更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2012年4月24日(火)
『コーマン帝国』

B級映画の帝王ことロジャー・コーマンの半生を描いたドキュメンタリー『コーマン帝国』を観てきた。

86歳の今も現役で、目下メキシコで最新作『ディノシャーク』を撮影中。温暖化で極地の氷のなかから古代の巨大サメが復活し、(なぜか)メキシコの海で客を襲う映画だって。
流行の3Dにも挑戦。タイトルは『Atack of the 50Ft Cheerleader』。タイトルから想像できるとおり、チアリーダーが巨大化する話。
そんな映画作ってるのに本人はフェリーニやベルイマンが好きで、多くの外国映画をアメリカに配給した。その中には黒澤明も含まれる。


パンフレットの、江戸木純製作のコーマン映画目録全460本が壮観。1954年から始まる作品リストにはいちいち寸評が入っていて、一つ一つ読んでいくと、95年の『エイリアン・ターミネーター』(原題も同じ)にたどり着く当たりで自分は何をやっているんだろうかという気分になれる。恐ろしいことに未収録作品がまだ100本近くあるのだそうだ。

そのパンフ収録のインタビューから、印象的だった部分。

-素晴らしい門下生が多いですが、新人発掘のコツをお聞かせください。また、どういうところに着眼点をおいているんでしょうか?
基本的に、3つ要素があります。
まず、1つ目は知性です。1、2本は成功できても、長いキャリアを作り上げていくためには、私が今まで出会った人のなかで、知的でない人は一人もいませんでした。

2つ目は体力、3つ目がクリエイティビティだそうで。実際ご本人は「イギリスの大学教授みたい」な風貌で、作品からは想像つかない穏和で知的な人物と、インタビューされている門下生たちが口をそろえるのだった。
なかでも、インタビューで思い出話をしているうちに感極まって涙ぐんでしまうジャック・ニコルソンが本作の白眉。



ところで、楽しみにしていた『氷菓』第1話
武本康弘・賀東招二の実力派コンビだから安心して観ていられるが、なるほど、このエピソードを1話に持ってきたか。
やるねえ。タイトルの「氷菓」をクライマックスに、「遠まわりする雛」を最終回に持ってくるんじゃないかと予想。

それにしても。前の四半期もそうだったが、今期も面白いのは渡辺信一郎、中村健治、渡辺歩と定評あるベテランの作品ばっかり。大丈夫かアニメ界。

2012年4月23日(月)
『木を見る西洋人 森を見る東洋人』

標題は、行動心理学者リチャード・E・ニスベットの本。

西洋人と東洋人の思考の違い、世界の把握の仕方の相違を豊富な実験事例によって紹介した本。いたって真面目な学術書なのだが、通俗的な日本語タイトルで損をしている。
簡単に言ってしまうと、西洋人は物自体に注目するのに対し、東洋人は物の置かれた場・その相互の関係に注目するというもの。もちろん個人差があることは承知のうえで、ざっくりとした傾向は伺える。社会科学とはそういうもんである。

長いけど、以下引用。太字は引用者による。

他者の感情状態に対する焦点の当て方の違いは、大人の間でも見られる。アジア人は確かに、西洋人に比べて他者の気持ちや態度に敏感である。たとえば、ジェフリー・サンチェス=バークスと共同研究者たちは、雇用主が従業員に対して行った評価の結果(尺度による評定)を韓国人とアメリカ人に見てもらった。その結果、韓国人はアメリカ人に比べて、雇用主が従業員に対してどんなことを感じているかをその評定から推測することに長けていた。アメリカ人は多くの場合、その評定をただ額面どおり受け取るだけだった。
さらにアジア人は、動物の世界を知覚する場合でさえ、その感情に焦点を当てる傾向がある。増田貴彦と私は、日米の学生たちに水中シーンのビデオ映像を見せ、自分たちの見たものを報告するように求めた。日本の学生はアメリカ人学生よりも多く、「赤い魚はうろこを傷つけられて怒っている」などと、魚の気持ちや動機を「見た」と報告した
同様に、カイピン・ペンとフィービー・エルズワースの実験でも、中国とアメリカの学生にさまざまなパターンの魚の群れのアニメーションを見てもらった。たとえば、ある群れが一匹の魚を追いかけているように見えるものや、一匹の魚が群れに近づくと、群れが逃げ去っていくようなものなどである。ペンらは学生に、一匹の魚と群れの魚たちがそれぞれどのような気持ちだと思うかを尋ねた。中国人は直ちにその質問に答えたが、アメリカ人にとっては二つの問いはいずれも難しく、とくに群れの魚がどう思っているかと聞かれたときには、まさに答えに窮した。
『木を見る西洋人と森を見る東洋人』74-75ページ。

どの場面にも、一匹または複数の「中心的な」魚がいた。その魚は、画面中に登場する他のどの生き物よりも大きく、明るい色をしていて、いちばん動きが速かった。それぞれの場面にはこの魚のほかに、もう少しゆっくりした速度で進む生き物と、水草、石、泡などが描かれていた。実験参加者は約二〇秒間の場面を二度ずつ見た後で、自分の見たものを説明するように求められた。参加者の回答は内容に応じて、中心の魚、その他の生物、背景や無生物といった具合に分類された。アメリカ人、日本人とも、中心の魚についての回答数はほぼ同じだった。しかし、水や石、泡、水草、動きの鈍い生き物といった背景的な要素については、日本人もアメリカ人も、活動的な生物と他のものとの関係についての回答数はほぼ同じだったのに対して、日本人は、背景の無生物と他のものとの関係についての回答がアメリカ人のおよそ二倍もあった。
特に印象的なことに、日本人参加者はその第一声で環境について述べることが多かったのに対して(「池のようなところでした」など)、アメリカ人は中心の魚から話を始めることのほうが三倍も多かった(「大きな魚がいました、たぶんマスだと思います。それが左に向かって泳いでいきました」など」)。
こうして自分の見たものを報告した後で、参加者は、魚やその他の生物、無生物が描かれた九六枚の静止画を見て、前に見たことがあるかないかを答える(記憶を「再認」する)ように求められた。半数はアニメーションの中に登場していたもので、もう半数は初めてのものだった。さらに、アニメーションと同じ環境のなかに描かれたものと、見たことのない環境のなかに描かれたものがあった。
日本人学生の場合、それらがもとの環境のなかに描かれているときのほうが、新しい環境のなかに描かれているときよりはるかに再認成績がよかった。魚も物も、最初に目に入ったときに環境と「結びつけられ」、そのままの形で記憶に残されたと考えられる。一方、アメリカ人の場合には、元の環境のなかにあろうと新しい環境のなかにあろうと、まったく何の影響もなかった。魚も物も、環境とは完全に切り離された形で知覚されていたと考えられる。
同書106-108ページ。

西洋人は主として中心的な物や人に注意を向けるのに対して、アジア人は「場」、そして事物と場の関係に広く眼をむける。西洋人は出来事の原因が物や人にあると考えるのに対して、アジア人は文脈を重視する傾向がある。145ページ。


アニメーションに登場する「魚の感情」が、アメリカ人には想像できない、という点に注目。本文には画像があるが、本当に写実的な魚の絵-つまり『ファインディング・ニモ』のお父さんみたいに表情を変えたり喋ったりしない-を用いている。
なぜアメリカのアニメはキャラクターの擬人化傾向が強く、加えてあんなにオーバーアクトしなければならないのか、ひるがえってなぜ日本のアニメは手抜きリミテッドでも受け入れられるのか、という疑問が何となく解けるように思う。




2012年4月16日(月)
メモ:川尻善昭トークショー

奇しくも青野武の追悼上映のようになってしまったが、『獣兵衞忍風帖』BD化記念特別上映に行ってきた。何しろ生で川尻善昭が見られるという得難いチャンス。高校時代からのファンとして行かないわけにはいかぬ。取れた席が前から3列目ということもあり超満員かと思いきや、6割程度の埋まり具合だった。トークショーのために、前の方から指定していったのだろうか。
それはそうと初めて見る川尻監督は小柄なおじいちゃんという感じで、とてもエロスとバイオレンスと原色の魔術師には見えませんでした。
以下、トークの中身から印象的な発言をメモ。

-『獣兵衞忍風帖』が米国で大ヒットしたことについて
「時代劇ではあるが、自分もハリウッド映画を観て育った世代。しけた探偵がCIAとテロリストの闘いに巻きこまれるというようなハリウッド的わかりやすさを心がけた」
決してエキゾチズムだけで受けたワケじゃないんだなあ。

-BD化に当たって
「フィルムの傷やゴミを取り、入念に色調調整ができた。以前はみんな同じ茶色に見えていたところが、赤系だったり緑系だったり意図したところに近い微妙な色合いを再現できた」

-デジタル制作について
「デジタル化して色の選択肢は無限に増えた。映画にするためには、何を使うかよりも何を使わないかが重要。ここからここまでの色調を使う、と決めることでどんな映画かが決まる」

「デジタルはなんでもできるが、逆に考えたものしかできない。アナログ時代は計算外のものができることがあった。監督でも、ラッシュフィルムが上がってくるまでどんな画面になっているか分からない。暗がりでラッシュフィルムを初めて見るときのドキドキはなくなった」

-CGについて
「自分の中では、CGは『ジュラシック・パーク』の恐竜で終わっている。あれ以上のものは出てこない」

鉛筆一本で生き抜いてきたアニメーター出身演出家の自信と誇りに満ちたトークでした。

私は本作を、今はなきテアトル池袋で観た。手元のメモを発掘してみると93年6月13日。「アクション、謀略、悲恋、謎、エンタテイメントのすべてを尽くした傑作」と評している。ちなみに同時上映は『うしおととら』でした。
川尻善昭といえば、原色を多用した美しい画面とアダルトなキャラデザイン、激しいアクションにエロスという点が語られることが多い。しかしこと『獣兵衞忍風帖』については、私はある意味演出アニメの最高峰なのではないか、と思っている。
ここで「演出」というのは、作品世界の論理に観客を無理やりにでも巻きこんでしまう手練手管、というほどの意味だが、問題はあの「毒消しの法」のことである。ふと冷静になったら、どう考えてもムチャクチャなのに、観ている間はつい感動してしまう。もし「毒消しの法」が明かされる場面で、観客が吹き出してしまったら台無し。作者としてはほんのわずかでも踏み外すことのできない、綱渡りのような演出技術を求められたはずだ。

その結果は周知の通り、本作はゆうばりファンタの市民賞に輝いた。これは実際に観た観客の投票で決まるので、事実上のグランプリとも言われている。これを演出の勝利と言わずして何という。


今回、会場で公開当時のチラシをもらったら、名古屋のシネマスコーレ用に印刷されたものだった。シネマスコーレは名古屋駅前のミニシアターで、名古屋勤務時代に塚本晋也の『バレット・バレエ』をここで観た。調べてみたら、今も健在だった。ミニシアター受難の時代だが、末永くがんばって欲しい。

なお、本編上映後にサプライズ映像があるので、決して急いで帰らないように。全部川尻原画だそうな。





ところでしばらく前から、なぜかトップページにアクセスできなくなっているが、本体の方はこの通り通常営業しておりますのでご心配なく。

2012年4月10日(火)
常磐高速の復旧工事

東日本大震災から1年 世界が驚愕した日本の高速道路(前編 ・ 後編

150メートルにわたって崩落した常磐高速道がわずか6日で復旧したときの、世界の驚きを報じるニュースをよく覚えている。
実は私の実家が茨城で、地震から10日後(ガソリンが入手できなかったり何だりで)に車で水を運んだのだが、高速はもういつもどおりだった。

この記事の中でなるほどと思ったのが、以下の部分。

9日間の見積もりが6日間に短縮できた理由について、渡部氏は「1つには、予想していたよりも崩壊した盛り土が少なかったことがあります。しかし、もっとも大きな理由は道路脇の農地を持っていた地元の方が、復旧工事のための取り除いた土を置く場所を提供してくれたからです。大変に感謝しています」と話した。

掘り返した土のことを「ズリ」と言うが、ズリは空気を含むためにもの凄い体積になる。その処分に多大な時間(=予算と労力)を要するのだそうだ。『前田建設ファンタジー営業部』にそう書いてあった。

そこでぜひ知りたいのは、このように作業現場のすぐそばにズリ置き場を設けるのは、通常の業務手順なのか?それとも緊急時の特例なのか?ということ。

もし後者だとすると、「現場の隣の田んぼに廃土を置けば工期を短縮できる」と誰かが発案し、地主さんと折衝し、合意を得るのに成功したことになる。田植えシーズンの直前に農地を潰してくれ、と言うのは勇気の要ることだったろう。
私も組織の一員だから、業務手順や前例や規則のないことを発案し、実行に移すのにどれだけのエネルギーが必要か想像がつく。
この人こそが、真の功労者ではあるまいか。

2012年4月5日(木)
『Another』のフェアネス精神 その2

最終話まで観た。ややネタバレ。

いろいろとフラグ立てまくっていた赤沢さんは、やっぱりああなっちゃうのか。勝気・猫目・健気と三拍子そろって非常に私好みだったのだが、サブヒロインの悲哀を一身に背負ったようなキャラだった。合掌。

それはそうと、鳴の義眼のオカルト設定とか合宿所のバトロワ展開とか、本格ミステリを期待していた私としては「え、そっちへ行っちゃうの?」的肩すかし感を覚えていたのだが、「実は同一人物」トリックの合わせ技だったのか。

これはまるで予想外だった(こういうとき、自分は最初から解っていたと自慢げに言う奴がときどきいるが、気持ちよく騙される方が人生得だと思う)。
映画で同一人物トリックというと-もう古典に属する作品だからばらしてしまうが-『情婦』('57)が思い出される。アガサ・クリスティの原作『検察側の証人』をビリー・ワイルダーが映画化した法廷ミステリの傑作。資産家の老婦人が殺害され、親しかった青年に嫌疑がかかる。青年の妻が彼のアリバイを証言するはずだったが、裁判当日、彼女はなんと検察側の証人として法廷に現れる。その真意は?事件の真相は?

未見の人に結末を話さないように、というテロップが入ることでも話題になった。
ただ『情婦』と『Another』のトリックには、本質的な違いがある。『情婦』の場合、作中人物を騙すために変装し演技している、という点だ(作中で元女優という設定になっている。もっともボディ・ダブル疑惑もあるらしいが)。
『Another』では、作中で登場人物がごく自然に振る舞っていながら、観客には気づかせない。なぜか?

それは、アニメキャラが記号の集積でできているからだ。観客は、髪型、服装、呼び名といった記号によってキャラの同定を行っている(もうひとつ重要アイテムがあるが、あえて伏せる)。『Another』のトリックは、これを巧妙に突いているのだ。

実写の俳優だったら、髪型を変えたくらいで観客の目をごまかすのは難しいだろう。そういう意味で、『Another』のトリックはまさにアニメならではの表現だったのである。

私としてもちょっと考えさせられてしまった。というのは、以前「記号的表現を脱却せよ」という趣旨の記事を書いたからだ。そう言ってる私自身が、キャラを認識するのにいかに記号に頼っているか思い知らされた。

ところで、エンドクレジットを見直してみると、さすがに配役は別々に表記されていた。それどころか、声優が違う。
私自身は、声はキャラの本質ではない(重要な構成要素ではあるがそれ以上ではない)と思っているので特に気にならないが、見る人が見ればアンフェアなやり方に映るのかな。



おまけトリビア。
誰でもそっくりな似顔絵が描ける方法。

まず似顔絵を描きたい人の顔写真を用意する。
それを、上下逆さまに置く。
見えるとおりに描き写す。
できた絵を上下ひっくり返してみるとあら不思議、そっくりな似顔絵ができているという。

なんでかというと、人間は人の顔を認識するために、「人の顔とはこういうもの」というイメージを持っている。○が3つあれば顔に見えるというあれだ。単に似顔絵を描こうとすると、そのイメージに引っ張られて、見たとおりに描けない。それが写真を逆さまにすると、一見して人の顔に見えないので、目に映ったとおりに描けるというわけ。
出典を忘れたので真偽は定かでないが、ありそうな話である。

バックナンバー