更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2013年4月23日(火)
『螢子』

ちょっと凄いものを観てしまったので報告しておく。
金澤勝眞監督の伝奇エロアニメ『螢子』。ゲームからのアニメ化だが、ゲーム自体の原作を金澤が手がけている。
閉鎖された島に祀られた古き神の伝承。それにまつわる悲劇を、濃厚な血とエロスを交えて描いた傑作。作画陣にも見たような名前がちらほら。特にクライマックスシーンの大胆きわまりない演出には驚かされた(プレーヤーの故障かと思った)。
本作がきっかけで、金澤勝眞作品を追いかけている。
ウィキペディアによると、金澤は元々はキッズアニメの原画、演出を数多く手がけていたが、やがてアダルトアニメに活躍の場を見出し、かの『School Days』にも参加している。
2009年、惜しくもガンで逝去。

金澤作品には、不老不死、永遠の若さ(ずばり『回春』というタイトルがある)、死者の蘇生といったモチーフがしばしば見られる。この『螢子』でも、肉体を乗り換えてでも生き延びようとする姿を描いているが、それを必ずしもおぞましいもの、浅ましいものとみなしてはいない。本作は2004年に発表されているので、制作当時に金澤が自身の体の変調を自覚していたかどうかは微妙なところである。私は、過度に作家主義的な読解があまり好きではない。「過度に作家主義的」というのは例えば、「監督が子どもの頃両親が離婚して父方に引き取られたので母を求める作品ばかり作るのだ」みたいな読み方のことである。しかしこと金澤作品については、本人の人生を重ねずにはいられない。



ついでにちょっと苦言を。
最近、古いアダルトアニメがDVD化されることがよくある。それ自体は喜ばしいのだが、旧作はスタンダードサイズなので16:9の画面に映すと左右に黒帯ができる。その黒帯の部分に、イラストを映すという仕様がしばしば見られるのだ。
サービスのつもりか知らんが、はっきり言って観づらい。何より、本編の色彩設計にも悪影響があると思うのだが。
たかがエロアニメとは言え、作品は作品である。ぜひ改善してもらいたい。

2013年4月15日(月)
『とらドラ!』3周目

ようやく時間ができたので、BD-BOXを観た。全26話を観直すのはそれなりに覚悟がいるが、あまりの面白さに観始めればあっという間。
頭から観返すのは3回目だと思うが、優れた作品は観るたびに発見があるものだ。いくつか紹介。

第12話「大橋高校文化祭【中編】」。
大河が、プロレスの役を代わってもらうため亜美を懐柔しようと持ってきたマカロン。岡田麿里でマカロンと言えば『ブラックロック・シューター』だが、ここにその原型が!・・・・・・と思ったらこれは原作準拠でした。



第14話「しあわせの手乗りタイガー」。
竜児に特売の豚肉をもらう亜美。逆光のせいもあって以前は分からなかったが、亜美ちゃん赤面してるよ。これがBDの威力。



第21話「どうしたって」。
スキー旅行で女子の部屋に殴り込むシーン。1人だけ向こう向きにそろえてあるスリッパが竜児のもの。絵コンテの高田耕一は、JC作品でよく目にする名前。




順番は前後するが、最後に亜美ちゃん初登場の第5話「かわしまあみ」。
竜児と大河に紹介された亜美は、自身が写った雑誌のモデル写真を見て「今は服もメイクもちゃんとしていないから恥ずかしい」とはにかんでみせる。そのセリフが被さるのがこのカットである。



次いで下のカットにつながるのだが、大河の視線に注目。



大河は、亜美のきれいに整ったペディキュアを見ているのである。
大河はこの時点で、亜美のセリフが口先だけであることを見抜いている。だから、男どもが席を外すと態度が豹変する亜美にも、全く驚かなかったというわけ。
絵コンテ:恵 瑛太/演出:浅野勝也。

2013年4月11日(木)
くたばれ『ガルパン』

誰も言わないみたいだから、せめて私だけはこっそり言っておく。
この作品は、醜悪だ。

かわいい女の子が、ゴツい兵器を操ってカッコいいアクションをしているところが観たい!という欲望は、私にだってある。
だが観客の欲望は、全面的に肯定されるべきではない。
私が本作を許しがたいと思う点、一線を越えてしまったと思う点の一つは、実在する戦車を使っていることである。女の子たちが操るのがフィクション上の兵器、妄想の産物ならまだいい。だが『ガルパン』におけるそれは、本物の人殺しの道具だ。かつて多くの人々がその中で泥と垢と血に塗れて生き、多くの人々を殺し、骨も残さず死んでいった。
血で綴られてきた人類の歴史を多少なりと知る者として、私は本作が許せない。

アメリカ映画には、明るく楽しい戦争アクション映画があるではないか―という反論が予想される。これが許せない点の第二だが、『ガルパン』がやっているのは戦争ではない。戦争ごっこだ。本作は、人殺しの道具をおもちゃにしているフィクションが当然受けてしかるべき批判を、「戦車道」などというたわけた設定を持ち込むことで最初から回避してしまった。私はこれが、卑怯なことこの上ないやり口に思える。兵器を手にするなら人を殺せ。それが、暴力装置の最低限の覚悟だ。
剣道も弓道も元は人殺しの手段だと言うか?さよう、おそらく武道も、最初は「人殺しの手段を遊びにしてしまって」という批判を受けたことだろう。それでも、武道の創始者たちは倦まず弛まず努力を続け、ついにスポーツとして成立させた。戦車道もぜひ実現に向けて努力して頂きたい。

観客の欲望を無制限に垂れ流す『ガルパン』に一番近いもの。それは、スナッフ・フィルムである
恥を知れ。

2013年4月8日(月)
『ラブライブ!』

24年度4/四半期最大のサプライズがこの作品だったかもしれない。
正直、こんなに面白くなるとは想像だにしていなかった。『アイマス』のように、キャラの属性やら関係やら(平たく言えばカップリング)が確定しないうちにアニメ化できたのが幸運だったのだろう。9人という大所帯を、3人ずつワンセットにして印象づけていく手際の良さなど見事なものだった。
ただ作品の出来とは関係なく、最終話にがっくりきた。
μ'sは、元々は廃校を阻止するための手段だった。そしていつしか、それ自体が目的に変わっていく。だから必然的にああいう結末を迎えた。廃校があっさり撤回されてしまうのは、そこに主眼がないからである。本作は実に正しく展開し、正しく完結した。そしてそれゆえの限界もまた、露呈した。
本作を部活動ものの文脈で考えると、実に不思議な構造を持っている。まず部活動(アイドル活動)は、目的ではなく手段である。そのうち活動自体が楽しく思えてくるが、すると別の目標が必要になってくる。すなわちラブライブである。これはコンペティションだから、ライバルの存在も不可欠になる。つまりA-RISEだ。
ところが最終的にそれらはストーリーに何ら寄与しない。クライマックスは自校の講堂でのコンサート。

試しにアイドル活動を高校野球に置き換えてみると、その異常さが際だつ。
野球部を創設するのは入学者勧誘のため。
一応目標は甲子園出場で、同じ学区内に強豪校もいる。
しかし結局、対外試合は一度も行われず、最終回は紅白戦。

前回の記事に関連して言うと、本作が巧妙な、あるいは狡猾なのは、学園の外の世界の存在を一応匂わせてはいることだ。しかしそれが物語に影響を与えることはなく、学園の中で自閉してしまう。ことりが断念するのが「海外」留学だというのが、実に何とも内向きというか、象徴的ではないか。
1クール13話かけたμ's誕生秘話だと割り切れば、それでいいのかもしれない。アニメがなぜかプロフェッショナリズムを描くことを苦手にしており、『アイマス』がそれで失敗に終わったことを考えれば、「話を学園内に限定すること」が最適解だったかもしれない。しかしそれでも、私が観たいものはこれではないのだ。少なくとも私は、決断を他人任せにする態度を賞賛する気にはなれない。


余談だが、真面目に部活動をしている『ちはやふる』が「部活もの」とは呼ばれない不思議。

2013年4月4日(木)
学園という国境線

かつて、「セカイ系」という言葉があった。「キミと僕」の個人的な事情が、社会や国家といった中間段階をすっ飛ばして「世界の秘密」に直結してしまう物語のことだ、と一般には定義されるらしい。以前から何度か主張しているが、私はこの言葉は実態のない空虚な言葉だと考えている。典型的な事例とされる『イリヤの空、UFOの夏』と『最終兵器彼女』が実はまるで正反対の指向性を持つ作品だ、ということはすでに指摘した。
もともと定義があいまいな上に事例が乏しいのだから、実りのある議論になるわけがない。すっかりこの種の言説も作品も消滅して気分が良かったのだが、近年「セカイ系」に代わる作品パターンができつつあるらしい。それが「学園もの」である。
ここで「学園もの」と言うのは、「ほぼ学園の中だけで、人間関係が完結し物語が展開し、しかも学園内に独特な制度がある作品」としておく。
繰り返すが、「セカイ系」は主人公の周辺から中間段階をショートカットして世界の果てに直接至るタイプの作劇だった。なぜ中間段階をショートカットするかと言えば、要するにめんどくさいからである。法律、制度、組織、国家、歴史、経済その他、社会を構成する要素は調べ始めればきりがない。それらを無理なく説得力を持って描写しようとしていたら、いくら時間があっても足りないだろう。加えて、一知半解で幼稚な描写をするよりはいっそ描かない、という潔い判断はあっても良い。それはむしろ、作者の知的誠実さを示すものだ。
無理して真面目に描写しようとした作品もあるにはある。
例えば『コードギアス 反逆のルルーシュ』は、幼稚極まりない世界観でありながら、ケレンと勢いで押し切ることに成功した作品である。逆に『ダンス・イン・ザ・ヴァンパイアバンド』は、無知をさらけ出してまともな知性のある人の顰蹙を買った。『つり球』も、やはり失敗作と言わねばなるまい。やや話がそれるが、私はこの作品で引っかかったのはカレーとターバンでインド人、というくだりである。今どきそれをやるか?改めて考えると、このどうにもベタに戯画化された記号的表現は、「この作品はこういう緩い世界観ですよ」というエクスキューズとして機能している。だから、地球の危機を高校生がルアー釣りで救ってしまうなどという物語が成立する(と、スタッフは思った)訳だが、私はそんなオフビートな作品であればこそ、徹底して真面目にやらなければ駄目なんじゃないかと思う。

とここまでは、概ね既述したことである。
代わって台頭したのが、「学園もの」だ。「学園もの」は、物語の構成要素を学校の中だけですべて準備してしまう。つまり、「セカイ系」が世界の果ての極限へいきなりジャンプするのに対し、「学園もの」は世界の果てを思い切り引き寄せ、学園を囲むフェンスに同一化させてしまうのである。
そう考えると、「学園もの」にしばしば「強大な権力を持つ生徒会」が登場する理由も明らかだ。あれは国家権力の代用品なのである。
国家権力の意義や歴史や法的根拠、制度、組織、運用のあり方、民意との関係などなど、本来考えなくてはならないことを考えるだけの時間や能力がないので、誰でも知っている生徒会で代用させているのだ。「誰でも知っている」という点が重要である。
以前、教育関係の仕事をしていた友人から、「フィクション内の教師の描写はおかしなものばかりだ」と教えて頂いたことがある。私も「生徒の目で見た教師」しか知らないから、なるほどと思ったものだが、このことが逆説的に上の論考を裏づけている。
つまりフィクション内の教師は、作者と観客双方がよく知っている「生徒としての高校生活の記憶」をなぞったものであれば、十分に機能するのである。逆に教師を主人公にした作品であれば、教師としての現実感が求められるはずだ(ほら、『金八先生』とか『GTO』とか『ごくせん』とか・・・・・・あれ・・・・・・?)。
まあいい。「学園もの」の生活描写が、そのフィクション内の特殊設定を除けば普通科のものばかりであることもその傍証である。だから、工業高校や専門学校といった実在する特殊な世界は決して描かれない。また脱線するが、『ひだまりスケッチ』が高校の美術クラスを舞台にしているのは、マンガ家やアニメ作家にとってなじみのある世界(たぶん、少なくとも簿記学校よりは)であることと無縁ではあるまい。

こうした舞台装置としての「学園もの」の性質に極めて自覚的だったのが、言うまでもなく『少女革命ウテナ』である。だからこそ『ウテナ』は学園の外へ脱出するという結末を迎えた。幾原邦彦の次作『輪るピングドラム』では学園が全く登場しない、少なくとも重要な役割を負っていないことを考えるとなおさら示唆的である。近年の作品では『めだかボックス』が注目される。『めだかボックス』の舞台が「箱庭」学園であることは偶然ではない。
逆にまるで無自覚なのが『とある~』シリーズだ。このシリーズの失敗は、舞台をおとなしく「学園」にしておけばよいものを、何を欲張ったのか「学園都市」としてしまったことにある。これも既述なので繰り返さないが、「学園」をわずかに踏み出したばかりに、あの世界は法と秩序が存在しないディストピアになってしまった(タチの悪いことに作者本人はまったく無自覚なまま)。

以上のようなことを考えていたら、今期の作品に実に興味深い事例があった。『ラブライブ!』である(注)。この作品は、学校を廃校から救うためスクールアイドルを結成して新入生にアピールしようというところから始まる。私がまず理解できなかったのは、「たかが学校がなくなる程度のことが、なぜそんなに重大問題なのか?」であった。それも、明日いきなり無くなるとかいうんじゃなくて、新入生を採らず段階的に縮小するという無理のない計画なのに(余談だが、『TARI TARI』はこの辺、無茶苦茶だったそうですね。やっぱり観なくて正解だった)。
「学園」が現実の学校ではなく、世界のすべて、自分の帰属集団、民族や国家に類するものと考えれば理解できる。つまり「学園が消滅する」ことへのあの拒否反応は、ナショナリズムなのだ。愛校精神=愛国心はいかなる理屈よりも優先される。入学しようとしない妹は裏切り者。母も祖母も同校の出身という設定が、感情を補強する。おお、父祖の世から代々受け継がれたる我が祖国!完全に母系社会なのが実に現代的だが。

さて、「学園もの」は構造上固有の弱点を持つ。スケールが小さい、ということである。登場人物が何をしようが、事件は所詮学園の中でしか起こらず、ラスボスは生徒会長か、いいとこ理事長。生命の危機に見舞われるわけでもなし、切実なものにもなり得ない。
ここで参考になるのが、和田慎二『スケバン刑事』である。あの作品は基本的に学校内を舞台にしていながら、最終的に「日本を揺るがすクーデター計画」に行き着いた。なぜそれができたかと言えば、「学生刑事」という設定のおかげで構造上、最初から「学園の外」へ通じる回路を持っていたからである。
アニメもアニメファンも、そろそろ学園を卒業してはいかがか。


注:念のため補足しておくと、作品自体は大変面白く観ていた。これを書いている時点では最終話は未見。

バックナンバー