『ザ・パシフィック』の沖縄問題

先日「ペリリュー編」を持ち上げた『ザ・パシフィック』だが、第9章「沖縄」がちょっとヘンなことになっている。ネット内でも非難囂々だ。こんな描写があるからだ。

主人公ら海兵隊員が日本軍陣地に接近すると、赤ん坊を抱いた若い女がよろめき歩いてくる。女は米兵たちに赤ん坊を渡そうとする。米兵が警戒しながら近づくと、女は腹に巻き付けた爆弾で、自身と赤ん坊もろとも爆散する。

一見してあまりに酸鼻な光景に息を呑むが、ちょっとおかしい、と感じた。

いわゆる神風特攻隊はもちろん、地上戦においても日本兵がしばしば自爆攻撃を試みたのは事実である。しかしそれは通常、爆薬を抱いて戦車の下に飛びこみ攫座させる対戦車戦法として行われた。
「十キロの黄焼火薬を箱の中に詰め、真中に柄付手榴弾を挟み板で蓋をする。安全栓を抜くと、数秒で轟然炸裂する仕掛けになっている。それを荒縄で背負い、敵戦車に体当たりする・・・・・・」*1
敵戦車が接近するまで、タコツボの中でひたすら待ち、タイミングを見計らって飛びこむのである。敵兵を標的にしたという話はあまり聞かない。まして、民間人、しかも女性が赤ん坊をおとりに使ったなどとは聞いたことがない。

少し調べてみた。
まず、『ザ・パシフィック』の直接の原作である、ヒュー・アンブローズの同名著書(以下書籍版)。私も誤解していたのだが、これはドラマのノベライズではなく、以前紹介したロバート・レッキーの著書や、ユージーン・スレッジの『ペリリュー・沖縄戦記』(講談社学術文庫、2008年)等の記録に、独自の調査を加えて再構成したれっきとしたノンフィクションである。そのため、書籍版はフィリピン、コレヒドール島攻防戦から始まる。
その書籍版の沖縄戦の部分には、該当する描写はない(ただし店頭で流し読みしただけなので、見落としている可能性は否定しない)。
スレッジの『ペリリュー・沖縄戦記』にも、こんな場面は出てこない。
したがって、これは映像化にあたって追加された場面である。

はたしてそんな事実が、少なくともモデルになるような事例があるか、沖縄戦体験者の証言集をいくつか調べてみた。沖縄戦の証言は膨大な量があるので、さしあたり図書館で手近にあった以下の4冊。

駒木根康『証言・沖縄戦秘録 青春かく戦えり』(紀元社出版、1979年)
中山良彦編『人間でなくなる日 沖縄戦住民証言集』(集英社、1980年)
石原昌家『証言・沖縄戦 戦場の光景』(青木書店、1984年)
『鉄の暴風 沖縄戦記』(沖縄タイムス社、1970年)

1945年4月17日、伊江島の戦闘で女子救護班の5名の女性が斬り込みに参加したという記録がある。しかし、その出で立ちは、「頭髪を剪り戦闘帽を被り、軍靴をはき、男装した。そして赤十字カバンとマッチを持って、壕を飛び出した。夜間行動のために、皆、白布で背中に円形の標識をしていた」と言うから、まったく合致しない*2。

上記の記録には、他に似た事例はなかった。しかし、とうてい証言の全てを調べたわけではないし、まして目撃者が残っていない事例とて、いくらでもあるだろう。そこで米軍側から見た証言も調べてみると、このようなものがある。

漫湖付近で、日本兵および住民に降伏勧告を行った米軍兵士と通訳の回想。
「困ったことに、浅瀬の草の茂みに隠れている日本兵のほとんどは手榴弾や爆雷を手にし、降伏よりも死を選んだ。このため、自らの命を捨てようとする本人はもちろんのことだが、その近くを通り抜けようとする捜索救助隊の命まで脅かすことがしばしばだった」*3

本書には、投降してきた日本兵が、安全ピンを抜いた手榴弾を所持しており、米兵が取り上げて遠くへ放り投げ、九死に一生を得た、という体験も記されている。おそらく自決するかどうか直前まで迷っていたのであろうが、「最初から米兵を巻き添えにするつもりだったのだ」と誤解されても仕方があるまい。

また、このような記録もある。
「5月11日
午前十一時頃、真栄里岬南のレーダー基地に、女性三人と子供らが近づく。その途端、日本兵数人がアメリカ軍陣地を攻撃」*4

「6月5日
師団背後地区で、住民一人が、アメリカ軍の建物に手榴弾を投げようとする。
収容所に向かって移動している集団の中の一人が、手榴弾を投げ、アメリカ兵三人に傷を負わせ、住民五人を殺す」*5

本書はしばしば、投降してきた住民の中に、私服を着た兵士が紛れ込んでいることを記録している。上の事例が兵士か民間人かは不明だが、私服を着ている時点で交戦者資格を失い、ジュネーブ条約による保護を受けられないのだから、これは立派なテロ活動である。

「6月8日
昼間、偵察隊が、断崖上で女性の姿を発見。発砲を控える。その女性が姿を隠した途端日本軍の機関銃が偵察隊に向かって火を吹く。日本軍は、この女性を囮の斥候として利用しているもよう」*6

女性たちが、米軍が考えるように囮だったのか、単なる偶然なのかは不明だ。ただ、斬り込み隊の遺棄死体に女性が混じっていることもしばしば報告されている。
上記の上原の著書は、米軍の戦闘報告書をまとめたG2(米陸軍情報部)の記録を元にしたもので、米軍の視点を提供してくれる貴重な本である。

これらはあくまで米軍側にはそう見えた、という記録であり事実は不明のままである。だがこうしたイメージが合成されて、「子供を囮にし、米兵を巻き添えに自爆する民間人女性」という描写が創造されていくのは容易であろう。『ザ・パシフィック』の制作者がこれらの記録を読んでいたかは怪しいが、読まなかったと断じる根拠もまたない。
少なくとも彼らにとっては、『ザ・パシフィック』の描写は甚だしく矛盾したものではなく、記録を読む限り彼らがそう考えるのも無理はない、と私も思う。

以上調べた限りでは、『ザ・パシフィック』の描写は映像化にあたって創作されたものと見て間違いなさそうだ。

しかし、ちょっと冷静に考えてみよう。
「歴史的事実と異なるから、許されない表現だ」と簡単には済まないのだ。

『ザ・パシフィック』はノンフィクションでもドキュメンタリーでもない。事実を元にしているとはいえ、れっきとしたフィクションだ。フィクションが語るべきは、事実ではなく真実である。真実を語るための嘘は許容される。それを脚色という。
ここで言う真実とは、製作者の信じる真実、製作者の主張であり、客観的な真実ではない。その主張が誤謬や偏見に満ちていたとしても、彼らにも表現の自由がある。
むろんわれわれが不快を表明することは無意味ではないが、それは単に不愉快だから取りやめろと言うのと何ら変わらない。
偏見や差別を招きかねない表現を公共の電波に乗せていいかという問題は、深刻ではあるがまた別の問題と考え、本稿では取り上げない。
もちろん無制限に脚色していいということはなく、自ずと限度はあるだろう。しかしそれは、どこまでなら許されるか、という単なる線引きの問題に過ぎない。
許されない例と言えば、私見では例えばオリバー・ストーン監督の『JFK』('91)である。ケネディ暗殺を題材にしたあの映画は、実際の記録映像に巧妙に(と、言うほど巧妙でもないが)再現映像を織り交ぜ、観客をミスリードする手法を採っていた。『ザ・パシフィック』の語り口は首尾一貫しており、そのような小手先の技は見られない。
『ザ・パシフィック』の製作総指揮ゲイリー・ゴーツマンは、このような談話を発表している。

「米TVガイド誌の取材に対し、もう1人の製作総指揮ゲイリー・ゴーツマンは『The Pacific』で描かれる戦争について「ヨーロッパでの戦いは、アメリカに似た町並みや風景の場所で行われた。しかし、日本軍との戦いは、砂と血と恐怖しかなかった」と話す。さらに、「日本軍の“カミカゼ”特攻はアメリカが初めて経験したテロとの戦い。自分の命を犠牲にして相手を倒そうとする考え方は、現在、アメリカが経験しているテロと不気味なほど共通点を持っている」とも語った」*7

この発言はテロと自爆テロを区別していない点でも問題があるが、それはさておき、ここから推測すると、問題のシーンは自爆テロを連想させることを意図して加えられたものである。
とすると、事実と違うと指摘したところで、「確かにあれは創作だが、suicide attackの恐怖と狂気を表現するのに必要な描写なのだ」と反論されるのがオチだろう。
事実、自爆テロと特攻は同じ自殺攻撃(suicide attack)という単語を使う。彼らは明らかにそれらを同一視している。

試しに、“kamikaze terro”でgoogle検索してみると、実に259万件がヒットする(2010年10月現在)。もちろんその中には、特攻とテロの違いを解説する言論も少なからず含まれているはずだが、これらを同一視する、少なくとも同類と連想するのはごく自然なことになっている、と見ていいだろう。一方、学術論文のデータベースでざっと調べた限りでは、特攻とテロの違いを学術的な検証に耐えるレベルで議論した文献はないようである。
おそらく特攻は戦争中の戦闘行動の一種、テロは犯罪という違いを自明のこととして、議論するに足る問題とは考えられていないのだろう。
われわれがすべきは、その本質的な違いを外国人に対しても十分な説得力を持って証明することなのである。

日本語で、「自爆テロが特攻を連想させる」ことを最初に活字にしたのは、立花隆だったようである。

「彼ら(引用者注:特攻隊員)が実際に、敵の戦艦に突っこんでいくときは、どんな気持だったのだろうか。九月十二日、テレビが繰り返し繰り返し映し出す、貿易センタービルに突っこんでいく飛行機の姿を見ているうちに、私はふとあのビルが特攻隊機が突っこんでいった戦艦のブリッジのように見えてきて、そんなことを思った。衝突の瞬間、あの飛行機の操縦席にのっていたイスラム過激派の連中にも、自分たちが悪をなしているという意識は全くなかったにちがいない。むしろ自分はいま神の腕の中に飛びこみつつあると思って、一種の法悦境にひたっていたのではないか。」*8

この文章は、貿易センタービルが崩壊したのは実は旅客機の衝突のためではなく、ビル解体の爆弾のためではないか?という、後の陰謀論のような感想も述べられているが、これは事件から2ヶ月足らずで、まだ被害者の収容も終わっていない時期に発表された文章としては致し方ないところもあるだろう。ともあれ、この文章には感情的な反発が強かった*9。
しかし本文のなかでむしろ注目すべきなのは、1972年の日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件以降、自爆テロが顕著に増加しているという指摘である*10。

特攻を特攻たらしめているのは、まさしくその「自爆」という行動である。それによって「自爆テロ」と強固に結びつけられている以上、「戦争と犯罪」と切り分けてしまうのは明快ではあるが、ある種の思考停止のように思われる。
一般的に言って、われわれ日本人は、自爆テロと特攻の違いを自明のことと考えている。
これまで行われた「自爆テロと特攻の同一視に対する反論」を仮に分類するならば、
@ 行為論
   戦争中の戦闘行動と平時の犯罪は本質的に異なる
A 動機論
   特攻隊員の憂国の思いは、狂信的なテロリストとは違う
B 功利論
   日本の国際イメージが低下する。日米双方の国民感情を害して同盟関係を損なう
などが考えられる。
上の須崎の著書はAの典型であるが、正直言って外国人を説得できるとは考えにくい。例えば福田州平は、テロリズムを戦略論の観点から分析し、「自爆テロを含むテロリズムは、合理的に考慮された結果の行動であり、非合理的でも狂信的でもない」との議論を提示している*11。また井沢元彦は、特攻隊の生き残りである濱園重義の談話を紹介しているが、興味深いことに、濱園は911テロと特攻隊の同一視を、むしろ当然視している。

「井沢 アメリカの記者は、9・11でイスラムゲリラが世界貿易センターに突っ込んだのをどう思うかって聞かれませんでしたか。
濱園 聞かれたです。
井沢 どうお答えになりました。
濱園 それは当たり前だって言いました(笑)。
井沢 ただ、あれは民間機をハイジャックして、民間人を巻きこんでますよね。
濱園 はい。
井沢 そういう意味で、日本の特攻とは違うような気もするんですけれども。
濱園 私はずっと詰めていけば一緒じゃないかと思うんです。あれもアメリカが憎くなければやらんですよ」*12

井沢としては、少々当てが外れたようである。
またBは、本質的な議論ではない(先述の公共の電波云々の議論は、ここに含まれるかもしれない)。そりゃ私だって、911事件のハイジャック犯を神風特攻隊と同じだと言われれば不愉快である。しかしその本質的な差異を論証するのは、意外と厄介なのだ。

そこで、行為論を叩き台に議論を提示したい。先に私の結論を書いてしまうと、「特攻と自爆テロの峻別は困難」というものである。

特攻と自爆テロの違いは、おおむね以下のような点にあるだろう。

A 特攻
@ 主権国家同士の戦争中に
A 正規軍同士の戦闘において
B 敵戦闘員を殺傷する目的で
行われた、自殺攻撃。以下、それぞれA−@、A−Aのように表記する。

B 自爆テロ
@ 平時において
A 主として犯罪者である非国家主体が
B 非戦闘員を殺傷する目的で
行う自殺攻撃。

違いは明白ではないか、と思うだろうか?ではもう少し考えてみよう。
まずA−@。太平洋戦争は確かに、主権国家たる大日本帝国と、米国をはじめとする連合国の戦争だった。テロが犯罪行為であるのに対し、国家間の戦争は合法行為である。だが、当時においても侵略戦争は違法だった。いわゆる東京裁判史観に与するつもりはないが、公平に見て太平洋戦争は侵略性の強い戦争である。自衛戦争の面もあると言っても、「見方によってはなくもなかった」というのが正直なところだろう。
仮に戦争自体は合法だとしても、特攻そのものはどうだろう。なるほど武力紛争法には、自殺攻撃を禁ずる項目はない。しかしこれは、当時の軍律に照らしても違法なのだ。軍隊が命じることができるのは、「命がけの危険な任務」までである。「死ぬこと」を命じることはできない。兵士の生存権を侵害することになるからだ。両者の間には天地の開きがある。
特攻が「統率の外道」と言われるゆえんである。この矛盾をクリアするために軍首脳がひねり出したのが、「全員志願制」という建前だった。もちろん事実上は強制である。まことにもって日本的な風景、と言うべきであろう。
例えば柳田邦男は、特攻隊の第1号となった関行男大尉の、特攻を承知するまでの経緯、その理不尽な命令への憤りを生々しく伝えている*13。

B−Bについては、さらに容易に反論できる。例えばこのような事例がある。
「レバノン米海兵隊司令本部爆破事件が発生したのは1983年10月だった。爆弾を巻きつけたガスボンベを載せたトラックが、当時ベイルート空港に置かれていた米海兵隊司令本部に突入し4階建てのビルのほとんどを破壊した。この事件で米国軍人241人が犠牲となった。これとほぼ同時に、ベイルート南部のフランス軍宿舎でも爆弾テロがあり、フランス軍人72名が犠牲となっていた」*14

また2000年10月12日には、イエメンのアデン港に停泊していた米駆逐艦コールにボートによる自爆攻撃が行われ、水兵17名が死亡した*15。
こうした、戦闘員を標的にしたsuicide attackなら許容されるのだろうか?
「良いsuicide attack」と「悪いsuicide attack」があるという考え方は、「特攻は良いsuicide attack」「自爆テロは悪いsuicide attack」という切り分けに通ずるが、おそらく特攻と自爆テロを峻別する論者はこの論法には同意しないのではなかろうか。
逆に戦時であっても、米軍の戦略爆撃を筆頭に非戦闘員に対する攻撃はしばしば行われる。特攻が戦闘員を標的にしていたのはただの偶然、と言って悪ければ単なる戦術的要請に過ぎない。

もう一度、「戦争中の戦闘行動と平時の犯罪は本質的に異なる」という入り口へ戻ろう。井沢は先述した連載で、特攻隊とテロリストを同一視することを強く批判しているが、その論拠はほぼこの点にある*16。そのため、井沢の議論は一般的定義としてのテロリズムを批判するにとどまっており、「自爆」テロを射程に入れると途端に歯切れが悪くなる。現在、国家間の戦争、正規軍同士の戦闘という戦争形態はほぼ過去のものとなっており、戦時と平時の二元論的切り分けはほぼ無意味化している*17。
内戦、テロやゲリラ、民族紛争といった武力紛争が主流となっているいま、戦時と平時の差を強調することに、現代的な意義があるだろうか?

もうひとつ、強調しておきたい点がある。
そもそも、当時の大日本帝国は「まともな」主権国家だったろうか。
よく知られている話だが、太平洋戦争の開戦の詔勅には、「国際法を遵守する」旨が謳われていない*18。日清・日露の両戦役では、これを宣言し遵守したにもかかわらず、である。
現実に捕虜の虐待、不当な処刑を筆頭に国際法違反は頻発した。むしろ当時の日本、とりわけ日本軍には国際法という観念自体があったのかどうか疑問である。もちろん国際法違反は連合国側も多数犯しているが、だから日本が免罪されるということにはならない。
あの戦争自体が、持たざる国・日本の、持てる国が作った秩序への挑戦ではあったが、であれば、敗北した場合その秩序によって裁かれるのは覚悟しなければなるまい。

とりわけ、特攻が常態化した末期の日本は、どう見ても西欧近代型の法治主義国家ではない。孫引きになってしまうが、

「(日本軍の特徴は)老幼・婦女を問わず、すべての国民に犠牲を強要することである。もともと、日本軍には、陸海軍を含めて人命を尊重するという考えは皆無に等しかった。そして、戦局が土壇場に近づくにつれ、この傾向はいっそう露骨さを帯びてくる。
四五年四月二十日、陸軍が各部隊に配布した国土決戦教令では、次のように述べている。
「決戦間、負傷者は後送せざるを旨とす。負傷者に対する最大の戦友道は速やかに敵を撃砕するに在るを銘肝し、敵撃滅の一途に邁進するを要す。戦友の看護付添いは之を認めず」さらに「敵は住民、婦女、老幼を先頭にして前進し、我が戦意の消耗を図ることあるべし。斯くある場合、我が同胞は己が生命の長さを希さんよりは皇国の戦捷を祈念しあることを信じ、敵兵撃滅に躊躇すべからず」
また、四五年六月二十一日の「細川日記」に条所引大阪府警局長談話として、大阪の軍司令官が次のように述べたことが記されている。
「この際、食料が全国的に不足し、且つ本土は戦場となる由。老幼者および虚弱者は皆殺す必要あり。是等と日本とが心中することはできぬ」
四五年八月六日、広島に、つづいて八月九日、長崎に原爆が投下された。そして、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、侵攻を開始した。この事態を迎えても、軍の強硬派は依然として本土決戦を唱えていた。
八月九日、御前会議で、首相はじめ各閣僚らポツダム宣言受諾をめぐって意見を交わしているが、席上、阿南陸相は、その受諾は天皇制護持を絶対条件とすべき、と主張する一方、「一億枕を並べて斃れても、大義に生きるべきなり。あくまで戦争を継続せざるべからず」と述べた。
ポツダム宣言受諾を目前に控えた八月十三日、東郷外相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長が会談しているが、その席上、豊田に随行してきた大西軍令部次長(元第一航空艦隊司令長官)は次のように述べている。
「2千万人の日本人を殺す覚悟で、これを特攻として用いれば、決して負けはせぬ」」*19

これらの発言には、「国家の存立目的は国民の生存権の維持拡大にある」という常識が存在しない。狂気、と言うべきであろう。歴史を現代の視点で批判する愚をあえて犯すが、私はこのような国家が国民の幸福に寄与するとは、とうてい思えない。米軍の戦史を読んでいるとしばしば、「日本軍は熱狂的(fanatic)に戦う」という記述に遭遇する。星野之宣は『ヤマタイカ』のなかで、その熱狂をいみじくも「暗黒のマツリ」と評したが、当時の日本を覆っていたものは宗教的熱狂という以外に説明がつかない。なおさらに、自爆テロとの差を見出すのは難しい。
それどころか、恐ろしいことに帝国陸軍が守っていたのは帝国憲法下の天皇制ですらなかった。

「このころ(終戦間際)天皇が絶対的な存在だったはずの日本に、それを否定する奇怪な事件が次々発生する。例えば玉音放送の録音盤をめぐって反乱を起こし、皇居内を暴れまわったのは天皇の護衛に任ずべき近衛部隊であった。報告を聞いた陸軍大臣は顔色を変えて駆けつけるかと思いきや、陛下はご無事かでもなく部下への指示もしない(その直後自殺した)。軍司令官は夜は暗いから明るくなってから行動しよう、という。これは明治維新以来の天皇の代わりはいくらでもいるという精神が底流にあるからだろう。軍隊を監視する憲兵も全く役に立たない。結局天皇ご一家を守った軍人は皆無だったのである。帝国陸軍とはまことに妙な組織であった」*20

この文章を書いた木村哲人は電機技術者であって歴史学者ではないが、それだけに「妙な組織」という感慨には実感がこもっている。では彼らが守ろうとしていたのは何なのか?彼らの観念のなかにしか存在しない「国体」「天皇」。平たく言えば「妄想」であろう。

「日本軍の特攻作戦と−これにともなう−大量自殺以上に、多くの推測と議論とをまき起こした戦争行為はほとんどない。特攻作戦はアメリカやその同盟国で、ショック、恐怖、懸念、狼狽、そして最初はそんなことは信じられないといった態度で、いろいろに受け取られた。特攻作戦は日本の文化、特質、伝統をどの程度反映したものか。特攻作戦は単なる精神錯乱だったのか。特攻作戦はどの程度に成功をおさめたのか」

「第二次世界大戦中、西欧諸国の兵士、水兵、航空搭乗員は、自殺的任務とみられるかもしれない戦いに出撃した。一九四〇年、『バトル・オブ・ブリテン』(英本土上空の戦い)に参加したイギリス空軍のパイロットたちは、ほとんど死に直面していることを承知のうえで、ドイツ空軍に立ち向かった。両者のあいだの本質的なちがいは、バトル・オブ・ブリテンのイギリス軍パイロットたちは、生きるため必死に戦ったのにたいして、日本軍の特攻パイロットたちは死ぬための命令のもとで、同様に必死に戦ったことである。
この相違の多くが日本の伝統から由来したものであるならば、自殺攻撃が小人数の志願者により、もしくは火災を発生した飛行機のなかに絶望的にとり残されたパイロットたちがとっさの決心を迫られてとる、勇敢かつ愛国的動機に支えられた行動から−志願とは表面上のことにしかすぎないことがしばしばだった−大規模自殺攻撃に変わったとき、伝統は姿を消した。
(中略)
訓練されていなかった若ものたちを海上はるか遠くまで飛行させて実施された菊水作戦や、その他の場所での負傷兵や一般住民の強制的な自決にみられる人命の浪費は、日本の伝統には全然存在しなかったものである」

「事実、特攻は絶望から生まれたのであった」

「特攻隊員たちが死ぬ覚悟をきめたのは、自分の意志からではないことがしばしばあった。彼らは、宣伝の圧力、伝統をたくみにすりかえたごまかし、彼らが任務を果たせずに隊に帰投したさいの大きな面目失墜と屈辱などにとまどい、影響されたのであった」

「日本は大きなあやまりを二つおかした。その第一はアメリカとの戦争に巻きこまれたことである。第二のあやまりは、絶望的に不利な、勝ち目のない状況にあくまでも固執して、戦争をやめなかったことで、このことのほうが第一のあやまりよりも一段と損害を大きくさえした」

「つぎからつぎへと繰り返し実施された特攻作戦は、米軍の前進を止めもしなければ、また止めることもできなかった。特攻諸作戦は−日本人は非人間的な狂信者であり、彼らとの戦いでは、目的が手段を正当化するという−知識不足の馬鹿げた考え方を助長したのであった」*21



特攻は絶望から生まれた。おそらく、自爆テロもそうだろう。
人にそれほどの絶望を与える要因とは何なのか。この世界の構造の、何が間違っているのか。その間違いに直面した人々について、塩川伸明は以下のように述べている。

「「あまりにもひどい」と感じさせる出来事が起きるということは実際にある。そして、それに対して「何とかしなくては」という切迫した義務感を人々がいだくのも当然のことである。だが、そうした「あまりにもひどい」状況がどうして生じたのかを考える際、特定の「元凶」――個人や集団とは限らず、特定の状況も含めて――が見つかるかどうかという、もう一つ別の問題がある。もし「元凶」が疑問の余地なく確定できるなら、具体的な戦い方については種々の選択があるにしても、少なくとも戦う相手だけは確定する。それと同時に、「元凶」=敵は向こう側にいるのであって、「われわれ」の側――アメリカおよび 同盟国――は、種々の問題性をはらむにせよ、とにかく「悪」と戦う側だ、ということも暗に前提される。だが、そのような「元凶」の設定自体に不確定性が伴うかもしれない――また「われわれ」の側も、実は、ひょっとしたら無自覚のうちに「元凶」となっているのかもしれない――という問題は、ほとんど意識されていないようにみえる。

 こうした問題に踏み込んで論じるのはなかなか難しい。というのも、そこには、正面から論じられていることよりも、むしろ「自明」とみなされているために明示的に論じられていない事項が関係するからである。著者が明示的に論じていないことを取り上げて批判的に論評するというやり方は、往々にして 「無い物ねだり」や外在的批評になってしまいやすい。だが、そこに含意されている思いこみが議論の暗黙の前提をなすとすれば、やはりその点に注目しないわけにはいかない」*22


『ザ・パシフィック』の自爆描写は、「野蛮で理解不能な異教徒が行う、非人道的で卑劣なやり口」という紋切り型の描写にとどまっており、塩川が指摘するような内省−われわれこそ、その絶望の元凶かもしれないという−を導くものになり得ていない。その点で現代的意義が乏しいという批判は有効だろう。しかし残念ながら、「事実と違う」という単純さに比べると、いささか迫力を欠く批判ではある。



脚注
*1 駒木根康『証言・沖縄戦秘録 青春かく戦えり』(紀元社出版、1979年)72頁。
*2 『鉄の暴風 沖縄戦記』(沖縄タイムス社、1970年)44頁。
*3 上原正稔『沖縄戦トップシークレット』(沖縄タイムス社、1995年)55頁。
*4 上原正稔『沖縄戦アメリカ軍戦時記録 第10軍G2レポートより』(三一書房、1986年)151頁。
*5 同上、233頁。
*6 同上、242頁。
*7 残念ながら、元記事が削除されているので孫引き。http://tadachi.txt-nifty.com/blog/2010/03/the-pacific.html
*8 立花隆「自爆テロの恐怖」『文藝春秋』2001年11月号、107頁。
*9 例えば須崎勝弥『カミカゼの真実 特攻隊はテロではない。』(光人社、2004年)。そのものズバリのタイトルだが、内容はよくある回想録で見るべき主張はない。
*10 立花「自爆テロの恐怖」、106頁。
*11 福田州平「『テロリズム』をめぐる戦略論的分析のための予備ノート」『貿易風 −中部大学国際関係学部論集−』第3号、2008年。
*12 井沢元彦「逆説のアジア史紀行 逆説の特攻隊【第3回】」『SAPIO』vol.16 no.17(2004年10月13日)、31頁。
*13 柳田邦男『零戦燃ゆ 渾身篇』(文藝春秋、1990年)205頁。
*14 富田与「国際テロリズムと日本」『四日市大学論集』第20巻第2号、2008年
*15 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%89%A6%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
  (余談だが、駆逐艦を丸ごと乗せて運搬している海難救助船の写真の方にびっくりした)
*16 井沢元彦「逆説のアジア史紀行 逆説の特攻隊【第5回】」『SAPIO』vol.16 no.19(2004年11月10日)、90頁。
*17 寺谷広司「内戦化する世界と国際法の展開 −国際法はテロリズムを認識できるか。いかに認識するか−」『社会科学研究』第59巻第1号(2007年12月)。ただし、米国がテロとの戦いを「戦争」と称しているのは、法学的立場からは不当とする見解が支配的であり、また寺谷はテロの包括的定義は困難ながら、個々の事例は犯罪とみなせるし、またそうすべきだとの立場に立っている。
*18 若槻泰雄『日本の戦争責任 上』(小学館、2000年)139頁。
*19 村上八郎『検証・戦略爆撃機B29』(早稲田出版、2007年)115-116頁。文中の大西瀧次郎軍令部次長は、特攻の発案者とされる。ただし、その大西中将は降伏直後に、部下の後を追って割腹自決を遂げたことは言い添えておかないと公平を欠くであろう。
*20 木村哲人『真空管の伝説』(筑摩書房、2001年)165頁。
*21 以上デニス&ペギー・ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌(下)』(時事通信社、1982年)順に282、285、286、290、291頁。
*22 塩川伸明読書ノート イグナティエフ『軽い帝国』 http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/EmpireLite.htm