更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2010年10月29日(金)
『化物語』3D

久しぶりに時間ができたので、『化物語』を観直した。ちなみに時間ができたのは、4ヶ月がかりで観ていた『バトルスター・ギャラクティカ』が完結したのと、プロ野球シーズンが終わったからである。





ふと気になったのが、「するがモンキー」冒頭のこのシーン。カメラは、阿良々木君と真宵を追って右へ移動していく。それにつれて、背景の高架も形状が変化していくわけだが。問題は、矢印で示した影の方。こちらも形が変わっていく。

よっくよく考えたんだけど、カメラが移動したって、光源(太陽)の位置が変わらない以上、影の形が変わるはずがない(だよね?)。

もちろん実景と違うからダメだなどと言いたいわけではない。面白い効果を生んでいると思う。
『化物語』には、主人公たち以外の人物がまったく登場しないことはよく指摘される。その背景もまたデザイン優先、ポップでカラフルで、現実味を欠いた箱庭のような世界である。この影の形の変化も、上下がシンメトリーになることで、その「箱庭感」を強調している。

ついでに言うと、映画・アニメを含めた絵画表現とは、二次元上に三次元空間を表現しようと試行錯誤してきた歴史がある。この場合、本当に平面になっているものまで勢い余って立体的に表現してしまったと言えなくもない。

まあ実際は、高架のモデルを流用して影を作っただけかもしれないけど。

2010年10月25日(月)
『捕虜』続き

悲惨な方の話。もともとこの本を読み始めたのは、『ザ・パシフィック』関係の調べ物のついでである。
日本軍民が降伏を拒否し、いたずらに死者を増やしたのは「生きて虜囚の辱めを受けず」と定めた戦陣訓の呪縛によるものだったことは有名である。
しかし一方で、以下のような事実もあるのだ。

ドイツに捕まったソ連軍の捕虜は500万人に上るが、終戦までに200万人が死亡し、100万人が行方不明となった。行方不明者の多くは処刑されたものと考えられている。前掲書456頁。
繰り返すが捕虜の死者だけで、である。
ちなみに、太平洋戦争での日本の死者は軍民合わせて300万人程度。

一方、ソ連に捕まったドイツ軍の捕虜のうちから選別された5万5000人は、ソ連軍の勝利を讃えるために、ローマ帝国の慣習に倣ってモスクワ市内を行進させられた。
捕虜の総数は約350万人、うち100万人が抑留中に死亡した。多くは餓死とされる。
ドイツ人捕虜は、終戦後も長期にわたって強制労働を課された。1954年までのその労働時間は、一説には200億時間。ルール工業地帯の労働時間の5年分である。524頁。

ユーゴスラビアでは、ドイツの捕虜が過酷な拷問によって戦争犯罪の自白を強制させられた。終戦後に、パルチザンが対独協力者約10万人を殺害した責任をなすりつけるためである。捕虜の階級によって、何人殺害の罪を着せるノルマがあったとされる。この自白に基づいて、多数の捕虜が即決裁判で処刑され、または終身刑を受けた。399頁。
チトー体制下のユーゴ統合の一側面である。

そもそも戦陣訓自体が、中国軍に捕まり虐殺される(実例が多かった)ことを避けるために制定されたという説もある。太平洋戦争における米軍の、総じて人道的(例外は多々あるにせよ)かつ寛大な捕虜取り扱いは、相当に希有なものだったのである。

フランスでは、ドイツ捕虜4万人が、戦時中に敷設した地雷の処理に駆り出された。専門技能もなく、装備と言えば鉄の棒1本で危険な作業に従事した捕虜の死者は数千人と考えられているが、いまなお詳細は不明である。また健康な捕虜は様々な強制労働を課されたが、健康状態を調べて作業の可否を選抜する様子は奴隷売買さながらだった、と回想される。
314頁。

もっとも、農作業に従事した捕虜たちは、いかにもドイツ的な愚直さで勤勉に働き、フランス人たちの信頼を勝ち得ていった。釈放された後もフランスにとどまり、そこで家庭を持った捕虜もかなりの数に上る。独仏の和解に彼らが果たした役割は、決して少なくないという。

救われる気になる話である。

2010年10月22日(金)
『捕虜』

標題は、ドイツの高名な歴史研究家パウル・カレルの著書(ギュンター・ベデカーと共著)。副題を、『誰も書かなかった第二次世界大戦ドイツ人虜囚の末路』という(畔上司訳、(学習研究社、2001年))。

第二次世界大戦の罪悪を一身に背負ったドイツの、連合軍側に捕まった捕虜のその後の運命は、ほとんど語られることがなかった。ドイツ人にとっても、自身の被害を言い立てるようなことは、周辺諸国の感情に配慮して表立って言えなかったのである。その微妙な題材を、例によって緻密な調査と丹念な取材で活写したのがこの本。なお、旧版は日本で1986年刊。


一部、あまり悲惨でないところを紹介する。
戦争中、ドイツのUボートに悩まされたイギリス軍は、その動静を探るために全力を尽くした。例えばこんな具合である。

『(イギリスの)スパイにしてみれば、サン・ナゼールのドイツUボート第七戦隊対ロリアンの第一〇戦隊のサッカーの試合に、誰が参加しているかを掴むために命を賭けるなんて、馬鹿げたことに思えたかもしれない。(中略)
イギリス海軍情報部は参加サッカー選手の名前から、どのUボートが基地にいてどのUボートが海に出ているかを即座に判断できた』。43-44頁。

捕虜になったUボート乗員は、情報の宝庫だった(潜水艦と言えども、大西洋では降伏したり浮上後に自沈することもあったので、結構生存者がいるのである)。イギリス情報部はあの手この手で情報を入手した。その目は、乗員の個人情報にも向いた。部隊内の新聞を調べていけば、こんなことまで知られてしまう。

『水兵オットー・ヴェーバーはベーヴェルローで婚約。一年後、ピラウで結婚。このとき兵長。これだけでロンドンの専門家には、彼がUボート教育を受けたことが判る。そしてまた、彼の愛娘ローゼマリーがエッケルンフェルデで誕生したことを伝える喜びの告知を見れば、ヴェーバーがUボート戦隊の魚雷部門に入ったことが判る』。
47頁。

イギリス情報部は捕虜のうち協力的な者をスパイに仕立てて収容所に潜り込ませ、情報を集めることも実行した。それが露見して戦友に殺害された者もいるし、その犯人として処刑された者もいる。事実は小説より・・・などという紋切り型の感想が恥ずかしくなるほどの過酷な日々。

たとえ捕虜になっても、戦争が続く限り兵士の戦いは終わらないのだ。

2010年10月21日(木)
『真空管の伝説』

標題は最近の勉強で読んだ本。著者の木村哲人は映画の録音技師で、少年時代からラジオマニアだった。

タイトルどおり、真空管の開発史を様々なエピソードを交えて面白く紹介している。真空管はとうの昔にトランジスタに取って代わられたが、オーディオマニアにはいまなお根強いファンがいる。半導体の硬質な音に比べて、何か暖かみがあるという。それに発熱してぼんやりと光るので、見た目も楽しい。かくいう私も、親父が自作した真空管アンプをいまだに使っている。パソコンにつないでいるというのが、ギャップありすぎだが。

それはさておき、興味深かった部分を抜粋。

終戦の詔勅、いわゆる玉音放送はラジオで日本全国に放送されたが、雑音が酷くてよく聴き取れなかったと回想する人は多い。それはなぜだったか。

『当時はいわゆる電波管制で、放送局の出力は極端に低くされていた。東京、大阪、名古屋の各局は一〇キロワット。夜間にはさらに出力を下げた。
(中略)
さらに全国の電波を八六〇キロヘルツの同一周波数にすることが軍から命令された。空襲の時敵機から方向探知されないための用心で、ロンドンの真似である。だがこの電波管制によって二つの電波が干渉し、ラジオが聴こえない地域がかなりできた。その対策として臨時放送局を全国に設ける処置をとったが、解決にはならなかった。終戦まぎわにはその臨時放送局も中止するしまつで、そうした最悪の時期に玉音放送が行われたのである。
さて放送協会は情報局の指示で、たった一〇キロワットだったメイン局の出力を、当日は六〇キロワットにパワーアップした。その他も可能な限り増力した。ただしこのころは廃止された地方の放送局もあった。ところが出力が増えた電波はとんだいたずらを起こしたのである。以前から全国一律の波長で放送するのは無理であった。二つの放送局からの距離が等しくなる地域では同じ波長の電波がぶつかって互いに干渉しあい雑音になる。このことは放送前から予測されて技術者は反対したのだが、ヨーロッパの例をとって軍が強制したのである。
(中略)
パワーアップした同一波長の電波は空中で強力に干渉しあい、雑音となって電波が歪み、放送を妨害した。全国に届かせようとしたのが、逆に妨害電波を撒き散らすことになった。つまり全国同一波長なら弱い電波の方がよかったのである』167-168頁。

昭和天皇についてこんなことも。

『あの(終戦の)詔書を声を出して読めばわかるが、一度もつかえずに読むのは至難のわざである。私はテレビと映画で四度、俳優に詔書朗読をして貰った経験があるが、一度で読んだ人はいなかった。プロでも途中で必ずつかえてしまう。だからあの難解な文をすらすら読まれたのは、お世辞ぬきに普通人にあらず、と言っておこう』172頁。


著者が伯父さんから聞いた話。日中戦争における宣伝合戦。
伯父さんの部隊が川をはさんで中国軍と対峙していた前線に、ある日、奇妙な形状の特殊車両がやってきた。

『特殊車両の正体を知ったのはその夜で、車の屋根にスピーカーをつけると、大音量で中国語の蘇州夜曲を流しはじめた。この歌は当時の中国人にも人気があった。
その間に流暢な中国語で敵に投降を呼びかけたのである。「降参しろとは言わなかった。五族共和のため、王道楽土を築こう、日本も及ばずながら協力します、戦争はやめましょう、といった穏やかな言い回しだった。むろん謀略だがね」。それが終わると意外なことが起こった。
敵陣から拡声器で日本語が聞こえたのである。「あれにはたまげたな、皆もワーと声をあげた」と伯父の話はうまい。「日本の宣伝は終わりましたか」よどみない標準語だった。中国人の日本語は上手に話してもどこかになまりがあるが、それは完全な東京弁だったという。「ハイ、こちらは終わりです」と驚いた様子もなく、将校が日本語で答えると、「では、こちらからも日本軍にお話があります」。
それからの中国軍の放送は、日本帝国主義の侵略を非難した理路整然としたものだったという。「インテリが聞いたら動揺するかな」と感心していると、最後になってひどく調子を落とした宣伝になってがっかりした。「日本軍の兵が中国軍に投降したら、兵士で賞金二千元、下士官は三千元、将校なら五千元進上します。高級将校には美人の愛人二人と料理人、使用人付きで豪邸を提供します。給料はお望みどおり」とやったそうである。「あれが悪かったな、それまでは感心していたのに」と伯父は笑った。
宣伝合戦は翌日の夜もあったが、攻撃命令が出て自動車は引き揚げていった。その特殊車両が関東軍情報部に属する「せ号車」であることを、伯父は運転の下士官から聞いたという。伯父はあきれたけれど中国側の宣伝は効果があった。歩兵の一兵士が将校の服と軍刀を盗んで、脱走したのである。母親が亡くなった知らせがあった東北出身の上等兵だった。「うまく将校に化けきれるかな。中国軍情報部は甘くないぞ、日本人もいるらしいから」としばらく話題になったそうである』106-107頁。


騒音の大きな環境で通話するために、昔の戦車や航空機では咽頭マイクを使用した。喉にマイクロフォンを装着して声帯の振動を直接ひろうものである。ところがこれは、言語によって向き不向きがあるという。

『咽頭マイクは零戦の通信機にも陸軍の携帯無線機にも使われたが、すこぶる評判が悪かった。サシスセソが雑音になるしラリルレロの判別がつかない。「できるだけ咽頭マイクを使うな、電信で連絡せよ」と指示された。咽頭マイク向きな言葉はドイツ語とロシア語、それにカラスの声だけだ、とアメリカ兵も言っている。フランス語もさっぱり駄目だったらしい』102頁。

まったくの思いつきなのだが、ドイツとソ連で戦車の集団運用思想が発達したのは、案外このためなのかもしれない。

2010年10月20日(水)
マリーンズ 日本シリーズ進出

千葉ロッテマリーンズが、クライマックスシリーズファイナルステージで福岡ソフトバンクホークスを破り、日本シリーズ出場を勝ち取った。史上初めてシーズン3位から勝ち上がったことで、またその資格を云々する声もあるようだが、シーズン成績を見ればホークスは76勝(63敗5分)、マリーンズは75勝(67敗2分)と、勝ち星は1つしか違わないのだ。勝ち星で言えば一番多いのは2位のライオンズの78勝である。リーグ優勝も、引き分けが多い方が有利になるというルールの恩恵を受けているに過ぎない。

昨今あまり聞かれなくなったが、勝ち星の多いチームを優勝とすべきだという主張もかつてなされていた。実際にこの制度を導入した2001年のセ・リーグで、スワローズの「隠れ首位」という現象が起きてしまい、わかりにくいと不評だったために1年で元に戻ってしまった。
勝率主義もルールなら、プレーオフ制度もルール。
もちろんルールの妥当性は常に検討すべきだし、勝率首位のチームが日本シリーズを行うという制度が長年続いてきたのは、大勢が納得しうる説得力があったからだ。だがプロ野球の目的、あるいは存在意義は、「優勝チームを決めること」ではなく、「一流のプレーとスリリングな試合を見せてファンを楽しませる」ことにある。

シーズン終盤からCSでのマリーンズの神がかり的な勝ちっぷりは、大いにシーズンを盛り上げてくれた。胸を張って日本シリーズに臨んでほしい。

ところで、私は以前、田端至『ワニとライオンの野球理論』を引用し、2005年マリーンズの「見逃し能力」を賞賛したことがある。
http://www.green.dti.ne.jp/microkosmos/diary/diary0708.html

このCSでも勝負を分けたのは、「見逃し能力」だった。以下スポニチアネックスの記事から。

「ロッテ・成瀬とソフトバンク・杉内のエース対決。その一方で両チームの打線が相手エースをどう攻略するかも大きなポイントだった。そしてロッテは打たなくても杉内を攻略してしまった。

 2死から里崎、西岡が連打。ここからまず清田がフルカウントから外角のボール球に手を出さず、歩いた。満塁にして井口が押し出し死球。さらにサブローも 押し出し四球を奪った。フルカウントから2球ファウルで粘り、際どい内角直球を見極めた。制球に苦しむ杉内から3連続四死球を奪い、2点を先制した。

 レギュラーシーズンで両リーグトップの546四球を記録し、リーグトップの708得点につながった。それは金森打撃コーチの指導で体の近くまで球を引きつける打撃を実践してきた成果。投球が捕手のミットに到達する間際まで球を見極められれば、必然的に選球眼も良くなる。金森コーチは「打つだけが打撃じゃない」と言った。

 杉内に4回まで無得点も63球を投げさせていた。ボールは22球、ファウルは14球を数えた。好球必打で積極性は失わず、ボール球の見極めもできていた 証拠。青山総合ベンチコーチは「中4日だったし球数も投げさせて疲労させたね。それが5回につながった」と勝因に挙げた。5回の3四死球には布石もあっ た。」

この場面、ボール球に手を出さず、きわどい球はカットして杉内を追い詰めていくマリーンズバッターたちには、見ていて鳥肌が立つような凄みがあった。
「打つだけが打撃じゃない」。今シーズンのNo.1の名言として記憶したい。

それにひきかえ、がっかりしたのがホークス秋山監督の敗戦の弁。
「前の試合から間隔が空いて調整に失敗した」。
これでホークスは6回目のポストシーズン敗退となる。短期決戦では投手力が鍵を握るというのが定説だが、杉内、和田、ホールトンの3本柱にファルケンボーグ、摂津、馬原ら強力なリリーフ陣を擁し、しかも1戦先勝、ホームアドバンテージのお膳立てまでしてもらってこの惨敗。
その反省がこれか。いったい何回同じことを言えば気が済むのか。


前述の田端は、『図解プロ野球「新・勝利の方程式」』(講談社+α文庫、2007年)のなかで、打線を主軸依存型と分散攻撃型に分類している。主軸依存型打線とは、(チーム内の打点1位+2位の計/チーム総得点)が30%を超える打線。つまりポイントゲッターがはっきりしている打線だ。分散攻撃型はその逆で、30%以下の打線。
そして、1991年以降の日本シリーズでこの両タイプが戦った場合は、例外なく分散攻撃型が勝っているのである。

試しにマリーンズとホークスの打線を調べてみたら、マリーンズは井口103打点、金92打点でチーム得点708点。依存度28%。
ホークスは田村89打点、オーティズ81打点、チーム得点638点。依存度は27%。

いずれも分散攻撃型だ。田端によると、分散攻撃型同士の日本シリーズは4勝3敗の白熱したシリーズになることが多い(91年以降7度のうち5度)と言う。なるほど、今回もこのパターンに沿っている。ホークスの方が主軸依存型なんじゃないかとにらんでいたのだが。

改めて順位表を見てみると、ホークスは総得点638、失点615。マリーンズは得点708、失点635。順位と最も相関の強い数字とされる得失点差は、ホークスはプラス23、マリーンズはプラス73。やっぱり「マリーンズの方が強かった」でいいんじゃないの。




それにしても、ドラゴンズの得失点差わずかプラス18で優勝というのは驚異だ。得点がリーグ5位!極端な投手偏重チームだなあ。

2010年10月19日(火)
『閃光のナイトレイド』の同ポ反復

DVD4巻収録の新作エピソード、第6.5話「阿片窟の悪魔」を観た。

逮捕した密偵の意識を探っていた雪菜は、その記憶に取り込まれて夢とも現実ともつかない世界をさまようことになる。

作中、4回同じ構図が反復する。









上の2回が事件の始まり、下の2回が終息。ポイントになるのが、画面手前に写る蜘蛛の巣。これが、夢と現実の境界である。
最初の1回では蜘蛛の巣から画面奥の雪菜にピン送り。
そして最後のシーンでは、棗が巣に引っかかっていた蝶を助ける。

この蝶が、「身請けされた少女」と「記憶に囚われていた雪菜」2人の開放を表すダブルミーニングになっている。

さらに巧妙なのが、このエピソード全体が雪菜の「お当番回」に見えて、実は真の主人公は棗だ、という二重構造になっている点。棗の過去と、雪菜に尽くす理由をさりげなくほのめかしているのである。

脚本:大西信介、阿谷映一
絵コンテ:弥佐吉(ペンネーム?)
演出:福多潤


7巻にも新作エピソードが収録されるそうで、楽しみ。

2010年10月18日(月)
『オカルト学院』

昨日は重い話題だったので、今日は気軽に。

『世紀末オカルト学院』面白かったですねえ。全然ノーチェックだったためもあるが、楽しませてもらった。「アニメノチカラ」枠、せっかくのオリジナル枠なのだからがんばって続けてほしいものだ。

ところで、DVD特典のPV見たさにレンタルで観返してみた。残念ながらPVの新作カットはCMで放送していた部分だけだったけれど、改めて観ると、2話は映画ネタの宝庫ですね。『サイコ』とか『シャイニング』とか大体はとっくに指摘されているが、これはまだらしいので上げておく。

 

ついでに、文明くんがタイムスリップしてくるときに写るこのマーク。元ネタは「ウンモ星人のUFO」なんだそうだが、

 

わたし、初見のときからこれ↓に見えて仕方なかったんだわ。



棒が1本足りないけど。
これはもしやスピルバーグの『宇宙戦争』へのオマージュ!?
いや、だからね。あの映画のなかで、大阪で1台トライポッドを破壊したというセリフがあってね・・・わかりにくいネタですいません。

おまけ。コマ送りしてたらこんなカットが。




映画ネタと言えば、『海月姫』のオープニングには驚いた。大森監督って、これまで映画マニア的なところを作品に反映させることはなかったように思う。新境地なのかしらん。

もひとつ小ネタ。『神のみぞ知るセカイ』の1話で、ヒロインが松葉杖姿で登場する。私も足首を骨折して松葉杖生活をしたことがあるので、その経験から言うのだが、片足を浮かせた状態で松葉杖1本では、歩けない。ケガした方の足にある程度体重をかけられるようになってからでないと、松葉杖1本で歩くのはまず無理だ。この作品、そこまで知っていてああいう描写にしたのならたいしたものだ。
ちなみに松葉杖は脇の下で体重を支えるのではなく、もう少し下に斜め上から押しつけるようにして使う。だから、慣れるまでは手首が非常にきついのだ。

こういう小ネタはmixiに書くことが多かったのだが、あっちは閑古鳥が鳴いてるので、また少しずつこっちに書くことにする。

2010年10月17日(日)
『ザ・パシフィック』の沖縄問題

夏にWOWOWで観た『ザ・パシフィック』だが、その沖縄戦の描写が話題になっている。

いろいろと調べ物をしていたらすっかり遅くなってしまったが、一応まとめたところを公開しておく

2010年10月11日(月)
『エヴァンゲリオン』と空からの来訪者

秋空をぼけっと見上げていたらふいに思いついたので、メモしておく。

これは、夏コミで同人誌『ORBITAL』(絶賛委託販売中)に寄稿した「潜水艦映画としてのエヴァンゲリオン」の補足である。

私はその原稿を、「シンジたちが陽光の下で物語の結末を迎えられるよう願う」と締めくくった。繰り返しになるが説明しておくと、「陽光の下で」というのは、潜水艦映画になぞらえたハッピーエンドの比喩である。

では、旧『エヴァ』ではなぜそうならなかったのか?
答えは簡単で、旧『エヴァ』は「脱出する」という選択肢を、「逃げちゃダメだ」と封印することを出発点にしていたからである。その縛りに誠実すぎるほど忠実に従った結果、ああいう結末を迎えるしかなかった。

で、今回思いついたのは次の点。
旧『エヴァ』において、空からやってくるのは災厄をもたらすものばかりだ、という点である。



 





夕陽を背に登場する参号機も、そのバリエーションと言える。



とりわけ象徴的なのが、旧劇場版で戦略自衛隊の攻撃にさらされるジオフロントのシーンだ。
N2爆雷により天井を破壊され、ジオフロントに初めて本物の陽光が差し込む。だがその直後に降り注ぐ、ミサイルの雨!

 

思えば旧『エヴァ』では、照りつける夏の日差しも、セミの声も、「不快なもの」として描写され続けた。そこでは太陽も青空も、救いをもたらさない。
『ゾンビ』('78)のラストシーンは、地獄と化した地上からヘリコプターで脱出する場面だった。『エヴァ』の空は、そのような救いを与えない。そこにあるのは、空でさえ脱出口にはなり得ない、深い諦念と絶望的な閉塞感だ(その意味で『U・ボート』によく似ている)。いわばあの結末は必然だったのである。


・・・さて、以上を踏まえて新『ヱヴァ』を観ると、大きな改変があることに気づく。
弐号機の登場シーンである。旧作では海上を輸送されてきた2号機が、今回は颯爽と空から舞い降りる。



そしてもちろんこの人も。



『ヱヴァ』がついに落ちものに!みたいな文脈で語られがちだったこの場面だが、意外と重要な意味を持つのかもしれない。
彼女が物語で果たす役割はいまだ明らかではないが、幸福な結末をもたらす希望の萌芽であると思いたい。
だといいなあ。


あ、でも6号機も空から来るんだっけ。まあいいか。

2010年10月4日(月)
『クドリャフカの順番』(微妙にネタバレ有り)

もう10月かあ。早いですなあ。


最近、
米沢穂信の古典部シリーズを読んでいる。
神山高校古典部を舞台に、日常に潜むささやかな謎を、瑞々しい筆致で、魅力的に描き出す青春ミステリの佳作。
標題作は、『氷菓』『愚者のエンドロール』に続く、第3巻。この巻を読んで、おや、と思った。

本作は、文化祭を背景にしている。前2作が主人公の主観視点だったのに対して、古典部部員4人それぞれの視点で書き分け、それぞれが関わる事件が少しずつ連関していって、やがて1つの結末に至る−極めて技巧的な作品である。面白い。

・・・のだが、この最後のトリックは−一応ネタバレ回避で伏せ字にしておくが−「○○が実は××」パターンの変形ではないか?


私は、お世辞にもミステリの良い読み手ではない。そのことは自覚している。
どのくらいかというと、デアンドリアの『ホッグ連続殺人』、貫井徳郎の『慟哭』を読んだとき、「ふざけんな」と叫んで本を壁に叩きつけそうになったくらい。いや、本は大切にしろという躾を受けてるんでやんなかったけどさ。
アイリッシュの『幻の女』が大っきらい(そういえばこれも○○が××パターンだ。嫌いなのはそのせいではないが)。しかもこれ、ハヤカワのオールタイムベストの上位に毎回顔を出すんだから信じられん。
映画でも小説でもそうだが、エンタテイメントというのは、客の期待を裏切っちゃいけないと思うのよ。多くの本格ミステリに、私は「期待をあおるだけあおっといてそれかい」という不満−「肩すかし感」を抱いてしまう。

ちなみに好きなのは、夏樹静子『Wの悲劇』、ロバート・ゴダード『リオノーラの肖像』にジョイ・フィールディング、初期の桐野夏生あたり。

そういうわけでノックスの十戒なんか知ったこっちゃないし、本作が発表されたときどういう評価を受けたのかも知らない。あのパターンが現在どうみなされているのかも。ざっとネット内の感想を見た限りでは、問題にされていないようだ。なのだが・・・・・・あのオチは少々、アンフェアというものなのではないか?

と、なんか釈然としない読後感のまま、続く第4巻『遠まわりする雛』を読み始めたら、興味深い記述があった。
これはシリーズ初めての短編集だが、その第1話「やるべきことなら手短に」が、『クドリャフカの順番』と同種の解決をしている。そしてそのことを、主人公の親友の口を借りてこう評しているのである。

『「ホータロー。それは良くないね」
「・・・・・・・・・・・・」
「モットーを披露するなら、堂々と胸を張って言うべきだ。いまのホータローは、単にエクスキューズをしたようにしか聞こえない」』

なにやら作者自身の、前作への自己批判のようではないか。

時系列上、「やるべきことなら手短に」は『クドリャフカ』より前に当たるが、言うまでもなく、ここでは作中の時系列の話をしているのではない。作品の外で、作者の上に流れた時間の話である。
その間に、作者もいろいろ思うところがあったのだろうな。こんな想像をするのも、読者の勝手な楽しみ方のひとつである。

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