更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2011年11月24日(木)
カンフー映画の快楽原則

日本シリーズは第7戦までもつれたものの、最後はホークスが総合力で押し切った。ずいぶん以前から私はドラゴンズと落合に勝たせてはいけないと主張してきたが、ホークスのおかげで今年も日本の野球は守られた。いや痛快。
しかし、スワローズはまた何でこんな貧打チームにああもボコボコに打たれて負けたんだか。思い出したらまた腹が立ってきた。

それはそうと、ちょうどシリーズ時期に合わせて、WOWOWでジャッキー・チェンと座頭市の特集をやったので、野球の傍ら観ていた。この種の映画は1時間半くらいなので、野球1試合につきちょうど2本観られるのよ。

んでふと思ったこと。
ちょうど1963年の『新・座頭市物語』が、市がかつての師匠と対決する話なので気がついたのだが、カンフー映画には、師弟対決・兄弟対決・親子対決というパターンがないのだ。悪役は常に徹頭徹尾悪く、目上の者はどこまでも正しい。
カンフーというと『Gガンダム』の東方先生が真っ先に出てきてしまうので、これは発見だった。おそらく長幼の序を乱す作劇は、彼らの快楽原則に著しく反するのだろう。
まああくまでジャッキーの初期作品を10本くらい観てのはなしであって、探せば出てくると思うが。

1994年に『息子の告発』という中国映画が公開された。タイトルのとおり、息子が実母を父殺しの容疑で告発するという映画。出来映え以前に、中国ではこの内容がかなりセンセーショナルに受け取られたと聞いた。当時の私にはなぜこれがそんなに話題になるのかわからなかったのだが、2005年には『胡同(フートン)のひまわり』という作品があり、これは厳格な父に反発する息子の話である。中国新世代監督の作品群が、なぜこれほど執拗に親子の葛藤を描くのか今になってやっと解った気がする。

これを踏まえた上で、1977年の『少林寺木人拳』を観ると面白い。ジャッキーは父を殺した犯人に復讐するため、少林寺の門下に入る。あるとき、寺の裏山の洞窟に監禁されている男と知り合い、彼から密かにカンフーの手ほどきを受ける。その甲斐あってジャッキーは「木人の路」を突破し、免許皆伝を受けるのだが、実は男は民を苦しめる強盗団の首領だった。
ジャッキーは脱走した男と対決することになる。彼は「悪い師匠」だったわけだから、ジャッキーは作品中盤で「よい師匠」について修行し直す羽目になる。そのせいで、タイトルにもなっている木人との格闘が妙に印象薄くなってしまう。
しかも、探し求めていた父の仇こそその「悪い師匠」だったのだ!
こうまで段取りを組まないと、「師匠と戦う」というストーリーができないのである。それでも結局、男は罪を悔いて自害し、ジャッキーは仏門に入ってしまう。

大衆娯楽において、タブーとはこれほど強い影響力を持つのだ。

2011年11月16日(水)
記号的表現

今期観ているアニメは、継続で観ているものを除くと『ちはやふる』『Fate/Zero』『UN-GO』。大概みなそうだと思うが、新番組の時期にはとりあえず1話をチェックしてダメと判断したものは切る。「切る」というのはあまりいい表現ではないが、人間40も近くなると、堪え性がなくなる。日本人男性の平均余命は76歳だそうだから、もう半分を使ってしまった。つまらない作品まで観ている時間はないのだ。
上記の作品の監督はそれぞれ、浅香守生、あおきえい、水島精二と定評ある人ばかり。私見だが、1話は監督自身が絵コンテ・演出を手がけていることが多いため、その作品の志や目指すところはおおむね見当がつくと思っている。最近は1話どころか、アバンタイトルも観ていられないということが増えた。つまんない表現があると見るに耐えなくて。

以前、「よい作画の目安は重力、空気、五感が表現されていること」という話を紹介したが、以下は私流のつまらないアニメの見分け方。このような表現を今どき平気でやってる作品は観なくてよろしい。

○ セル2枚で目をウルウルさせる
感情の揺れを表現するこの技法は高畑監督が開発したものだと聞くが、いいかげん古い。

○ 頭を掻く・ほほを掻く
困惑・照れ・焦り・気まずさなどを意味する便利な表現だということは解るけれど、発明して一体何年経ってるんだ。

○ 走っていて意味もなく転ぶ、つまづく
最近素ですっころんだ人いますか?運動不足のお父さんが運動会に駆り出されたのでもなければ、理由もなく転ぶことなどそうはない。


以上はいわゆる演技だが、以下は声の芝居。
○ 「○○、ちゃん・・・・・・」
ホントに区切って発音するなよ!

○ 「○○・・・・・・」と名を呼んで絶句する
日本人の日常会話において、人の名を呼ぶことは滅多にないものです。

○ 自己紹介で、いきなり下の名を名乗る
日本人は普通、ファーストネームを先に名乗らないだろう。

○ 「!」
「息を呑む」という文学的表現は確かにありますがね。ホントに息を呑むのはもうやめて。

○ 走っているときの乱れた呼吸
試しに家の周りを一回りして確認してほしいのだが、短距離を全力疾走するときは、無酸素運動なので息は止めている。長距離を走るときなら、逆に呼吸は安定する。いわゆる「息が荒い」状態になるのは、止まってからのはず。

以前『アニメの音づくりの現場』という本を読んだので、フィクションにおいては現実に即した音にすればいいというものではない、ということは私にも理解できる。
でもねえ・・・・・・。こと作画や演出に関しては、さまざまな実験や試行錯誤がなされ、新しい技法が開発されている。それに比べると、音響の芝居ってまるで進歩や工夫がないと思うのよ。むしろ類型化がどんどん進んでいる。十年一日どころかこれでは退歩だ。誰の責任だか知らないが。

こういうのは、言ってみれば漫符に頼りきりで表情の描き分けができないマンガのようなものだ。もちろんアニメ表現は本質的に記号の集積ではあるのだけれど、それにおんぶにだっこではいかんだろう。まだまだ工夫の余地はあるはずだ。

2011年11月14日(月)
『ミルドレッド・ピアース 深夜の銃声』

まさに刀折れ矢尽き、という感じでスワローズがCSファイナルステージで敗退し、ショックでこの一週間ほど寝込んでいた。

いやそれは冗談だが、風邪ひいてたのはホント。のどの痛み、セキ、発熱、頭痛、鼻水、腹下しとひととおりの症状が順番に出て、それ自体は珍しくないのだが、一回りしてまたのどに帰って来やがった。今年の風邪はしつこいようなので、皆様ご自愛下さい。

それはそうと、スワローズ優勝させてやりたかったなあ。投手力に劣る分CSでは不利だろうから、せめてリーグ優勝は、と。
CS全敗も覚悟していたのになまじタイまで持ち込んだから、落胆も大きかった。まあしかし、9月以降の故障者が延べ16人という惨状で、よくここまでやった。今は、来期へ向けてゆっくり休んで欲しい。
それにしても、恨み重なるドラゴンズ。もとより落合も中日も名古屋も天むすも大嫌いだが、また遺恨が増えた。かくなる上はホークスの力で正義の鉄槌を!と日本シリーズ観てたら、馬原で連敗するし。最低の気分だ。


さて本題。
標題は、WOWOWで観た1945年アメリカ映画。資産家の男性が殺され、その妻が警察で事情聴取を受ける。妻は尋問に答えながら、自身と娘との愛憎半ばする半生を思い返していく。主演のジョーン・クロフォードが熱演を見せオスカー受賞。真犯人は誰か、というミステリとしても面白いが、注目したいのは作中に現れる職業観。
夫と別居し2人の娘を抱えて生活に困った主人公は、ウェイトレスとして働き始める。そしてそのことを、思春期の娘にひた隠しにするのだ。このあたり、40年代アメリカ中産階級の、ブルーカラーへの蔑視や偏見が伺えて面白い。主人公の家では、黒人のメイドを使っている。これがキンキン声で少し頭の弱いという、何ともステレオタイプの描写。そういえば『風と共に去りぬ』にもこういう役いたなあ、ひとつの典型だなあと思ってたところ、もしかしたらと閃いた。
さっそくIMDbに当たってみたところ、やっぱり同一人物だった。

バタフライ・マックィーン(1911-1995)。残念ながら写真はなし。

もともとは舞台のダンサー。芸名の「バタフライ」は、『真夏の夜の夢』の「蝶のバレエ」を踊ったときの腕の動きからついた。
1939年、『The Women』で映画デビュー。同年『風と共に去りぬ』にプリシー役で出演。
この手のステレオタイプの役ばかり回ってくるのに嫌気がさし、映画からは早々に引退。もっとも、その後出演したテレビドラマではやっぱりメイド役だった。ブロードウェイで舞台に立っていないときは、タクシー会社のディスパッチャー、本物のメイド、デパートの販売員その他の副業で生計を立てていた。
この世代の黒人女性には珍しいのではないかと思うのだが、終生の無神論者で、「宗教からの自由を唱える協会 (the Freedom From Religion Foundation)」の終身メンバーだった。
1975年、64歳でニューヨークシティ・カレッジで政治学の学位を取った。
69歳の時、グレイハウンドのバス停でスリと間違われ、警備員に突き飛ばされて肋骨を骨折。4年に及ぶ訴訟の末に60,000ドルの賠償金を勝ち取った武勇伝の持ち主。

95年、自宅で着衣に石油ストーブの火が燃え移り、火傷がもとで亡くなるという痛ましい最期を遂げる。享年84歳。
遺体は医学の発展のため検体に付された、とのことである。

2011年11月3日(木)
最近の勉強から

本業で読んだ本から印象深かった部分を引用。

「技術が高級な労働を大量に要求するとしても、現実がその通りになるかどうかは、労働力市場がそのような労働者を提供できるかどうかにかかわっている。そのような労働者が供給されない場合には、新しく教育によってそのような労働者をつくりだすか、市場の供給できるような労働者によって操作できる装置をつくりだすことを技術者に強制するか、がバランスにかけられるわけだ。経験は常に秤は後者の側にかたむいていることを教えている。
歴史的にみても労働力市場には常に労働の質を不熟練化の方へひきずる強い力がはたらいている。第一に、熟練労働と不熟練労働では賃金がちがう。第二に、熟練は労働者個人の能力である。労働の能力が労働者個人に属しているということは熟練工組合の例にみられるように常に労働者の強力な武器となる。逆に資本の側から言えば熟練を解体すること、あるいは広大な不熟練労働力を採用できる工程をもつことは有利である。つまりその方向へ向かっての強力な圧力がはたらくわけだ。第三に、おそらくもっとも重要な要因だが、生産力の発展は、たえず労働市場へ流入してくる膨大な新しい人口によって支えられてきた。これらの人口は本質的に不熟練労働力である。
こうした不熟練化への要請は常に技術によって応えられてきた。技術の発展の歴史をみると、そのさまざまな局面ごとに、労働の質を高めるような徴候があらわれながら、結局は不熟練化の方が結果として残るのはそのためであろう」

中岡哲郎『人間と労働の未来』(中公新書、1970年)74-75頁。


古い本なので技術の発展に伴う人間の疎外、という問題意識で書かれている。今や日本丸は、そんな贅沢なこと悩んでられない状況に至っているワケだが。
で、私が感じたのはそういうところではなくて、「高級な労働」を「作画の技術」と読み替えるとアニメ産業にもあてはまるという点。

すなわち、手描きアニメからCGへの世界的な変化も、労働の不熟練化という文脈で把握すべき現象なのだろうな、ということである。
もちろんCGなら熟練なしでできると言うつもりはないが、伝統工芸的産業でなくなるのは間違いないところだろう。手描きアニメが衰退していくのは淋しいことではあるけれども、それは認めた上でどうするかを考えていかなければ。

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