたいにするとまたテンション低いわけだし。かといってやりすぎちゃうと、それもうそ臭い。ここのいい匙加減のリアリティを持っている人がいいんじゃないのかな、やっぱり。』

たなかかずや((有)AQUATONE音響演出 「蟲師」「僕等がいた」など)
『(漫画を見終わった後の読後感を伝えるには)それを達成するためには、話を一回飲み込んで、自分の中で消化していないといけない。話中の嬉しいこと、苦しいこと、辛いことなど全部を自分の中に落とし込んでから、出さなくてはならないんです。すごく苦しい作業です。しかし、だからこそ、見た人の心が動くのだろうと思います。
(中略)
同じ気持ちを人に伝えるために、効果的に演出するにはどうしていけばいいかを組み立てなくてはいけない。感じるだけでは視聴者と同じです。これを感じてもらう表現をつくるための、役者に与える指示、ふさわしい音楽、台詞の間合いがあります。だから負の感情でさえも一度は自分の中に落としてないと、演出まで持っていけない。』
「音響監督」はれっきとした演出家。

若林和弘((有)フォニシア音響 「攻殻機動隊」「イノセンス」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」など)
『実在しないものであればあるほど、できるだけそれっぽく、地に足がついた感じにしなければならないのです。
例えば戦車一つを例にとっても、実際はもうフルコンピューター制御で、キャタピラもほとんどゴムのような感じで音があまりしないのです。その方が気づかれずに近づいて敵を倒すことができる訳ですから当然ですよね。
しかしアニメーションでは、巨大なものがスーッと静かに動いても説得力がないのです。現実の戦争では「無音に近く」なっていても、イメージとしてキャタピラがガーという大きな音がして、でっかい銃器でドーンと撃つ方が見る側に説得力を感じさせます。押井さんからはよく「そういう風に作ってくれ」ということを言われますね。』
『「イノセンス」も含めて押井さんの最近の作品を見て私が感じている事は、作品に対して男性的な価値観から来る”恋のおさめ方”や”生きてきた証”みたいなものを何処か織り込んでいこうとしている気がします。
(中略)
つまり、心にはどうしてもドロドロとしたものが付きまとっていて、それは正義だと言っても最後には戦争をしたり、好きだ嫌いだといっても結局はセックスの問題になったりする。そういう部分、感覚といった方がいいのかな?それが必ず何処かにあって、その上で社会や世界が成り立っているということ。それを作品として表現していきたいという気持ちが、(「攻殻機動隊」の)あの曲になったのでしょう。』
音から見た押井論。まだまだ未開拓の分野。

市川修((株)タバック技術部長)
『モノラルだった当時にあったアナログ音源をデジタルにする作業をしようと思ったんですけど、どれに残したらいいのかわからないんですよ、実は。テープでとるデジタルっていうのもあるんですね。でもとっておくとテープがだめになっちゃったりするんですね。ノイズになっちゃって。アナログ時代のテープって言うのは、なんとかすれば再生できるんですよ。だめになるってことがまずない。だから、保存しておくには昔の方法が一番いいんですよね。ハードディスクにとっておいたとしても、そのハードディスクがだめになってしまえばおしまいですからね。CDやDVDにとっていても、それらがどこまでもつかっていうのもまだ未知の世界ですからね。十数年しかもたないとかになると、どうしようって話になってしまいますよね。ですから古い音源はアナログで保存しておきます。昔の六ミリテープ、捨てられなくなっちゃいましたね。今の悩みは、音の保存形態が変わってきていて、どれにすればいいかわからなくなってきていることです。』
そういえば一昔前、LDが腐食するという噂があったっけ。オーディオマニアにはアナログ・磁気テープ至上主義者がいるが、理由のない事ではないんだな。

水野さやか((株)スワラ・プロ選曲)
『「金田一少年の事件簿」を手がけていた頃、六ミリテープからパソコンに一斉に入れ替わりました。朝出社したら、私の作業部屋にいきなりパソコンが置いてあって。「今日からこれ使って!」と言われて、唖然としましたね。二時間ぐらいパソコンの講習を受けただけで、すぐ仕事で使い始めました。
パソコン導入当時から今もMacintoshを使っています。ただそのころのMacは、頻繁にトラブルが発生してその度にトラブルを示す爆弾マークが出て・・・・・・・。せっかく制作したデータが全て消えてしまう事がよくありましたよ。使い慣れていないこともあり、六時間もかけて作ったパートが全部消え呆然としたこともありました。』
Mac伝説。

石野貴久((有)サウンド・リング音響)
『理想は、音響にもちゃんと権利が欲しいということですね。今は権利を持っているのは声優さんだけじゃないですか。やっぱり僕らにも権利がほしい。二次使用料のこととかね。ちゃんとしたものができて人気が出ればそれだけ見返りがあるんだって思えば、単純にもっとクオリティ高いものを作ろうってなるじゃないですか。そうすれば、もっとやりたがる人も増えるだろうし、初任給五万円なんてものもなくなるんじゃないでしょうか。どんなに難しい音をとりに行ったとしても、結局「作品一本でいくら」ってなっちゃってるんで。楽な仕事もあれば大変な仕事もあるし。きちんと評価され、そしていい音を今後も作って行きたいです。』
権利ないんだ・・・。アニメーターの収入だけじゃない、アニメ界の底辺はどこまで深いのか。


ところで、最新戦車が静かだというのは、私にも実経験がある。
陸自の富士総合火力演習を見学した事があるのだが、遠方で射撃している74式戦車を見ていたら、いつの間にか目の前10mくらいのところに90式戦車が来ていた。射撃中とはいえ、本当に静かだ。

2007年10月20日(土)
覚え書き

少し前に、ハワード・ホークス映画におけるキャラクターの有効利用の話を書いたのだが、それに関連して、ふと「フルメタTSR」を思い出した。
11話「彼の問題」に登場する、かなめ似のコールガールのことである。彼女は、容姿も言動も味のあるキャラクターなのだが、ろくに活躍しないまま退場してしまう。もったいないことをする、とずっと不思議に思っていたのだが、ようやく解った。
これは、「まがいものでは宗介を救えない」ことを示すためのキャラクターであり、エピソードだったのだ。このエピソードのおかげで、ガウルンの言葉がもたらす衝撃と、最終話の再会シーンが際立つのである。
キャラの利用の仕方にもいろいろあるというお話。

2007年10月17日(水)
機械と人情

週刊ベースボール10/22号掲載の「千葉功の記録の手帳」に、今シーズンのイチローについての記事があった。イチローは、最終的にオルドネスに1分5厘の差をつけられて首位打者を逃したのだが、その要因は、開幕直後の雪で4試合が中止になり、その消化のためにシーズン終盤の日程が過酷になったこととしている。そこまではいいのだが、その次が気になった。メジャーリーグの試合日程は、これまでマサチューセッツ州の夫婦が手作業で組んでいたのだが、最近プログラムを公募し、コンピュータで組むようになったのだそうである。筆者は、機械で組んだために、移動日を考慮しない人間味のない日程になったと言っているのだ。
それはどうだろう。コンピュータのプログラムだって、組むのは人間である。試合間の時間を一定以上取るプログラムにすればいいだけの話だ。現行のプログラムに欠陥があるという指摘ならまだ解るが、「機械が作業するから非人間的」という理屈は、短絡に過ぎる。
21世紀に入って7年も経つのに、まだこんなセリフを聞くとは思わなかった。

偶然だが、WEBアニメスタイル連載の
辻田邦夫氏の「色彩設計おぼえがき」に、こんな記述が。
『でもね、実は僕はこのオールハンドトレスが嫌いで(笑)。版権ポスターとか、大きな絵柄で色トレス線が必要な場合では当然OKなんですが、小さい絵柄ではやはりどうしても動画の線そのままにはならないのです。微妙な鼻筋や顎のラインとか、線はスッキリとしてきれいなんだけども、それでもやっぱり動画の線のニュアンスにはならないのですよ。むしろ、多少かすれたり潰れ加減であったとしても、トレスマシンのマシントレスの線の方が作画のニュアンスをそのまま拾ってくれるのです。特に『聖闘士星矢』のような作品では、画のキレが勝負だったりしてたので。』
マシントレスでは元の絵のニュアンスを拾えない、というのが一般的な見方だと思っていたので、驚き。 (なんか勘違いしていた。逆ですね。マシントレスの方がオリジナルの線のニュアンスを拾えると)
やっぱり、機械より手作業の方が人情があるなんて言えないのだなあ、と。


・・・それはそうと、マサチューセッツ州の夫婦って、いったい何者?




鮮やかなゾロ目が嬉しかったので、とりあえず保存してみました。

2007年10月15日(月)
「電脳コイル」のことなど

正統派のSFジュブナイルとして始まったこの作品だが、いつの間にやらオカルトホラーに。ここ何話かの展開は、小学生が観たら夜うなされること必至である。

・まだあまり指摘されていないようなので今のうちに書いておくが、電脳世界の奥が霊界(異界)につながっているというコンセプトは、黒沢清監督「回路」('00)が元ネタ(の一つ)ではないかと思う(広義には「攻殻機動隊」もそうだが)。単なる怪談にとどまらず、インターネットを介してあの世とつながってしまった世界の破滅と、再生の予兆までを描ききった、凡百のJホラーとは一線を画す傑作。はたして「電脳コイル」の方はどう決着をつけるのか。

・2ヶ月も前の話だが、13話「最後の首長竜」はジュブナイルの王道を往く泣かせるエピソード。これも、レイ・ブラッドベリの短編「霧笛」を直球で映像化した作品ではないかと。

・「霧笛」は、首長竜の生き残りが、灯台を仲間と思いこんでやって来るという哀切きわまりないお話。んで、それを映画化したのが「原子怪獣現る」('53)だが、原作の叙情性は影も形もなくなっていた。

・「原子怪獣現る」は、巨大なイグアナがニューヨークに上陸し(さすがに産卵のためではないが)、バズーカ砲で退治されるという脱力映画。一応モデルアニメはハリーハウゼンなのだが、見るべき所は皆無。考えてみれば、このプロットはエメリッヒ版「ゴジラ」とまるきり一緒。アメ公の頭には、怪獣とリリシズムというものは、決して両立しないらしい。

・「キング・コング」('33)にあれだけのペーソスがあったのが不思議だが、おそらくあれは怪獣映画ではなく「モンスター映画」であって、吸血鬼や狼男と同列なのである。英語の「monster」には、日本語で言う「怪獣」の概念は含まれない。

・ところで、WOWOWで「キング・コング」特集と銘打っていたのだが、なぜか本家は上映せず、ピーター・ジャクソン版、’76年版と’86年の「キング・コング2」だった。まあ「クイーン・コング」('76)をやらないだけマシですが。

・「クイーン・コング」は長らくお蔵入りになっていたが(そりゃそうだ)、私が学生の時分に日本公開されている。その公開版は日本語吹き替えで、広川太一郎と小原乃梨子というよく解りすぎた絶妙の配役であった。

・ジョン・ギラーミン監督の’76年版を試しに観てみた。評判通り、必然性なく脱ぎまくるジェシカ・ラングのおみ足を拝む以外に見所のない映画。特殊メイクのリック・ベイカー本人がコングを演じているというのも知らなかったけど、若き日のジョン・ローンが中国人コックの役で出ている!

本日とりとめもなくてすみません。

2007年10月14日(日)
山文彦とハワード・ホークス

「ストレンヂア」を観てきた。本作の上映時間は、102分。
既にいろんなところで述べられていることだが、とにかく1分1カットたりともムダというもののない映画である。某映画評サイトで、山文彦監督作品の「WXV」を「やるべきことをきちんとやっている映画」と評していたが、本作はそれに加えて、「やらなくていいことは一切やっていない映画」だ。
パンフレットから、監督・安藤真裕の談話。
『世評通り堅実で見事なシナリオで、登場人物やその言動に曖昧なものは一切ないんです。最終的に説明するかどうか取捨選択は監督の自分が判断しましたが、すべて理詰めの裏づけがありました。』
『お話づくりが終わり、改めて演出家として本格的にシナリオと戦ってみると、監督さんが書かれてるだけに、画が自然に浮かんでくるんです。あきらかに’こう撮れよ’って喉仏に何か突き立てられてるような感じがありましたね。非常によく考えられて無駄をそぎ落とした脚本ですから、別の案を考えると逆に回り道になったりするんです。自分なりの映像の方向性をいれこめる余地を見つけるのが、かなり難しかったですね。』
同じくパンフレットから、監督・安藤真裕と、脚本・山文彦の対談の一節。
『安藤「絵コンテ段階では高山さんのシナリオと真剣勝負してるみたいで、ものすごく疲れました。」
山「小ネタをやたらに仕込むのが、オレのホンの悪いクセで(笑)」
安藤「新しいことを考えてシーンを増やすと尺が増えるし、今あるシーンを削ろうとすると前振りがあって無理。シナリオをうかつに変えられないんです。後半でうまくいった抵抗は、仔太郎を追いかけていくとき、羅狼の手裏剣を使って話の流れを止めずに一つサスペンスを入れ込めたときは・・・ほとんど山さんにボロボロに斬られた状態だったけど、少しは反撃できたのかなと(笑)(後略)』

「ラーゼフォン」19話で、やはり山脚本の映像化を担当した京田知己が、「ついに脚本に勝てなかった」という感想を漏らした、という話を先日伺った。おそらく山脚本に接した演出家に共通の感情なのであろう。


山文彦は映画マニアとしても有名なのだが、本作を観てなんとなく、ハワード・ホークス監督の「教授と美女」('41)を思い出した。ハワード・ホークスは、西部劇からSFからロマンチック・コメディまで何でもござれの職人監督だが、「教授と美女」はコメディ監督としてのセンス全開の傑作。

主人公は、百科事典編纂の為、パトロンの提供する館に何年も缶詰になっている7人の教授達のひとりで、最年少の言語学者である。彼は男盛りと言うのに、余りに世間から隔絶された暮らしで、研究中のスラングの知識も新聞配達の少年から得る有様。当然女性とも無縁だが、そんな彼の前に格好の調査対象、下町訛り丸出しのストリッパーが現れ、彼は館に彼女を招待する。やがて主人公はストリッパーに心奪われてしまうのだが、実は彼女はギャングの情婦で、警察の追求を逃れるために教授たちを利用している。しかし次第に教授たちの純情さにほだされて・・・・というお話。

見事なのが、小道具と登場人物たちの使い方。新聞配達、ご用聞き、家政婦、すべてに役割が振られている。老教授たちそれぞれが専門の知恵を出し合ってギャングを出し抜いていく痛快さ。重要な小道具として、天窓から差し込む日光があるのだが、前半でその天窓を開けさせたのが当の情婦である、という周到さ。とにかく、画面に映る『資源』を一切の無駄なく利用していくのである。山脚本の練り上げ方は、こういった無数の映画的素養が元になっているに違いない。

昨日触れた市川の映画は、いずれも2時間20分もある。提案なのだが、日本映画は100分を超えないよう規制をかけたらどうだろう。きっと、今よりはるかにタイトでサスペンスフルな映画ができるはずである。

以下蛇足。
・「教授と美女」の7人の教授たちは、まんま「白雪姫」の翻案である。
・「教授と美女」は、純真な専門バカが俗物美女を改心させ、ゲットするお話である。つまり、「電車男がエルメスに勝利する話」なのだ。元祖喪男映画としてイチおし。もっとも、電車男を演じるのがゲーリー・クーパーというのがポイントだが。

2007年10月12日(金)
市川崑祭り

しばらく前にBSで横溝正史原作・市川崑監督映画の特集をやっていたのを、録り溜めたままにしていたがやっと観られた。

「犬神家の一族」('76)
「悪魔の手毬歌」('77)
「女王蜂」('78)
「病院坂の首縊りの家」('79)

映画好きを自認する人間が市川映画を観てないというわけにもいかないだろうと思って観たのだが・・・。
何が凄いって、とにかくここには何もない。ミステリーもサスペンスもホラーもドラマもカタルシスも情念も美学も熱気もスタイルも何一つないのだ。あるのは奇妙奇天烈なカット割りと屈曲明朝体だけ。この空虚さはもはやシュールの域である。
60代前半の頃の作品だから、映画人としてはまだ働き盛りのはず。私の愛読しているある映画評サイトで、市川を「センスだけで生き延びてきた人」と評した文章を目にしたことがある。この時点で、市川のセンスは既に枯れ果てていたに違いない。おそらくこの人は、どこかの時点で映画で何かを語りたい、表現したいという動機を失ってしまったのだ。一応フォローにもならないフォローをしておくと、リバイバルで観た「黒い十人の女」('61)は抜群に面白い。これが45歳の時。私の初の市川体験である「竹取物語」が’87年、72歳の作品だった。やはり人間、巨匠様になどなるべきではないのである。

2007年10月8日(月)
さらば古田

10月7日、神宮球場でおこなわれた古田の引退試合を観てきた

18年もの間スワローズを支え、勝利の喜びを教えてくれたことに、ただ感謝を。

2007年10月3日(水)
キディ・グレイド

思うところあって、レンタルで「キディ・グレイド」を観始めたのだが、何と6話の絵コンテを谷口悟朗が描いていた。時期的に、「スクライド」('01)が終わり、「プラネテス」('03)に取りかかる前の、「ダイガンダー」やら「ゴーダンナー」で絵コンテを描いていた頃らしい。

公式サイトで調べてみたら、さすがにこの1話だけ。脚本がアレなので傑作とは言い難いが、ぶっきらぼうなカット割りに片鱗がうかがえる。

ついでだが、「キディ・グレイド」は京アニ担当の回があって、今をときめく名前がそこかしこに。

武本康弘(8話・17話・23話絵コンテ、11話絵コンテ・演出)
米田光良(11話・17話・23話作画監督)
北之原孝将(17話・23話演出)

なお、則座誠(「今日の5の2」監督)の名前も所々に。

さらに蛇足。気になって「うたかた」の方も調べてみたら、谷口悟朗はなかったが、ナベシンさんやら佐藤順一やらが。

2007年10月1日(月)
Flash Back 2012

標題は、’87年に制作されたマクロスのミュージック・ビデオである。先日スカパー!で放送されたので、観てみた。(よくこんなマイナーなものを・・・)

基本は再編集で、一部新作なのだが、驚いたのがこのカット。


スタジアムの客席を真正面から捉えた構図で、ぽつんとミンメイが座っている。
80年代末で、既にこういうレイアウトを使い始めていたのか。
絵コンテはクレジットされておらず、
作画監督:美樹本晴彦
原画:稲野義信・飯田史雄・北久保弘之・竜の子アニメ研究所 
となっている。
そこはかとないGAINAXテイストからすると、飯田氏の仕事だろうか。

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