更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2011年5月30日(月)
『東のエデン』の副読本

『東のエデン』作中で、咲をはじめとする「東のエデン」グループの面々は、若年非就労者のさまざまな類型を表している。咲は就職活動して就職できない組。平澤はベンチャー一旗組。板津はひきこもり。おネエは・・・・・・日雇い労働者?
彼らを総称して、世間が誤って使っている「ニート」という言葉で代表させているのである。だから、『東のエデン』で描かれるニート像がおかしい、という批判はおそらく的外れだ。
ちょっときっかけがあって思ったのだが、『東のエデン』がなぜ「ニート」という存在に着目したのか、この国の空気に戦いを挑む行為が、なぜ世代間闘争の様相を呈するのか、あまり理解されていないような気がする。

そこで、私なりに副読本を紹介してみる。

まずはこれ。赤木智弘。若年非就労者の問題に関する代表的な論客。
『若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か』赤木智弘(双風社、2007年)


『論座』2007年1月号に掲載されて注目された「『丸山眞男をひっぱたきたい−三一歳フリーター。希望は、戦争」を収録している。赤木は、バブル崩壊後に何の責任もとらず、若者から就職の機会も、職業訓練の機会も奪った「おとなたち」、そしてそれを「若者がおかしいから悪いのだ」と自己責任を押しつける俗流若者論に、怒りを隠さない。『東のエデン』で言う「上がりを決め込んだ奴ら」がまさにこれを指す。

『東のエデン』が赤木の現状認識を元にしている「みたいだ」と考えている感想は相当数目にした。が、惜しむらくはそこから先、全然議論が進まないのよ。


『「ニート」って言うな!』本田 由紀、内藤 朝雄、後藤和智(光文社新書、2006年)


扇情的なタイトルで損をしていると思うのだが、いわゆるニート論の基礎となる好著。
もともと、若年非就労者の問題は失業問題だ、と行政は正しく認識し対応しようとしていた。それがいつしか、自己責任論に取って代わり、問題は若者の側にあるとすり替わってしまった。その過程を細かく検証した労作である。本書の中で、「ニート」という言葉が流行り始める直前の時期には、若年就労問題の最大の要因は労働需要側にあるという認識がなされており、その典型は2003年に内閣府が刊行した『平成一五年度版 国民生活白書』の記述だ−という部分がある。
ちょっと検索してみたら、問題の国民生活白書がWEB上で公開されていた

第二章第三節の2に、確かにこう書いてある。以下『 』内は引用。太字は引用者による。

『相対的に大きい企業側の要因

これまでみてきたように、フリーターの増加の理由としては、親と同居する若年の増加による就業意識の変化等の若年(労働供給)側の要因と、新卒採用や中途採用における企業側の採用行動の変化等の企業(労働需要)側の要因とがあると考えられるが、以下の点から判断すると、90年代半ば以降の大幅なフリーターの増加要因としては、どちらかといえば企業側の要因が大きいと思われる。
 第一に、フリーター増加の要因のうち、新卒で正社員として就業できないのは、主として需要側の問題である(第1節2参照)。かつての新卒者が、現在の新卒者に比べはるかに就業に対する強い意欲を持っていたり、職業能力が高かったわけではなく、需要側の採用行動の変化により新卒フリーターが増加しているものと考えられる。
 第二に、フリーターの就業に対する姿勢に切迫感がないのは否めないが、若年の意識が急激に変化したとは考えにくい。確かにフリーターは正社員に比べれば 就業意欲が低いのは事実だが、その差は大きいとはいえない。また、フリーターのうち「正社員になりたい」と考える人の割合は7割を超えている。正社員を希望するフリーターは、かつてのように雇用環境が良ければ正社員として雇用されていたが、経済の低迷が長引き、企業が雇用の戦略を見直しているために、現在は雇用環境が悪化していることから、やむをえずフリーターになっている人が多いと考えられる。
 第三に、若年は正社員になっても離職する人が多いが、若年の離職者が急に増加したわけではない(注15)。企業に就職して3年以 内に離職する人の割合はもともと高く、ここ10年で大幅に上昇しているわけではない。正社員からフリーターになった人は、90年から2001年にかけて増加しているものの、その増加数は、この間のフリーター全体の大幅な増加の4分の1程度にとどまっている(付表2−3−6)。
 第四に、フリーターの職業能力の蓄積が難しいという問題点はこれまでも存在してきた。しかし、これまではフリーターの数が少なく、問題が顕在化してこなかっただけである。フリーターの職業能力が低いことは、フリーターになった人がフリーターから抜け出せなくなる要因としては重要であるが、そもそもフリーターが大幅に増加した理由は別の要因に求めるべきである』



『おまえが若者を語るな!』後藤和智(角川書店、2008年)


いわゆる俗流若者論を、それぞれ具体的に批判した本。
俎上に挙げられているのは、宮台真司、香山リカ、三浦展、東浩紀、荷宮和子、などなど。
ちょっと変わったところでは、養老孟司、藤原正彦、梅田望夫、板東眞理子の名も。


『若者殺しの時代』堀井憲一郎(講談社現代新書、2006年)


クリスマスが恋人たちのものになったのは1983年からだ。それは、「若者」というカテゴリーを社会が認め、そこに資本を投じ、その資本を回収するために「若者はこうすべきだ」という情報を流し、若い人の行動を誘導しはじめた年だった。以来、若者は搾取され続けている。

『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ(イースト・プレス、2004年)


著者のマッツァリーノは自身を「お笑い芸人」と称しているが、なかなかどうして、大した読み応え。目次から抜粋する。
「キレやすいのは誰だ」
「パラサイトシングルが日本を救う」
「公平な社会を作るバカ息子(娘も)」
「日本人は勤勉ではない」
「フリーターのおかげなのです」
「本当にイギリス人は立派で日本人はふにゃふにゃなのか」
面白そうでしょ?
特に、日本の物価が今のレベルで落ち着いているのは、フリーターが安価にサービスを提供してくれているから、との指摘は、派遣切りや非正規雇用の問題が表面化するはるか以前になされているだけに鋭い。


これは本ではなく、WEB上で連載されている週間医学界新聞のコラム。
『続 アメリカ医療の光と影』
第131回 格差社会の不健康(4)
著者の李啓充はメジャーリーグに関するコラムで有名だが、本職は医師。このコラムでは、「格差症候群」なる病気を紹介している。

http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02789_06

てっとり早く言えば、貧乏人の方が健康状態が悪く寿命が短い、という調査結果である。これだけ聞けば当然のように思うだろうが、問題はその原因の方。研究者はその原因を、「自分の人生をコントロールできないことから来る慢性的なストレス」と推定したのだ。
そして今、日本でも貧富の差が急激に拡大しつつある。

http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02791_04

図のように、貧富の差を表す指標のジニ係数が悪化の一途をたどっている。


あいにくと出典を失念してしまったのだが、セーフティネットが存在しない現代の日本で、その役割を果たしているのが刑務所だ、と指摘したルポルタージュがある。老人と病人ばかりでまともに労役も果たせない受刑者たちの姿は衝撃的である。
要するに、高齢者=弱者という見方はすでに誤っており、弱者どころか富裕な高齢者が若者を搾取しているのが現代日本の構図だ−というのが、これらの著書の主張。
私には、その当否を判断する見識はないが、著書を読む限り彼らの主張は妥当なように思える。

2011年5月29日(日)
キャラ立て

たまたま、別々の場所で目にしたのでメモ。

『−『たまゆら』は現実に近い描写の多い作品ですが、キャラ立てに苦労された面はありましたか?
佐藤 たとえば、『たまゆら』の楓だったら写真が好きだけど、ものすごく好きかといわれるとそうでもない。そういった「好きなんだけど、どうすればいいかわからない」という点をしっかり描けば、キャラクターが立ってくる。そうなれば、大事件を起こさなくてもお話は進んでいくし、面白くなるんです。』
「佐藤順一監督インタビュー」『オトナアニメ』vol.20 2011年5月 75ページ。


『キャラとは絵ヅラのことではない。行動様式で描く個性のこと』
あさりよしとお「俺のエロ魂」『アイラ』vol.11 2001年

キャラを立てる上で、奇矯なデザインやヘンな口癖などは関係ない、ということですな。


ついでにもうひとつ。池袋コミュニティ・カレッジの氷川竜介先生の講義で教わったサイト。

TRAINER LABOLATORY

スタニスラフスキー・システム(演劇における、演技の基礎理論)を解説していて、アニメ作画による芝居を考える上でも参考になるとのこと。

2011年5月24日(火)
『星を追う子ども』

mixiから少し加筆して転載。

前評判がいまいちなので心配していたのだが、やるべきことをきちんとやっている、ちゃんとした冒険映画だった。やたらと走ってるシーンと飲み食いしてるシーンが多かったが。「よくできた『ゲド戦記』」という評に対しては、よくできてるなら良いんじゃね?と言っておく。


新海誠は、不幸な作家だと思う。
いつも、「一番語りやすい」タームでばかり語られる、という意味において。
「個人作家」「背景美術」「セカイ系」「ノスタルジー」今度は「ジブリ風」。自業自得という面があるのは否定しないが、ある程度は観客の側の怠慢だ。

以下、ややネタバレ。主人公の明日菜に強い動機がない、という批判には私も同感だが、だから「崖を降りられない」わけで、作中での整合性は取れている(ここで終わりにしても良い、とは思ったが)。
以前、『サマーウォーズ』について私も同じ批判をしたことがあるが、あそこで問題なのは「動機がないのに物語上の要請だけで主人公らしく振る舞ってしまう」ことである。主人公が狂言回し、というタイプの作品は別に珍しくない。

むしろこの作品は、森崎こそ主人公と思えばいいのだ。失った妻を追い求める男、といえばあら不思議、あっという間にいつもの新海映画に。そこをあえて小学生の女の子を主人公に据えた、という点に作家の誠意を見るか打算を見るか、だろう。私は判断保留にしておく。
もう1点、初めて「父親の不在」をモチーフにしている点を評価したい。これまでの新海作品には、家族の影が希薄だった。『秒速5センチメートル』で初めて「家庭」が登場し、本作ではついに親子が描かれる。
順調な進歩、と言ってよいのではなかろうか。スピルバーグは、家族を持った今では『未知との遭遇』の主人公の行動−家族を捨てて異星人とともに旅立つ−を「とても考えられない」と言っているそうだ。

饒舌なモノローグを封印した点も好印象。代わりにと言うべきか、OFFゼリフの使い方がとてもうまい。
また、『フラクタル』との類似を指摘する声もありそうだが、『星を追う子ども』には、ジブリ映画の一番ムカつく部分である無邪気な「自然崇拝」「家族礼賛」「共同体幻想」が一切存在しない。むしろ、共同体は後進性や閉鎖性の権化として描写されており、よほど真実に近い。

ただひとつ気になったのは、女の子の明日菜が、山中の防空壕跡を秘密基地にし、父の形見の鉱石ラジオを愛用しているという設定。これすごくオトコノコ的感性じゃないか?
フィクションなんだしそういう女子がいても悪くはないけど、ちょっと現実に想像つかん。
私が通俗的なジェンダー観に毒されているんだろうか。山奥で、独立心旺盛な小学生で昭和50年代なら、いてもおかしくないんだろうか。

ところで、考えてみたら、オレ『ハウル』以降のジブリ映画観てないんだった(出来がどうあれどうせあたるんだから、オレまで観る必要を感じないというひねくれた理由による。例外は『ゲド戦記』。あれだけけなされたので逆に興味がわいた)。『トトロ』『もののけ姫』『千と千尋』は公開時に観たきり。おそらく血中ジブリ濃度が日本人の平均より相当低いはずで、それであまり気にならないのかも知れない。

2011年5月16日(月)
ジャスミン革命

しばらく実家に帰っていたせいもあって随分間が空いてしまった。

さて、先月の日記でマルコム・グラッドウェルの「つぶやきでは革命は起こせない」という記事とその後の展開について少し触れた。

私の心情としてはグラッドウェルに肩入れしたいのだけれど、いま問題になっているのは「ネットが革命にどのくらい役に立ったのか?」「ネットがなければ革命は起きなかったと言えるか?」である以上、グラッドウェルの反論−「ネットなんかなくてもフランス革命は起きた」−は、反論になってないと言われても仕方ないだろう。社会学的に言えば、「役に立った・立たない」をどんな基準で決めるのか、とかさまざまな問題がある。おそらくは、大規模なアンケート調査でもするしかあるまい。

先日、NHK-BSでチュニジアの革命を扱った『フェイスブック革命』を観た。タイトルからわかるとおり、インターネットあっての革命という通説を裏付ける内容だ。そりゃネットの恩恵に浴した人に取材すれば、役に立ったと言うに決まってる。また、外国に住むチュニジア人たちが、ニュースを見て各地でデモを行ったというが、もともと移民の間には強固なコミュニティがあるのではなかろうか?

もうひとつ、非常に気になったのがアノニマスの介在である。先日のソニーの情報流出も彼らの仕業ではないかという報道があったが、ネット内の匿名のハッカー集団、だそうだ。
チュニジア政府が、反政府活動家のネット接続を遮断する挙に出たのに憤り、政府のサーバーを攻撃した、ということだった。
これ、凄く危険な話だと思うのよ。チュニジア人が、自国の政府の弾圧と戦うのは良い。しかしアノニマスを呼び込むのは、言ってみりゃ外国から武器を買ったり傭兵を雇うようなものだろう。単なる反政府活動じゃなくて、外国による侵略に手を貸したことにならないか?あまり知られていないが、日本国の刑法にも「外患誘致罪」というのがある。
番組ではそれをまるで美談のように描いているのが、どうにも気になるのだ。もちろん番組中で端折っている部分もたくさんあるだろうし、アノニマスがチュニジア人でない、という証拠もないが。
しかしネット内の知り合いが、全員善意の協力者だなんてことはあり得ないだろう。インフラが破壊されたり無政府状態になったりしたって、外国人が責任取ってくれるわけじゃないんだぜ。

番組を観ながら、ふと『ホテル・ルワンダ』を思い出した。'94年、アフリカの小国ルワンダで発生した大虐殺に際し、避難民を守り抜いたホテルマン、ポール・ルセサバギナの実話を元にした映画。
作中で、欧米のジャーナリストと知り合ったポールは、この悲劇がヨーロッパに知れれば助けが来る、と期待するが、そのジャーナリストは、肩をすくめて言うのだ。
「みんな夕飯を食べながら、TVでニュースを見る。そして“アフリカって恐いところだね”と言う。それで終わりさ」

あのときスマートフォンがあったら、虐殺は止められたろうか。
私たちはあのときより、進歩しただろうか。

ところで、最近ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』を読んでいる。ダイアモンドは生物学者で、前著『銃・病原菌・鉄』で世界の文明がなぜ不均衡に発達したのかというテーマに挑戦。その原因は地理・気候、それに伴う植生と動物相の違いに過ぎないという、ある意味身も蓋もない説を提唱した(シマウマが人になつかないというのを本書で初めて知った)。本書は朝日新聞が選出した「ゼロ年代に読むべき50冊」のナンバーワンに輝いている。
『文明崩壊』は、世界各地の社会が、なぜ隆盛したり滅んだりするのかを解明した本(注)。その1章でルワンダを採り上げている。ルワンダの虐殺はツチ族とフツ族の長年の対立の結果とされているが、それだけでは説明できないことも多い。本書はその点について考察し、背景には急速な近代化による人口爆発、食糧増産の頭打ちと、近代化に伴って必然的に発生する村落共同体の崩壊があった、とする。

「命を狙われた人々はみな、土地を、ときには乳牛を持っていた。そして、所有者が死亡したあとには、誰かがその土地を、その乳牛を手に入れることになった。貧しく、人口過剰となりつつあった国では、これは無視できない誘因だった」
ジェラール・プルニエ。ルワンダ虐殺の調査を行った東アフリカ研究者。

「子どもを裸足で学校へ送りださねばならない人々が、子どもに靴を買うことのできる人々を殺したのです」
プルニエがインタビューしたツチ族の教師。妻と、5人の子どものうち4人を殺された。

ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの 下巻』(草思社、2005年)86頁。

やりきれない話である。

   


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注:この邦題は、やや風呂敷広げすぎの感がある。原題は“COLLAPSE How Societies Choose to Fail or Succeed”で、文明(civilization)という言葉は使っていない。確かに、グリーンランドのノルウェー人入植地の壊滅を、文明崩壊とは言わんだろう。

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