更新履歴と周辺雑記

更新履歴を兼ねて、日記付け。完結していない作品については、ここに書いていきます。

2010年7月26日(月)
空白の20世紀

以下は、ずっと以前「夜明け前より瑠璃色な」第1話を観た時、ここで書いた文章。

『「舞-乙HiME」を観てた時にも思ったのだが、現代文明の延長上にある未来世界で、なんで王制なのだろう。王家というのは、歴史と伝統が不可欠の要素だし、20世紀を通じて王国(kingdom)が次々に姿を消していることを知らないのだろうか。こういう作品(乱暴なくくりだが)が好きな人って、そういうことは気にならないのか?』


これは、「コードギアス」放映中に書いてお蔵入りにしていた文章。

『いかにして私は心配するのをやめて「コードギアス」を楽しむようになったか
「コードギアス」が抜群に面白いけど、楽しめない。ずっとそう思っていた。他でもない、この露骨な政治性のせいである。北アメリカ大陸から伸びてくる侵略の魔の手。大英帝国が存続した、パックス・ブリタニカの世界という言い訳があるにせよ、どう見てもこれはあの国だ。もともと、2つの超大国の冷戦下を舞台に想定していたら、「冷戦なんてもう古い」と某P氏の鶴の一声でこういう作品になったという。

しかしよく見てみると、この作品から「日本らしさ」は巧妙に排除されている。「日本」という国名が「奪われた」という設定であるにせよ「イレブン」と言い換えられる。主要登場人物に、日本人がろくにいない。「新宿」「京都」といった地名は出てくるが、それらしきビジュアルがない。こんな設定なら、むしろ東京駅やら新宿アルタやら、誰でも知っている風景を放り込むのが定石のはずだ。

早い話、この作品は「平和なフェナリナーサ王国にある日ボアザン星人が攻めてきました」でも、全く矛盾なく成立してしまうのである。

なぜか?考えられるのは、本作のスタッフには、「日本人論をやろう」という考えがないということだ。まああまり言いたくないが、かわぐちかいじのようには。
どう考えても、これはプロデューサーの意図したところとは違うだろう。

なぜそんなことになったのか?ここから先は全くの推測だが、サンライズの社風がひとつの理由ではなかろうか。サンライズといえば、ロボットアニメの老舗。30分の玩具のコマーシャルフィルムとさげすまれながら、それを逆手にとって作家性を込めてきた会社である。つまり、その「偉い人の言うことを適当に聞き流しながら好きなものを作ってしまう能力」が、本来身内のはずのプロデューサーに対してまで発揮されてしまったのが「コードギアス」ではないか。』


これは、mixiで「コードギアスR2」について書いた文章。

『面白さとは裏腹に、作品の世界観がどうにも納得いかなくて楽しめずにいた。舞台が日本である必要性が、全然ないんだもの(少なくともこれまでは)。
けど、最近の展開を見てやっと分かった。阿片戦争の頃の話だと思えばいいんだ。
にしても、この「自由と民主主義」という概念がこれっぽっちもない世界観というのは、一体何なんだ。これが21世紀の日本人の、世界把握なのか?
「ナショナリズムは抑えられない」
「植民地経営は採算が取れない」
「領土ごと地下資源を確保するより自由貿易の方が安上がり」
ということを血を流して学んできた20世紀の100年間は、一体何だったんだろう。

多分根っこは同じだと思うのだが、この作品て潔いくらい海外配給というものを考えてないよな。ブリテン王国はまだしも、お隣の超大国はシャレが通じなさそうだし、本気で怒るんじゃないだろうか。』


これも同じくmixiで、「ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド」5・6話について。

『楽しく観ていた作品なのだが、ちょっと酷いんじゃないか、これは。
ミナを統主とする吸血鬼一族が、日本国に租借地を要求する。それを拒否して解散総選挙を強行しようとする首相とミナが会談するが、そこで首相の動機は虚栄心と無責任であることが明かされる。
ミナはそれを指して、首相を下衆呼ばわりする。

私に言わせれば、下衆はミナの方だ(引用注:犯罪行為が、ではない。領土の割譲を損得勘定で考えている作者の姿勢が、だ)。

国家の構成要素は3つある。
国民、領土、主権だ。外交能力を加えることもあるがこれは能力の問題なので、肝心なのは先の3つである。
そして、これらはカネには換えられないものだ。
主権国家が、カネで領土を売り渡すなどということがあるわけがないし、あってはならない。
国民を売り渡すことがあるだろうか、と考えれば想像しやすいだろう。
もしカネで売ったらどうなるか?
次は、「カネより力に訴えた方がもっと簡単だ」と考える国があらわれる。租借地というアイデア自体が、おおかた2000年の香港返還から思いついたのだろうが、香港を英国に渡した清国の屈辱を考えなかったのだろうか?阿片戦争に敗れた清がどうなったか、中学の歴史で習わなかったのだろうか?
しかも租借したことで株価が上がる!そんな馬鹿な。私は経済は素人だが、安全保障の専門家として言わせてもらえば、脅迫されて領土を手放すような政情不安な国で、安心して商売できるわけないだろう。
明らかに、作者は土地の売買と領土の割譲とは、まったく次元の違う問題だということに気づいていない。おそらく、領土を奪われることを屈辱と感じる感性がすでにないのだろう。
作中で描かれる首相の浅ましさは、現実の政治の貧しさを示すものではない。フィクションの中ですらこんな政治家しか持ち得ない、作者自身の貧しさである。
あまり知られていないことだと思うが、現行刑法にも「内乱罪」「外患誘致罪」というのがある。

第2章 内乱に関する罪
(内乱)
第77条 国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は、内乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
1.首謀者は、死刑又は無期禁錮に処する。
2.謀議に参与し、又は群衆を指揮した者は無期又は3年以上の禁錮に処し、その他諸般の職務に従事した者は1年以上10年以下の禁錮に処する。
3.付和随行し、その他単に暴動に参加した者は、3年以下の禁錮に処する。

(略)

第3章 外患に関する罪
(外患誘致)
第81条 外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する。
(外患援助)
第82条 日本国に対して外国から武力の行使があったときに、これに加担して、その軍務に服し、その他これに軍事上の利益を与えた者は、死刑又は無期若しくは2年以上の懲役に処する。

刑法は第2編で犯罪とされる行為を列挙しているが、その最初に出てくるのがこの2つだ。ちなみに殺人罪は第26章。
特に外患誘致罪の刑罰を見てほしい。「死刑に処する」。懲役刑なしで死刑のみ。国を裏切ることは、それ程の重罪と見なされるのである。
国民、領土、主権はカネに換えられないものだと先に書いた。だが、カネに目がくらんでこれらを売り渡す者も古今東西に存在し、彼らを端的に表現する単語もある。
売国奴、と言うのである。』


これもmixi。

『「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」11話
「砦の接収」に際して、軍人として直ちに思いつく反論。
1 何の権限で?法的根拠は?
2 直属の上官に確認をとります
3 正規の指揮系統を通じて、文書で命令を下さい

と、11話を観たときに思ったんだが、ひょっとしたら最終話で何かフォローするのかもしれないと思って発言控えてたのよ。

甘かった。
最終話まで観終わっての私の感想は、「呆れ果てて言葉も出ない」あるいは「正視に耐えない」。
つーか、電話があるなら使えよ!

以前、「航空祭の後の気分」というのをここで書いたことがあるが、これに近いかもしれない。つまり、自分の職場を土足で踏み荒らされた不快感だ。

何度か言ってるけど、階級と指揮権は別物。
フィリシアが「有能な軍人」という設定ならば、作者がこういうことを考えなければいけない。こういうところに、世界観の浅さが出るのだ。』

最後に、リンクするだけにしておくが、ここで「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」について書いた文章。

   →『抗命ドラマとしての「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」


いずれもその世界観の幼稚さについて批判的に書いたものだ。

別冊宝島の「このマンガがすごい!」で、尾瀬あきらの「みのり伝説」が厳しく批判されていた記憶がある。編集者の仕事の実状は、作中で描かれたものとかけ離れているという趣旨だった。
フィクションというのはウソ話なので、実状と違うというのは批判になりうるかどうか微妙なところではある。
しかしあまりにかけ離れていれば、作者は無知不勉強のそしりを免れないし、そもそもその世界・業界を舞台に選んだ意義が問われることになるだろう。

で、これらの作品は単に幼稚だと片付けてもいいのだが、ひとつ共通点がある。世界観が非常に前世紀、いや前々世紀的だということだ。ここに頻出するタームである王制、帝国主義、植民地、侵略戦争、領土の売買、政略結婚。いずれも19世紀まではごく普通に存在したものだ。そして20世紀の後半にかけて滅びていったものである。

これらの作品には−いや、作者の頭の中には、とはっきり言ってしまおう−20世紀の100年間が欠落しているのだ。

私はこのことに、激しいいらだちを覚える。

19世紀が好きなのは別にかまわない。ビスコンティだってそうだったし。だがそれなら歴史ものかいっそファンタジーでもやればいいものを、これらの作品群で描かれているのは、どう見ても現実の延長上にある世界だ。

歴史研究者の末席に連なる者として、私はそのことがどうにも気にくわない。
歴史への無知という以前に、−大げさなことを言うのを許して頂きたい−それは死者への敬意を欠く行為だと思うのだ。

おそらく後世、20世紀の100年間は人類史上もっとも多くの人間が死んだ時代として記憶されるだろう。2度の世界大戦、共産圏の粛正、数々のジェノサイド。その無数の流血の上に人類がようやく築いてきた価値観と現代社会を、まるで無視できる傲慢さあるいは無神経さが、私には耐え難い。

私事になるが、私の父の7回忌の折、読経に来てくれた坊さん(母方の叔父にあたる方なのだが)が、こんなことを言っていた。
「われわれ生者が死者を思うのではない。死者が生者を思うのです」

われわれはいつも死者に見られている。
だから、死者に恥じない生き方をしなければいけない。
この言葉の本当の意味は知らないが、私はそんな風に解釈している。

2010年7月20日(火)
「ロボテック」とGHQ

山本弘会長が、ブログにこんな記事を書いていた。

http://hirorin.otaden.jp/e115235.html

テレビ東京の「空から日本を見てみよう」という番組の一見地味ながら手間のかかった作りを賞賛し、それに対して日テレがヒストリーチャンネルの番組を流用して作った「人類ZEROの未来!」なる番組への憤懣をつづっている。以下『 』内は引用。

『こんな非科学的でしょぼい映像を追加することは、オリジナルへの冒涜である。

 もうね、日本で撮り足さなくていいから! タレント出さなくていいから!
 ディスカバリーチャンネルやヒストリーチャンネルやナショナルジオグラフィックで作った番組を買ってきて、そのまま放送してくれればいいから! その方がタレントのギャラが浮いて安上がりだし、あんたらだってその方が楽でしょうが。
 ディスカバリーチャンネルの『怪しい伝説』なんて、地上波でゴールデンで放送したら、きっとかなりの視聴率が取れると思うよ。だって日本の同種のバラエティ番組よりはるかに面白いもの。

 なぜ日本のテレビ局はそうしないのか? 
 いろいろ理由を考えたんだけど、やっぱり「俺たちがこの番組を作ってるんだ」というスタッフの意地というか、見栄なんじゃないかという気がする。
 違うと思うぞ。番組が面白いのは、あんたらの力じゃなく、オリジナルの番組を作った海外のスタッフの功績だぞ。
 まして『人類ZEROの未来!』みたいに、オリジナルの番組に不必要なものをつけ足して改悪する行為に、僕は何の正当性も認めない。』

言ってることには同感だけれど、でも昔は海の向こうでもムチャクチャやってたんだよなあ・・・。これとか。

私は実物を観たことはないのだが、海外に輸出された日本のTVアニメがムチャクチャな改変を受けたという話はよく聞く。

下は、『キネマ旬報』95年10月上旬号に掲載された岡田斗司夫氏の原稿の一部抜粋。
『「ジャパニメーション」と「アニメ」の差は、単に言葉の差というだけではない。この2つは、もっと根本的に違う物だ。ジャパニメーションと呼ばれていたのは、その頃アメリカでずたずたに再編集され、テレビでお子さま向けに放映されていたもののことである。
 ストーリーは勧善懲悪。残酷シーンは全部カット。主人公たちはいろんな人種・性別を取り混ぜる。セリフはわかりやすく、悪役はダミ声、正義の味方は力強く。大河ドラマのようなオリジナルストーリーも、放映局ごとに放映本数が違うという米国事情によって一話完結の単純明快ストーリーに改変される。』

『(幼少期に「ジャパニメーション」を観て育った)彼らはそこ(大学のアニメサークル)で初めてアニメの真実の姿に巡り会う。スピーディなアクションやセクシーなキャラクター。ハリウッド顔負けストーリーと見たこともないような美しい映像。声優陣の押さえた演技がドラマを盛り上げる。これらは全て、アメリカの放映局が「子供向けではない」「アメリカ人向けではない」という理由で切り刻んできた珠玉のようなシーンばかりである。彼らはここで、今まで自分たちがマガイモノを掴まされたことに気付く。
 従って、アメリカのアニメファンたちはオリジナルであることに異常にこだわる。生まれて初めて本物の「アニメ」を見たとき、彼らは皆「初めて自分たちがニセモノを見せられ続けてきたことを知った」と語る。そして、吹き替えのカトゥーンではなく本物のアニメをもっと見たいと努力するようになる。』

全文はここ。
http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/single/KINEJUN.html

このリンク先の記事、「宇宙戦艦ヤマト」の海外版に関しては勘違いだ、という訂正がある。
軽く調べたら、こんなページがあった。
http://storymania.ld.infoseek.co.jp/yamato/blazers.htm

実際の改変状況はこんな感じだったらしい。

『『ヤマト』は『科学忍者隊ガッチャマン』がアメリカ版“The Battle of The Planet”に改作された時のようにズタズタに切り刻まれないですんだ。コスモクリーナーを求めてイスカンダル星に旅をするというストーリーラインはそのままで、52話全部(引用者注:『ヤマト』『ヤマト2』合わせて)が順番どおり放送された。宮川泰の素晴らしい音楽も、チープなシンセに差し替えられずに済んだ。オリジナルへの敬意はそれなりに払われていた。
(中略)
とはいえ、『スター・ブレイザーズ』はやはり日本の子供たちが観ていた『ヤマト』とは相当違う。まず、ヤマトの船名は「アルゴ」に改名されている。『アルゴ探検隊の冒険』のアルゴだ。
(中略)
他に大きく違うのはデスラー総統のキャラクターだ。敵ながら勇敢で紳士的な軍人だった総統はアメリカでは、『カリギュラ』のマルコム・マクダウェルのような退廃的ローマ貴族、手っ取り早く言えばオカマ言葉に吹替えられた。』

『おもちゃ会社のハスプロが関係しているにもかかわらず、アメリカでは一切『スター・ブレイザーズ』の商品は発売されなかったので、ファンは日本製のヤマト・グッズを買い求めた。80年代当時、それは本当に入手困難だったが。
そしてやっと手に入れたロマンアルバムで劇場版の『さらば宇宙戦艦ヤマト』や『ヤマト完結編』のことを知ったファンは仰天した。アルゴの乗組員が全員戦死?それなのになぜか全員復活?本シリーズで死んだはずのアヴァタール艦長すら生き返ってる!アルゴ自体も何度も轟沈しては蘇ってる!それにデレクとノヴァがとうとうセックスする!(引用者注:人名はそれぞれ改変された名前。誰のことかわかりますね?)あまりに謎の多い『スター・ブレイザーズ』のその後を追うファンは、クラブを結成し、ファンジンを作り、一生懸命日本語を学び、情報交換のネットワークを築いた。その過程で彼らは『キャプテン・ハーロック』や『ガンダム』や『ルパン三世』などの名作を発見していった。
日本の古代の国名を冠した『ヤマト』は「大和魂」を抜かれてアメリカナイズされて『スター・ブレイザーズ』にされたものの、アメリカ人に日本のアニメへの目を開かせることで、戦後三十年目にして文化的反撃の第一弾を撃ち込んだのである。』
パトリック・マシアス『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』町山智浩訳(太田出版、2006年)92-96ページ。

こういう事例を考えていてふと思い出したのが、江藤淳の『閉された言語空間』(文春文庫、1991年)。
太平洋戦争終戦後、日本を占領した米軍は日本人の「精神的武装解除」(バーンズ米国務長官の言葉)のために、厳重な言論統制を実行した。その実態と影響を公文書や当時の新聞から実証的に明らかにした本である。

私はこれらの番組を観ていないし、放映に当たってどういう契約が結ばれたのかも知らない。そもそも時代背景が全然違う。だから以下は、まったく実証性のないただの思いつきだ。
しかし、これらの事例の背景には、両国の「情報を操作すること」への姿勢の根本的な違いがあるような気がするのだ。
一方はガキ向け番組とはいえ、これらの改変には大きな違いがひとつある。
アニメの改変は、オリジナルを知らない人間には改変されている事実自体がわからないという点だ。

そして江藤は、言論統制のもっとも恐ろしい点は、統制が行われているという事実そのものが隠蔽されていることだと指摘したのである。
山本会長が言うように、TV番組の改編はどうにも下劣で低俗だ。しかしたぶん、いかにオリジナルの情報が改ざんされていても、改ざんの事実が明らかなうちは、悪質なものではないのだ。

そういえば、外国映画を吹き替えより字幕で観るのが主流、というのは世界的に珍しい日本独特の慣行だと聞く。ここにも、一脈通ずるものがあるように思う。


2010年7月14日(水)
「おおきく振りかぶって 〜夏の大会編〜」 オープニング

あまり目立たないが、これもすごい作画アニメ。写実的でありながらアニメらしい誇張のある動きがとても気持ちいい。

オープニングの、私の好きなカットを紹介したい。動きもさることながら、画面構成がとてもダイナミック。

西浦高校の主力選手、田島(手前)と花井(奥)。カメラは花井を追うので、矢印のように花井は画面左へ、田島は右へ移動する。



人物2人が交錯しつつ、花井は手に持ったバットをぐるりと一回転させる。



カット尻に、田島は体の前に構えたバットを振り下ろす。



この上下左右に動きのある画面作りが、次のカットでもう1度反復される。
百枝まりあ監督通称モモカンが、画面左へ。奥の選手たちは右へ移動する。モモカンの髪は動きに合わせて右へなびく。



次いで左手に持ったオレンジを上へ投げ上げ、



カット尻、左手の手袋を口にくわえて、手を下へ引き抜く。




いずれも、重層的な人物配置で画面の奥行きを生かしつつ、上下左右へ−画面の外へと向かう動きを与えている。
「高校野球」という題材と相まって、これが、作品に込められたエネルギーと伸びやかさを印象づけているのだと思う。

2010年7月8日(木)
「デュラララ !!」 首なしライダー・セルティが可愛すぎる件

久しぶりに褒める記事が書けた。

あまり話題にならない「デュラララ !!」が、ひそかにすごい作画アニメだと思っていたら、実はものすごい演出アニメだった件について。

 →セルティの感情表現の豊穣さ

2010年7月5日(月)
「宇宙ショー」

なんか久しぶりにアニメの話題。

観てきたけど。
なんと言いますか。高校時代の友達のうちへ遊びに行ったら、小学生の娘さんの運動会を撮ったビデオを延々見せられた、という感じの映画。それを幸福な体験だと思う人にはそうだろう。
いくら小学生が主人公だからって、小学生の口喧嘩をそのまま見せられてもなあ。

本作への批判は「詰め込みすぎ」「説明不足」というものらしいが、そうかあ?
一から十までセリフで説明してしまう映画に見えたが。

ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の「リオ・グランデの砦」('50)という映画がある。リオ・グランデ河のほとりにある砦に、指揮官ヨーク中佐(ウェイン)の息子ジェフが一兵卒としてやってきた。中佐はずっと家を空けており、息子と会うのは十数年ぶりになる。司令部で対面したときはお互いよそよそしく必要事項を伝えるだけだが、息子が退室したあと、中佐は息子が立っていた壁の前まで歩いていき、自分と身長を比べてみるのである。
このシーンのおかげで、中佐が口にも態度にも出さなくとも、どれほど息子を思っているか、立派になった息子を誇らしく感じているか、痛いほど伝わる。
映画で語るとはこういうことだ。
一般論だが、アニメも含めた日本映画はこういう描写が下手だ。

全編ツッコミどころだらけで疲れたが、2つだけ言っておきたい。
1つ。SF者のはしくれとして見過ごせない点。超新星爆発は「星の死」であって誕生ではない
2つ。「自分の力で生きることが真の未来だ!」てことは、絶滅危惧種の保護とかしなくていいのかしらん。パンダなんて人工授精でむりやり増やしてるんだが。


観客動員は伸び悩んでるらしいが、さもありなん。一般観客の目は案外正しいものだ。
閃いた!「ザ・コーヴ」と同時上映するというのはどうだろう。
「宇宙ショー」には宣伝になるし、内容そのものがカウンターになる。過激派対策としても、小学生のナマ脚が映ってるスクリーンを切り裂くなんて、日本人ならできないはずだ!
・・・冗談はさておき、昨年来多くの劇場アニメが公開されたが、私的に気に入ったのは「なのは」「ハルヒ」「いばらの王」の3本だけ。
ここで明らかになったのは、まともな脚本書ける人がいないんじゃないか?という事態である。誠に寒心に堪えない。

なぜかこっちに書くの忘れてたが、ダークホースだった「いばらの王」は本当に傑作。今週いっぱいまだ各地で上映しているので、
新幹線で日帰りできる距離なら観に行け

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